先週に訪れた九州というのは、平戸と福岡でした。
平戸は初めて。その先の生月島は存在さえ知らなかった(イキツキ=息つく島!だそうです)。 行ってよかった。近世捕鯨の拠点。絶壁の灯台から東シナ海を望みました。
このあたりは入江が深く、また365日、風が吹いていて、帆船にとっては好条件だったのでしょう。ザビエルも1550年に来て布教しています。今の平戸港だけでなく、その南にすこし行った千里が浜には1624年、鄭成功(国姓爺)の生まれた浜があって、その記念碑のあるホテル蘭風に泊まりました。このあたりには中国人や南蛮人の逸話の伝わる所が少なくない。もちろん、かくれ切支丹をめぐる話には事欠きません。地元の高校の歴史の先生が案内役兼運転手として大活躍してくださいました。
アダムズとヨーステンの豊後漂着は1600年ですが、英国商館は1613年に設立(というより中国商人の家屋を間借り)、石造りの和蘭商館は1639年に建設。日英関係は1600年から説きおこすのが普通ですが、日蘭関係は1609年からというのが普通ですね。今年は日蘭400年の記念すべき年で、3階建ての立派な商館を記録にもとづいて再建工事中です。
最初の和蘭商館は、破風に Anno Domini 1639 なんて刻印しちゃったから、幕府の怒りに触れて、取り壊し、1641年、長崎出島に移転するほかなし、という運命でした。
〈つづく〉
〈承前〉
返信削除それにしても、英蘭日の関係は、ほとんどホウィグ史観的に、19世紀パクス・ブリタニカのイメージから17世紀にも遡及して読み込みがちですが、あくまで17世紀はオランダの世紀。それは商館の規模からも明らかです。17世紀にイギリスは独自の商館をもたず、オランダは石造りのものを建造することができた。1630年代、貿易の国家統制に乗りだした日本政府にとって、西洋の貿易相手をオランダに限定したのは、以下の理由から適正な選択だったといえるでしょう。
1.(学校の歴史教育で繰りかえし教えられるとおり)天草の乱に懲りて天主教を厳禁したということもありますが、
2. アジア貿易(と情報の流通)は、松前・対馬・琉球と平戸(長崎)という、管理された4つの口を通じて継続し、
3. 他国はこけても、世界商業覇権をにぎるオランダとの関係はしっかり特別待遇で維持する、という賢明な選択です。
貿易の量はたいしたことなくても、情報は当時の為政者が必要で適正と考えただけは採取し、かつ「オランダ風説書」などに記録したわけです。ちょうど17世紀前半からオランダ諸都市は、ハーバマスも強調したとおり、情報が商品として流通する市民的公共性の発祥の地でした。
問題は、17世紀に適正と考えられた量と頻度では19世紀の事態には対応できなくなったということに尽きるかもしれない。
日本が homeostasis に達した近世に、ヨーロッパは大成長と変革を遂げた。一方の日本の人口は早々と3000万に達して安定していた間に、他方のヨーロッパ全域の人口は1600年に1億 → 1700年に1億1500万 → 1800年に1億8700万 → 1850年に2億6600万、と人口動態の転換を迎えたという事実です【『文明の表象 英国』p.118 】。
日本の近世は安定・内需・ガラパゴスで特徴づけられ、ヨーロッパの近世は拡大と成長・競争で特徴づけられる。どちらでも結果的に polite and commercial people が形成されるのですが。
The British Isles に限定すると、同じ時期の人口は1600年にたったの680万 → 1700年に930万 → 1800年に1590万 → 1850年に2740万で、ようやく日本列島の人口に比肩するようになった。
この大きな変化を見逃しては、アナクロニズムに陥ります。