Features
▼
2015年4月19日日曜日
『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)
こういうタイトルで「あたかも12名のオムニバス授業の渾身の一コマの記録」のような本を作りましょう、と呼びかけたのが 2012年5月でした。共著者の皆さん、公私ともに多事多端の折から、力作の原稿が出そろうまで難儀をしましたが(校正もなかなかたいへんでした)、最初の企てどおり12名の力作ぞろいの共著としてちょうど3年目に刊行されます。いま見ている巻末・奥付のゲラ刷りに 5月20日発行と記されています。
最初の「序」では「‥‥全体をとおして、時代によって変化する人と人の結びつきやアイデンティティ、政治や世界観をめぐって、ヨーロッパにかかわる世界の歴史のポイントを考える連続講義として」企画、執筆された、としたためられ、12の章は次のとおりです(すべてに副題が添えられていますが、ここでは省きます)。
1.佐藤 昇 「建国神話と歴史」
2.千葉敏之 「寓意の思考」
3.加藤 玄 「国王と諸侯」
4.小山 哲 「近世ヨーロッパの複合国家」
5.近藤和彦 「ぜめし帝王・あんじ・源家康」
6.後藤はる美「考えられぬことが起きたとき」
7.天野知恵子「女性からみるフランス革命」
8.伊東剛史 「帝国・科学・アソシエーション」
9.勝田俊輔 「大西洋を渡ったヨーロッパ人」
10.西山暁義 「アルザス・ロレーヌ人とは誰か」
11.平野千果子「もうひとつのグローバル化を考える」
12.池田嘉郎 「20世紀のヨーロッパ」
計247ページ、「入門書の顔をした小論文集」のような大学テキストです。図版や参考文献表もしっかり備わっています。 山川出版社から本体価格は2300円と聞いています。カバーのデザインは決まっていますが、その校正刷りはまだ見ていないので、色の具合などどぎつくないか、ドキドキして待っています。 → 追記:出来上がりは、シャープで端整な装丁となりました。物理的にあまり重くないというのも良かった!
ぜひ大学(および大学院)の授業でもご活用ください。請うご期待。
2015年4月18日土曜日
ピケティの仕事
The History Manifesto (2014)も明示的に The Communist Manifesto (1848)のパロディ、あるいは「虎の威を借りて」登場したマニフェストといった側面がありました。別にこう言ったから The History Manifesto の価値が貶められるとは思いません。若い人に『共産党宣言』って何だ?と喚起する波及効果もあるし‥‥
Thomas Piketty, Le Capital au XXIe siècle (2013; みすず書房 2014)もまた Das Kapital (1867)を21世紀的に横領した命名です。でも、これは非難や否定ではない。
→ http://www.msz.co.jp/book/detail/07876.html
ピケティの『21世紀の資本論』が力強く目覚ましいのは何故か。けっして一部でいわれているような
・「格差」の深刻さ/不可避性を明らかにした、とか
・日本の将来のための有効な処方箋が示されている、とか
いったことではない。ピケティは社民党や共産党の広告塔ではありませんし、アベノミクスの批判者として登場したのでもありません。
12月~3月くらいの新聞雑誌・テレビにおけるすごいブームが、年度替わりとともに後退したかにも見えますが、これはマスコミの浮気心の証拠ではあれ、ピケティの仕事の限界でも何でもありません。
むしろ、学問的に彼の方法と議論がすばらしいのは、
1) 短期でなく歴史的に長期の(3世紀にわたる)データを集積し分析することによって、クズネッツの短期分析の誤り(時代に拘束された楽観論)を明らかにし、それまで見えなかった長期変動と法則性を見えるようにしてくれたこと【この点で、マルクス『資本論』における議会刊行物を使った本源的蓄積[原蓄]の長い歴史よりもずっと計量的で説得的な議論を呈示している】;
2) 「国民経済の型」があるとしても、それは50年以上もすれば変わりうることを示し;
3) 1930年代~70年頃までに(万国共通とはいわないが)多くの国で特異な民主的移行期を経験したこと、を説得的に明らかにしているからでしょう。
ぼくなら、経済分析における(久々の)歴史的dimensionの復権、or 歴史学における経済分析の再登場、or もっと端的に歴史学のルネサンスといいたい。
なお以上に加えて、4) 付随的に、ニューディール期からヴェトナム戦争期までの間に成長し、知的形成をおこなったインテリたち(民主的知識人)の存在被拘束性があばかれ;丸山真男、岡田与好、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬、和田春樹から、ずっと下って、近藤にまでいたる、知と発言が相対化されているのではないでしょうか? 民主主義の歴史化。日本現代史の相対化。そういったすごい仕事だと受けとめました。
学問は、その政策的な提言・有効性で評価するのでなく、その知的なインパクトで評価したい。
Thomas Piketty, Le Capital au XXIe siècle (2013; みすず書房 2014)もまた Das Kapital (1867)を21世紀的に横領した命名です。でも、これは非難や否定ではない。
→ http://www.msz.co.jp/book/detail/07876.html
ピケティの『21世紀の資本論』が力強く目覚ましいのは何故か。けっして一部でいわれているような
・「格差」の深刻さ/不可避性を明らかにした、とか
・日本の将来のための有効な処方箋が示されている、とか
いったことではない。ピケティは社民党や共産党の広告塔ではありませんし、アベノミクスの批判者として登場したのでもありません。
12月~3月くらいの新聞雑誌・テレビにおけるすごいブームが、年度替わりとともに後退したかにも見えますが、これはマスコミの浮気心の証拠ではあれ、ピケティの仕事の限界でも何でもありません。
むしろ、学問的に彼の方法と議論がすばらしいのは、
1) 短期でなく歴史的に長期の(3世紀にわたる)データを集積し分析することによって、クズネッツの短期分析の誤り(時代に拘束された楽観論)を明らかにし、それまで見えなかった長期変動と法則性を見えるようにしてくれたこと【この点で、マルクス『資本論』における議会刊行物を使った本源的蓄積[原蓄]の長い歴史よりもずっと計量的で説得的な議論を呈示している】;
2) 「国民経済の型」があるとしても、それは50年以上もすれば変わりうることを示し;
3) 1930年代~70年頃までに(万国共通とはいわないが)多くの国で特異な民主的移行期を経験したこと、を説得的に明らかにしているからでしょう。
ぼくなら、経済分析における(久々の)歴史的dimensionの復権、or 歴史学における経済分析の再登場、or もっと端的に歴史学のルネサンスといいたい。
なお以上に加えて、4) 付随的に、ニューディール期からヴェトナム戦争期までの間に成長し、知的形成をおこなったインテリたち(民主的知識人)の存在被拘束性があばかれ;丸山真男、岡田与好、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬、和田春樹から、ずっと下って、近藤にまでいたる、知と発言が相対化されているのではないでしょうか? 民主主義の歴史化。日本現代史の相対化。そういったすごい仕事だと受けとめました。
学問は、その政策的な提言・有効性で評価するのでなく、その知的なインパクトで評価したい。
2015年4月15日水曜日
The History Manifesto
Guldi & Armitage, The History Manifesto (Cambridge U.P., 2014)
ですが、Creative Commons ということで、遅まきながらPDFをダウンロードしました。
→ http://historymanifesto.cambridge.org/
このページからコロンビア大学でのシンポジウム(conversation!)の動画も視聴して、アメリカの歴史家たちの知的健全さを再認識した次第。American Historical Review でもさっそく議論しています。
Thinking about the past in order to see the future ということ、あるいは
we are all in the business of making sense of a changing world というのが、歴史家の、忘れてはならぬ、自明の仕事・ミッションだとくりかえし説いています。
せいぜい5年計画、あるいは次の学長選挙までの任期の範囲内でしかものを考えない、今日の公共言説における歴史的=長期的発想の欠如から説きおこし、歴史の復権、長期的な big questions の大切さをとなえ、歴史学教育の細分化に警鐘をならします。
最初、索引をみて Hobsbawm, Tawney, Thirsk などが当然ながら見えますが、E.P. Thompson がなく、おや?と思いましたが、本文ではしっかり 41ページあたりで触れています。
歴史学者およびインテリの世代論(68年~70年代論)でもあり、そこで『歴史として、記憶として』も想起しましたが、後者の場合はセンチメンタルな懐古で、前を向いていなかったような気がします。
本書についてはピケティ先生も推奨者に名を連ねていて、さもありなんと思いました。
ルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房、2013)とも大前提は共通しますが、ルカーチよりもはるかにディジタル時代にたいして前向きで積極的です。
全体にむしろ、日本の歴史学界、人文学の現状への警鐘・警告ととらえるべきかもしれない。
ですが、Creative Commons ということで、遅まきながらPDFをダウンロードしました。
→ http://historymanifesto.cambridge.org/
このページからコロンビア大学でのシンポジウム(conversation!)の動画も視聴して、アメリカの歴史家たちの知的健全さを再認識した次第。American Historical Review でもさっそく議論しています。
Thinking about the past in order to see the future ということ、あるいは
we are all in the business of making sense of a changing world というのが、歴史家の、忘れてはならぬ、自明の仕事・ミッションだとくりかえし説いています。
せいぜい5年計画、あるいは次の学長選挙までの任期の範囲内でしかものを考えない、今日の公共言説における歴史的=長期的発想の欠如から説きおこし、歴史の復権、長期的な big questions の大切さをとなえ、歴史学教育の細分化に警鐘をならします。
最初、索引をみて Hobsbawm, Tawney, Thirsk などが当然ながら見えますが、E.P. Thompson がなく、おや?と思いましたが、本文ではしっかり 41ページあたりで触れています。
歴史学者およびインテリの世代論(68年~70年代論)でもあり、そこで『歴史として、記憶として』も想起しましたが、後者の場合はセンチメンタルな懐古で、前を向いていなかったような気がします。
本書についてはピケティ先生も推奨者に名を連ねていて、さもありなんと思いました。
ルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房、2013)とも大前提は共通しますが、ルカーチよりもはるかにディジタル時代にたいして前向きで積極的です。
全体にむしろ、日本の歴史学界、人文学の現状への警鐘・警告ととらえるべきかもしれない。
2015年4月8日水曜日
作為の過ぎる ダウントン・アビ
毎日曜夜の Downton Abbey について、前にも言及しました(2014年12月8日)。
http://kondohistorian.blogspot.com/2014/12/downton-abbey.html
第一次世界大戦をはさむ変動の時代のヨークシャ貴族の館をセンチメンタルに描く period melodrama ということで、これまで見てきましたが、回を重ねるごとに、ちょっと盛りだくさん過ぎて、興がそがれます。登場人物が(制作側の理由で)都合よく死にすぎだし、また彼・彼女の気持は(視聴者の気を持たせるために?)フワフワと揺れすぎ。
作者 Julian Fellowes は、時代考証もたっぷり、何十組の男女の交錯をしっかり描いたと自信をもっているらしいが、男女関係も、投資の破綻と相続信託の形成、所領経営も次から次に転回させているうちに coherence がなおざりになってしまう。
この日曜には三女 Sybil が娘を産むとともに死にましたが、やがて長女 Mary の出産後に Matthew も事故死するそうです。二女 Edith はさらに男運のなさに翻弄されるらしい。悪役従者 Thomas の度重なる非行にもかかわらず、彼にたいしてグランサム伯夫妻が甘いのはよく分からない設定だし-いくら good, old days とはいえ-、せっかく出獄する Bates と Ana を襲うさらなる不幸の連続も、やりすぎです。
結論として、かなり通俗的な視聴率ねらいのメロドラマで、「‥‥アイルランド、カトリック、ロイドジョージ内閣といった同時代史をまったく知らないシロートにも、衣装や有職故実が楽しめる」というねらいの21世紀的な「作り物」かな。Yorkshire accentをあまり強調すると、アメリカの視聴者にさえ英語が分からなくなってしまう、ということか、ローカルな労働者以外は、かなり標準語アクセントです。
そもそも NHKの放映でさえ、複数のエピソードが細切れに同時進行して楽しめないが、もともとイギリスのITVで放映されたときには、さらにコマーシャルが話の進行を分断していたわけだから、インテリには耐えがたい連ドラだったかもしれない。
http://kondohistorian.blogspot.com/2014/12/downton-abbey.html
第一次世界大戦をはさむ変動の時代のヨークシャ貴族の館をセンチメンタルに描く period melodrama ということで、これまで見てきましたが、回を重ねるごとに、ちょっと盛りだくさん過ぎて、興がそがれます。登場人物が(制作側の理由で)都合よく死にすぎだし、また彼・彼女の気持は(視聴者の気を持たせるために?)フワフワと揺れすぎ。
作者 Julian Fellowes は、時代考証もたっぷり、何十組の男女の交錯をしっかり描いたと自信をもっているらしいが、男女関係も、投資の破綻と相続信託の形成、所領経営も次から次に転回させているうちに coherence がなおざりになってしまう。
この日曜には三女 Sybil が娘を産むとともに死にましたが、やがて長女 Mary の出産後に Matthew も事故死するそうです。二女 Edith はさらに男運のなさに翻弄されるらしい。悪役従者 Thomas の度重なる非行にもかかわらず、彼にたいしてグランサム伯夫妻が甘いのはよく分からない設定だし-いくら good, old days とはいえ-、せっかく出獄する Bates と Ana を襲うさらなる不幸の連続も、やりすぎです。
結論として、かなり通俗的な視聴率ねらいのメロドラマで、「‥‥アイルランド、カトリック、ロイドジョージ内閣といった同時代史をまったく知らないシロートにも、衣装や有職故実が楽しめる」というねらいの21世紀的な「作り物」かな。Yorkshire accentをあまり強調すると、アメリカの視聴者にさえ英語が分からなくなってしまう、ということか、ローカルな労働者以外は、かなり標準語アクセントです。
そもそも NHKの放映でさえ、複数のエピソードが細切れに同時進行して楽しめないが、もともとイギリスのITVで放映されたときには、さらにコマーシャルが話の進行を分断していたわけだから、インテリには耐えがたい連ドラだったかもしれない。