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2018年11月5日月曜日

真剣度

 こんなメールや電話が、年に一度くらい(?)の割で到来します。

 「突然ご連絡、大変申し訳ございません。
テレビ**の○○という番組を担当しております△△と申します。
私どもが放送する○○という番組の中に、□□を紹介させていただくコーナーがあります。本日は、‥‥ の雑学についていくつか取り上げるにあたり、いろいろ調べておりましたところ、イギリスを中心に、‥‥という記事を見かけました。
つきましては、この記事内容について詳しいことを近世イギリス史を専攻されている先生に直接お話を伺えればと思っております。
まだ、企画の段階で、‥‥大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。」

 どこでどう間違えたか、インターネット検索でぼくの名が引っかかったので、慇懃無礼な挨拶文をしたためて、立正大学のアドレスあてに出してみたわけでしょうね。
「いろいろ調べて、‥‥という記事を見かけました」
といっても、その記事がどこのどういう記事か特定することのないままでは、この人がどの程度の「リサーチ」をしたうえで問い合わせてきたのか、「検索サーチ」で一発ヒットしただけか、要するに「真剣度」が伝わってきません。そのうえ、こちらは「トリビア」に関心がありません。「お相手できません」とご返事する以前的な、そのまま無視、という対応しかできません。ついでにテレビ局って、こんなにも無意味なことを取材、放映して利益を上げてるの! とビックリします。

 こういったことがあると想い出すのは、世間もバブリーで、出版界も学生たちも、いささか浮いていた1990年前後のことです。東大のある女子学生が進学したばかりで「‥‥本で読んだんですけど」と問いかけてきたので、「なんていう本? 著者は?」と聞くと、彼女は答えられなかったのです。かわいくて知的な家庭の出身で幸せそうな様子、大学院を志望していたようですが、読んだ「本」を特定できないのでは話になりません。ぼくとの会話はそれで途切れました。
 2年後、その子は語学ができたので大学院に合格したけれど、数ヶ月もしないうちに授業に出てこなくなっちゃった。指導教授が(ぼくではありません!)張り切って関連文献の実物を見せながら指導していた場面に、たまたま居合わせたことがありました。
 複数の情報を特定しながら、そのズレにこだわり、相互の違いから、事実の割れ目にテコを差し込んで、新しい発見に迫る。その出発点は「疑問」「違和感」です。そこに問うに足る問題がある、と直観するからこそ、力業(ちからわざ)を続けることができる。

 むかしこのことを、黒田寛一は「否定的直観」と呼びました。ノーベル賞の本庶佑さんは「教科書を疑うことから始まる」とおっしゃっています。そうした直観、疑問を特定し(分析し)、考察を継続する(リサーチする)ためには、それだけの情熱が必要です。テレビのディレクターに、そしてただかっこいい職業として大学教員を志望していた女の子に(男の子も同様に)、それだけの「真剣度」はなかったな。張り切っていた指導教授はひどくガッカリして、端で見ていても気の毒なくらいでした。

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