27日(日)午後、東洋大学の公開討論会の席上、山之内靖さんが2月に亡くなったことが話題になりました。1933年生まれ(二宮宏之・遅塚忠躬の一つ下)ですから80歳だったのですね。 二宮さんが亡くなった後の2006年の催しでは、まだ昔の調子でお元気でしたが、最近はまったく音沙汰なく寂しい思いをしておりました。
→ http://www.asahi.com/articles/DA3S11272679.html
(近影も)
ぼくの研究テーマが18世紀イギリス、あるいは産業革命前夜と定まるにあたって、決定的なのは内田義彦ですが、その前段でもうすこし曖昧に、大塚学派のなかでも『マルクス・エンゲルスの世界史像』(1969)や『イギリス産業革命の史的分析』(1966)を書いていた山之内靖という存在がありました。そのころ、まだ30代だったのですね。『イギリス産業革命の史的分析』のあとがきに、生まれたばかりの赤子の生命力への言及とともに、本書を「プロデュースしてくれた」青木書店の編集者への言及があり、こうしたスタイルは斬新で今も忘れません。
大学院に入ってからは、山之内さんの『思想』論文、それをまとめた『社会科学の方法と人間学』(1973)で、わが意を得たり、と感じたものです。マルクス学と、社会科学と歴史学の先端で、ぼくにも何かできることがありそうだ。しかもヴェーバーをやってきたことが無駄ではなく advantage らしい、という感覚。
そうこうするうちに、1976年の土地制度史学会秋季学術大会@高知大学へ向けての準備会が東大社研で始まり、これには(岡田先生、柴田先生でなく)遅塚忠躬、山之内靖、毛利健三といった方々が中心に動いておられました。半年あまりの討論の末に、例の「産業革命期の民衆運動」という大会シンポジウムが企画され、山之内、柳澤治のご両人とともにぼくも3人目の報告者として立ちました。司会は遅塚、毛利。土地制度史学会(とは即、講座派、山田盛太郎・高橋幸八郎学派の牙城)にデヴューし、吉岡昭彦さんと対決して、ぼくは初めて身震いというものを感じたのですが、このとき、山之内さんはマイペースで、ご自分の言いたいことを言って了、あとは観戦、といった姿勢でした。
そのぶん、遅塚さん、毛利さんは十分に準備して議論を噛み合わせようと尽力なさったけれど、無理でした。ぼくとしても講座派マルクス主義史学との果たし合いに臨むような気持がないではなかったけれど、ザハリッヒな議論の準備はしたので、緊張はしなかった。会場で吉岡さんは小生意気な近藤を撃沈したおつもりだったのでしょうが、こちらは「‥‥先生の回春剤ですか」といった具合で、こたえなかった。吉岡さんの側では「アホか」と思ったかな。それにしては『史学雑誌』「回顧と展望」でムキになって20歳も下の近藤をやっつけていました。
この1976年秋、高知大学における大会に、ぼくだけでなく青木康、深沢克己、藤田苑子、小井高志といった皆さん(全員まだ20代)までがはるばる出かけたという事実は、今では想像もできないでしょう。同じ年の12月には『思想』630号の巻頭にル=ゴフの二宮訳、そのあとにぼくの「民衆運動・生活・意識」が載ることになります。日本の史学史における転換の年でもありました。
山之内さんは、その後、柴田三千雄『近代世界と民衆運動』(1983)が出たときの社研の合評会( →『思想』掲載)でも、慌てず騒がず、ご自分の論調を守られました。『岩波講座・社会科学の方法』12巻の編集をへて、『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書、1997)は出てすぐに評判になり、よく売れましたが、あまり顔色は変わらなかった。ご自分の世界を持っておられた、という印象です。
その他、ここには書けない交渉もありました。 東京外国語大学の北区西ヶ原 時代の黄金期をささえたお一人で、不思議な魅力をおもちの方でしたが、個人的なお付き合いには、ちょっと不完全燃焼感が残りました。
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