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2020年8月31日月曜日

湾岸の夜景

8月も今日で終わり。午後は、12月の都市史学会オンライン大会(http://suth.jp/event/convention2020/)へ向けての勉強会で、熱い4時間あまり。6時半に外を見ると、すでに暗くなっていて、河面をわたる風は涼しく、さすが盛夏も終わりか、と感じさせます。

この夏は、コロナ禍(と日差し)を避けてほとんど毎夜に散歩してきました。歩くコースは四方にあるとはいえ、やはり湾岸らしく、潮の香りがして展望もひらける所に惹きつけられ、この写真にあるような光景を歩くことが多いです。

東京港の入口、芝浦と台場をつなぐレインボーブリッジを遠望し、右手は「パークタワー晴海」と「晴海タワーズ」。紛らわしいけれど、三井不動産と三菱地所が競争的に共存しています(晴海2丁目)。この3棟の先、(ここからはほとんど見えない)オリンピック選手村に直結する一帯(晴海4丁目・5丁目)を Harumi Flag と呼ぶことにしたようです。タワマンの住み心地が良いかどうか、ぼくの好みではないけれど、ただ、周辺の緑地・遊歩道はよく整備されて、気持のよい空間です。むかしはセメント工場があり、はるか亀戸から貨物線が通じていました。
その Harumi Flag の写真を撮った場所を振り返ってみると、こんな具合です(豊洲2丁目・3丁目)。
左から三井不動産が再開発したタワマンと複合商業施設ららぽーと、青く光るのは豊洲の波止場で、かつてすべて石川島播磨造船( → 現 IHI)の敷地でした。それを記念したモニュメントが随所に残っています。右手の明るく大きな建物は、この夏にオリンピックを見込んで完成したばかりの三井のホテル+オフィス棟。

つまり真ん中に(夜は黒く光る)豊洲波止場前の海面をはさんで、三菱地所と三井不動産が対峙する配置です。どちらも海に接する遊歩道に、「ここの標高は5.5m」という同様の道標があり、緑地にはさらに丘のように盛り土した箇所もあり、人工の快適空間。
ぼくは、こういうのが嫌いじゃない。小学2年で千葉の新宿小学校に転校して以来、場所は移動しつつも、日本の高度経済成長と近隣の住環境の大転換とをずうっと目撃してきた世代です。40歳で湾岸は東京商船大学の脇に転居してきたのですが、このときも1988年(バブル最中で)佃の超高層マンションがニョキニョキと建てられ、地下鉄有楽町線が開通したのでした。湾岸の大変貌の画期でした。

2020年8月28日金曜日

『歴史学研究』1000号


          http://rekiken.jp/journal/2020.html
創刊1933年の『歴史学研究』が、戦後歴史学の中核をになった期間をへて、今も生き延び、この9月号で1000号を迎えたということです。創刊1000号記念の特集は「進むデジタル化と問われる歴史学」。なんと近藤も寄稿しています!

正直、昨秋に編集部から依頼を受けたとき、一瞬は迷いました。歴史学研究会とは「因縁」というものがあって、それは何十年たったら解消する、といった簡単なものではありませんので。ところが2・3年前から「研究部長」さんが変わって、歴研内部の討論のトーンも変わったような気がします。「主権国家再考」の討議にも参加しました。はばかりながら学問的な再考・修正・革新には、学生時代から積極的にかかわってきたという自負はありますので、2019年には「主権なる概念の歴史性について」という大会コメントを『歴史学研究』989号に寄せました。【西川正雄さんがお元気なら、大いに喜んでくださったでしょう。彼との関係修復(2007年7月、於ソウル・駒場)はあまりにも遅かった!】

今回はそれより長く、1000号記念特集で、ディジタル化/これからの歴史学に関係するなら、いかようにも自由に、という特段の依頼だったので、それなら、自分のためにも人のためにも、整理して記録しておこうとその気になりました。現今のディジタル化とグローバル化について短期的な(他の人にも書ける)エッセイをしたためるのでなく、1980年前後から顕著になっていた世界的な知の転換と同期してきたITの展開という文脈、そのなかに90年代以降の(≒ Windows 95 以降の)ディジタル史料(リソース)、オンライン学問の発達・展開を位置づけて論述してみたいと思いました。ぼく自身も同時代人としてそのただなかで生きてきたのです。
OUP や Proquest や Gale-Cengage といった特定企業名も出てきますが、それぞれ競合しつつ、2000年(OED オンライン供用)~2004年(ODNB)あたりから学界も個々の研究者も気持・志向・文化が転換したような気がします。社会経済史学会では、大会でも部会でも、Query をどのように立てて検索し、結果をどう処理するか、といったことを熱心に議論していました。
ぼく自身も、2004年7月には「オクスフォードの新DNB」について『丸善Announcement』に書かせていただいたし、12月には(Keith Thomas の代わりに)Martin Dauntonを招待して、丸善 OAZO にて ODNBシンポジウムを開催していただきました。

しかし同時に、現ディジタル世界のありようはあまりにも問題が多く - 今日のアメリカ政治にも、日本社会にも如実に現れているとおり -、賢明で積極的な対応が不可欠です。好き嫌いや利便性よりも、反証可能性をおもてに出した、クリアでシンプルな文章とすべきだと考えました。
従来の歴史学からの連続性、民主的アクセスが保証された知の営為、といったことも隠れたモチーフです。また他方ではイングランド・アイルランド・スコットランドの間の「歴史問題」をおもてに出した連携のような関係が、日本・韓国・中国・台湾などの間でいつになったら構築されるのだろう、という憂慮もあります。
後半はいささか整理不足で、あれもこれもとなってしまいました。

2020年8月27日木曜日

朋あり 遠隔より談ず、また楽しからずや


このブログへの登載が間遠ではないかと心配するメールなどいただいています。コロナ禍と盛夏のただなかですが、いちおう元気です。ケアを要する家族も、皆みなさまの助力で、大きな変化はなく、なんとかやっています。

そうしたなかで、喜びといえば Zoomミーティング ですかね。
同一空間に会して歩く姿を見つめたり、全身が丸くなったとか、縮んだとか(?)いった印象とともに談笑することは今はできないけれど、リモートの画面で、ふだんは見ない書斎の背景を見せてもらったりしながら、久しぶりに談論風発‥‥、また楽しからずや。

たとえ(ご本人の嗜好で)リモート画面は伴わなくても、メールや電話で優しく細やかな配慮をいただいたりすると、これもうれしいですね。人は一人では生き続けられない、という真理にも想いいたります。

2020年8月13日木曜日

空蝉に ‥‥

特別に長い梅雨のあと、急に盛夏の猛暑がつづきます。みなさんお変わりありませんか。
わが集合住宅の敷地にもようやく蝉時雨(せみしぐれ)が襲来して、「滝もとどろに鳴く蝉」は部分的には深更にもやまず(例年はうるさいなぁと感じることもあったのですが)今年は、それがなんだか嬉しい。

7年間は地中の幼虫としてのいのち。つまり2013年の夏(『イギリス史10講』仕上げの夏!)に産み落とされ、地中にもぐって成長し、ようやく暑くなったので、夕刻、地上に這い出て見たことのない母の産んでくれた樹木にのぼり、夕闇のなか脱皮して、大きな羽根をえて、身体も一回り大きくなり、翌朝に飛び立つ。飛ぶ昆虫としての7日間くらいのいのち‥‥。考えるといとおしくなります。
昼間に(大学のリモート授業のあいまでしたが)郵便ポストまで投函しに行った折にふと大きな街路樹の足元をみると、小さな(1cm未満の)丸い穴がいくつもあることに気づきました。これは何だ、と思いつつ見上げると、高さ2m~3mくらいのところに蝉の抜け殻がいくつもあります。そぅか! 日が暮れてから来ると、あれをふたたび観察できるかもしれない! 小学生時代にはカメラなんて持っていなかったけれど、今はいくらでも写真が撮れる! 
というわけで、結局、晩には次に書くようなことを回想しながら、何匹もの脱皮の写真を撮りました。


小学生時代に母の実家(広島県)に行くと、夏は「クマンゼミ」と呼ばれた大きく透明な羽根をもつ蝉が、うじゃうじゃといて、網など使うまでもなく子どもの手でも一度に2・3匹づつ捕まえることができました。そして夕刻になると、樹木の幹を登る幼虫の何匹かを捕獲して、窓や縁側の手すりなどに置いたのです。彼らとしては違和感があったに違いないのですが、いささか体勢を整えなおしてから覚悟を決めて動かなくなり、やがて背中が割れ、美しい青緑の肉体、そして透明な羽根をゆったりと露出します。この間、自分の体重で、殻の割れ目に尻をはさむような形で逆立ちし大きな頭が下にくるのですが、6本の脚を上手に使いつつ体操選手のように屈伸して体位を180度変えて、頭が上、二枚の羽根がすなおに下向きに伸びるような位置に収まると、‥‥柔らかい身体が堅牢さを獲得し、なにより地上に出てから木登り・脱皮の重労働を完了するまで(3時間以上?)の疲労から回復するために動かなくなります。
明朝(鳥たちが動き始めるより前に)元気に飛び立てるよう、また(人にうるさいと思われながら)元気に歌い回れるよう、体力のみなぎるのを待つのでしょう。小学生だったぼくには、夏休みの良い観察(observation)課題でしたが、ただ夜8時~9時くらいに蝉の動きが静止してしまうと、もうすることがなく、寝るしかない。(すごく早起きしてみるほどの根性もなく)明朝は飛び立ったあとの抜け殻(うつせみ)を確認するだけでした。

「クマンゼミ」は瀬戸内ならぬ東京では見られませんが、基本は同じかな。
こんな句を見つけました。
空蝉に 朝日さしこむ 過去未来 (小枝 恵美子)

2020年8月2日日曜日

さみだれを集めて‥‥


先週のことですが、NHKニュースで河川工学の先生が
さみだれを集めて早し 最上川
と朗じて、このさみだれとは梅雨の長雨のことで、流域が広く、盆地と狭い急流のくりかえす最上川は増水して怖いくらいの勢いで流れているんですね‥‥と解説しているのを聞いて、忘れていた高校の古文の教材を想い出しました。

さみだれを集めて早し 最上川 (芭蕉、c.1689年)
さみだれや 大河を前に家二軒 (蕪村、c.1744年)

 明治になってこの二句を比べ論じた正岡子規の説のとおり、芭蕉の句には動と静のバランスを描いて落ち着いた絵が見える。しかし、蕪村の句は、増水した大河に飲み込まれそうな陋屋2軒に注目したことによって、危機的な迫力が生じる。蕪村に分がある、というのでした。
 しかしですよ、子規先生! 
第1に、そもそも蕪村は尊敬する芭蕉の歩いた道を数十年後にたどり歩き、芭蕉の句を想いながら自分の句を詠んだわけで、後から来た者としての優位性があって当然です。ないなら、凡庸ということ。
第2に、句人・詩人なら、完成した句だけでなく、
さみだれを集めて涼し 最上川
とするかどうか迷い再考した芭蕉の、そのプロセスにこそ興味関心をひかれるでしょう。蕪村はそうしたことも反芻しながらおくの細道を再訪し、自らを教育し直したわけです。
 さらに言えば、第3に正岡子規(1867-1902)もまた近代日本の文芸のありかを求めて先人芭蕉、蕪村、明治のマスコミ、漱石との交遊、‥‥を通じて自らの行く道を探し求めていたのでしょう。そのなかでの蕪村の再発見だとすると、高校古文での模範解答は、論じる主体なしの芭蕉・蕪村比較論にとどまって、高校生にとっては「はぁそうですか」程度の、リアリティに乏しいものでした。教える教員の力量ももろに出ちゃったかな。

 たとえれば、ハイドンの交響曲とベートーヴェンの交響曲を比べて、ベートーヴェンのほうがダイナミックに古典派を完成しているだけでなく、ロマン派の宇宙をすでに築きはじめていると言うのは、客観的かもしれないが、おこがましい。ハイドンが楽員たちと愉快に試みつつ完成した形式を踏襲しながら、前衛音楽家として実験を重ねるベートーヴェン。啓蒙の時代を完成したハイドンにたいして敬意は失うことなく、しかし十分な自負心をもって新しい時代を切り開いてゆく。(John Eliot Gardiner なら)révolutionnaire et romantique ですね。

 両者を論評しつつ自らの道を追求したシューマン(1810-56)が、上の子規にあたるのかな。優劣を評定するだけの進化論や、それぞれにそれぞれの価値を認めるといった相対主義ではつまらない。自らの営為と関係してはじめて比較研究(先行研究)は意味をもつ、と言いたい。