大阪城、立派です。近世大坂 と 近代大阪の重層的 symbolism.
夏の陣、冬の陣のあと、徳川幕府によって再構築された、近世西国統治の要衝であることの象徴性は、この石垣に現れます。すなわちユーラシアの東西にわたった軍事革命はこれで終止符、というシンボルです(∴1665年の落雷で天守閣が焼失したけれど、それは本質的な問題にはならなかった)。征服王朝の Norman castles(たとえば Tower of London)よりも宏大、威圧的。石材は、瀬戸内と近畿全域から運ばれた御影石(花崗岩)ということです。
今の天守閣は、関東大震災後1930~31年、東洋一の商都の市民的象徴として、醵金によりコンクリートで構築されたというのもおもしろい。はるか南方、鯱の尾の先に望まれる通天閣がチャチに見える!
要するに、大阪の繁栄は、近世までは(博多を西端とする)瀬戸内海域の中核として、近代においては(上海を中核とする)東シナ海域の東端として、ありえたのだということですね。杉原さん、阿部さんあたりが、もう論じているかな。 (12月27日の続きですが、)関東生まれ、関東育ちの大阪知らずがまわりに多いので、ひとこと。
cf.
『近代大阪経済史』(大阪大学出版会)
私は父が大阪生まれなので、大阪城にも通天閣にも思い入れがあります。いまの大阪城は昭和の再建ですから、一見歴史が浅いように錯覚するのですが、実は歴代の天守閣で一番寿命が長いのは、現在のコンクリート製のものだそうですね。また、この天守閣は、昭和初期のコンクリート製建造物として、それ自体がすでに歴史的意味をもっているということです。
返信削除ところで今日、私の所属している・・・史研究会の委員会で、創立55周年記念企画について議論したのですが、『イギリス史研究入門』みたいなものをつくりたい! でもあれは10年がかりだ! といった話も出ました。まったくローマは一日にして成らずですね。
そうですか。Y.I.さんの父上も大きな流れをなす一人だったかもしれませんが、ひところまで、山田盛太郎は八高から東大へ、大塚久雄は京都出身、丸山眞男は大阪出身、柴田三千雄も京都出身と、知性は関西から東京に移動したものでした。
返信削除今でも,
羽田正も上野千鶴子も、京都大学から東京大学へ‥‥、といった例だけをあげるのは一面的ですかね。ぼくの近辺に限っても反例はいくらもあり、八木紀一郎は東大社会学から名古屋大学(平田清明)経由で京都大学経済学部へ、今は摂南大学学長ですか。(高校が一緒だった)松下和夫は東大・宇沢弘文ゼミでしたが、環境庁、国連などを経由して今は京都大学の地球環境学堂にいます。
ぼくの両親は知性でもなんでもないが、戦中に結婚して居を構えたのが大阪(したがって3月11日の大空襲で焼け出されました)、1950年代にふたたび大阪に出て、アイデンティティは半分大阪にあったのではないかと思われます。
『* * 史研究入門』はもちろん一日にして成らずですが、またその国のこと、そのテーマしか知らない人には出来ません。イギリス帝国史の人たちはあまりヨーロッパ史のことを知らないなぁ、と感じることもありました。『イギリス史研究入門』では、西川正雄さんの『ドイツ史研究入門』を意識していたことは明記しましたが、もう一つ、学生時代に出た田中正俊『近代中国研究入門』もそのパトスには圧倒的なものがありました。
最近の授業でときに言及する内田義彦、平田清明といった学者たちからの影響(言葉・概念・辞典を大切にしようという教訓)、そして学問的な遍歴もあって、ぼくの場合、「ただのイギリス史屋さんとは違う」という自意識を強くもっていました。それが1990年前後からいくつかの出版企画の成否に痕跡を残すことになりました。