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2018年12月11日火曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 3


I'さん「‥‥各国史に軸足を置きつつ、つまり自分の研究地域の事をいつも想起しながら、近世ヨーロッパの一体的な歴史展開を考えるようになっている。真に議論すべき論点は何かを簡潔に提示するというのは『イギリス史10講』と同様の姿勢であると思いますが、規模がヨーロッパと広くなったことで、『10講』よりもいっそうシャープに著者の問題意識が表明されることになったのではないか。」

¶ ご指摘のとおりです。ぼくにとってイギリス史は派生的・副次的なもので、(高校時代はもっぱらドイツ・オーストリア音楽でしたし)本郷進学時にはドイツ史ないしドイツ語圏と北イタリアあたりの都市史をやろうかと考えていたのですから、今回のような範囲で論述できるのは、故郷に帰ってきたような気分!
イングランド史およびフランス史をヨーロッパ史のなかで相対化しつつ議論できるのは喜びでした。【ですから Brexit は狂気の沙汰と考えています!】
もちろん『イギリス史10講』のために先史から(!)十分に勉強したこと、そして近年の「礫岩」や「コスモポリタニズム」や「主権」、そして「ジャコバン」をめぐる科研の共同研究から学習したことは無限にあり、ここに生きています。【このジャコバン科研でなにを問うているか、5月の西洋史学会大会@静岡の小シンポジウムでご報告します。】

I'さん「‥‥私自身がこれから考えて行かなければならないのは、「それでは、近世の主権国家と近現代の国民国家とはどう違うのか」(p.50)という問いであると感じています。
[中略]ある意味で停滞した伝統社会を描いてしまうという問題、これを克服するためには、本書(p.52)が16世紀後半のポリティーク派や神授王権について行ったように、私の時代と文脈において、すなわち当時のグローバル化された社会・経済・思想文化において再検討する必要があるのだと感じます。現地行政官が抱く「混乱(無秩序)の恐れから生まれた徳と国家理性、公共性と主権の考え‥‥」、とても重要なフレーズだと思います。本書が示唆する方法論を意識しつつ(それは C.A.ベイリーが、そして B.ヒルトンが共有した研究視角と思われます)、自分の研究を振り返ってみようと思います。」

¶ このあたり(p.50~)については、別の分野のK'先生も似たことを記してくださり、「‥‥50~53頁の主権にかかわる記述はインパクトのある、とてもいい内容だと感じました。」
その上で、「ついでですが、18世紀の啓蒙思想家たちは、共和政をパトリ(patrie)と重ねて論じており、またこの時期には国王への忠誠か、それともパトリへの忠誠かが議論となっています。近世におけるパトリ観念はもっと論じられていいテーマだと思います。この問題は二宮さんの1969年論文(『二宮宏之著作集』4、370~372頁)にも少し出てきます。」
と書き添えてくださった。パトリは中東欧史とアメリカ史の専売特許じゃありませんよ、ということですね。【ちなみに『フランス アンシァン・レジーム論』(2007)ですと、pp.40-42. パトリには「祖国」「愛国」等の訳語があてられていますが。】

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