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2018年11月8日木曜日

東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男

和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男』(ウェイツ ISBN 978-4-904979-27-3)という本が到来。

和田といえば、中学・高校・大学と一緒だった男だ。かっこいいヤツで、裕次郎どころじゃない、言ってしまえば、日本のアラン・ドロン。高校の世界史で「人権宣言」を習った直後には、兄貴に教わったに違いないが、フランス語で
Déclaration des droits de l'homme et du citoyen
と手書きしたシャツを着て校舎内を闊歩して注目されたりした。そもそも白や薄青じゃないデザインしたシャツを着用すること自体が問題だった! だが、60年代の高校は不思議なところで、彼がそのような格好をしたり、ぼくが体育の授業をずっとさぼって図書館にいたり、Kという男が、学校の授業は意味がないというだけの理由で年間100日以上出校しなくても、一言注意されるくらいで、学業成績さえ問題なければ、黙認されていたのだ。学業主義のもたらす自由!(Kのほうは、B. ラッセルのような数学者になるつもりで東大理Ⅰに入学。しかしまもなく佐世保、羽田、三里塚と駆け回る活動家になった。東大闘争では党派の指導部にいたから、あまり本郷に顔は出さなかったと思われる。)

和田は東大文Ⅰに入学してからも、やはりノンポリのアラン・ドロン風の生活を送っていたが、1968年(法学部3年)のある日から法闘委(全共闘)に加わり、翌69年1月19日に安田講堂内で逮捕され、起訴され、裁判で有罪判決をうけた。刑務所を出るとき、高倉健の出所のようにかっこよくはいかないな、と考えていたら、なんと「門の向こうに、黄色いハンカチを手にして、K子が立っていた」p.161 とまるで映画みたいな場面がいくつもあります。

本は2部に分かれ、第一部「安田講堂戦記」はぼくも知っていること、体験したことが少し、知らないことが沢山。「文スト実」と「法闘委」のちがいはあまりに大きい。
具体的には、またいつか分析的に述べますが、たとえば19日午後の安田講堂の中で、闘いも止み、いよいよ逮捕される直前に、法闘委のメンバー20名(と周辺の学生)には
「すぐに機動隊がきます。若い隊員は興奮しているでしょう。殴られたり蹴られたりするかもしれません。しかし、そのうち上級の隊員が来て収めます。それまで抵抗してはいけません。彼らは殺気だち、諸君はますますやられます。」
「逮捕されてから48時間以内に送検されますが、そこで釈放されることはないでしょう。検察官は必ず24時間以内に裁判官に勾留の請求をします。それから勾留裁判がありますが、そこでも釈放されないでしょう、裁判官は必ず10日間の勾留を決定します。そしてまた10日間延長するでしょう。身柄の拘束は全部で23日、それでも終わらないかもしれません‥‥」(pp.93-94)
といった正確なインストラクションが司法試験勉強中の学生からあったという。自分がどうなるか、予測がついて長期勾留されるのと、いったいどうなるのか霧の中、というのとは全然ちがいます。
その後の「司法制裁」の具体相と、警官や司法役人との出会いについても印象的な記述があります。和田本人については、司法側のかなりイージーな予断と誤認によって地裁で実刑判決をうけ、控訴審=高裁でも認定はそのまま本質的に継承され(地裁判決を否定することなく)、執行猶予を付けてケリとしたという。

第二部は、「丸山教授の遭難」と題して、例の1968年12月23日、法学部研究室封鎖のときの丸山眞男の言説をめぐる伝説の真偽、そしてこれが虚偽でなくとも不正確なことは明らかなのに、なぜ誤報が友人や弟子たちによって異議申したてられないままなのか、この不思議を分析します。
「‥‥「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」と言う丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。」(毎日新聞、翌日朝刊) ⇔ 他の新聞にはない記事! しかも、『毎日』は他のニュースソースから文章を流用したうえ、「ファシスト」を「ナチ」に変えてしまった(pp.203-209)。
吉本隆明によれば、「新聞の報道では‥‥丸山真男は‥‥〈君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎しみはしない、ただ軽蔑するだけだ〉といったことを口走った。」(『文芸』3月号) ⇔ 『毎日』と伝聞にのみ依拠した記述。

じつは当時から(ぼくの場合、毎日新聞か吉本か、どっちを読んだのか判然としないけれど)「ナチもしなかった」という表現に強い違和感がありました。ナチスは大学研究室の封鎖や狼藉にとどまらず、ユダヤ人や自由主義者を肉体的に殺害し、その出版物を焚書したのだから、そしてそのことは歴史をちょっと学んだ人なら誰でも周知の事実なのに、本当に丸山教授はそんなナイーヴな発言をしたのだろうか、そこまで激情にかられて(?)基本的な知識まで吹っ飛んでしまったのか、と。むしろ報道側が扇情的にフライイングをした、と考えるのが合理的、ということに、ぼくたちの間では落ちついたように記憶しています。

そうだとしたら、何故、丸山本人およびその友人や愛弟子たちが、『毎日』と吉本の可笑しな記事に異議を申し立てなかったのか、という疑問が残ります。そのあとの推論は、和田くんが分析しているとおり(pp.212-258)だったろうと思われます。

なおちなみに、丸山眞男は父が『毎日新聞』記者で、戦後もいろいろな機会に『朝日新聞』でなく『毎日』を優先して対応していた。学生内藤國夫を推薦した先も『毎日』だった。それが70年代からは変わって、(他に褒章のない[固辞していた?]丸山が)1985年に朝日賞は受賞した、というのも、この『毎日新聞』12月24日記事への憤りが影響しているのだろうか。知りたいところです。

この本は第一部も第二部も、法廷弁論を聞いているようで、明快な「力」があります。体験と文献史料の分析とがあいまって、読むに足る「メモランダム」ができました。元来 memorandum とは、記憶や覚書より以上に、(フォーマルではないが)記憶しておくべきこと、忘れてはいけないこと、という意味ですね。

ちなみに、先にも触れた 小杉亮子『東大闘争の語り』(新曜社)には、この和田くんは登場しません。

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