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2020年7月10日金曜日
雨と『次郎物語』
未知の新型コロナウィルスに続いて、これまで経験したことがないような雨が連続。「線状降水帯」という語はしばらく前から使われて、理解しやすいのですが、それにしても同じような所で長雨が続くのは勘弁してほしい。
これから書くのは、水害地のみなさんには申し訳ない、九州と雨にかかわる悠長な想い出です。
大分・福岡・佐賀を貫く筑後川(筑紫次郎)。少年時代(中一でしたか?)に読んだ、下村湖人『次郎物語』のいくつかのエピソードをおぼろげに覚えています。イカダを組んで少年たちが川下り、にわか雨で走るかどうか、‥‥。
雨のなかを走るかどうかについては、納得のいかない「算数」あるいは「ギリシア的詭弁」の問題で、もしや以後(日本の)文人たちの論法への不審が芽生えた最初だったかもしれない。
こういうことです。少年たちがたむろしていたあるとき、にわか雨が降り出し、(だれも傘は持たず)何人かは急ぎ駅だか学校だかへ向かって走りだしたのだが、年長の@くんは「走っても歩いてもあびる雨の量は同じだから、走るのは無駄」といって悠然と雨中を歩き通した、というエピソード。そのとき、ぼくにはなぜこれが違うのかは言えなかったけれど、納得ゆかず、以後、雨の日のたびにこの問題が再浮上して悩ましかったのです。
@くんの論法は、(たとえば)学校と駅の間が1000mだとして、100mあたりの単位雨量が u だとすると、この間を走っても歩いてもあびる雨の量は u×10 で変わらない、というもの。
→ もし、雨の量が「単位×移動する距離」で決まるなら、亀さんのようにノロノロ歩いても(たとえ24時間かかっても)u×10 で同じ。古代ギリシアの詭弁家みたい!
そのときのぼくは、あびる雨の量は移動距離でなく(停止していても雨をあびるのだから)、「単位×雨中の滞在時間」で決まるといった反証ができずに、悶々としていたわけです。1分あたりの雨量を r とすると、(たとえば)学校と駅の間を歩いて12分かかる(r×12)のと、2分で疾走する(r×2)のとでは、顕著な差が出ます。【駅前商店街に屋根付きのアーケードとかはない、雨中に走って転倒する事故もなし、という前提。】
下村湖人(1884-1955)は、佐賀で生まれ育ち、帝大英文をでた教育者らしいですが、わがナイーヴな少年時代を悩ませた作家でした。その後もにわか雨で傘を持ちあわせない折には、いつも想い起こされた逸話です。
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