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2019年1月19日土曜日

1月19日

 昨1月18日にある出版社の会議に行ったら、玄関で社長に呼び止められて、しばし懇談。彼の誕生日はほかでもない1.19なのですが、1969年(彼が21歳のとき)のその日にどこでどうしていたか、語らず。
 ぼくの場合はというと、17日からすでに本郷は入構できず、18日は正門前がすでにこんな状態で、構内を見ることさえあたわず、本郷通りラーメン屋のテレビで攻防戦の中継をむなしく眺めました。
<写真は渡辺眸『東大全共闘 1968-1969』角川文庫、pp.154-5 より>

 そもそも18-19日に逮捕された数百人の学生のうち、安田講堂内で逮捕されたのは377名、うち東大生は(佐々淳行の言うような「20名」ではなく、和田英二が記すように)80名以上だったとはいえ、21%、多くない。少ないというべきでしょう。
 それには語るも口惜しい長い話が必要ですが、かりに「1月17日にロックアウト、18日に占拠学生排除開始」という筋書でなく、もし1週間前、9日に機動隊導入したのですが* そのときに学内に泊まり込んでいた学生を逮捕したなら、はるかに大きい数字になり、その過半数は東大生(および院生)ということになっていたでしょう。その東大生のなかにはぼくも、後々古代史や近現代史の代表的な研究者になる西洋史の3・4年生も少なくとも5名はいました。東大執行部ばかりでなく民青=共産党系の横暴を許さないという意志が強かった。【* この「9日夜に警察が構内の学生を全員逮捕していたなら」という想定は、そもそも大学当局が学生に退去を告知していたわけではなく、民青部隊と全共闘との暴力的衝突の「警備」のための機動隊出動にすぎなかったので、現実的ではありません。】
 翌10日に秩父宮ラグビー場の「全学集会」があり、日付の変わった深夜・未明には民青部隊による「封鎖解除」襲撃が続き、このあと、情況は急転直下、変わりました。
 13日に大学が「学外者の構内立入り禁止」を告示し【ということは、学外セクトが後から後から流入していました】、15日に「東大闘争勝利・全国総決起集会」が講堂前で開かれたときには、すでに佐藤内閣・共産党・東大当局・新左翼諸党派のおもわくが入り乱れて、奔流となっていました。個人や文スト実といったレヴェルで何を言おうが、どう行動しようが、左右することのできない勢いをもつ津波のような「政治」の力学を実感したときです。
 東大全共闘としてどういう議論をして意志一致したのか。ぼくたち rank and file に分かる説明はなかった。「玉砕」のようなパフォーマンスをマスコミ向けに演出して、「一点突破・全面展開」とでも考えたのだろうか。西洋史からも、ぼくの知る文スト実のメンバーからも、安田講堂ないし法文2号館(あるいは他の部署)に立て籠もるという選択をした者は一人もいなかった。それは臆病やズルではない。全共闘の方針に納得できなかったのです。ぼくの個人的に知る者でそういう選択をしたのは、法学部3年の和田英二だけでした。
→ more:いずれまた、整理して分析的にお話しできる日に。

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