2022年4月18日月曜日

カー『歴史とは何か 新版』(岩波書店、5月17日刊行)予告の1

 このような装丁の本です。 → 岩波書店

 昨年11月末から本文(第一講~)の初校ゲラが出始め、巻末の略年譜と補註の初校ゲラが出たのは2月末でした。十分に時間をかけて、くりかえし朱をいれて、多色刷りの著者校を戻し、そうした作業の最後に訳者解説を書きあげたのは3月13日。ちょうどそのころから母の具合が急に悪くなって、祈るような気持で仕事を進めました。3月末、百歳の母が力尽きて亡くなったときは、一瞬、刊行日程を1ヶ月延ばしてもらえるか、お願いしようと考えたほどです。編集サイドの最大限の支援と協力に支えられて、かつ今日のITのおかげで、瞬時にメールやPDFで正確にゲラや訂正文を送受できるので、本文は四校まで、索引は再校まで見て、ぼくの側ですべて完了したのは4月16日でした。
 なにしろ前付がxxii、本体+付録は371ぺージ、後付が(横組)索引と略年譜で17ぺージ、合計410ぺージ(と余白ぺージ)。それにしても岩波新書(清水幾太郎訳)が252ぺージだったのに、今回は四六判で410ぺージ。差異は量的なものにとどまりません。
 以下は訳者解説から、内容にかかわる部分の抜粋をご覧に入れます。

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 「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのです。」
「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
- こういったセンテンスで知られるE・H・カーの『歴史とは何か』であるが、それ以上には何を言っているのだろう。「すべての歴史は現代史である」とか「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」、そして恐怖政治について「従来、公正な裁きの行なわれていた地においては恐ろしいことだが、公正な裁きの行なわれたことのない地においては、異常というほどでもない」といったリアリストの言があるかと思えば、「世界史とは各国史をすべて束ねたものとは別物である」といった高らかな宣言もあり、最後は20世紀の保守的な論者たちの言説を列挙したうえで、「それでも、世界は動く」といった決め台詞で読者をうならせる。古今の名言が次から次に現れて、ぼんやり読むと、全体では何を言っているのか分からなくなるかもしれない。
 およそ歴史学入門や史学概論を名のる本、そして大学の授業で、E・H・カーとその『歴史とは何か』に触れないものはないであろう。だが、その内実はといえば、上のように印象的な表現の紹介にとどまるものが少なくないのではないか。ちなみに二宮宏之「歴史の作法」[『歴史はいかに書かれるか』所収](岩波書店、2004)でも、遅塚忠躬『史学概論』(東京大学出版会、2010)でも、カーの『歴史とは何か』は俎上にのぼるが、論及されるのはほぼ第一講だけである。たしかに遅塚の場合は事実と解釈の問題に立ち入って批判的だが、しかし第二講以下はコメントに値しなかったのであろうか。むしろ、作品としての全体を扱いかねたのかもしれない。

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 カーは1961年の初めに6週連続のトレヴェリアン記念講演(補註f)を行なった。『歴史とは何か』はその原稿をととのえ脚註を補って、同年末に出版されたものである。大学での講演(講義)であるが、教職員・学生ばかりでなく一般にも公開され、無料で出席できた。ケインブリッジ市の真ん中を南北にはしるトランピントン街から、平底舟(パント)とパブでにぎわうケム川のほとり(グランタ・プレイス)へ抜けるミル小路に沿って建つ講義棟の教室を一杯にして、時に笑いに包まれながらこの講演は進行したという。直後には同じ原稿をすこし縮めた講演がBBCラジオで放送されている。
 この講演にのぞむカーの意気込みは十分であった。それには事情がある。[以下 2ぺージほど中略]

 本訳書の底本は What is History? Second edition, edited by R. W. Davies, Penguin Books, 1987 であり、これに1980年執筆の自叙伝、訳者が作成した略年譜を加えている。[以下 3ぺージあまり中略]

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To be continued.

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