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2012年12月27日木曜日

いったい何やってんだ

Oさん、
今いったい何やってんだ!? と不審に思われているかもしれません。

1) 日英歴史家会議(AJC)の事後処理と proceedings 編集刊行、

2) 70年代現象としての社会運動史(『社会運動史』と戦後歴史学)、

3) 本国サラサはどこから来たか(本国更紗とイギリス資本主義)
  → 1月の科研合宿報告 → 『立正史学』)、

4) 礫岩国家と普遍君主(the world is not enough)
  → 日本西洋史学会大会の小シンポジウム(2013年5月12日@京都大学)、

5) その他、校務のたぐい、

というわけで、まるで schizo、同一性障害そのものではないか、と。

いえ、じつは、立正の講義もふくめて すべて 『イギリス史10講』(岩波新書)と関連し、その裏付けだったり、その執筆中に自己展開し始めたテーマだったり。

『10講』とは、即、柴田・二宮・遅塚史学から学びつつ、そこから脱皮する過程でもありました。一方の「従属論」(世界システム論)、他方の「修正主義」(contingency論) から学び、自分の道を探しあてる長い道のりでした。

1997年夏の企画会議から16年くらいかかっても、しごく当然と言いたいところ。なぜって、「最高のワイン」論ですので‥‥

2012年12月24日月曜日

「水田賞」公募、延長



 世の中で小さいお子さんやお孫さんをお持ちの家庭では、今晩から明朝にかけて、「秘密保持」に気をつかうことでしょう。ぼくは39歳の娘から、「保育園でサンタのおじさんの目がパパだった」ときの幻滅を、すでに大人になってから何度も何度も語られました。ぼくとしては西新井保育園の園長さんに頼まれて、それでは、と善意でかって出たんですがね。

さらにケインブリッジで生活していた小1から小3のころには、市内のあるお店の包装紙が、25日朝のサンタの贈物の包装に使われているので、「これはおかしい」と考えたとのこと。なるほど配慮不足でした。

ところで、サンタならぬ水田洋さんから、顔を見せてのギフトです。

第1回「名古屋大学水田賞」授賞候補者の募集について
→ http://www.respo.provost.nagoya-u.ac.jp/jyuuyou/2012-10-17-01-29-46_ja.html

1.趣旨
 水田洋 名古屋大学名誉教授からのご寄附の意志に基づき、人文・社会科学(思想史)の分野で将来の発展が期待できる優れた研究能力を有する若手研究者を顕彰し、その研究意欲を高め、研究の発展を支援します。

2.対象分野
 人文・社会科学(思想史)の分野

3.授賞
 授賞数は1件とし、受賞者には賞状及び副賞として50万円を贈呈します。

4.対象者
 日本国内の若手研究者で人文・社会科学(思想史)の分野において、一定の成果を上げた研究者のうち、平成24年4月1日現在以下の条件を満たす者とします。
 1) 40歳以下であること [以下略]

→ [応募者が十分には多くないのでしょうか、] 〆切を延長して、1月18日必着と改めたようです。30代の皆さん、どうぞ運試しを!
別に名古屋大学関係者である必要はなさそう。
でも明らかに、西洋思想史、とくにホッブズからスミスからミルの前後左右、そして啓蒙あたりをやっている人が有利でしょうね‥‥。ぼくが若かったら、断然、応募して有力候補になるな。いまや Hobbesian problem of order を柱に執筆中だから!

2012年12月21日金曜日

桜井由躬雄さん


 今夕、本郷の集まりに参加して、飛びこんできたのは桜井さんが急死なさった報。驚きました。つい11月1日(木)には、「文化交流研究懇談会」で並んですわっていたのですから。「一時調子悪かったんだが、いや今は元気だ、飛び回っている」とのこと。全然変わらない、という印象を受けたばかりだったので。

 由躬雄さんの記憶の最初は、1968-9年のある夜です。こちらは法文2号館1階、西洋史の研究室に寝泊まりしていたのだが、廊下の向こうの東洋史からずいぶん距離があるのに一人の声が大きくて、いつまでもうるさい、眠れない。翌日聞くと、院生(人文闘争委)の桜井という人の声だというので、認識しました。昼間も声が大きかった。西洋史では岡本さんと同学年でしょうか。いやその一つ上か。白にオレンジのテープを貼ったヘルメットをかぶっておられました。
 ぼくは3学年下で、学部の3年生でした。

 ずうっと後になって、桜井さんが京都の東南アジア研究センターで活躍しておられると耳にしました。さらに後になって東大文学部の助教授に迎えられましたが、ある夜、図書館の脇でたいへんな美女と腕を組んで歩いておられるのを目撃してしまったときは、困りました。しかも悪びれることなく、近づいてこられて「女房です」とおっしゃったので、驚愕しました(ご免なさい)。

 そのころ丸ノ内線の電車内で、ぼくは遅塚さんと一緒にいたのだが、桜井さんが近づいてきて、「先生とぼくの名前、躬の字が同じです」と。遅塚さんも上機嫌で「そうですなぁ」と、楽しそうな話が始まった。ひとと知り合うきっかけを作るのがお上手だと思いました。

 さらにいろんなことがありましたが、それは全部飛ばして‥‥、何年もたった春の夜、赤門脇・経済学部棟の一番上の階に確保なさった広い桜井「主任教授室」で、岸本さん、石井さん、吉澤さんと一緒に「東大最後の夜」を遅くまで過ごしました。結局、その夜は、みんな帰りの電車は無くなって、徒歩で帰れる方々はいいけれど、遠い人は本郷の各部屋に泊まったり、ぼくの場合は大枚をはたいてタクシーで帰宅しましたね。
 すでに5年半前の3月末でしたか。なんと速く時はすぎるのか!

 ご冥福を祈ります。

2012年12月17日月曜日

安倍政権という展開!


 総選挙の結果ですが、民主党の失政、小選挙区制、小党乱立、東アジア情勢、いつまでも続く不景気、などなどの複合的な結果(contingency)だろうと思います。投票率が低かった、ということも自民・公明には有利に働いた。一言でいうと「自民党と公明党の地滑り的な勝利」ですが、鳩山由紀夫以来の民主党政権のあまりの無責任さ・稚拙さが、こういう形で懲罰された、といえます。
 ぼく個人としては、現在の日本政治は政界再編の途上(移行期)と考えていますので、その芽が育っているのかどうか、に注目したい。そうした点から憂慮すべきことが3点あります。

a. なにより安倍晋三政権の内向き右翼の言動は、もし今回の「圧勝」で増長するなら、日本国を奈落の底に突き落とすでしょう。
 父・安倍晋太郎(もと外相)の御曹司とはにわかに信じられないほど、国際センスも政治センスもない。政治的無能(とマスコミの甘さ)という点では、左右正反対だけれど、民主党圧勝後の鳩山政権と似ている。
 首相の靖国参拝によって‥‥途中は省略しますが‥‥日本経済は大きく傷つき、これまで誠意ある日本人が築きあげてきた国際的信頼は失墜します。新政権は景気浮揚・公共投資といった言を弄していますが、それらもすべて靖国によって国際的には無に帰するでしょう。

【ぼくは、二世議員だからダメなどと、ナイーヴなことは言いません。ほんの数年前には福田康夫、麻生太郎と、二世ではるかにましな首相がいましたが、日本のマスコミは、こういった知的な政治家を嫌う傾向があります。ピットもピールもグラッドストンも二世議員でした。】

b. 石原慎太郎。こちらもゴーマンで品格のない言辞で「庶民」・おじさん・おばさんを引きつけてきました。ハッタリで大衆を掌握する二流文筆家=政治家という点では、ほとんど19世紀のディズレーリに似ています。【ちなみにディズレーリも二世議員!】

【安倍、石原のご両人とも、日本国民なら御霊を祀る靖国に参拝するのは当然しごく、という立場らしい。「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」を祀る所なのだから、というでしょう。
しかし、カマトトでなければご存じでしょうが、靖国神社とは東条英機を祀り、西郷隆盛を打ち棄てる神社です。1978年の東郷合祀以来、昭和天皇も今上天皇も参拝していないことは、みなさんご存じのとおり。 両陛下のほうが、安倍・石原よりはるかに聡明で、筋を通しておられます。】

c. 低投票率。想定外の好天ゆえに、投票率が低く、マスコミが(おもしろ半分に)期待した第3極は伸びず、堅実に票固めをしていた自民・公明が漁夫の利を得た。
 これは有権者大衆の責任です。国民がもし目先のことに(ニワトリの条件反射のように)反応するだけで、自分と社会の来し方行く末を考え、政治的な意思表示をしないとしたら、将来は身から出たサビ。ぶつぶつ不平不満を述べる資格さえないでしょう。愚かな国民には愚かな政治がふさわしい。

 ポピュリズムとは別のところで、真剣に、立ち入って議論すべきは、長期的な社会経済政策であり、この国のかたちだと思います。歴史学の出番かもしれない。

2012年12月9日日曜日

真珠湾攻撃


8日朝の『日本経済新聞』で、西洋史出身の郷原記者と、文書館担当の松岡編集委員の共同記事を見ました。
「大使館怠り説 覆す? 新事実」↓
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO49302190X01C12A2BC8001/

これは時宜をえた記事です。郷原くんの健在もうれしい。専門家の間では特筆すべきほどの発見じゃないのかも知れないが、国民周知の事実ではないのだから、この愚劣の歴史を、マスコミはもっと繰りかえし報じるべきです。
最後に渡辺昭夫・東大名誉教授が述べるように、この発見があってもなくても、12月8日(US時間で7日)のパールハーバが宣戦布告なき奇襲攻撃であることは、紛れもない事実。

それにしても、軍部だけでなく外務省も共謀して、攻撃を開始する時刻よりあとに通告するように計ったという。無能な役人が暗号解読・翻訳に時間がかかって、あるいは不在で遅れてしまった、というのではない、故意の遅滞のために、わたしたち子々孫々にいたるまで、事あるたびに恥じなければならない。「それ以外に勝つ手段がなかったから‥‥」?

とんでもない。
戦争とは国際的な力のゲームなのだ。「はっけよい」と手をつく前に突っかかっては相撲にならないのと同じ。国際法のルールを、はたして将兵は周知していたのだろうか。一方の「生きて虜囚の辱めを受けず」と同様に、ガラパゴス列島の中だけで通用する発想と倫理でやっていたわけだ‥‥。

しかも、じつはすべての交信がアメリカに傍受され、解読され、文書館に保存されていたのだから、(日本の外務省は発信記録をなぜか紛失した - 東京裁判のため?)なんと虚しい‥‥。

戦後はその反動で、全国民が戦争を呪い忘れれば、即、平和主義であるかのようなフィクション、じつはアメリカの核の傘の下に守られてこそ通用する、ほとんどママゴト民主主義でやってきた。
のろわしい記録の紛失 ⇔ 記憶の喪失。

がっかりしてしまう。

2012年12月8日土曜日

夕闇の地震


>授業後、地震があったようです。
>11F にいらして、大事ありませんでしたでしょうか。

という問い合わせをいただきました。ありがとう。いやはや高層の研究棟は大変に揺れて、書棚にしっかり置いてなかった雑誌は何冊も落下しました。

揺れはきわめて長くつづき、卒論面談中でしたが、ドアを開けて、廊下をはさんで向かいの部屋で演習中の Nゼミと一緒に 恐怖を共有しました。ただし、「311の揺れはこんなもんじゃなかった」という発言と、急遽、だれかがワンセグで見聞きしたNHKニュースで「宮城で震度5弱」、「東海道新幹線は運転見合わせ」(在来線は通常どおり)というので、安心した次第です。

と、呑気なことを記していますが、宮城など震源近くの方々は夕闇の中でおちおちできなかったでしょう。お見舞い申しあげます。