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2017年6月17日土曜日
東京駅前ひろば
今夕、幾週間ぶりか、東京駅丸の内南口の「東京中央郵便局」に行って、ゆうパックを出しました。受取人払いの書類です。
この東京中央局は、昔の古めかしい5階建て、大きなトラックが出入りしていたころからよく使いました。24時間受付ですので(土日も)、重要な申請書、〆切間際あるいは〆切の過ぎた原稿や校正ゲラを急ぎ送るために、電車や自転車で駆けつけたものです。今ではメール添付で送ることが増えたので、改装なったキッテ(JPタワー)までわざわざ行く必要は減りました。
この前、ここに来たのは5月の何日?とか思いながらOAZO丸善の方向に向かって、おや、と認識。先ごろまで工事用の塀で遮られて狭苦しい思いをしていた(ステーション・ホテル正面の)空間が広くなっています。
まだ一部塀は残っていますが、それが撤去されたら、東京駅から皇居前までかなり広々として気持のよい公共空間が現出することになりそう。‥‥ とりわけ夜景は、こんな具合に美しい。
2017年6月6日火曜日
ザビエル? シャボン玉? ぜめし帝王?
本日の『朝日新聞』オンライン版に
「聖ザビエル」じゃないの? 神父も困惑、君の名は
という記事があります。引用されている東京書籍の『中学社会』でザビエルのあたりを執筆したのは、じつはぼくですし、編集委員会の討議をへて(高校向けとは別に)「ザビエル」という表記でゆこうと合意したわけですので、このブログでも一言。
アメリカの都市 San Francisco の由緒でもある、イエズス会の修道士 Francisco de Yasu y Javier (1506-52) の名を教科書でどうカタカナ表記するか、という問題と、元来どう発音されていたか、という問題は、二つの別問題です。
『朝日』の記事を書いた棚橋という記者の取材力、そしてデスクの知識にも問題がないではない。
まず、 表記に “ が付いているかどうかと、歴史的に清音だったか濁音だったか、とは一対一対応しません。「さひえる」と書いて、サヒエルと発音したかどうか。むしろ『日葡辞書』(1603-4年刊)のローマ字表記などから推定されるのだが、「さしすせそ」は sha shi shu she sho ないしは ja ji ju je jo とも発音していたらしい。これは近代日本の九州から瀬戸内方面の老人たちの発音からも十分に想定できる。全然と書いて「じぇんじぇん」と発音しているし、「ゼネラル石油」とは General 石油。だから「せめし帝王」とは King James のことです。逆に savon は「シャボン玉」になります!
歴史的に「しびえる」「ジヤヒエル」「娑毘惠婁」といった表記があることからも、16世紀の西日本にはシャビエル/ジャビエルといった発音が伝わった(それがさまざまに表記された)ということらしい。
バスク生まれだからバスク発音シャヴィエルで表記すべし、というのは一見 politically correct で正しそうだが、それは適切とは言いがたい。フランシスコはバスク貴族の出だが、パリで勉学し、1534年にロヨラたちとイエズス会を創設し、ヴェネチアで叙任され、ローマでイエズス会士として勤務し、ポルトガル王の命で1541年にゴアに派遣されて以後マラッカ、モルッカ、ついで1549年に鹿児島に上陸し2年間、西日本で宣教するわけです。バスク人としてのアイデンティティがイエズス会士ないしクリスチャンとしてのアイデンティティより優ったか? これははっきりと否でしょう。16世紀の東アジアにおける共通語が(漢語および)ポルトガル語だったということも考慮すると、バスク発音に固執することは無意味です。なおまたフランシスコ自身が現地の言語と慣習を尊重して伝道した(典礼問題の祖!)ということも忘れたくない。
∴発音についての結論は、ポルトガル語なまりのラテン語で、それが現地で受けとめられた音が正しい、とすべきでしょう。
もう一つ、中学教科書、高校教科書でどう表記するかという問題です。大学の学者がむやみに専門知識をふりかざして「正確な事実」を教科書に織り込もうとする近年の風潮を、ぼくは憂いています。歴史とりわけ外国史嫌いを増やしているだけではありませんか? 教科書や大学入試で細かく正確な事項の暗記を強いるのには反対!
∴教科書表記についての結論は、中学でも高校でもザビエルないしサビエルがよい、と思います。ただし高校では Xavier という不思議な綴りも一緒に教えたい。中国人・日本人については漢字表記を教えているのですから、高校生には欧語にも慣れてほしい(試験に出題する必要はありません。優秀な学生に欧語表記に慣れてもらうことがポイントです。後のち -30代、40代の生活で- かならず役に立ちます)。
念のため。先生方! 研究史を呈示して「中学・高校ではこう習ったね。でも今の研究水準では、こう考えたほうが良さそうなんだよ」といった講義は、無事(歴史嫌いにならずに)大学に入ってきた学生むけに語るまで取っておきましょう。
「聖ザビエル」じゃないの? 神父も困惑、君の名は
という記事があります。引用されている東京書籍の『中学社会』でザビエルのあたりを執筆したのは、じつはぼくですし、編集委員会の討議をへて(高校向けとは別に)「ザビエル」という表記でゆこうと合意したわけですので、このブログでも一言。
アメリカの都市 San Francisco の由緒でもある、イエズス会の修道士 Francisco de Yasu y Javier (1506-52) の名を教科書でどうカタカナ表記するか、という問題と、元来どう発音されていたか、という問題は、二つの別問題です。
『朝日』の記事を書いた棚橋という記者の取材力、そしてデスクの知識にも問題がないではない。
まず、 表記に “ が付いているかどうかと、歴史的に清音だったか濁音だったか、とは一対一対応しません。「さひえる」と書いて、サヒエルと発音したかどうか。むしろ『日葡辞書』(1603-4年刊)のローマ字表記などから推定されるのだが、「さしすせそ」は sha shi shu she sho ないしは ja ji ju je jo とも発音していたらしい。これは近代日本の九州から瀬戸内方面の老人たちの発音からも十分に想定できる。全然と書いて「じぇんじぇん」と発音しているし、「ゼネラル石油」とは General 石油。だから「せめし帝王」とは King James のことです。逆に savon は「シャボン玉」になります!
歴史的に「しびえる」「ジヤヒエル」「娑毘惠婁」といった表記があることからも、16世紀の西日本にはシャビエル/ジャビエルといった発音が伝わった(それがさまざまに表記された)ということらしい。
バスク生まれだからバスク発音シャヴィエルで表記すべし、というのは一見 politically correct で正しそうだが、それは適切とは言いがたい。フランシスコはバスク貴族の出だが、パリで勉学し、1534年にロヨラたちとイエズス会を創設し、ヴェネチアで叙任され、ローマでイエズス会士として勤務し、ポルトガル王の命で1541年にゴアに派遣されて以後マラッカ、モルッカ、ついで1549年に鹿児島に上陸し2年間、西日本で宣教するわけです。バスク人としてのアイデンティティがイエズス会士ないしクリスチャンとしてのアイデンティティより優ったか? これははっきりと否でしょう。16世紀の東アジアにおける共通語が(漢語および)ポルトガル語だったということも考慮すると、バスク発音に固執することは無意味です。なおまたフランシスコ自身が現地の言語と慣習を尊重して伝道した(典礼問題の祖!)ということも忘れたくない。
∴発音についての結論は、ポルトガル語なまりのラテン語で、それが現地で受けとめられた音が正しい、とすべきでしょう。
もう一つ、中学教科書、高校教科書でどう表記するかという問題です。大学の学者がむやみに専門知識をふりかざして「正確な事実」を教科書に織り込もうとする近年の風潮を、ぼくは憂いています。歴史とりわけ外国史嫌いを増やしているだけではありませんか? 教科書や大学入試で細かく正確な事項の暗記を強いるのには反対!
∴教科書表記についての結論は、中学でも高校でもザビエルないしサビエルがよい、と思います。ただし高校では Xavier という不思議な綴りも一緒に教えたい。中国人・日本人については漢字表記を教えているのですから、高校生には欧語にも慣れてほしい(試験に出題する必要はありません。優秀な学生に欧語表記に慣れてもらうことがポイントです。後のち -30代、40代の生活で- かならず役に立ちます)。
念のため。先生方! 研究史を呈示して「中学・高校ではこう習ったね。でも今の研究水準では、こう考えたほうが良さそうなんだよ」といった講義は、無事(歴史嫌いにならずに)大学に入ってきた学生むけに語るまで取っておきましょう。
2017年6月1日木曜日
長谷川博隆先生 1927-2017
長谷川博隆先生はご闘病中のところ、31日、肺炎で亡くなったとのことです。89歳。第一報の電話をいただいて、混乱しました。
1977年~88年に名古屋大学で公私ともにお世話になりました。ぼくは生意気な最年少教授会メンバーでしたが、自由にさせてくださり、見守っていただきました。
じつは東大西洋史の成瀬助手時代(1950年代なかば)に、長谷川博隆・遅塚忠躬・今井宏といった院生たちがたいへん仲が良かった、遅塚さんが名古屋の長谷川家まで泊まりに来た、といったことをお二人ご一緒の折に聞いたことがあります。
さらに印象的なのは、1991年の日本西洋史学会大会@名古屋で、例の「古代史におけるパトロネジ」のシンポジウムが開かれた翌朝です。宿の朝食をぼくは二宮さんとご一緒することになっていて、そこへ降りてゆくと、村川堅太郎・長谷川博隆両先生がご一緒にいらしたのですが、二宮さんの姿を認めて、村川さんは「やぁ二宮さん」と満面の笑みで、4人は同じテーブルに着席することになりました。とはいえ、話題は南フランスを一緒に旅行なさった60年代のある日々のことに尽き、車を運転した○○さんのことも含めて、昨日のことのように懐かしんでおられた。ぼくと長谷川さんは部外者として、楽しい回想をただ拝聴しているだけでした。村川主任教授時代の西洋史助手は、成瀬 → 長谷川 → 二宮 → 直居淳 → 西川正雄 → 伊藤貞夫、とつづき、黄金時代だったのですね(ぼくの知らないアンシァン=レジームです。まだ定員は一人。伊藤さんの任期中に定員二人となり、城戸さんが後任助手に就きました。1968年4月、村川先生の定年とともにお二人が同時に辞めて、北原敦・木村靖二助手の時代となり、ぼくにとっての「同時代」史が始まります)。
【 → この91年の12月に村川先生は亡くなるので、その半年前の、幸運で愉快な時間だったのでしょう。なお、先生と愛弟子はちょうど20歳違いというのが良いのだとは、長谷川先生の説です。村川・長谷川のご両人は20歳違い。柴田先生とぼくは21歳違うなぁ、とそのとき感じ入ったものです。】
なお、今春には國原吉之助先生も亡くなっていたとのことです。ぼくは名古屋大学文学部3階で、研究室が隣り同士でした。國原先生と長谷川先生は尊敬しあう関係だったようで、ある時点まで両先生の学恩を浴びるように享受していたのが、土岐正策さんです。週末夕刻から始まるラテン語の学習会は、國原先生よりも、むしろ土岐さんが仕切っておられた。
長谷川(編)『ヨーロッパ: 国家・中間権力・民衆』(名古屋大学出版会、1985)が出版された折には、ぼくが英語 mob の語源は mobile vulgus で、17世紀末にはただの mobile という形で使われていた時期もあるとしたためたのに目を留めた國原先生は、誉めてくださいました。お人柄は、『古典ラテン語辞典』(大学書林、2005)のまえがきにも現れているとおりです。
名古屋の古代ローマ関係のお三方は、ともに今は亡く、さびしい。
【2日(金)の晩は浦和でお通夜でした。しみじみと語りあいました。なおまた、このブログ記事につき、欠けるところを指摘してくださった方、ありがとうございます。】