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2010年8月10日火曜日

その3:ピューリタン史観?


 イングランド南東部は、ピューリタンの強かった地域でもあり、だからこそクロムウェルもケインブリッジ大学の学生だったのですが、ピューリタン革命の痕跡は、写真のような「偶像破壊」にも残っています。 cf. Walter, Understanding popular violence in the English revolution (CUP, 1999).
日本の高校世界史におけるピューリタン史観(プロテスタント原理主義によるカトリックに対する偏見)がいかに一面的だったか、反省させられます。矢内原忠雄・大塚久雄といった「人格高潔な」先生方の世界観を、いつまでも崇め奉り、護持すべきか、ということでもあります。

 なお、イングランド・プロテスタンティズムの拠点だったケインブリッジ大学の真ん中に位置するキングズ学寮チャペルは、現ブログの看板、および7月25日登載の写真のとおり。この華美にして popish な臭いのするステンドグラスを破壊すべく勢い込んでやってきたピューリタン兵士たちが、実際にチャペルに入ってその美しさに圧倒されて、これに手をかけることを止めた、という逸話が残っています。

 王制復古期の宗教政策について、戦後史学(代表は浜林正夫さん)では反動的で陰謀的な性格が論じられていました。それで良かったのでしょうか。むしろ同時代人の感覚からは、「あのピューリタンの時代に戻るのは、かなわない」という、それなりの合理性と中道性があって、支持される政策だったのではないでしょうか。Hudibras の物語 が熱烈に迎えられた時代です。
 1685年から急速にルイ14世にたいする警戒の念が強まる、というダイナミックスも忘れたくない。このナント王令後30年間のヨーロッパ情勢が、以後長期にわたってすべてを規定する祖型なのか、それとも1700年をはさむ±15年、すなわち1世代だけの問題だったのか。「太陽王」の時代の研究者はきちんと考えて明らかにしておくべき点でしょう。
 ぼくの答えは、限定的です。すなわち、ヨーロッパ啓蒙の res publica を強調し、したがって(途中は省きますが)E・P・トムスンの parochialism を批判する立場です。今ケインブリッジでやってる仕事は、根本的なEPT批判です。

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