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2024年2月11日日曜日

『ボクの音楽武者修行』その1

小澤征爾さんが亡くなった(1935-2024)。
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!

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