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2022年12月15日木曜日
冬の星空
ちょうど(夜の12時以前ですと)東から南東にかけて「冬の大三角」が望める時期です。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2021/12/blog-post.html (去年も書きました)
しかも今は夜空で一番明るく赤い火星(Mars)が、「大三角」とオリオン座の上方で惑い往来しています。https://www.astroarts.co.jp/special/2022mars/index-j.shtml
ちなみに惑星について『歴史とは何か 新版』p.170 が言及したのは、歴史における偶発性、不運、無知を論じる文脈でした。
2022年12月14日水曜日
チャールズ3世の即位と立憲君主制
エリザベス二世の国葬儀の朝(9月19日)に『朝日新聞』に載った「二人のエリザベス」を見た編集者が依頼してきたものですから、おお急ぎで、研究者にとっては既知のことを述べたにすぎません: pp.133-142.しかし、一般には常識・通念にはなっていない大事なこと、共有すべき知識というのは、少なくない。
エリザベス二世の死、チャールズ新王の即位(5月に戴冠式)という代替わりに、国のかたち、権力のしくみが明示的に集約的に現れます。それは日本における1989年、2019年にも同様でした。歴史学や国家学の研究者を刺激してくれる良い機会です。
ちょうど個人的にも『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)、「天皇像の歴史を考える:コメント」『史学雑誌』、『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店)といった共同研究の成果をふまえて、十分に述べることができたと思います。いわゆるアウトリーチです。 → https://websekai.iwanami.co.jp/
なお『世界』のこの号は、特集ではなくても加藤陽子さん、橋本伸也さん、藤原帰一さんなどなど、関係しないではない記事がいくつもあり、楽しめます。「アメリカの憂鬱」という up-to-date な特集もあります。
2022年12月2日金曜日
毎日新聞 夕刊〈特集ワイド〉
個人的には、先月に毎日新聞社であった取材をもとに、今日の夕刊に〈特集ワイド〉の記事が載っています。オンラインと紙媒体の記事の異同は、まだ確認していません。引用されている発言はぼくのものですが、それをもとにあくまで福田記者が構成した文章です。
予想していたよりもぼくの顔写真が大きいのと、タイトル「この国はどこへ これだけは言いたい 歴史を顧みる姿勢大事 E・H・カー新訳 近藤和彦さん 75歳」には、ビックリしました。老人が世の中から消えてゆく前に「これだけは言っておかねば‥‥」と遺言しているかのような雰囲気?
でも(家人に、ぼくの顔ってこんなもんだ、と言われて)もう一度落ち着いて読み直すと、まぁたしかにカー先生や『歴史とは何か 新版』のことばかりでなく、こんな話もしたな、ということを、有能な記者さんが上手に誘導して上手にまとめてくれているのかもしれない。
→ https://mainichi.jp/articles/20221202/dde/012/040/005000c
皆さんが読むと、どう受けとめられるのでしょうか。
2022年11月27日日曜日
Great outline & significant detail
『図書』に連載しています列伝「『歴史とは何か』の人びと」の第4回(12月号)は「アイデンティティを渇望したネイミア」というタイトルです。ルイス・ネイミアについては、むかし『英国をみる - 歴史と社会』(リブロポート、1991)で「ネイミアの生涯と歴史学 - デラシネのイギリス史」という小文を書きましたが、今はE・H・カーおよび20世紀前半の知識人の世界でネイミアという人物をとらえなおそうとしています。
一方では「ユダヤ人でありながらユダヤ教徒でなく、ポーランド生まれでありながらポーランド人でなく、地主でありながら土地を相続せず、結婚しながら妻は不在」とされる不幸なネイミアですが、他方でカーは、かれこそ「第一次世界大戦後の学問の世界に登場した最大のイギリス人歴史家」という賛辞をささげます(『歴史とは何か 新版』p.55)。この不思議な「‥‥粗野で態度が大きく‥‥2時間でも自説を弁じ続け」る男の学問は、カーの緻密な実証主義の手本でもあったわけです - この点は溪内謙さんも十分な理解は及ばなかったかな? またネイミアはアーノルド・トインビーともA・J・P・テイラとも(ひとときは)親しく交わった。そして、むしろ彼の死後に勢いをもつ修正史学の先鞭をつけたようなところがあります。
学問とはすべて本質的には(アリストテレス以来の定説の)修正であり、長い註だ、という観点に立つと、ネイミアはまさしくそうした revisionism という学問の王道を行った人ということになります。だからこそ(一見正反対にみえる)E・P・トムスンも、あのリンダ・コリも、ネイミアの名言:「歴史学で大事なのは、大きな輪郭と意味ある細部だ」には脱帽するしかないわけですね。
これは、オクスフォード・ベイリオル学寮で、トインビーとの座談のうちに出てきたセンテンスらしいですが。
‥‥ある樹木が何であるか調べるのに、枝が何本あって何メートルあるか計測してみても何にもならない。樹影全体の形を見きわめ、樹皮を見、葉脈の形状を調べるべきなのである。それをしないまま泥沼のようなどうでもいい叙述にはまることだけは、避けなければならない。
秋の快晴の空を背景に屹立するみごとな欅を見上げつつ、想い出しました。(枝も葉もなんとなく右に傾いているのは、右が南だから‥‥)
2022年11月5日土曜日
大きな問いを取り戻す
第1に、「大きな問いを取り戻す」なんて、当たり前でしょ、ということ。レンガをいくら集めても建物(家屋)にはならない。レンガの集積より以上のことをしなければ家は建たない、というのはE・H・カーもアーノルド・トインビーも言っていたことです。
たとえば、『歴史とは何か 新版』p.18 では「‥‥微に入り細をうがつ専門研究が、ますます小さなことについてますます膨大な知識をもつ歴史家候補生たちによって、巨大な山のように積みあげられ、事実の大海に跡形もなく沈んでいます。」
同じく pp.11, 276 では「大工の棟梁」architect、そのわざ architectonic という語を用いて、学問的構想力の必要を論じていました。
また、ぼくたちの先生の世代からは、若い院生のゼミ報告のあと、まず最初に「そんな(チャチな)ことをやっていて、どこがおもしろいんだ?」といった対質を受けるケースを、しばしば見てきました。つまり、戦中戦後を知っている学者たちの強い問題意識/意志が若い世代に共有されなくなった1970年前後からの、長い齟齬の時代。その齟齬が、ハードアカデミズムや journal-driven researches という形でバイパスされているとしたら、空虚な時代ですね。
第2には、そもそも京都大学学術出版会の誕生にかかわる、八木俊樹さんを想い出すからです。京都大学学術出版会の本を手にした人は、なぜこの publisher は「京都大学出版会」でなく、わざわざ「学術」と名乗っているか、ご存知ですか?
すでに1970年代には京都大学を中心に University Press を立ち上げようという話は動いていて、さまざまの交渉が交錯したようですが、そのなかに(当時まだ社会思想社にいた)八木俊樹さんがいました。そしてこの社会思想社と八木さんは、他ならぬ「社会運動史研究会」にも関与していたので、ぼくたちも東京で、京都で、八木さんの人柄に触れる機会があったわけです。『歴史として、記憶として:「社会運動史」1970~1985』(御茶の水書房、2013)の巻末索引および略年表;そして彼の遺著『逆説の對位法(ディアレクティーク) 八木俊樹全文集』(2003)を参照してください。
「社会運動史研究会」が1970年代のもろもろの尖鋭性と発達不全の限界を持ちあわせていたことは、『歴史として、記憶として』からも容易にうかがえると思います。そのなかで八木さんは、研究者のチンマリした「小業績」には関心なし、でした。こわい御意見番でした。
2022年11月4日金曜日
西洋史学の出版の今とこれから
個人的経験として、一著者が幸運にも有能な編集者・出版人と知りあって、一緒に仕事する過程でいろいろな助言を得て、学習し、ゆっくり育つということはあったでしょう。【ヴェテラン編集者の場合は、逆方向のヤリトリで学習をくりかえしつつ、逞しく育つのでしょう。】しかし、今回のように4種の出版について、それぞれ編集者=著者間の良き友情もうかがわせつつ、経験と教訓が公共的に語られたのは稀有なことです。若い研究者には未知の世界を垣間見た思いでしょう。
感動のあまり、一人の胸に収めることあたわず、以下、順不同で感想を述べます。
・佐藤公美さんは(他の問題とともに)何語で書くかという論点を呈示され、これはまじめな外国史研究者の悩んできた問題です。もうすこし(別の機会にでも?)語り合い、深めるべきかと思いました。
また専門論文は、著書という形でなくとも、専門誌や論集への寄稿という形での publication があるわけで - そのほうが読まれる機会も相対的に多かったりして -、ガチの専門書出版は、助成金なしには難しいですね。とはいえ、佐藤さんの報告は多岐にわたりましたが、「文体」の指摘も含めて、もっとも深く考えられた感動的なものでした。心ゆさぶるものがありました。
・白水社の糟屋さんが、出版サイドの判断として、厚い本だからといって困るとは限らない、むしろ薄くて苦労することもある、とは眼から鱗でした! コスト計算が合理的に成り立ち、内実のともなう本でさえあれば、良心的な出版社は OK してくれるのですね。内実しだいというのは、心強い。
・金澤周作さんも言われたとおり、一般学生(あるいは積極的な高校生)にとって新書は学問(考えること)への良き道案内です。岩波書店の飯田さんの巧みな表現によれば「観光案内」なのですから、ぜひ実力ある執筆者にはまじめに/本気で取り組んでほしいと思います。じつは一般学生や読者だけでなく、他分野の専門家にとっても、岩波新書は最初に頼れる導師、信頼できる博識な「観光ガイド」なのです。
ただし、たとえば柴田三千雄は中公新書と岩波新書を書いたけれど、二宮宏之は書かなかったというように、向き不向き/ときどきの巡り合わせはあるでしょう。それにまた、新書ばかり量産している方は、あまり近くに居てほしい人ではありません‥‥。
ポイントはむしろ新書かどうかよりも、低価格の(今日では2000円未満くらい?)、しかも目に止まりやすい出版が、ひろく知的に飢えた若者向けに必要なのだと思います。小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいウクライナのこと』の場合は、迅速な公刊という点でも、特別な賞賛と推奨に値する出版でした。
・井上浩一さんと江川温さんのやりとりから展開して、討論されたとおり、翻訳および新書の苦労と成果についても、しっかり踏みこんだ、批判的な書評がぜひ必要というのは、大賛成です。
・最後の松本涼さんがアウトリーチ、「協働」について具体例を紹介してくれました。ぼくにはちょっと別世界の感がありますが、それぞれの世代、それぞれの感性にたいするアプローチは必要でしょうね。ただしぼく自身が関われるのは、せいぜいブログまでです!
感激のあまりの、妄言多謝です!
2022年9月18日日曜日
エリザベス女王からチャールズ王へ
https://digital.asahi.com/articles/ASQ9J6581Q9HUCVL044.html
で拙稿が公開されました。印刷版では、女王の葬儀(文字どおりの国葬です)の19日(月)朝刊に載るはずのものですが、ウェブでは半日早く公開されるのですね。
他の識者・先生方とはちょっとちがう議論をしています。『イギリス史10講』も『歴史とは何か 新版』も『王のいる共和政 ジャコバン再考』も著している者として、短いスペースながら言うべきことは言いました。
ウェブですとカラー写真で、かつ「紙媒体では所定のスペースから溢れ出てしまい、ボツになったチャリティ法についてのパラグラフ」が甦りました! ここにこそ、ウェブ版のメリットあり、ということですが、しかし、これでは紙離れ、ウェブ志向が、ますます進行してしまいます! ちょっと心配。
『歴史とは何か』の人びと(1)
『歴史とは何か 新版』に関連して、月刊の『図書』に連載を始めました。 「『歴史とは何か』の人びと」第1回は「トリニティ学寮のE・H・カー」です。9月号(通巻885号)、こんな具合で、毎回計6ぺージです。↓
紙幅もあり、あまり立ち入っては書けませんが、それでも『歴史とは何か 新版』の訳註や補註には書ききれない、それなりに意味あることを述べてゆきたいと目論んでいます。岩波書店の『図書』誌は、『みすず』や『未来』、そして今は消えてしまった『創文』とならんで、むかしは大学生協書籍部に、自由に持っていってくださいって具合に置いてありました。定期購入する場合も、たしか1部10円、年間100円といった「第三種郵便」の郵料だけ負担で、「安い!」と感動したものでした。今も、見てみると定価102円、1年分まとめて購入すると1000円(送料共)ですから、やはり安いと言えますね。
大学図書館、公共図書館にもかならず置いています。
いま気付きましたが、岩波書店の WEBマガジン「たねをまく」にこの第1回の全文が載っています。こちらにはハイパーリンクも張ってあるので、便利! → https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/6074
2022年9月17日土曜日
9月25日 『歴史とは何か』を再読する
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2022/08/wine911.html
多数の皆さんの参加をえて、なにより池田喜郎さんのコメントが力強く、司会=中澤さんのリードとあいまって印象的でした。
ロシア文学・ソ連研究の方面から、ぼくには言えない評言があるだろう、とは予測していましたが、それ以上に(遅塚忠躬に先行する)1940年、53年の林健太郎による仕事の評価があって、これには脱帽です。
さて、これとは全然別に企画された催しとして、史学会例会「E・H・カー『歴史とは何か』を再読する」があります。
案内は、こちら → http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
9月25日(日)午後2:30~、ハイブリッド式で実施とのこと。
司会 勝田俊輔
報告
1.成田龍一(日本女子大学名誉教授)
2.加藤陽子(東京大学)
3.小山哲 (京都大学)
4.吉澤誠一郎(東京大学)
レスポンデント 近藤和彦(東京大学名誉教授)
11日WINEの催しではぼくのほうから語り出すことができましたが、25日はむしろ「俎上の鯉」で、こちらは身を清めて臨むしかありません。
無料で公開ですが、事前申込制(9月20日受付締め切り)です。
申込フォームは、こちら → https://forms.gle/Adc9VFAWf1EeBReT8
2022年9月9日金曜日
The Queen is dead
ヨーロッパの君主として例のとおり、間髪を入れず、
The Queen is dead. Long live the King!
と宣告されたのでしょう。
新王「チャールズ3世」とは、ジャコバイトの呪われた歴史がありますが‥‥
イギリス史をやっていますから、いろいろと考えます。
今の時点では、立憲君主制あるいは「国のかたち」について、どこかに書いてみたいという気持になっています。
かつて書いたもののうち、映画「クイーン」(2006)評、また中澤編『王のいる共和政』(岩波書店, 2022)にも関係します。
2022年9月8日木曜日
トラス ではなく トラス
逆に大学時代の労働党 → 自由民主党から保守党へと鞍替えし、EU堅持派から離脱派へと転換した(ようするに時流に乗るポピュリスト)flaky Liz(ハスっぱリズ)のトラスは、議員投票では2位止まりだったのに、一般党員の支持を集めました。理屈や合理性を問わない、したがって政策的有効性もわからない即効性のスローガンで勝利する、ジョンスン前首相と同じ手法です。
- Liz Truss の発音ですがトラスでなく、信頼の trust から t の足りないまま s を重ねた Truss ですからトラスです。Trustworthy ではなく、Truss unworthy です。
ちなみにトラスのことを日本のマスコミは「サッチャ元首相を尊敬し「鉄の女2.0」とも呼ばれる」などと一知半解のことを言っています。これは2重の意味で失礼な話です。第1に Iron Lady は「鉄の女」ではなく「鉄の淑女」です。ゴルバチョフが名付けたと言われますが、「女」と見下しているのでなく「レイディ」と一定の敬意を表していました。
第2にサッチャは父も夫も保守党員で、父にも夫にも愛され、メソディスト(カトリック嫌い)で、ハイエク、フリードマンを勉強した筋金入りの Conservative & Unionist でした。トラスははるかに浮気で、上に書いたように党を左から右へ渡ったポピュリストであるばかりでなく、夫婦関係についてもサッチャ夫妻とは大違いです。
いずれにしても Brexit の撤回、ヨーロッパ統合への(ベネルックス主導でない)イニシアティヴの回復がないと、連合王国(UK)の将来は暗い。北アイルランドの通商問題は全然解決していません。スコットランドの分離独立も行程表に上ってくるでしょう。しかも、たとえ次の総選挙で労働党政権になったとしてもEUへの復帰に舵を切れるかどうか。<左のグラフは『日経』より引用>
このままでは、われわれが知っている(幕末明治以来の)「英国」は、あと10年くらいのうちに解体してしまう運命でしょうか。イングランド人は、小さく「寄り添い、互いに平明な日常英語で語りあいつつ、「外の諸国や諸大陸はおかしな言動をするものだから、わが文明の恵みからも運からも孤立してしまったのだ」とかつぶやいているのです。」カー『歴史とは何か 新版』p.255 - これが61年前の連続講演の終わりに近い一句だとは、にわかに信じがたいほど、今に当てはまります。
2022年9月1日木曜日
池袋のジュンク堂
4階にはジュンク堂開店25周年特別企画として「人文学入門の手引」による展示があり、
それぞれ、なかなかの壮観です。
『歴史とは何か 新版』にともなう岩波書店の「特製ブックガイド」23点について、前にこのブログで触れました。 →https://kondohistorian.blogspot.com/2022/08/blog-post.html
「人文学入門の手引」は、7月にジュンク堂からの委嘱があり「歴史学」というジャンルについて5点を推薦ということで、こんな原稿を用意したのでした。
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人文書5冊(歴史学)
1.『翻訳語成立事情』 柳父 章 (岩波新書、1982)
高校3年生や大学1年生が最初に読むべき本。言葉は歴史的に生まれ、使われてきた。「自由」も「社会」も「個人」も「愛」も「彼・彼女」も幕末・明治の東西交流から生まれた。
2.『社会認識の歩み』 内田義彦 (岩波新書、1971)
社会を歴史的に考えるキミのために。マキアヴェリは運の女神は前からつかまえるしかないと主体性をうながし、ホッブズは国家を論じる前に人の感情に立ち入って考える。
3.『歴史学入門 新版』 福井憲彦 (岩波書店、2019)
歴史学をはじめとする学問は20世紀に大きく転換した。今どのような景色になっているか、本書はバランスよく指南してくれる。このあと何を読むと良いか、文献案内もたっぷり。
4.『全体を見る眼と歴史家たち』 二宮宏之 (平凡社ライブラリー、1995)
フランスで生まれ展開したアナール学派。パリで彼らと一緒に史料調査し、議論した二宮による自分ごととしての歴史学。この語りにあなたの心が動かないなら、歴史学はあきらめよう。
5.『歴史とは何か 新版』 E・H・カー 近藤和彦訳(岩波書店、2022)
名著の新訳・註釈付き。「歴史とは現在と過去の対話」、そして「すべての歴史は現代史」といった有名なせりふの意味を知りたければ、これを読むしかない。歴史学入門の仕上げ。
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ところが、内田さんも二宮さんも版元品切ということで、しばらく悩んだあげく、エイヤッと ↓ 写真のように差し替えてみたわけです。
2022年8月25日木曜日
『日経』と『朝日』
21日(日)『日本経済新聞』The Style の「文化時評」に掲載されたのは、深田記者のエッセイ風「『歴史とは何か』とは何か」でした。 24日(水)『朝日新聞』夕刊の1面は北海道・富良野の鉄道についてでしたが、2面「考える read & think 」というぺージには、大内記者の「問いかける知識人 新たなカー像」というインタヴュー記事が見えます。ぼくの顔写真までも。 どちらも市松模様の写真とともに、たっぷり書いてくださって、有難いことです。
真夏の大雪山国立公園
ぼくは母の新盆の後は、北海道に飛び、札幌から道東へ。十勝平野の北、大雪山の南の秘湯めぐりと洒落込んだのですが、警報が出るほどの強雨で、通行止めにも遭遇しました。 でも翌日にはカァーっと晴れて、たっぷり紫外線を浴びるとか。相客もそれなりに居て、(みんなマスクをしていますが)パンデミックも終局に向かいつつある、という空気でした。
然別(しかりべつ)湖、糠平(ぬかびら)湖といった名は初耳のような気がするけれど、帯広から糠平を経由して十勝三俣にいたる士幌線については、中学の人文地理で習ったな、とあやふやな記憶がよみがえり、糠平のひがし大雪自然館の脇からおりて廃線跡を歩き、左手の橋梁跡へ、右手の鉄道博物館まで行ってみました。
2022年8月5日金曜日
WINEのシンポジウム(9月11日)
→ https://www.waseda.jp/inst/cro/news/2022/07/14/9747/
→ http://wine-waseda.com/project
ポスターはこちらです。 → https://twitter.com/WineWaseda/status/1546439755449368576/photo/1
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WINEオンライン・シンポジウム「E・H・カー『歴史とは何か』を読み直す」(第12回研究会)
日時 2022年9月11日(日)14:00~17:00
場所 Zoomによるオンライン・シンポジウム(申し込み方法は下記のとおり)
開会の辞・注意事項 中澤達哉(早稲田大学・WINE所長)
報告者 近藤和彦(東京大学)
「『歴史とは何か』を読み直してみると」
コメンテーター 池田嘉郎(東京大学・WINE招聘研究員)
申し込み方法
参加については事前登録制を設けます。参加費は無料です。
多数の参加が見込まれます。視聴申込はお早めにお願い致します。
登録情報に基づき、講演会の2日前までに、主催者の中澤からZoomURL、レジュメを配信致します。
以下のGoogleフォームから参加登録いただけますと幸いです。
https://bit.ly/3RbQusu
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2022年8月1日月曜日
特製ブックガイド
ぼくの本には、ウクライナのウもなければ、プーチンのプも出てこない - そうした点で、まだの人にはまず、小山・藤原『中学生から知りたい ウクライナのこと』<http://kondohistorian.blogspot.com/2022/06/blog-post_11.html>などを手にして欲しいです。それにしても、パンデミックや戦争も含めて、長期的に人類史や現代文明の問題として考えるときには、ぼくの本も少しは役立つかな、と思います。
『歴史とは何か 新版』の販促グッズとして、A4表裏を四折りにした「特製ブックガイド」なるものが、7月から大きな本屋さんや大学生協書籍部に置いてあるかもしれません。赤白市松のデザインで、小さいけれど目立つ「粗品」です。
その裏に、訳者厳選ブックガイドなるものを自由に書かせてもらいました。最初は20点というはずでしたが、版元品切れのものが少なくないので、補っているうちに計23点になりました。
各100字までという制限があります。ただ「良い本」です、夏休みに「考える糧」となりますよ、といった推薦文ではつまらないので、具体的にその魅力やポイントにぐっと迫りました。プランパー『感情史の始まり』といった本について、「‥‥ドイツのメルケル首相が犬嫌いと知ったロシアのプーチン大統領が、会見場に巨大な犬をリード紐なしで放つ意味も論じる」といった具合に。 写真は上半分です。下半分は現物をご覧ください。
2022年7月15日金曜日
7月14日に思ったこと
直ちにいろいろと考えましたが、身辺のことに紛れ、ブログ登載はかないませんでした。ここに遅まきながら、すこし書いてみます。
7月8日昼に奈良であった安倍元首相襲撃/暗殺について、直後の報道や政党の発言の多くは、a.「民主主義への挑戦だ」「暴力による言論封殺は許せない」といったものでした。まもなく b.「特定の宗教団体へのうらみ」という捜査陣からのリーク情報が加わりました。
後者(b)のリークについては、まず正規の記者会見報道でなくリークであることがけしからんと思いましたが、やがて海外メディアでのみこれが Moonies (文鮮明から始まった世界統一神霊教会)のことだと報じられたのには、怒りに近いものを感じました。日本のマスコミ業界の自主規制はここまで極まっているのです。こういった自主規制≒事なかれ報道に甘んじているマスコミでは、いざという時に信用されませんよ。
そもそも世界統一神霊教会のことを、今どう名を変えているとしても、「特定の宗教団体」と呼ぶべきなのか、ただの「カルト」ではないか、という付随的な疑問もありますが、こちらは(今日のところは)問題にしません。
◇
むしろ大問題なのは、(a)今回の事件は「民主主義への挑戦」や「暴力による言論封殺」のたぐいなのか、ということです。Oh, No! それ以前の、より深刻な問題ではないでしょうか。
41歳の容疑者は、民主主義や議会制民主主義に不満をもらしたことはあったのか。あるいは自分の凶行が、国政の基本(国のかたち)にある「効果」をもたらすことを期待して -政治的テロリズムとして- 手製銃の引き金を引いたのか。否でしょう。
彼はもっと別のレベルの、しかし本人にとっては深刻な不幸(母のこと、失意の人生、誰かの不用意な発言, etc.)について繰りかえし悩み、その不幸の原因を「これ」と思い詰めて、「これ」を解決する/消すためにどうするか執拗に考えた。それが母を奪ったカルトの代表を襲うこと、それが実行不可能となると、第2目標として安倍晋三元首相を襲うことだった。‥‥
そこには論理の飛躍があり、分析も検証もないままの思いつきで、それを直線的に実行するための情報とノウハウを集積したのでしかありません。しかし、そもそも複合的な事態を調査探究したり、友人や同輩と対話し討論しながら、考えを具体化してゆくという訓練も経験も、彼は -学校でも自衛隊でも- していないのではないでしょうか。そもそも「話し相手」「グチ友だち」といえるほどの人は居なかったのかもしれない。
TVなどで中学高校の同級生や、職場の同僚が「あんなにおとなしい人が‥‥」「いつも人に合わせる人で、暴力をふるうなんて想像もできない」とコメントするのを聞かされると、そもそも取材する側の無知と想像力の浅さに唖然とします。おとなしすぎる人こそ危険なのです。自分の意見を言ったことのない人こそ(いざとなれば)凶暴になるのです。
こうしたことは民主主義や議会制よりはるか以前の、人間の社会性、あるいは文明/市民性の大前提ではないでしょうか。
学校教育で、また社会で、こうした事態や証言の分析、人前での報告、ディベートやディスカッション、そして紙の上での文章化‥‥要するに以前から問われていた公民教育/文明的経験を欠いたまま、やれ「民主主義を守る」だの「言論の自由」だの言ってみても、ただのお題目にすぎないのではないでしょうか。 ◇
じつは9日(土)午後8:00-8:45のNHKスペシャル「安倍元首相 銃撃事件の衝撃」と題する番組の後半で、御厨(みくりや)貴さんがコメントしていました。【まだ土曜まで NHK plus での視聴は可能です。】
「‥‥災害、疫病、戦争と続いて、人心が惑った。この国もテロを呼びこむのか。みんなが何でも言える社会になった。これはいい。しかし(イエス or ノーの)二値論理の対立になっちゃっている。これはまずい。自分の要求(思い)が通らない時にどうするか。内容のある議論を尽くして、これなら許せるという妥協点を見つける。このマリアージュが大事です。」
「妥協できる合意」を見つけて実行しよう、という立場です。
◇
1789年7月14日から、フランス革命は時々刻々と展開しますが、1792年、93年と緊迫した情勢で、いわゆるジャコバン派(山岳派)が勢いをもち、93~94年のいわゆる「革命独裁」を国民公会が支持することになります。
この苛烈な革命独裁は、味方と敵、パトリオットと反革命、徳と悪徳、純粋と腐敗といったシャープな対置、二項対立を是とし、異論をとなえる者、迷い、曖昧なままでいる者を許さず、さらには「まちがえる権利」も許さなかった。『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店、2022)p.14. これをかつての「ジャコバン史学」は、歴史の必然とするか、あるいはせいぜい「歴史の劇薬」として是認していた。ロベスピエールやサンジュストの93~94年のメンタリティを、純粋で高貴と受けとめるか、悲劇的に狂っていると受けとめるか。革命史にかかわる人は、全員、この問題に正気で取り組むべきでしょう。
御厨さんの立場は、必然や劇薬ではない。イギリスの首相ピットも、89年に始まったフランス革命には賛同し(バークとはちがいます)、92年の急転には唖然とし、93年1月のルイ14世処刑には意を決して、2月に対仏大同盟を結成します。はっきりと識別しておきたい。巻末の「関連年表」も活用してください。
2022年7月3日日曜日
書評ふたつ
→ https://mainichi.jp/articles/20220702/ddm/015/070/020000c
「「無人島に一冊だけ持って行くなら」という問い方がある。‥‥断言してしまおう。上半期ではこの新版がそれだと。ただ、原作と清水訳の新書も持っては行きたい。」
これは最高級のお誉めの言葉です。たしかに原文の英語はどうだったのか、それに清水幾太郎はどう訳していたのか、その違いと how を確かめたくなりますよね。
最後の締めの文は -「カーは常に新しい。」でした。
ウェブでは匿名のコメント評が多数あるようですが、ここでは署名ブログから:
→ http://www.kai-workshop.com/diary/diary.cgi?move=202206
筆者・難波和彦さんとは、まったく存じ上げない方ですが、「界工作舎」という建築設計社の代表のようです。文中に鈴木博之とか陣内秀信といった知らないではない方々の名前も出てくるので、どこかですれ違っていたのでしょうか。
東奔西走のお忙しい仕事の合間に、6月10日から21日までかけて1講づつ丁寧に読んでくださいました。最初の10日のコメントは、「‥‥同じタイトルの第1版の『歴史とは何か』(E.H.カー著 清水幾太郎訳 岩波新書)は古典的名著であり大学時代に読んだ。‥‥自叙伝、詳細な補註が加えられている。講義自体も新訳なので、NHKラジオでの話の仕方を念頭に置きながら読んでみよう。」と始まります。ラジオでのトークもなさる方なのか。
その最後の言葉(21日)は、「‥‥たまたま手にした本書からは、実に沢山のことを学び、さまざまなことを考えさせられた。久しぶりに充実した読書だった。」とのこと。 訳者冥利に尽きるものです。ありがとうございました。
ところで、建築士/建築家 architect とは近世・近代のイギリスで gentleman's profession であるということは20歳くらいまでのナイーヴなぼくは知識としても知らなかったのでした。心底そうだったのだと理解したのは、恥ずかしながら、1981年にロンドンの Sir John Soane 邸(Lincoln's Inn Fields)に訪れたときです。つまり33-4歳まで、ぼくは「何も知らなかった」!
『歴史とは何か 新版』の2箇所(pp.11, 276)で建築家(大工の棟梁)についての訳註をくりかえしていますが、そうした昔の自分を省みての慚愧の訳註です。
2022年7月1日金曜日
2022年6月16日木曜日
王のいる共和政 ジャコバン再考 詳しい目次
編者名や本のタイトルだけなら、他の広告でも見られますが、
かなり詳しい目次 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
そして何より、
立ち読み(試し読み) → https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615440.pdf
のコーナーがあるというのは、すばらしい! どうぞ、ご一瞥を。
2022年6月11日土曜日
中学生から知りたい ウクライナのこと
「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人びとに連帯する声明」なるものを京都大学有志の会が2月26日に発表したようですが、その声明が巻頭に引用されています。この有志のうちの二人、近世ポーランド史の小山さん、現代ドイツ史の藤原さんがそれぞれの専門で長年考え感じてきたことをふまえながら、ウェブや新聞で発言している、それをもとにここに整えて一書としたものと受けとめました。
表題のうち「中学生から知りたい」についてのみ、ちょっと留保したい気持は残りますが、しかし(写真入りで)ポーランドのバルシチ(スープ)からウクライナのバルシチ(スープ)を見ると、どれほど具だくさんで「すごく豊かで滋養があるけど、ちょっと見た目が不思議な感じ」というイメージから、すごく大切なことが説きはじめられる。中学生だって知りたい。大人だって知りたい。高齢者だって知りたいです。
ですから「中学生から知りたい」というタイトルの修辞のみ留保して、あとは全面的に推薦したい。
細かい活字で補われている註も - 固有名詞の表記を含めて - 大事なことを教えてくれます。
(株)ミシマ社、6月10日刊。http://www.mishimasha.com/
2022年6月6日月曜日
王のいる共和政 - ジャコバン再考
6月28日には、やはり岩波書店で中澤達哉さん(編)の共著『王のいる共和政 ジャコバン再考』が出ます。このところ似た意匠の共著論集がないではないようですが、こちらはいささか ambitious な共同研究、中澤科研の成果です。この公刊により学界の景色、そのトーンもすこし変わるかと期しています。
ぼく個人にとっても数年かけて自分自身と先生方の研究をふりかえり、この何十年来に学び模索してきたことを総括する文章とすることができて、爽やかな快感をともなう仕事でした。序章「研究史から見えてくるもの」(pp.1-27)を執筆しています。ただし「市民革命」という語は用いていません。
中澤さん、近藤の他に、共著者は:森原隆、小山哲、阿南大、正木慶介、古谷大輔、小原淳、小森宏美、池田嘉郎、高澤紀恵のみなさん。巻末の関連年表もぜひご覧ください。 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
2022年6月5日日曜日
2022年5月22日日曜日
池袋のジュンク堂では
赤白の市松模様だけではつまらないから(?)、青緑の岩波新書を混ぜて並べているのでしょうか。ほんの少しイタリア的な色模様。2022年の新版と1962年の旧版とを比べてご覧なさい、といった趣向でしょうか。
ところで、岩波書店のサイトには、このような「試し読み」コーナーもあります。
→ https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0256740.pdf これは1ぺージずつの表示ですが、実際の見開きの表示だと、もっと効果的ですね。
なおまた、すでに手に取ってくださった少なからぬ読者が、本にさわった感触、ぺージをくる心地よさ、etc.を伝えてくださいます。工学部のI先生のおっしゃる「書籍の人間工学的な形態論」でしょうか。ほんの少し厚めの紙質、柔軟でしっかりした製本、ほんの少し大きめの本文活字。それからもちろん、本文から左に目を移せば読める原註、訳註‥‥。デザイナと岩波書店の心意気に感謝です。
2022年5月17日火曜日
5月の実家
その後、無人の実家に行ってみました。
同行した長男が感激(!)したほど、樹木が繁茂して、公道や隣家にはみ出しています。街灯や通行する車や人のためのミラーを覆っていた枝葉を切除し、ミニマムの応急処理をしたあとになって、ようやく気付きました。(じつは最初から家の中の気配がおかしいような気がしたのですが、2ヵ月ほど来てないし季節も変わったので、気のせいかと考えました。)
母が使っていた帳面や、手紙、写真の類が畳のうえに散らばって、前回にぼくが行った折に、帰りを急いで乱雑なままにしたのだろうか? そんなはずはないのだが‥‥。
角の部屋のガラス戸が開閉できないと妻が言い出したときに、事態の意味がようやくわかってきました。そのガラス戸のロックの周囲がかろうじて手が入るくらいに破られています。 よく見ると、あらゆる部屋のタンスや引き出し、戸棚(以上、すべて上の段のみ)、押し入れが開いたままではありませんか。空き巣が侵入して、物色したあげく、最後にはアルミ雨戸を閉めて(少なくとも外からは異常とは見えないようにして)退散したあとだったのでした。位牌のない仏壇も、電源を切ってあった冷蔵庫も、だらしなく開いている、と気付いて怖くなりました。
亡父の能面、謡曲の本、ぼくの著書とか、『漱石全集』、昔の『岩波講座 日本歴史』といった類にはドロボーは目もくれず、現金やカード、宝石類を探したのでしょう。‥‥母はカードの類は持たない人だったし、老人ホームに移ってから4年半も経ったので、金目の小物はただの一つも残ってないのでした。 残念でしたね。
それにしても見るからに無人の陋屋で、アルミの雨戸もガタピシ。こんな所にまで、空き巣は「ダメモト」で侵入してみるものなのでしょうか。みなさま、ご用心を!
2022年4月28日木曜日
菊地信義さん 1943-2022
じつはぼくの関係した本で山川出版社から出たものはすべて菊地さんの装幀です。
最初の『深層のヨーロッパ』〈民族の世界史9〉(1990)からずっと、
『民のモラル』〈歴史のフロンティア〉も、高校教科書も、そして
『ヨーロッパ史講義』(2015)も、
『礫岩のようなヨーロッパ』(2016)も、
『近世ヨーロッパ』(2018)のようなリブレットにいたるまで
装幀はすべて菊地信義さんでした。
山川出版社のかつての独特の品位(センス)を表現していたような気がします。
菊地さんと同席してお話できたのは1回きりでした。 「何でも言ってください」とのことでしたが、今はむかし、です。
悼む記事が今日の『朝日新聞』夕刊に載っています。その筆者・水戸部 功さんは、なんと『歴史とは何か 新版』(5月刊)の装幀者です!
山川出版社から出た15冊については、↓のサイトから
www.yamakawa.co.jp/product/search?q=近藤和彦
ご覧ください。もしこれでうまくヒットしない場合は、
https://www.yamakawa.co.jp/product/search/
のぺージから「検索条件」として 近藤和彦 を入れて検索してみてください。
2022年4月22日金曜日
カー『歴史とは何か 新版』 予告の3
清水訳(岩波新書)では、扉のあと、「はしがき」が始まる前のぺージに
「八分通りは作りごとなのでございましょうに、
それがどうしてこうも退屈なのか、
私は不思議に思うことがよくございます。」
キャサリン・モーランド 歴史を語る
とあり、なにか有閑・教養マダムで、もしや高齢でお上品な淑女の発言のようにも聞こえます。何のことを言っているのか分かりにくいし、本文が始まる前のエピグラフとしておいた著者の意図・効果も不明で、それこそ「不思議に思って」(I often think it odd ...)いました。
若きジェイン・オースティンの生前は未刊の小説 Northanger Abbey 第14章とのことで、調べてみると、いろいろなことが判明します。なにより主人公 Catherine Morland は17歳の夢見る乙女。読書が大好き、世の中のいろいろなことに興味津々、でもその深みまではよく分かっていないティーンが、男女のこと(結婚)についても、文学についても次第に目を開かされる、という設定でした。バースで知り合った新しい知己とのあいだの会話で、どういった本を読むのか、好きなのかといった話題のなかでのキャサリンの発言です。ぼくはこう訳しました。
「不思議だなって思うことがよくあるのですが、
歴史の本ってほとんど作りごとでしょうに、
どうしてこんなにもつまらないのでしょう。」
原文は
I often think it odd that it should be so dull,
for a great deal of it must be invention.
この直前にキャサリンは、こうも言っていますので、2回目・3回目の it は history です。
I can read poetry and plays, and things of that sort, and do not dislike travels.
But history, real solemn history, I cannot be interested in. Can you?
キャサリンのナイーヴな発言は『歴史とは何か』の巻頭に、かなり挑発的なミッションを負って置かれていたのです。というわけで、巻末の訳者解説にはこうしたためました。pp.367-368.[ ]は今回の抜粋にあたっての補い。改行も増やします。
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‥‥じつは[1961年の初版以後、]英語の各版が新しくなるにつれて、巻頭におかれたキャサリン・モーランド嬢のエピグラフはカーの本文からどんどん(何10ぺージも)離れてしまっていた。これを本訳書では中扉の裏(2ぺージ)、第一講の直前に戻すことによって、元来のカーの意図(としたり顔)を生かす。
従来の『歴史とは何か』の論評ではあまり言及されないが、ジェイン・オースティンの最初の作品『ノーサンガ・アビ』(死後1818年刊)において、17歳で読書好きのヒロイン、キャサリン嬢は率直に、歴史物はほとんど作りごと(インヴェンション)なのに、どうしてこんなにつまらないのかと感想を洩らしていた。この文脈で history とは歴史物の作品であるが、英語では本書のテーマ、歴史および歴史学と区別はつかない(補註a)。
歴史/歴史学とは過去の事実への拝跪であるという岩礁[への座礁]も、歴史家の作りごとであるという渦潮[への沈没]も、第一講で明確に否定されるのであるが、カーは愛読したジェイン・オースティンからこのエピグラフを引いて、あらかじめ渦潮派の問いかけを呈示し、それにたいする反論を予告していたわけである。だからといって、カーのことを素朴な実証主義者(岩礁派)だといった虚像(カカシ)を仕立てあげて攻撃するポストモダニストには、[笑]をもって答えるのだろう。ちょうど『歴史とは何か』を執筆しているころのカーの肖像写真(332ぺージ)の表情が語るかのようである。 <以上>
------------------------------------------------------------
たとえば『危機の二十年』(岩波文庫)で使われている肖像写真は温厚きわまる老紳士ですが、それよりも元気で、いたずらの表情です。]
2022年4月18日月曜日
カー『歴史とは何か 新版』 予告の2
◇ [訳者解説のつづき]
本書の読者は、カーの講演の様子を想像しながらウィットのきいた冗談に笑い、皮肉にため息をつき、豊かで具体的な議論の一つ一つから自由にインスピレーションをえることができる。ただ、本書は論争の書でもあり、どのような筋書きで成り立っている書なのか、その柱と梁だけでも確認しておくのは余計ではないであろう。
第一講「歴史家とその事実」は、冒頭の謎のようなアクトンは別にすると、その展開のまま素直に読めるであろう。大海原に生息する魚類にたとえられる「事実」と歴史家のあつかう歴史的事実なるものの区別、シュトレーゼマン文書にみる史料のフェティシズム、クローチェとコリンウッドの歴史論。巧みなたとえを用いながら話は進み、結びは、こうまとめられる。歴史家のあぶない陥穽として、一方には事実(過去)の優位をとなえるスキュラの岩礁のような史料の物神崇拝が、他方には歴史家の頭脳(現在)の優位をとなえるカリュブディスの渦潮のような解釈主義/懐疑論、今日のいわゆるポストモダニズムが存在する。しかし、カーとともにある歴史家は、史料/事実に拝跪して座礁するのでなく、主観的な解釈、構築という渦潮に翻弄されて沈没するのでもなく、二つの見地のあいだを巧みに航行する。そうした最後に導かれるのが、よく知られている「歴史家とその事実のあいだの相互作用」「現在と過去のあいだの対話」である。全体を通読した後にもう一度読みかえすなら、「読むのと書くのは同時進行です」といったノウハウ - 論文執筆のヒント - も含めて、第一講に込められた意味はさらによく見えてくるであろう。
ところで冒頭の欽定講座教授(補註c)アクトンであるが、じつはアクトンの名も彼の『ケインブリッジ近代史』(補註e)も、日本の読者にはあまりなじみがないのではないか。カーは、「アクトンは後期ヴィクトリア時代のポジティヴな信念‥‥から語り出しています」、「ところがですね、これはうまく行かんのです」と否認するかに見える。読者は一読して、アクトン教授とはこの本で最初に否とされる古いタイプの歴史家の役回りなのかと受けとめるであろう。博学なコスモポリタンで、講義でも会話でも人々を知的に高揚させながら、生前に一冊も歴史書を著すことのないまま心筋梗塞(過労死)で亡くなり、せっかくの野心的な企画も挫折した、魅力的で不運な歴史家。「なにかがまちがっていたのです」とカーは畳みかける。しかし、そのアクトンは本書のあらゆる講でくりかえし登場し、論評されるのである。索引を見ても、アクトンはマルクスと並ぶ双璧である。なぜか。片付いたはずの後期ヴィクトリア時代の「革命=リベラリズム=理念の支配」(256, 261ぺージ)の亡霊のようなアクトンが、それぞれの文脈でカーの議論をつないでいる。『歴史とは何か』を解読する一つの鍵はアクトンにある。この点はデイヴィスもエヴァンズも渓内謙も看過している。
[以下 5ぺージほど中略]
◇
カーが未完の第二版で意図していたのは「過去をどう認識するかについての哲学論議」(9ぺージ)ではなかった。この点は重要であるがデイヴィスが立ち入らないので、訳者として補っておきたい。もしそうした認識論談義を求められたならば、たとえば『マルク・ブロックを読む』(岩波書店、2005, 2016)における二宮宏之と同じく、思弁的な方法論に淫する人々に向けて弁じたリュシアン・フェーヴルの「そんなことは方法博士にまかせておけばよい」という台詞をカーもくりかえしたのではないか。フェーヴルやブロックについて二宮が明言したのと同様に、カーもまた「歴史を探究し記述するとはいかなる営みなのかを研究の現場に即しながら根本から考え直すような書物を書きたいと希っていた」(二宮、193ぺージ)‥‥[以下1ぺージあまり中略]
こうしたことより、現役歴史家にとって大きな問題と思われるのは、たとえばしばしば言及されるフランス革命について、G・ルフェーヴルの名はあがってもその複合革命論、ましてやR・R・パーマの同時代国制史への言及がないことである。カーは「歴史家稼業であきなうのは諸原因の複合性です」(146ぺージ)と述べるのにとどまらず、因果(why)だけでなくいかに(how)を考えるという示唆もあった。その因果連関論を縦の系列のつながりに留めることなく、同時的な複合情況(contingency)へと視角を広げ、さらにはアナール派や Past & Present の社会文化史と交流し、啓発しあう可能性もないではなかっただろうが、これは展開されないままに留まった。‥‥[中略]このようにカーの到達点からさらに具体的な「過去を見わたす建設的な見通し」へとつなげてゆくのが、今日の課題なのではないか。「今、わたしたちこそ、さらに一歩先に進むことができる」(333ぺージ)という自叙伝の一文は、わたしたち自身の言明とすることができるであろう。
その自叙伝は‥‥1980年、88歳にして自分の人生と著作を省みた語りで、そこに反省的な自己正当化が働いていないとは言えない。父のこと以外には家族関係に言及しないという心機が働いているかのようである。それにしても、ここでのみ開示される「秘密」もあり、巻頭の「第二版への序文」と合わせて、晩年のカーの貴重な証言である。エヴァンズを初めとして多くのE・H・カー論の依拠する情報源でもある。
巻末におく略年譜は、自叙伝ではパスされている事実婚を含む3度の結婚、不如意に終わったロンドン大学の教授ポストへの応募、7年間の失業といった「事実」を補い、‥‥訳者が作成した。激動の20世紀をそのただなかで生き、考え、書いたE・H・カーの姿が浮かびあがる。
[後略。以下3ぺージあまり]
5月の刊行を、お楽しみに! → 岩波書店 twitter
カー『歴史とは何か 新版』(岩波書店、5月17日刊行)予告の1
このような装丁の本です。 → 岩波書店
昨年11月末から本文(第一講~)の初校ゲラが出始め、巻末の略年譜と補註の初校ゲラが出たのは2月末でした。十分に時間をかけて、くりかえし朱をいれて、多色刷りの著者校を戻し、そうした作業の最後に訳者解説を書きあげたのは3月13日。ちょうどそのころから母の具合が急に悪くなって、祈るような気持で仕事を進めました。3月末、百歳の母が力尽きて亡くなったときは、一瞬、刊行日程を1ヶ月延ばしてもらえるか、お願いしようと考えたほどです。編集サイドの最大限の支援と協力に支えられて、かつ今日のITのおかげで、瞬時にメールやPDFで正確にゲラや訂正文を送受できるので、本文は四校まで、索引は再校まで見て、ぼくの側ですべて完了したのは4月16日でした。
なにしろ前付がxxii、本体+付録は371ぺージ、後付が(横組)索引と略年譜で17ぺージ、合計410ぺージ(と余白ぺージ)。それにしても岩波新書(清水幾太郎訳)が252ぺージだったのに、今回は四六判で410ぺージ。差異は量的なものにとどまりません。
以下は訳者解説から、内容にかかわる部分の抜粋をご覧に入れます。
◇
「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのです。」
「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
- こういったセンテンスで知られるE・H・カーの『歴史とは何か』であるが、それ以上には何を言っているのだろう。「すべての歴史は現代史である」とか「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」、そして恐怖政治について「従来、公正な裁きの行なわれていた地においては恐ろしいことだが、公正な裁きの行なわれたことのない地においては、異常というほどでもない」といったリアリストの言があるかと思えば、「世界史とは各国史をすべて束ねたものとは別物である」といった高らかな宣言もあり、最後は20世紀の保守的な論者たちの言説を列挙したうえで、「それでも、世界は動く」といった決め台詞で読者をうならせる。古今の名言が次から次に現れて、ぼんやり読むと、全体では何を言っているのか分からなくなるかもしれない。
およそ歴史学入門や史学概論を名のる本、そして大学の授業で、E・H・カーとその『歴史とは何か』に触れないものはないであろう。だが、その内実はといえば、上のように印象的な表現の紹介にとどまるものが少なくないのではないか。ちなみに二宮宏之「歴史の作法」[『歴史はいかに書かれるか』所収](岩波書店、2004)でも、遅塚忠躬『史学概論』(東京大学出版会、2010)でも、カーの『歴史とは何か』は俎上にのぼるが、論及されるのはほぼ第一講だけである。たしかに遅塚の場合は事実と解釈の問題に立ち入って批判的だが、しかし第二講以下はコメントに値しなかったのであろうか。むしろ、作品としての全体を扱いかねたのかもしれない。
◇
カーは1961年の初めに6週連続のトレヴェリアン記念講演(補註f)を行なった。『歴史とは何か』はその原稿をととのえ脚註を補って、同年末に出版されたものである。大学での講演(講義)であるが、教職員・学生ばかりでなく一般にも公開され、無料で出席できた。ケインブリッジ市の真ん中を南北にはしるトランピントン街から、平底舟(パント)とパブでにぎわうケム川のほとり(グランタ・プレイス)へ抜けるミル小路に沿って建つ講義棟の教室を一杯にして、時に笑いに包まれながらこの講演は進行したという。直後には同じ原稿をすこし縮めた講演がBBCラジオで放送されている。
この講演にのぞむカーの意気込みは十分であった。それには事情がある。[以下 2ぺージほど中略]
◇
本訳書の底本は What is History? Second edition, edited by R. W. Davies, Penguin Books, 1987 であり、これに1980年執筆の自叙伝、訳者が作成した略年譜を加えている。[以下 3ぺージあまり中略]
2022年4月17日日曜日
見田宗介さん 1937-2022
わかくカッコいい先生で、1937年生まれということだから、あの授業の時は、29歳の専任講師だったわけです! この朝日新聞の写真は2009年撮影とのことですが[本当でしょうか]、あのころの見田さんの雰囲気が十分に残っています。
しかしぼくがとった社会学の授業は、折原浩先生。1935年生まれで、66年度=ぼくが1年のときは専任講師から助教授になったばかり。(もしや2歳下の見田さんの人気に煽られて?)講義中に 「ひょっこりひょうたん島」を分析して見せたり、ということもないではなかったが、基本は、マルクス、デュルケーム、ヴェーバー、オルテガ・ガセット、そしてアーノルド・トインビーといった社会科学の基本文献を紹介し、東大の1年生に必要な学知を授けるものでした。とりわけマルクスとヴェーバーについては岩波文庫を持参させて該当ぺージを指示しながら読んでゆくといった丁寧な講義で、定員800人の「2番大教室」を一杯にしての授業。1列目・2列目くらいの座席は早々と席取りのコートや鞄が置いてあった。後方の座席では双眼鏡を使う学生が何人もいた。1列目では常に首を上に向けていなくてはならず辛いので、ぼくは前から6~10列目くらいに座して、一言ももらさじと構えました(コンサート会場と同じ!)。
社会調査の分野については、松島先生が分担していたようです。想えば、東大社会学の黄金時代の始まりだったのかな。
いざ2年生、進学振り分けの季節には、さんざ迷ったあげく、社会学はあきらめました。理由としては、
1) 見田さん的なカッコいい学問は、ぼくのタイプではないと考えた、というよりは
2) 社会学に進学する学生たちに、ぼくは伍して行けるだろうか、という不安
3) 案外、西洋中世史(堀米先生)もおもしろそう。ヴェーバー、そして大塚久雄を読んでいることが生きてくることは確実、という判断がありました。
その後(1970年代から)、見田さんは、次々に刊行される本の著者名として、見田宗介と真木悠介と二つを使い分けておられて、当時から説明はあったのですが、結局のところ、何故二本立てなのか、よく分からなかった。父君、見田石介との確執、といったことは風聞で耳にしましたが。
1980年代の『朝日新聞』文化欄なぞ、ほとんど見田宗介と高橋康也(英文)と山口昌男(文化人類学)に席巻されていました。 → 『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社、1987)。ケインブリッジから帰国したばかりのぼくも名古屋の自由な雰囲気のなかで、シャリヴァリ・文化・ホーガースを初めとして、社会文化史に首まで漬かった日々でした。
その後、ずいぶんたった2019年、ある方から見田宗介自身の才能についての自負、メキシコ行きの経緯、などを聞いて、そういうことだったのかと驚き、合点がいったことでした。
2022年4月12日火曜日
2022年3月10日木曜日
一代の奇傑 ホーガース
アダム・スミス文庫100年の記念事業です。↓
東アジアへの西欧の知の伝播の研究
2022年3月11日(金)13:30-16:00 なぜか、大震災の日です!
【開催方法と申し込み】Zoom によるオンライン開催
参加希望の方は 2022年3月10日までに以下の URLよりお申し込みください。前日までに接続先をメールでお知らせします。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZYuf-6pqT0rH9NhqqRu2JEAdR7ZEaU6x89v
プログラム
13:30-13:40 開会挨拶・趣旨説明:野原慎司(東京大学准教授)
13:40-14:40 報告1:東田 雅博(金沢大学名誉教授)
「東アジアの文化の西欧への衝撃と受容――シノワズリーとジャポニスム――」
14:40-14:55 休憩
14:55-15:55 報告 2:近藤 和彦(東京大学名誉教授)
「一代の奇傑ホーガース」
【各報告には質疑応答の時間を含みます】
15:55-16:00 閉会挨拶:石原俊時(東京大学教授)
ウクライナでも香港・台湾でも、人が(言論でたたかう自由も、ボンヤリする自由も含めて)平静に暮らせますように。
今書いている文章で、E・H・カーによるカーライル『フランス革命』の引用が印象的です。
「[恐怖政治とは]従来、公正な裁きの行なわれていた地においては恐ろしいことだが、
公正な裁きの行なわれたことのない地においては、異常というほどでもない。」
なんというリアリスト!
2022年2月10日木曜日
羽生結弦の悔し涙
「どんなに努力しても報われない努力ってあるんだな」
と。たしかに人生の一つの真実かも知れないし、とりわけ勝負の世界ではそうなのでしょう。ただ、「塞翁が馬」という格言もあります。彼のまだまだ長い人生においては、この北京こそ、わが人生[の地平]が広がる画期だったと言えるようになるかもしれない。
めげることなく、しっかり生きてほしいと思います。
かく言うぼくも立派な人生を歩んでいるわけではありませんが、70歳を越えると、人の恩をしみじみ感じる機会も少なくありません。
大河内一男(1905-1984)の収集したホーガース版画コレクションがあって、それが東大経済の図書館に寄贈されたとは前々から聞いていました。先月、それを初めてゆっくり拝見しました。幸か不幸か、東京の Covid 感染者が1日900人台(全国で数千人台)に留まった最後の日でした! 翌日から急に東京は2000人を突破、全国は1万人を突破したのでした。
思っていたより良い状態の版画で、紙質も含めて、写真や刊本で見るのとはリアリティが違いました。18世紀の庶民たちはこれを見ながら、このオランダ商人はダレのことだ、この職人はあいつにソックリ、この牧師は笑わせる‥‥と口々に思ったことを言いながら、興じたのです。
「わたしの絵は、わたしの舞台であり、男女はわたしの俳優で、一定の動きや表情によって黙劇を演じるのです」
というホーガースの自信作。「疑いもなく卑猥」な「一代の奇傑ホーガース」について、3月に語る機会をいただきました。色々の方々の口添えがあってのことらしく、ありがたいことです。
文化も経済も政治も転変する18世紀のイギリスは、大河内一男の『社会政策』上下巻(有斐閣)の重要な舞台ですが、当時の日本の学者にはイメージを結びがたい時代でもあったようです。大塚久雄や他のピューリタン史家たちと異なる時代像を求めてレズリ・スティーヴンに頼ったこともあるとか。 ぼくたちには、どうしても「1968年の東大総長」という事実が先に立ってしまうけれど、その前の学者としての大河内に、ホーガースの版画はどんなインスピレーションを与えたのでしょう。
アダム・スミス文庫100年の記念事業です。↓下記のとおり。
東アジアへの西欧の知の伝播の研究
2022年3月11日(金)13:30-16:00
【開催方法と申し込み】Zoom によるオンライン開催
参加希望の方は 2022年3月10日までに以下の URLよりお申し込みください。前日までに接続先をメールでお知らせします。
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZYuf-6pqT0rH9NhqqRu2JEAdR7ZEaU6x89v
プログラム
13:30-13:40 開会挨拶・趣旨説明:野原慎司(東京大学准教授)
13:40-14:40 報告1:東田 雅博(金沢大学名誉教授)
「東アジアの文化の西欧への衝撃と受容――シノワズリーとジャポニスム――」
14:40-14:55 休憩
14:55-15:55 報告 2:近藤 和彦(東京大学名誉教授)
「一代の奇傑ホーガース」
【各報告には質疑応答の時間を含みます】
15:55-16:00 閉会挨拶:石原俊時(東京大学教授)
2022年1月30日日曜日
寒中お見舞い申しあげます
ぼくや家族が健康を害しているとかいうわけではありません。たしかに年相応の故障はありますが、そして Covid-19 (という名称にそのしつこさが表れています!) のニュースが毎日の憂鬱要因ですが、なんとかやっています。ただ12月31日の記事にもしたためましたとおり、『歴史とは何か 新版』の最終局面にあり、- 普段のぼくには珍しく - 選択と集中の体勢でいます。そのぶん失礼の段、みなさまには申し訳ありません。
そうこうしているうちに、本日『みすず』no.711 (1・2月合併号) が到来。恒例の「読書アンケート」です。これは百数十名による読書案内というだけでなく、執筆者の個性と現況がうかがえる企画で、毎年楽しみにしています、書き手としても読み手としても。むかしは丸山眞男や、二宮宏之の書いたものをフムフムと読んでいたのですが、最近は毎年、キャロル・グラック、徐京植、ノーマ・フィールドといったみなさんが力作を寄稿なさいます。執筆者の年齢も若返って、年長の方々よりは団塊の世代が多く、さらにずっと若い人々も増えました。
というわけで、今号は
・八木紀一郎『20世紀知的急進主義の軌跡 - 初期フランクフルト学派の社会科学者たち』(みすず書房, 2021)
・岸本美緒『明清史論集』計4巻(研文出版, 2012-21)
・立石博高『スペイン史10講』(岩波新書, 2021)
・バーリン『反啓蒙思想 他二篇』(岩波文庫, 2021)
そして
・Jonathan Haslam, Vices of Integrity: E. H. Carr 1892-1982 (Verso, 1999) に登場していただきました。
バーリンとハスラムはE・H・カーがらみです。バーリンの論文選は、これからも岩波文庫で続刊とのこと。ハスラムの伝記については邦訳があることは存じていますが、『誠実という悪徳』とかいう訳タイトルはありえない。むしろ「学者としての本分(integrity)ゆえの数々の欠点(vices)」といった意味でしょう。of は由来・理由です。