Features

2014年6月25日水曜日

岡田与好先生

 悲報です。岡田与好先生が5月27日に亡くなったと、Yさんから知らされました。旧臘『イギリス史10講』をお送りしても何の反応もなく、覚悟はしておりましたが。1925年のお生まれで、88歳でした。

 1971年7月、留年後に大学院に入ったばかりのぼくは、西洋史では柴田三千雄、成瀬治、経済学研究科では高橋幸八郎、岡田与好と4つの演習をとりました。高橋ゼミについては「美女逸話」以上に、なにひとつ学びませんでしたが、岡田ゼミでは鍛えられました。同期に森、梅津といったICU組、奥田、八林といった秀才組がいたのも良かったけれど、先生からはイギリス経済史よりも、「ゆらぎ/隙のない文章を書く」ということを教えられました。リベラルな西洋史の温暖な空気のなかだけで育った人とは、ちょっと違うトレーニングを受けたと思います。
 かくいうぼくはいい気なもので、修士2年のとき、卒論そのままの「産業革命期の民衆運動(上)」『社会運動史』2号(1973年1月)をご覧に入れたら、「読んでから」とのことで、1・2週間後、社研2階の先生の研究室にうかがいました。
その午後にわが慢心は打ち砕かれ、社研の玄関を出て、冬の日没後の欅並木を仰ぎみて、身体から力が抜けました。なにしろセッションの終わりの先生の言は「なお、道遠し、だな」というのでした。齢25歳、まだ人生の「日は暮れて」いなかったし、この時点で早々と根拠のない自信を打ち砕かれておいて良かったのだ‥‥、と振り返るのはずっと後年のこと。ぼくはしばらく何をしてよいのか、勉強が手に付かなかった。でも、とにかく「産業革命期の民衆運動(下)」『社会運動史』4号(1974年9月)については、全面的に書き改めました。そして社研の助手になりたい、と心底思ったものです。
 それから10年あまり、イギリス留学から帰国したぼくが社会文化史的な論文をドンドン書くようになってからは、先生との距離は広がってしまいました。とりわけ「シャリヴァリ・文化・ホゥガース」『思想』740号(1986年2月)には先生は否定的で、ぼくの側はふたたび自信家に戻っていたので(!)、いつだか本郷の飲み屋「大松」に同行して以後、親しくお話しすることはなくなってしまいました。

 最後にお話しできたのは、2000年3月14日、米川伸一さんをしのぶ会東京国際フォーラムで開かれたあと、新幹線で仙台に帰る吉岡昭彦さんを送りがてら、東京駅の手前の地下の小さな店に入って軽食を摂ったときです。吉岡昭彦・岡田・二宮宏之・渡辺格といった方々の末席をぼくが汚すという陣容でしたが、(ふつうなら会食しないメンツです)楽しく懇談して、最後に岡田先生が「これも米川くんが引き合わせてくれたお陰だな」と言ってくださって散会したのです。
 厳しくもやさしい先生でした。