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2011年1月31日月曜日
Dorothy Thompson
信じたくないことですが、Nさんよりの知らせで、 Dorothy Thompson が亡くなったとのこと。同姓同名で活躍した女性は何人もいますが、1923年生まれ、歴史家、The Chartist Experience の著者、EPT の未亡人です。
→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/dolly.htm
昨9月・10月にメールで活発にやりとりをしていましたので、にわかに信じられません。
2011年1月30日日曜日
内田義彦 『経済学の生誕』
29日(土)には名古屋市立大学にて『イギリス史研究入門』と『イギリス文化史』の合同合評会! いったいどんなものになるかと心配し、また期待しつつ参りました。かなり率直にお話しできたと思いますが、
「印象派の魅力的な絵画を自由に描くためには、スケッチ、遠近法、絵の具の解き方、Old Mastersの勉強といったアカデミズムのトレーニングが前提」
という結論で、落ち着いたようです。
『イギリス史研究入門』の第二部 B. 研究文献で、あるべくして欠けているものといえば、いくらでも挙げることができます。『内田義彦著作集』全10巻(岩波書店、1988-9)もその一つ。
現行版(p.375)には、内田さんの本のうち『社会認識の歩み』(岩波新書、1971)だけが挙がっていて、校正の段階でこれを『経済学の生誕』にするか『内田義彦著作集』にするか、と悩んだすえ、やはり学生に一冊だけ勧める最初の本は、この岩波新書だと決断したのです。別の共著者の挙げたのが『社会認識の歩み』だったというのも、一つの強い理由。
ただ個人的なことを言えば、ぼくが初めて読んだ内田さんの本は『経済学の生誕』(未来社、増補版 1962)。これで、卒論で1750年代をやる大義名分みたいなものをもらった気がしたのでした。七年戦争(1756-63)期の全ヨーロッパ的危機意識、「スミスとルソー」、道徳哲学、利己心と公共性‥‥とあらゆるイシューが18世紀なかばのイギリス人(ヨーロッパ人)スミスに集中して現れているんだと納得してしまった。そのあとに読んだE・P・トムスンや二宮宏之なんぞより(!) はるかに力強く長続きするインパクトがあった。
ただ、この内田、トムスン、二宮の3人は雰囲気が似てないでもないし、顔もそうです。なにより文章に命をかけた物書きだった。「‥‥内田さんの筆は遅々として、骨身を削って苦吟される様は痛々しい限りであった」と田添京二氏が『月報』1に書いています。
それから、何より内田義彦は、大塚久雄を尊重はしていたが、近代というものをしっかり批判的に見つめていた。大塚のように日本の問題の根拠を「七化け八化けした近代」に求めたのではなく、「紛れもない近代」をしっかり問うた。講座派から生まれて、早くから講座派を抜けていた。そして丸山眞男よりずっと自由だった。その基礎に技術論と音楽があったかもしれない。
1913年生まれ、89年没。20世紀日本の生んだ偉大な知性でした。
「印象派の魅力的な絵画を自由に描くためには、スケッチ、遠近法、絵の具の解き方、Old Mastersの勉強といったアカデミズムのトレーニングが前提」
という結論で、落ち着いたようです。
『イギリス史研究入門』の第二部 B. 研究文献で、あるべくして欠けているものといえば、いくらでも挙げることができます。『内田義彦著作集』全10巻(岩波書店、1988-9)もその一つ。
現行版(p.375)には、内田さんの本のうち『社会認識の歩み』(岩波新書、1971)だけが挙がっていて、校正の段階でこれを『経済学の生誕』にするか『内田義彦著作集』にするか、と悩んだすえ、やはり学生に一冊だけ勧める最初の本は、この岩波新書だと決断したのです。別の共著者の挙げたのが『社会認識の歩み』だったというのも、一つの強い理由。
ただ個人的なことを言えば、ぼくが初めて読んだ内田さんの本は『経済学の生誕』(未来社、増補版 1962)。これで、卒論で1750年代をやる大義名分みたいなものをもらった気がしたのでした。七年戦争(1756-63)期の全ヨーロッパ的危機意識、「スミスとルソー」、道徳哲学、利己心と公共性‥‥とあらゆるイシューが18世紀なかばのイギリス人(ヨーロッパ人)スミスに集中して現れているんだと納得してしまった。そのあとに読んだE・P・トムスンや二宮宏之なんぞより(!) はるかに力強く長続きするインパクトがあった。
ただ、この内田、トムスン、二宮の3人は雰囲気が似てないでもないし、顔もそうです。なにより文章に命をかけた物書きだった。「‥‥内田さんの筆は遅々として、骨身を削って苦吟される様は痛々しい限りであった」と田添京二氏が『月報』1に書いています。
それから、何より内田義彦は、大塚久雄を尊重はしていたが、近代というものをしっかり批判的に見つめていた。大塚のように日本の問題の根拠を「七化け八化けした近代」に求めたのではなく、「紛れもない近代」をしっかり問うた。講座派から生まれて、早くから講座派を抜けていた。そして丸山眞男よりずっと自由だった。その基礎に技術論と音楽があったかもしれない。
1913年生まれ、89年没。20世紀日本の生んだ偉大な知性でした。
2011年1月27日木曜日
『創文』と相川さん
旧臘のことですが、創文社の月刊誌『創文』が終刊。いろいろなことを考えてしまいました。
→ http://www.sobunsha.co.jp/pr.html
相川養三さんが『創文』の編集責任者になられたのはいつだったのでしょう。80年代から何度も「おみやげ」の本とともに訪問をうけ、執筆も依頼されていました。それというのも、紹介してくださったのは二宮さんで、ルフェーヴルの『革命的群衆』を美しい装丁で出版なさった直後。「本はきれいだけれど、高くて学生には買えないよ」などと勝手なことを口にしました。ゾッキ本ではなく、洗練された造本に値する内容の本を作りつづけて、何十年でしょう。
そもそもぼくが学生として創文社という出版社を意識したのは、マックス・ヴェーバー〈経済と社会〉シリーズの翻訳、なかんづく世良晃志郎訳『支配の社会学』上下あたりが最初でしたか。高いかもしれないが、これだけ丁寧な訳注をつけてくれるのだから文句は言えない‥‥。まだ駒場の学生として、西洋中世・近世史、そして世界史の基礎知識はもっぱらこのウェーバー翻訳シリーズによって学びました。本郷に進学してからも役にたちました、ヴェーバーをちゃんと読んでる西洋史の学生なんてほとんどいなかったので。
本郷に赴任してからは、ぼく自身が繁忙で『創文』への小文の寄稿、そしていただく本の書評はかなわなかったので、青木さん西川さんなどに手助けしてもらいました。John Brewer, Sinews of power の日本での最初の紹介は、青木さんによる『創文』だったんですよ。
『史学雑誌』や『思想』みたいに重くない、軽快な知的雑誌としての魅力はつづいて、そろそろぼく自身もなにか書かせてもらえるだろうか、などとぼんやり考えていたところ、昨秋に相川さんから留守電。
以心伝心、とうれしい気持でようやくお話ししたら、なんとご病気で、年末に退職する、これまでの愛顧に感謝‥‥とのことで、絶句しました。
相川さんの居ない『創文』はないので、終刊。なんとも明快で、かなしい結末です。
2011年1月7日金曜日
大阪城のシンボリズム
大阪城、立派です。近世大坂 と 近代大阪の重層的 symbolism.
夏の陣、冬の陣のあと、徳川幕府によって再構築された、近世西国統治の要衝であることの象徴性は、この石垣に現れます。すなわちユーラシアの東西にわたった軍事革命はこれで終止符、というシンボルです(∴1665年の落雷で天守閣が焼失したけれど、それは本質的な問題にはならなかった)。征服王朝の Norman castles(たとえば Tower of London)よりも宏大、威圧的。石材は、瀬戸内と近畿全域から運ばれた御影石(花崗岩)ということです。
今の天守閣は、関東大震災後1930~31年、東洋一の商都の市民的象徴として、醵金によりコンクリートで構築されたというのもおもしろい。はるか南方、鯱の尾の先に望まれる通天閣がチャチに見える!
要するに、大阪の繁栄は、近世までは(博多を西端とする)瀬戸内海域の中核として、近代においては(上海を中核とする)東シナ海域の東端として、ありえたのだということですね。杉原さん、阿部さんあたりが、もう論じているかな。 (12月27日の続きですが、)関東生まれ、関東育ちの大阪知らずがまわりに多いので、ひとこと。
cf. 『近代大阪経済史』(大阪大学出版会)