「朝日新聞デジタル」に今、長谷川宏さんのインタヴューが連載中です。
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1940年4月1日のお生まれということで、もう80歳を越えておられますが、面影は昔と変わりません。島根県の少年のころの写真もあって、人の基本的な面立ちは変わらない、いやむしろその変わらない要素こそが人格を形成している、というべきなのでしょう。
(c)朝日新聞デジタル
長谷川さんは哲学の院生、ぼくは西洋史の学部3年。8歳も年長ですので、ほとんど接触はなかった。とはいえ、1969年初めの事件の夜、ぼく(と20名未満の学生・院生)は長谷川さんと摂子夫人に命を助けられたのです。おそらくぼくの名を認識しておられないでしょうが、命の恩人です。
東大闘争のころ長谷川さんは哲学の大学院を満期修了(人文闘争委員会)、ぼくは西洋史共闘。1968年6月からの(学部生の)無期限ストライキとは別に、院生たちの「人文会」は動いていましたので、遠くからお顔を見ることはあっても、討論や挨拶を交える機会はなかった。ただし、他の人びととはちょっと違う、実存的なビラを出したりしていましたね、彼も、ぼくも。
朝日新聞デジタルのインタヴュー記事では、おそらく担当記者の理解が行き届かず、時間的に前後が混乱しているところがありますが、68年11月に「文学部8日間の団交」、その後の総決起集会‥‥と続くうちに、12月にはぼくたちの知らないところで、(助手共闘が仲介して)東大の新執行部=加藤総長代行と全共闘幹部の交渉があり、これが決裂して、佐藤内閣の強圧に抗するべく、1月10日の秩父宮ラグビー場における当局と民青との手打ち式(七学部集会)、そして共闘系セクトの積極的な介入‥‥と急転直下の展開となります。その局面転換は明瞭で、ぼくたちサンキュロットにも「何かが大きく変わった」と感じさせるものがありました。東大全共闘の普通の学生は、1月16日からは、気楽に講堂=時計台に入れなくなったのです。
教育学部に駐屯した全国の民青「ゲバ部隊」は、68年9月7日未明の御殿下グランドにおけるデモンストレーション演習以後、機会をみて威圧的に動員されていましたが、1月10日の秩父宮ラグビー場の夜には、大胆な「トロツキスト掃討作戦」に出ます。その夜、文スト実のメンバーの多くは講堂=時計台に寝起きしていたのですが、「民青の襲撃に備えて」ということで、二手に別れ、一部(10人以上、20人未満でした)は法文2号館(すなわち文学部)事務棟の2階(学部長室や会議室がある)に移動し、バリケードを補強する、といった任務に就きました。ぼくはこちらでした。
70年代に歴史家ルージュリ(や木下賢一)がパリコミューンについて、また相良匡俊が世紀末のパリの労働者について形容したような bonhomie* に支配された呑気な夜でした。ところが、寝静まった未明に事態は急変。時計台前の広場から銀杏並木、そして三四郎池側まで黄色いヘルメットの民青「ゲバ部隊」が埋め尽くしているのを見て、ぼくたちシロートのトロツキスト(その実、ナロードニキ!?)は恐慌状態。小便の漏れたやつもいたのではないか。わがバリケードもどきが簡単に突破されることは、火を見るより明らかです。
【 * 木下論文は『社会運動史』No.1 (1972)、相良論文は『社会運動史』No.4 (1974) に載っていて、70年代を代表具現するような作品です。】
取るものも取りあえず、1月なので上着は着て、屋上に上がりました。今、法文1号館2号館は4階に銅屋根のプレハブ部屋が並んでいます。この空間は、70年代末まで図書の事務室以外は、細かい砂利を敷いた屋上だったのです。その屋上を伝って、文学部の研究棟に入り、長谷川さんの案内で2階の哲学研究室の鍵を開けてもらい、中で10人以上が息をひそめる、ということになりました(もちろん点灯しません)。
事務棟と研究棟は屋上でつながり、2・3階にあたるレヴェルに(いわゆるアーケードの上)「1番大教室」「2番大教室」がある、という構造です。
半時もしないうちに、法文2号館事務棟の(今は生協やトイレの入口にあたる)バリケードは破られて黄色いヘルメットが建物内を縦横に歩き回って、われわれを捜索しているらしい、このまま哲学研究室にいるのは危ない、という判断で、再び移動し、地下に下りました。心理学や考古学が使っている or 不使用の部屋に身を潜める方が安全だろうとなりました。地下のたいていの部屋は鍵がかかっていなかった。ぼくが身を潜めた部屋はかび臭く、寒く、頼りないことこの上なかったけれど、とにかく2・3人づつ別々に、外が明るくなるまで静かにしていました。
翌11日朝、本郷キャンパスはむやみに静かで、何もなかったかのごとく。しかし、学部長室/会議室に私物を置いていた人は、それらは無くなっていたと言います。左右を見ながら、走って時計台へ逃れました。
時計台にいたのは文学部だけでなく全学のスト実や院生、助手たちで、宵闇のなか、法文2号館を黄色いヘルメットの波が包囲し、やがて突入するのを遠望して、「近藤くん、死んだかとおもったわ」と西洋史の女子学生が(笑って)言ってくれました! 警視庁の機動隊より民青のゲバ部隊のほうが怖い/乱暴だ、という評判でした。その前夜、法文2号館で行動を一緒にしたのは、哲学の長谷川さん夫妻や国文の*くんや仏文の*くん等々でしたが、西洋史はなぜかぼくだけで、他は時計台の建物にとどまっていたのです(あまり組織的に職務分担したわけではなかった)。
というわけで、小杉享子『東大闘争の語り』をみても、折原浩『東大闘争総括』をみても、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』や富田武『歴史としての東大闘争』をみても、この深更・未明の事件については、具体的な叙述は乏しい。しかし、民青部隊がこのときみごとなほど機動的に動き、東大全共闘のサンキュロットを蹴散らして本郷キャンパスを制圧したので(→ 講堂=時計台は孤島のようになりました)、これに対抗して翌日より全国の大学から共闘系の党派動員が本格化する、そのきっかけになった事件でした。このとき長谷川夫妻の機転がなかったら、ぼくたちは69年1月に一巻の終わりとなってしまったかもしれないのでした。