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2015年12月29日火曜日

村上春樹の旋回!?

 遡って、20日(日)午後には東京ステーションホテルで4時間ほどの密度ある会議をもち、編著『礫岩のようなヨーロッパ』の出版の具体的な見通しをえました。
 気持が高揚し、そのまま帰宅する気になれず、夕刻、OAZO の丸善に入ったら、1階で唯一赤い表紙の岩波新書、『村上春樹はむずかしい』が目に飛びこんできました。著者は加藤典洋、ぼくの同期で仏文でした。どんなことを書いているんだと立ち読みを始めて、止まらなくなった。結局、二息ついてから、別の1冊とともに計2冊をもってレジの列に並ぶことになりました。

 村上春樹は、近代日本の、そして今日のアジアのインテリ、物書きから低く評価されている。芥川賞もとっていない。しかし、現代の日本および海外の若者、大衆的な読者、そして編集者や中文の藤井先生にアピールする何かを表現してきました。その理由は?
 村上春樹は明快に、近代日本のインテリの宿痾のような「否定性」(68年にぼくたちは「否定的直観」と呼んでいた)のダイナモを motivation とすることなく、肯定的なことを肯定する作品を自分のペースで生産し続けている(「気分が良くてなにが悪い」)。芥川賞の選考委員はこの「否定性のなさ」を「浅い」とか「空気さなぎ」とか片づけてきました。なにを隠そう、インテリの一人であるぼくも、遠い距離を感じてきました。
 だが、第1の事実として、村上春樹は(ぼくの2歳下で)1968年に早稲田の文学部に入学して、74年に卒業する。ヴェトナム戦争期に重なります。その間の早稲田の文学部がどういった所だったか、『村上春樹はむずかしい』p.65 には端的に「内ゲバによる死者数の推移」が挙がっています。ぼくも歴史として、記憶として』(御茶の水書房)p.182に書き付けたような経験を、村上はもっと生々しく、繰りかえし見聞きしていたようです。
  I keep straining my ears to hear a sound.
  Maybe someone is digging underground;
  or have they given up and all gone home to bed,
  thinking those who once existed must be dead? (pp.70-71、句読点を補充)
 そして第2に、父親の中国経験。
「暴力と死とセックス‥‥を避けてでなく、その内側に入り‥‥反戦と非戦の意志へと抜け出ていくことができるか。‥‥私たち日本人の戦後の冥界くぐり」として村上文学を最大限に称揚したのが、加藤の本書と言えるようです。一種の「ラブレター」とでも言えそう。

 これではなんだか、団塊の世代の村上文学を団塊の世代の評論家=加藤が論評したものを、団塊の世代の読者=近藤がどう読みとったか、といった具合ですが、しかし、じつは団塊の世代といっても、1968年に大学3・4年だった(本郷にいた)者と、1・2年だった者とではかなり経験の受けとめ方が違うのではないか、と思ってきました。大学にいなかった人なら、なおさらに違うでしょう。
 その点で、ぼくは村上春樹と彼の周囲の人たちの世界を垣間見て知っているし、彼と似た空気を呼吸したことはあります。しかし、70年代に異なる思考回路を選択し、以後、別の小宇宙で生活してきました。そうした村上がいま、「歴史に行くしかないんじゃないか」と言明し、「近代日本批判の従来型の否定性を‥‥脱構築しながら、なおかつ別種の新しい否定性を作り上げること、コミットすること」(加藤、pp.131,139)に力点を置いているのだとしたら、これはすごい事態の展開/転回なのかもしれない。
 村上の言では、こうなります。「‥‥井戸を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだ‥‥。」(p.140から重引)

2015年12月27日日曜日

卒業論文 指導

 この季節、12月の半ばを過ぎると東大ではさすがに学内校務はなくなって、論文審査と(もしあるなら)学外の公務を片づけ、期日を超過した原稿の執筆に入るといったパターンでした。「卒業論文指導」みたいなことは、在任中にやったことなかったような気がする‥‥。そもそも教師にとって学部生の指導は一番の業務ではなく、卒業論文のためにはTAがサブゼミを開いているのだから、こちらが余計な口出し手出しをする必要はなかった。また学生の立場からすると、むしろ積年の自分の読書と先輩の助言によって獲得したリサーチ力と執筆力を示す(自分は「アホやない」ことを証す)、というのが卒業論文であったし、今でもそうあり続けるのではないでしょうか。
 ところが、どうも私立大学の文学部では事情がちがうようで、教師がなにからなにまで教えこんで、手とり足とり指導するのが普通のようです。毎年度、たとえば
  段落は大事だよ、何故かわかるかな? 最初は1字下げるんだ。小学校の国語で習ったね。句読点もよく考えてつけよう。もし行末に来たら欄外にはみ出す約束、「ぶら下げ」ってんだ。よく見てご覧、ひとの論文は、章ごとに新しいページの頭から始まっているね。‥‥
  読んだ文献を使いながら議論に筋道をたてる。根拠を示すために、それぞれの箇所に註が必要だね。 1), 2), 3) って番号を上付に振ってゆくんだよ。好みで括弧なしでも (1), (2), (3) でもいい。脚註でも章末註でもいいよ。‥‥
  最後に参考文献表が必要不可欠。重要文献で、じつは読めなかったというものも挙げていい。ただし * とか # とか印をつけて区別するんだよ。
といったことを「卒論演習」の教室で言うだけでなく、個人面談でも(この子にこれで何度目だと思いながら)一人一人くりかえし「教える」というのは、じつに新鮮な経験です。そもそも『卒業論文作成の手引き』という5月に配布したパンフレット(計21ページ)に99%は書いてあることなのに! 大事なことは何度でも言う、根気が肝要、Teaching is learning という格言を再帰法的に実践しています。
 昨年の4年生ゼミは13名で個人面談を12月26日(金)までやっていましたが、今年は21名、最後は28日(月)です! もしや1月4日にも追加面談‥‥。
 この暮は、連夜の学外公務をようやく終了して、25日に4年生全員に宛てて送信した一斉メールで、次のように述べました。長文の一部で、ちょっと推敲してあります。

Quote: ------------------------------------------------------------

II. よい卒業論文のポイントを確認します。

§ なにより次の3点が大事です。
 a. Question (問い、何を知りたいのか)を明記し、個人的動機も述べる。標準的な研究文献にもコメントがほしい。
 b. 文献を読み調べてわかったこと、目を開かれたことを論じ、典拠を註に明示する。論文なのだから、高校の教科書に書いてあるようなことはクドクド述べない。議論の筋道を意識する。複数の研究者や専門論文、その間の違い・ズレを註に記すだけでなく、その差異の意味を本文で論じていれば、つまり、分析的な文章になっていれば、すばらしい。
 c. Question にたいする答え(Answer)を述べる。

どこでどう述べるかは、人により違っていてよいし、力の見せどころだが、理想的には、
 a. → はじめに(序)でクリアに述べる。長くなくてよい。
 b. → 本論(1章、2章、3章)でダイナミックに展開する。これはどうしても長くなる。
 c. → おわりに(結)で述べる。短くてよい。

§ 原稿はプリントアウトして読み直し、筋の通った明快な日本語になっているかどうか確認し、みずから添削し改善する。
 最初から最後まで、根拠・典拠をしめす註をつける(註は多いほどよい;ウェブページなら URL を示す)。註のない文章は、卒業論文とは認められません。
 註と参考文献とは、別物です。それぞれ必要。
 巻末に参考文献リストをかかげますが、みずから読んでない文献には * ▼ † などの印を付して区別します。
 図版や表は、分かりやすい位置にあれば、本文中でも巻頭・巻末でも問題ありません。写真やコピーも可。学校内の教育・学術目的の使用ですから、著作権・複製権などは問題になりませんが、どこから取ってきたか(出典)は明示。
 念のため、出典をあきらかにした引用と、出典を隠した盗用=剽窃(ひょうせつ)とは全然ちがうものです。前者は学問、研究の本質。後者は窃盗であり、犯罪です。

 ------------------------------------------------------------ Unquote.(加筆、推敲)

2015年11月26日木曜日

近代フランス農村世界の政治文化


工藤光一さんの遺著『近代フランス農村世界の政治文化:噂・蜂起・祝祭』(岩波書店)が出版されました。秋の実りの収穫がつづくと言いたいところですが、こちらは悲しい、最後の収穫です。彼が亡くなったのは今年の1月10日でした。 → http://kondohistorian.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html
 闘病生活がつづくなかで、校務や『二宮宏之著作集』の編集なども大変だったでしょう。努力と心配りの人でした。公刊のために推敲を重ね準備されていた原稿が、夫人の機転と友人たちの迅速な協力で世に出て、読めるようになったのは不幸中の幸いでした。

第Ⅰ部 噂と政治的想像界   【方法論と王制復古期】
第Ⅱ部 蜂起と農村民衆の「政治」【1851年に絞った考察】
第Ⅲ部 祝祭と「国民化」   【第二帝制と共和制期】
の三部構成で7つの章にわたって、19世紀フランスの地方社会における政治文化を解析します。開巻してプロローグの最初(p.1)に近藤の「政治文化」が引用されているのには驚きますが、本書のタイトル、キーワードでもあり、また政治を問い直すことが本書のテーマなのだから、順当かもしれない。本文および巻末注の議論は理論的・分析的に展開し、230+巻末31ページの充実した、気魄を感じさせる書物です。

解説を小田中さん、あとがきを高澤さん・林田さんが執筆して、出版にいたる事情を明らかにしておられます。亡くなった方の仕事への論及は、どうしても悲しい。
岩波書店の〈世界歴史選書〉ですが、なんと既刊の森本芳樹、佐藤次高、木村和男、工藤光一、すでに4名の方々が早々と逝去されました。

2012年3月にぼくが東大を定年退職した折には、工藤さんも元気な姿で参加してくれ、愉快にやりとりしました。その折の雰囲気を伝えるスナップ写真があります(左端)。

いよいよ本格的な冬に近づきます。どうか、健やかにお過ごしください。

2015年11月24日火曜日

フランス革命とパリの民衆


 松浦義弘『フランス革命とパリの民衆:「世論」から「革命政府」を問い直す』 (山川出版社)を落手。
 A.ソブールを実証的に批判しようとする立派な分析の書と受けとめました。とはいえ、マイナーながら2つ不満があります。
1) ソブール批判といっても、その実、柴田三千雄、遅塚忠躬の歴史学のもっとも枢要な部分への疑問/批判なのだということを、どこかで、とくに註18の前後にあたる本文(p.11)で明言すべきでした。でないと、日本語で出版することの意味が半減してしまいます。
2) よほどの理由がないかぎり本のタイトルに「 」を用いることにぼくは反対です。タイトルに使う語はほとんどすべてキーワードであり、概念であり、その内実を議論するために本を/論文を公にするのです。そのことを読者に喚起するのに「 」が必要というなら、「フランス革命」も「民衆」もそうでしょう。pp.6-8で「サン=キュロット」と表記されているように。もしや「ソブール」も?
 これはナンセンスで、昔の東大本郷のだれかが『週刊新潮』かなにかに影響されて始めた悪弊で、野暮を通りこしています。どうしても必要な『「パンセ」を読む』といった場合以外はカッコなど付けなくても、しっかり論じられるはずです。書物における品格も考えたい。
 
 近藤の名も言及していただきましたが、念のため、ぼくは1976年「民衆運動・生活・意識」から E. P. トムスンのモラル・エコノミー用語には疑問をもっており、その旨『民のモラル』初版【山川版 巻末 p.16】でも指摘しておりました。昨年〈ちくま学芸文庫〉から新版を出せたので、あらためて誤解の余地のないように修文しました【p.342】。柴田三千雄、山根徹也とは違いますので、お検めください。

 なおまたこの機会に、フランスとイギリスの関係【両革命の異同 pp.134-5;競争的交流 p.169;2つの近代のわたりあい p.205, etc.;ワイン pp.14, 63, 172, 180, 184, 232 ... 】についてイギリス史10講でも繰りかえし述べましたので、ご笑覧ください。さいわい増刷が続き、細かいながら改良を重ねています。

頸椎症性神経根症

 つい2週間前のことです。大学のエレヴェータで出会ったグレースーツの紳士が、右腕に三角巾をしておられたので、どうしたのですかと尋ねたら、「肩の骨がささくれだって、神経を圧迫し、耐えられないように痛む。70歳を越えたらだれでもなるかもしれない、と医者に言われた」とのこと。お大事にと言って別れた、そのときのぼくはけっして冷たい気持で聞き流していたわけではない。でも、あたたかい気持で親身に心配してあげていたわけでもない。要するにぼくには関係ない不幸として受けとめていたのです。

 天網恢々‥‥そうしたぼくを戒めるかのように、13日(金)の深夜、就寝時から突然、右の二の腕、肘、そして右肩が大変に痛み/しびれ始めました。時間とともに、悶絶するほど痛くなる。未明に起き出して、湿布(ロキソニン)を探し出して貼ったけれど、気休めにもなりません。
 翌日(土)は千葉の老母のところに行く約束で、睡眠不足のまま出かけて(昼間は不思議なことにさほど痛まないので)この日はさほどの力仕事もなく、無事に過ごしました。とはいえ、やはり就寝後、数分たつとしびれ/疼痛が始まり、これが少し部位を移しながら波状に朝まで続く、悶絶の夜です! 日曜は史学会大会。これも、起床・活動時は軽く耐えられる痛みなので、皆さんとも普通に会話できました。

 16日(月)、知り合いの薦めもあり、麻布十番の鍼灸院に行きました。生まれて初めて。ちょっと緊張しましたが、話のやりとりをしながら納得づくで身体をほぐし、鍼をうち、灸をすえて、リラックスはできたと思います。若いときからの緊張と無理な力みが右手、右肩、身体の右半分すべてに累積しているとのこと。とはいえ急に恢復するわけではなく、じつはこの月曜夜あたりから疼痛も厳しくなったような気がします。
夕刻にはスマートフォンの画面入力さえビンビン響くように、指先や手の甲など身体の浅いところが痛む。ロキソニンに加えて、就寝時にパジャマの上から「衣類に貼るホッカイロ」を右肩および右肘のあたりに貼り、またバッファリンを飲む、ということを始めました。
 しかし、あいかわらず深夜にくりかえす悶絶の経験から再考すると、ロキソニンは部位を冷やして痛みを逆に強めているような気がするし、ホッカイロは上手に貼らないと低温ヤケドに近い痛みが残ります。というわけで、ロキソニンは中止、ホッカイロは一箇所、肩のみ。バッファリンは効果はあるのだが、多用しないことが条件。
 水木金から土日にも校務(推薦入試の面接と判定会議!)が続き、ようやく23日(月)になって鍼灸院を再訪。肩から二の腕、肘の部位をピンポイントで確認しつつ処置してもらいました。この月曜からホッカイロ、バッファリンも止めて、勧められた温湿布、トウガラシエキスの入った「ホグリラ 温感」のみ。あとはお酒を断ち、朝・夜2回の風呂。 → これでなんとか快方に向かっている気分です。

 ところで麻布十番って、歩くのが楽しい所ですね。http://www.azabujuban.or.jp/access/

 なお、インターネットで日本整形外科学会のサイトから「頸椎症性 神経根症」というページを捜しあてました。その記述とわが症状はピッタリで、加齢変化によるのですが、付随的に「遠近両用めがねでパソコンの画面などを頸をそらせて見ていることも原因となることがあります」! ‥‥手術はよほどのことがないかぎり必要ないようで、「基本的には自然治癒する疾患です。‥‥治るまでには数ヶ月以上かかることも少なくなく、激痛の時期が終われば気長に治療します」とのこと。
 こちらも参考になりました。頸椎症にも2つあるんですね。→ http://www.sekitsui.com/9specialist/sp005-html/
 現代医学でも決め手はないようで、ぼくと周囲の皆さんの直観が合致して、鍼灸に頼ったことは正しかった、と信じます。とはいえ、即効はなく、身体を温め、冷たい部分がないように、そして努めて上半身を動かす、ということでしょうか。軽い体操も教えていただきました。神経根症は身体の真ん中および足腰には作用しないようです。そもそも歩数計を装着して毎日しっかり歩いていますので、今のところ足腰は大丈夫。

2015年11月15日日曜日

イギリス近世・近代史と議会制統治

収穫の秋、ということでしょうか。ぴたり関連する出版が続きます。

青木康(編)『イギリス近世・近代史と議会制統治』(吉田書店、2015
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg670.html
10名の科研プロジェクトによる、16世紀から19世紀半ばまでのイギリス史の「詳細で実証的な個別研究」の論文集です。
  第Ⅰ部 代表制議会
  第Ⅱ部 海洋帝国の議会
  第Ⅲ部 議会制統治の外縁部
に分けて計11の章がありますが、序、第2章「18世紀イングランド西部の下院議員」、第4章「ブリッジウォータの都市自治体と1780年総選挙」が編者青木さんの執筆。

 「序」のあと、まずは最後の Jonathan Barry の「コメント」に惹きつけられて読みました。
これは日本の読者むけに有益な動向サーヴェイであるばかりでなく、そもそも1832年以前の議会・政治・統治というものをどう捉えるべきか(とくに pp.305-11)、重要な指摘を明晰に呈示している論文ですね。またイギリスの特異性・近代性だけにとらわれることなく、広くヨーロッパの「複合諸王国(composite monarchies)とその連邦的構成」のうちの一つとして認識すべきであるというパラグラフには、註(2)として、ケーニヒスバーガ、エリオット、そしてラッセル、ヘイトンが挙がっています。共著『礫岩のようなヨーロッパ』を準備しているところなので、いちいち肯きながら読みました。
ただし訳文は、センテンスの息が長すぎて、ときに苦しくなる箇所もないではない。英語と日本語は構文が違うので、すこし短めに複数のセンテンスに分けて接続を確認しつつ訳して下さると、短気な読者にもわかりやすくなったろうと思われます。
またバリーの最後の一文(p.311)は、わたしたち「異なる政治体制のもとで暮らしイギリスの経験を冷静に見ることができる」日本人歴史家の問題意識を評価しつつ、この出版をことほぐ賛辞かと思われます。訳文ではそれがちょっと曖昧。

巻末の「人名索引」は歴史的人物に限定されていますが、13ページにわたり入念にできあがっています。

というわけで、あいつぐ有益な出版ですが、先の『国制史は躍動する』にくらべると、タイトルが実直すぎて、メッセージ性がちょっと不足します。「議会制統治」というのがキーワードでしょう。困ったときには英語にしてみて再考するというのが、むかしから青木さんのお知恵だったと思いますが、今回の英語タイトルは、いかに?

2015年11月14日土曜日

宗教戦争と文明

 「国制史」か「秩序問題」か、などと悠長なことを言っていたら、13日、パリでのたいへんな一連の事件が耳に入ってきました。報道に出てきた後藤健二さんのお母さんが心配していたとおり、「憎悪と報復のくりかえし/増幅」になってしまっています。
今年5月に刊行された、谷川 稔十字架と三色旗』(歴史のフロンティア → 岩波現代文庫版)が論じている「やわらかいライシテ」と「やわらかいイスラム」以外には、根本解決はないのではないかと思われます。
16・17世紀ヨーロッパの宗教戦争から生まれてきて「ポリティーク派」と貶められた公共善派、すなわち純粋主義(puritanism)を離れた「世知」にこそ、信教をめぐる戦争を越える道はある。それ以外に希望はないかもしれない。近世英語でも politic という形容詞は今日の「政治」と無関係ではないが、むしろ古典語の polis(都市共同体)や politicus(都会的、文明的、公共の作法を知る)の意味合いを継承していました。用例をみても、英語 polite や civil に近い。
Civil で polite で politic な文明に希望を託したい。

国制史は躍動するか?

昨夜、いろんな校務を終えて、さぁわが第1章「礫岩のような近世ヨーロッパの秩序問題」に復帰、いよいよこれを脱稿して送信するぞ、と意気込んで帰宅したところ、青天の霹靂!

池田嘉郎・草野佳矢子(編)『国制史は躍動する:ヨーロッパとロシアの対話』(刀水書房, 2015
という本が待っていました。
編者をふくむ9名の共著ですが、池田さんが
  序 論 「国制史の魅力-ヨーロッパとロシア」
  第1章「ソヴィエト・ロシアの国制史家 石井規衛」
  第7章「ロシア革命における共和制の探求」
  そして「あとがき」、つまり計4箇所も執筆している。
独壇場とはいわないが、池田的博学とリーダーシップあってこその論文集です。
ブルンナー、成瀬治、鳥山成人、渓内譲、和田春樹といった研究史の大きな流れのなかに、国制史家=石井規衛の仕事が位置づけられて、読者は目を覚まされる。
しかも中近世史では、渋谷聡、根本聡、中堀博司、そして
ロシア史では田中良英、青島陽子、巽由樹子、草野佳矢子、松戸清裕といった皆さんの章がある!

いまこちらで準備している共著『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社, 2016)は、けっして『国制史は躍動する』に負けない論文集ですが、それにしても、ぼくの担当する第1章にかぎって、研究史的になにか対応が必要かと思い、急ぎ読みました。

『国制史は躍動する』について各論より前に、ただちに思いつく研究史的な瑕疵は、ブルンナーや国際歴史学会議にも関連して、
1.世良晃志郎と堀米庸三の間であった「法制史」「一般史」論争に言及がないこと。でも、これはごくマイナーな瑕疵。
2.「国家と社会の区分が可能となる以前のヨーロッパにおける文明の内部構造の総体」「国家と社会の対置が成立しない秩序の総体」(pp.6, 13) を問うことには大賛成で、「友軍」といった感覚をもちます。しかし、それを狭く「国制史」に収斂させてよいのか。
むしろ、これはヴェーバーもパーソンズもハーバマスも問うていた根本問題ではないのか。ブルンナーが第二次大戦後に「社会=構造史」といった用語を使った理由は、なにもナチス的な臭いの残る Verfassungsgeschichte を回避するだけでなく、彼自身の成長を反映した、ある広さ・構造性を意識していたのではないのか、といった疑問をもちます。
ぼく自身は、これを「ホッブズ的秩序問題」、そして18世紀啓蒙の政治社会(political society)という概念から学び、解決しているつもりです(たとえば『イギリス史10講』p.133)。今後とも丸山眞男的な国家と社会の区分とはちがう地点、また市民社会欠如論ではない発想で、議論を進めたいと考えています。【→ 次の発言】
3.「ある社会の歴史的個性を総体として捉えるという国制史の視角には、‥‥同時にまた類型をも提示するという、二面性がある」(p.19)という文は、それだけ読むと悪くはないかもしれないが、しかし比較社会経済史の人々なら笑い出してしまうでしょう。大塚久雄・高橋幸八郎・遅塚忠躬といった先生たちは、まさしく
「ある社会の歴史的個性(specificum: なぜかラテン語)を総体として捉える社会経済史は、また同時に類型(Typen: なぜかドイツ語・複数)を提示することによって、比較を可能にする」
と考え、営々とそのような学問を構築していたからです。せっかく序論 pp.3-4 で「社会全体の仕組みを捉えん」とする志において社会経済史と共通すると示唆していたのだから、ここも注意深く書いてほしかった。

それにしても、本書が共著出版として立派なものであることに異論はありません。
岡本隆司(編)『宗主権の世界史:東西アジアの近代と翻訳概念』(名古屋大学出版会, 2014)と併読すると、なおさら価値が高まるでしょう。

 不意をつかれて慌てましたが、一晩たって、共著『礫岩のようなヨーロッパ』はこのままでも問題ない、しっかり公刊することが大事、と思えてきました!
 妄言多謝。

2015年10月20日火曜日

クレオパトラの鼻

 パスカル『パンセ』の3巻本。塩川徹也さんの新訳により、岩波文庫から刊行中

 上巻には「人間は一本の葦にすぎない。‥‥しかし、それは考える葦(roseau pensant)だ」【断章200番:p.257】がありましたが、今月刊の中巻には、いよいよ例のクレオパトラの鼻の想定があります。「もしクレオパトラの鼻がいま少し低かったら‥‥」という有名な断章ですが、前々から2つほど疑問でした。
1) 原文は Le nez de Cléopâtre, s'il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changé.
なのになぜ、普通の日本語訳では「もし」から説きおこすんだろう。そういえばルイ14世の科白とされる L'état, c'est moi.
についても「朕は国家なり」と語順を前後して訳す習慣ですが、なぜ? ささやかながらぼく自身が言及するときは「国家とは、朕のことなり」と訳してきました。
2) もう一つの疑問は、フランス語の plus court とは英語の shorter に当たりますが、これを「いま少し低い」と訳すのか。ちょっと(日本人のコンプレックスの反映した?)意訳だな、という感想でした。

 で、期待をこめて塩川訳『パンセ』断章413番を捜すと(そもそも恋愛論ですね):
 人間のむなしさを十分に知りたければ、恋愛の原因と結果を考察するだけでよい。その原因は「私には分からない何か」なのに、その結果は恐るべきものだ。この「私には分からない何か」‥‥が、あまねく大地を、王公を、軍隊を、全世界を揺り動かす。
クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し小ぶりだったら、地球の表情は一変していたことだろう
。【中巻、pp.43-44】

 上の 1) について言えば、語順をフランス語の出てくるまま順当に「クレオパトラの鼻」マルと、まず言い切ってしまう。じつは似た断章がすでに出ていました【上巻、p.238】。
 人間のむなしさを示すには、恋愛の原因と結果がどんなものであるかを考察するのにまさるものはない。なぜなら恋愛によって全世界が変化するからだ。クレオパトラの鼻。

この断章を丁寧に補って、クレオパトラの鼻を例に想定しての推論だとしっかり確認したうえで、もしそれがもう少し‥‥だったら、という非現実の仮定による counterfactual な議論に進むのですね。 ということは、同様に「国家と言えば、それは朕のことなり」という訳でよろしい、という免許をいただいたような気分!

 そこで 2) について見ると、「もう少し小ぶりだったら」ですか! ギリシア鼻か、ラテン鼻か、高いか低いか、長いか短いか、といったよく分からない論議をするよりは、court というフランス語には英語の short と同じく、「なにかが足りない」「不十分だ」という意味もあるので、そちらに寄せて「小ぶり」と言ってみたわけですね。
 そもそもパスカル先生は、「私には分からない何か」が、あまねく大地を、‥‥全世界を揺り動かすと言ったうえで、パラフレーズして「私には分からないエジプト女王の顔の真ん中の魅力」が大地を、カエサルを、ローマを、世界史を揺り動かした[ここまでは過去の事実]。もし、その女王の顔の真ん中の魅力になにか足りないものがあったなら[counterfactual]、カエサルもローマも揺るがず、プトレマイオス朝の運命も違っていただろうし、地球の全表情(toute la face de la terre)は一変していたでしょう、と言い切るわけです。
 すごいですね。【地中海の覇権のゆくえくらいで、「地球の全表情」なんて言わないでよ、とアジア人なら言いたくなります!】

2015年10月18日日曜日

文学部がひらく新しい知

 東京大学文学部にて、ホームカミングデイの催し
「文学部がひらく新しい知」という集会があるというので、行って参りました。
と言うより、むしろ、他ならぬ熊野純彦学部長・研究科長が
時空の近代、人文知の時空--あるいは国家と資本と文化について
という60分の基調報告をなさり、これに橋場弦、齋藤希史、唐沢かおり、といった論客が応じるプログラム。そうと知ってしまうと、行かずんばならず。勤務先には多少の無理を承知していただき、土曜の午後の本郷に参りました。
http://www.todai-alumni.jp/hcd2015/2015/08/post-d583.html
 「入場無料、定員200名(先着順)」
というので、まさか「満員御礼」、ご免なさい、となってはいかんと早めに一番大教室に着席しました。年齢層からいうと、ぼくくらい(ないしずっと年長)+20代くらいの学生たち、が聴衆のほとんどでした。

 仏文の野崎歓さんの当意即妙な司会により進行。直接的には、文部科学省が国立大学の「‥‥教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については‥‥組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」とした「見直し」にたいする否定的直観から出発した、熊野研究科長の哲学・倫理学の講話でした。和辻哲郎とハイデガー、そしてマルクス、ヨアヒム・リッター、バターフィールドが引用されました。
 熊野さんによれば、現在の文科省と国立大学法人で進行中の事態は、近代に確立した人文知の生産・再生産の「外部化」という位置づけです。ただし、これが≒民営化なのか、どなたかが言い換えられた「アウトソーシング」なのか、ちょっと分からないところが残りました。
 ぼくのような世代ですと、1970年代・80年代の国立大学の貧困と自由な時間(そこに民青的平等主義+物取り主義が貼り付いていました)は、94年以降の活性化と忙しさに比べて、ぬるま湯的であったが、けっして良くはなかった。90年代の変化は、大学院生への学振特別研究員制度、科研費による海外渡航の自由、といった明らかな改善が伴っていました。ただし、94年前後の大学院重点化にともなう制度いじりについては、何が良かったのか、ぼくには分かりません。

 3人のコメントは、それぞれの背景がちがうので、発言のトーンも違いましたが、ぼく個人としては、人文学および東京大学の特権性、あるいは野党性に居直るよりは、唐沢さんの「うちらこそメインストリーム」という矜持、齋藤さんのどこまでも交通と通信(マルクスなら Verkehr)を続けるという姿勢が望ましいと思います。
 そもそも国家の営みから「外部化」されたからといって、即、資本の市場に放り出されることを意味するのでしょうか。そこには「市民社会」「公共圏」「民間公共社会」などと呼ばれる領域、人文社会系の学問がさんざ論議してきた問題があります。ぼくたちの世代が平田清明を夢中に読んでいた、その直後にハーバマスが登場して、のたまうことには、公共圏と(広義の)営利活動は無縁ではない。金もうけやスキャンダルのニュースと、権力批判や繊細な文芸は表裏一体で新聞雑誌を発展させた、と。今日ではアソシエーション/チャリティ/NPO/メセナなどの語で言われる活動もあります*。
 論文の仕上げと競争的資金をゲットするための作文が重なって徹夜したり、寝不足のままアウトリーチ活動に出かけたり、といったことも若い時期にはあっても悪くはない。それにしても今日のディスカッションの教訓は、時には落ち着いて、自分の学問なるものが世のため人のためになっているか再考しよう;国民の血税から給料をもらっていることにどう申し開きをするのか(accountableなのか)沈思黙考してみよう;ということではないでしょうか。
 高踏的であるのは、どこか狂っている、健全ではない、と思います。

* J. ブルーア『スキャンダルと公共圏』(山川出版社、2006);近藤「チャリティとは慈善か」『年報 都市史研究』15(山川出版社、2007)

2015年10月5日月曜日

大学ランキングの意味


 Times Higher Education による大学の国際ランキングで東大、京大がそれぞれ順位を大きく下げ(23 → 43)(59 → 88)、ほかに去年まで200位以内に入っていた大阪大、東北大、東工大をはじめとする日本の大学が沈没した、と記事になっています。代わってシンガポール大(26)、北京大(43)などが日本の両大学より上位か同位に付けている、と。
https://www.timeshighereducation.com/news/world-university-rankings-2015-2016-results-announced
 べつにナショナリストとして言うわけではないけれど、第1に、どういった指標・計算根拠で算出された結果の一覧表なのか、ということを理解しないまま、煽るようなことを言ってみてもしかたないでしょう。米英をはじめとして、英語で教育している大学の順位を計算しているわけで、フランスの École Normale Supérieure が54位(東大より下)にあることにも現れているように、そもそもグローバル化=英語化という大前提で算出しています。
算出方法はこちら↓
https://www.timeshighereducation.com/news/ranking-methodology-2016
 詰まらんランキングなのですが、しかし第2に、この偏位性のあるリストのなかでも去年まで東大は23位、京大は59位、そして両大学以外にもコンスタントに3大学が200番以内に入っていた。それが今年はそれぞれ大きく順位を下げた。何故か、という問題は残ります。THEの解釈は↓
“Research depends on the free movement of both ideas and people, and countries that adopt a more closed stance pay the price in the end. This is a prime cause of the substantial long-term declines in the global position of research in both Japan and Russia.”
これにフランスを加えて『ふさがれた道』(Stuart Hughes)と言いたいのかな。
スイス・ドイツ・オランダから北欧圏は健闘しています(アメリカの人的資源の出所です)。ちなみに行ったことのある大学で、レイデン大は67位、コペンハーゲン大は82位、ルンド大は90位。

 ただし、日本の大学が一斉に順位を下げているのは、円安(ドル換算で相対的に低い評価になる)により、研究資金・予算・収入が下がったと見なされたことにもよるのではないでしょうか。逆に、中国の大学が一斉に順位を上げているのは、国策の「成果」はもちろん、半年くらい前までの強い元の反映でしょう。来年度はまた入れ替わる、ということが予想されます。 

 最後に THE の編集者は、日本の大学の「実力」について、次のような気休め(?)にもならないコメントをしています。グローバルにみたら数的に第3位の中位の実力、ちょっと製造業における実力と似ている!
But despite its diminishing performance, Japan still has strength in depth: it is third place in the world in terms of the number of institutions represented, with 41 appearing in the top 800.

 それにしても、旧帝大と、旧制の大学(東工大や東京医歯大など医・工学系の大学)のほとんどが、慶応、順天堂、東京理科大まで顔を出していますが、早稲田が601~800のランクのビリから3番目に名を出し、一橋大は顔を見せないといったリストに、いったいどういう意味があるのか、ということですね。
 見方をかえると、41/800 という数字には別の寓意があって、日本の「大学」と称するものの合計が約800ですから、そのうち医・理工系で通用する機関が約41という風にも読めるのかな?

2015年10月3日土曜日

遅塚先生

『日本経済新聞』には有名な「私の履歴書」とともに、そのマイナー版のような交友録のコラムがいくつもあり、それぞれ良いのですが、
9月29日(火)の「交遊抄」には立石博高さんが「青銅の気持ちで」と題して遅塚忠躬先生のことを書いておられます。東京都立大学時代(1969-87)に大学院生にどう接しておられたのか、ぼくの知らない世界ですが、でも立石さんが書いておられることは十分に想像できる。ぼくの知っている遅塚さんです!

ぼくが遅塚さんに初めて出会ったのは何年何月何日かいまとなっては言えないけれど、しかし、たしかに東大の授業再開後、ぼくは院生で、おそらく1971・2年のある日の本郷の西洋史研究室、今では談話室と呼んでいる、あの大きな机を囲む部屋でした(名誉教授たちの肖像写真はまだなかった)。遅塚さんのほうから、「あなたが近藤くんですか。遅塚です」とにこやかに明朗に、声をかけてこられたのです。
→ 写真
以後、本郷に非常勤講師でいらしたころ(1975-76年)にぼくは助手で授業を聴講する権利はなかったけれど、3・4学年ほど下の青木康や深沢克己などと一緒に講義を欠かさず聴いてしっかりノートに取ったものです。一言一句逃すまいと、可能なかぎり速く筆記する術を身につけました。そのころの深沢くんは目黒区のアパートと遅塚家とが案外に近隣だというのを発見して、ぼくたちにその喜びを語ったものでした。1976年10月、土地制度史学会の高知大会にまで一緒に出かけたのは、そうしたことの延長でしょう。みんな遅塚ファンだったのです(藤田さん、高澤さん、岩本さんをはじめとする女子学生だけではありません)。
その後もあらゆることでお世話をかけっぱなしで、パリのモンパルナスでの会食、サンドゥニへの珍道中とか、名古屋の研究会とか、たくさん楽しいこともありましたが、『過ぎ去ろうとしない近代』(1993年3月)以降、晩年は、むしろ先生とぼくとの距離感がはっきりしてしまいました。最後は、本郷構内でお一人でおられるところに遭遇したのですが、2010年の春、『史学概論』公刊の直前だったでしょうか、弱っておられました。
告別式で棺のなかの御遺体と、その脇に添えられていたものを見て、感極まり嗚咽したぼくにたいして、ある男が「近藤さん、泣いちゃだめだよ」と言いました。

先生の大きくて優しい声は、いつも心のなかに響いている。

「交遊抄」を読み、立石さんとぼくは近いところにいるのだと思いました。

2015年9月15日火曜日

おもろい大阪

 ぼくの父母は結婚してすぐに大阪・住吉区に住み、1945年3月の大阪大空襲に遭難してたいへんな思いをしました。松山に戻ったあと、1954年からは父が大阪梅田に通勤するにあたって、阪急・桂駅の近くに新居を構えた、といったことがありますから、ぼくは東京・関東しか知らない人びととは違う感覚をもっています。
それにしても、このところ大阪に行く機会がふえて、阪大・中之島センターに行くには環状線・福島駅から歩ける;中之島・川の手がおもしろいし、東洋陶磁美術館はすばらしい;そこから鉾流橋を渡って裁判所の裏手にまわると、古美術店やフランス料理店などの連なる一瞬、ここはどこだったかと迷うような街路が出現して、楽しいですね。
でも駅のエスカレータで、うっかり左手に立つ自分が目立つのを認識すると、こうした写真をおもろいと考えるのと相通じるものがありそう。
中之島の市役所で、こんなコーナーを見つけました。カワいいね。ぼくが東京で住んでいる深川から日本橋にかけても川の手です。近世までの大都市は、水運の便がなければ成り立たないとは、このブログでも先に書き付けましたかね。

堂島に米市場ができ、商売人の市民社会が形成される1730年は、なぜか時代的にロンドンで a polite and commercial people が語られるのと同時代です。
でも、こういう「面白い」大阪土産の命名はよそではしないと思うんですが。

2015年9月7日月曜日

Windows 10 へのアプグレード

土曜の夜のことでしたが、「案ずるより産むは易し」。
(予約だけは以前に済ませていましたが)何もトラブルなしで、開始して1時間(?)。じつは他のことをしながらの作業でしたので、画面をつねに見ていたわけではなく、それ以前に終了していたのかもしれません。
「数回 再起動します」
というメッセージが途中にあり、実際、何度も再起動していたようですが、Windows XP におけるように再起動のたびにpwを入力する手間はなく、機械的=自動的に「最後の処理をしています」まで進行しました。

心配していたのは、これまですでに蓄積していたソフトおよびデータ(ファイル)の保存と再構築‥‥というOS変更に付随する手間でした。そのために『日経 PC21』10月号〈Windows 10 アップグレード完全ガイド〉も買い込み、外部メディアも用意して臨んだのに、そうした支障や作業はありませんでした。拍子抜け。一番最後に「簡単起動」でのみ、pw入力が求められましたが。そして、心配していた「一太郎2011創」や「秀丸エディタ」といった旧ソフトウェア【今ではアプリと言うんですか?】も生きていて正常に使えました!
OS の変更(移行=引越)というより、あたかも同じOSのなかの「大事な更新サーヴィス」のような感じです。

遡って、先週までの現状を申しますと、わが3台のPC(自宅、Office、SSDノート)は、2014年春の XPの更新サーヴィス停止いらい、Microsoft Security Essentials 更新プログラムで生き延びていた、勤続6年ないし7年のヴェテランです。
大学の部屋にあるお仕着せの Windows 7、そして個人保有の機動的に持ち歩くべきウルトラブック(Windows 8.1)とぼくは相性悪く、必要に迫られないと使わないという不便きわまりない現状でした。
じつは12年前から居住する自宅の有線LAN 環境が良いので、無線のルータさえ去年まで入れずに過ごしていました! 去年秋のスウェーデン・デンマーク・ロンドンで借用した iPad 初体験、そして暮れのスマホ(Xperia)導入がなかったら、まだ wireless に転向していないかもしれない。
もっぱら思考し執筆し推敲するときは、インタネットに接続していなくても stand-alone で仕事できる(そのほうがメールも見ずに集中できる)という考え方だったのです。

今回アプグレードした Windows10 の画面は、ほとんど XPのそれに近く、物書き/考える人には懐かしいものです。ようやく、これにて XP はお役ご免。とはいえ、そのハードディスクは危機対応記憶装置として、そして時折は気分を変えての文章作成機(ワープロ専用機?)としてまだまだ働いてもらいます。
今週からの現有デヴァイスは、XPのままの物が3台、アプグレードしたWindows 10 が2台、スマホ(Xperia)が1台、となります。

2015年9月4日金曜日

鶴島博和 『バイユーの綴織を読む』


待望の『バイユーの綴織を読む - 中世のイングランドと環海峡世界』(山川出版社)
を手にしました。
綴織(つづれおり)の写真はすべてカラーで、関係史料をていねいに訳出しつつ対照するという編集。
ぼくの『イギリス史10講』pp.35-40あたりで書いたことに比べれば、当然ながら、はるかに叙述の細部にも、研究史的にいろいろな配慮が行きとどいていて、すばらしい。モチーフは、ただ「ギヨーム公がハロルド簒奪王を追討することの正当性」だけでなく、むしろ「ハロルド王の悲劇」をうたいあげた物語なのかもしれない。鶴島さんは、ハロルドの死についても、制作過程についても、よくわかる説明を加えています。

詳細な索引もついて、332+ページで 4600円という信じられない定価! 山川出版社としても「売れる」という確信を得たわけですね。
著者が「出版企画をもちこんだのは、30年近く前のこと」という豪傑ぶりですが、「日本語で書こう」(p.331)と方向転換するまでが大変なんだな。ぼくも肩をたたかれたような気がします。

謝辞には「神経的多動性症候群」と書き付けておられますが、
こういった作品を産んだのなら、それも悪くはないじゃないですか! 
若手のうちでも、成川くん、内川くんが少しはお手伝いできたとしたら嬉しいかぎりです。

2015年8月30日日曜日

安倍首相談話 と 賢人たち

ご無沙汰しています。暑い夏でした。
8月14日の「首相談話」について、旧聞に属するかもしれませんが、一言申しますと、有識者会議の強い意見の成果でしょうか、ミニマムの合格点になったと思います。満点ではありません。
とりわけ政府の責任で発表された英語版にも注意したいと思います。ぼくはこれを北海道・礼文で読みました。
「‥‥痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明してきました」という日本語が過去形だと問題にする筋もありましたが、英語では明白に、過去形でなく現在完了形です。
Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war.
念のため、現在完了形とは、過去のこと、終わったことでなく、present perfect (完璧なる現在)という時制です。高校英語では「現在完了の3つの用法」といったアホな教え方をしていますが、(経験・継続・完了のいずれであれ)あくまで現在を歴史的にみた表現。単純過去や単純現在とちがって、今を成り立たせているものの来し方を見通す時制でしょう。割り切っていえば、過去形でなく現在形であり、条件反射の時制でなく、今を歴史的に見渡す時制です。
The past is not dead; it's not even passed.
というフォークナとも共通する「歴史をみる眼」=「現在をみる眼」=「将来をみる眼」。これを、安倍首相の個人的な好悪をこえて公に発信せよと説得し、迫り、「うーん、しかたないか」と従わせた賢人たちに、敬意を表したいと思います。

2015年8月29日土曜日

永栄 潔

朝刊にて、永栄 潔 の名に遭遇。
『朝日新聞』を定年退職して大学非常勤講師や、高校同期会でも活躍している永栄。その著書『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』で第14回新潮ドキュメント賞を受章と。おめでとう!
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/documentsho/

千葉高校時代には陸上部でも生徒会でも活躍していた。女の子の心をときめかしてもいた。結局、結婚したのも同期の女子だ。ぼくたちが2年生の秋、翌年度から3年生を文系理系に分けて編成するという学校の告知にたいして、千葉高校の教養主義の終焉というので、ぼくたちはブツブツ言っていたのだが、全学集会で一人挙手して、教頭に質問があります、といった永栄は格好よかった。そのあと一人召喚されて、「はい」と言わされたらしい! ちょうどヴェトナム戦争、北爆の1964年だった。
今も体形を維持して格好いい68歳。どうぞお元気で!

2015年8月7日金曜日

首相の有識者会議

 毎日 暑いですね。
 例年、その暑い8月には20世紀史の史料や史実が公開されて目を覚まされますが、この夏は、8月14日録音の「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)の原盤発表にかかわり「御文庫付属室」の写真、そしてなにより安倍首相諮問の有識者会議「21世紀構想懇談会」の報告書が各新聞に載りました。この16名の「有識者」の選定にどういう力が働いたか存じませんが、北岡伸一さんのイニシアティヴは明らかで、9割方は現実的で穏当な委嘱だったと思われます。林健太郎も中曽根康弘も「侵略戦争」と認めているアジア・太平洋戦争ですが、なかには冴えない先生も交じっていて「国際法上定義が定まっていないなどの理由で「侵略」という語を用いることに異議が表された」とのことです。これがだれなのか、簡単に同定できますね。
 じつは靖国神社について論及していないのも不満ですが、とはいえ、まずは現首相に「読む気」になってもらわなくてはならず、そこは一種のレトリックとして、必要不可欠、絶対に踏まえるべきことを明記し訴えた、という位置づけでしょうか。

 ぼくの側では、もっと卑小なレヴェルでの発言ですが、『週刊読書人』7月24日号に〈上半期の収穫〉をしたためています。今年の3点は、
T.ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)、
J.ウァーモルド【どうしてワーモルドじゃないの?】『ブリテン諸島の歴史 17世紀 1603-1688』(慶応義塾大学出版会:Langford 監修の SOHBIの翻訳)、
そして
服部春彦『文化財の併合』(知泉書館)です。

2015年8月4日火曜日

Paul Langford 1945-2015

 ラングフォド先生の授業(講義)を、ぼくは1981年にケインブリッジの Faculty of History 棟で聴講しました。オクスフォードから一種の非常勤講師として1学期間だけいらしたのです。ぼくの2歳年上とはいえ、24歳から特別研究員(junior research fellow)として研究に専念し、 The Excise Crisis (OUP, 1975)をはじめとして、18世紀の諸イシューを焦点に、政治社会史をダイナミックにとらえようとする仕事を次々に発表する新しい星として、日本でも松浦高嶺さん、青木康さんをはじめ、知る人ぞ知る研究者でしたから、毎週欠かさず聞きました。あのとき36歳だったのですね。

 ぼくの先生 Boyd Hilton, そして John Morrill と同期で、同じオクスフォード歴史学の秀才3人組。Langford (18世紀)が、生涯、オクスフォードで教え、(HRB、一種、日本学術振興会の会長さんみたいな激務でロンドンにいた期間は別として)勤務したのにたいし、Morrill (17世紀)、Hilton (19世紀)の2人は、ともに以後ケインブリッジで生涯を過ごすことになった。オクスブリッジのどちらが上か、強いか、というのは(ほとんどセリーグとパリーグを比べるのに等しい)愚問に属するけれど、それぞれの歴史学部の顔となったわけです。
 その主著 Langford, Public Life & the Propertied Englishman (OUP, 1991) は Ford Lectures の大冊ですが、2つの意味で印象的でした。1) J. ハーバマスにただの一度も言及することなく18世紀イギリスの言論、公共性、ブルジョワ、商業生活を論じていること。2) 18世紀前半の宗派がもろに表面化する係争的政治文化から、後半への転換を論じるところで Kondo, The workhouse issue at Manchester (Nagoya University, 1987)が数度にわたり論及・引用されていること。

 1995年、ロンドン在住中でしたが、Joanna Innes の仲介でラングフォド先生の18世紀史セミナーで研究報告することができました。リンカン学寮の中庭に面した、明るい=ネオバロック風の部屋。事後に恒例の The Mitre で一杯飲んだあと、 Covered Market 近くのピザ屋で、上の2点について改めて尋ねてみました。2) については外交辞令的な(?)お褒めの言葉でしたが、1) についてはハーバマスなんて読んでないし、影響も受けていない、自分は経験主義史家だ、と繰りかえされました。

 まだ若いぼくとしては、こうした答えにはいささか不満が残る夜でした。しかし、この English elite のイメージとは異なる風貌の、オクスフォードを代表する知性と議論できて、なおぼくの側の地平の広まりと深まりが必要だと再認識したことでした。やはり南ウェールズの出身で、どこか John Habakkuk に似た雰囲気でしたね。
 しばらくご病気だったと聞いていましたが、訃報を聞き、いろいろなことが甦ってきました。ご冥福を祈ります。

2015年7月25日土曜日

日英歴史家会議(AJC)プロシーディングズ


 旧聞に属す、とお考えかもしれません。2012年9月にケインブリッジ大学トリニティホール学寮にて開催された第7回日英歴史家会議(AJC)ですが、その編集プロシーディングズは未刊行でした。諸般の事情が複合して、会議の後すみやかに刊行することかなわぬまま経過しておりましたが、この間の友人たちの奮闘努力により、ようやく公刊にいたりましたので、お知らせします。xii + 322 pp.の美麗な本です。
 表紙写真は開催時のトリニティホールで、会議場は手前にみえる看板の矢印のとおり直行して歩いたなお先にありました。The hidden gem という渾名をもつこの学寮において、History in British History を共通テーマにかかげた有意義で楽しい会議が3泊4日にわたり実現したのは、なにより11名のAJC委員(x ページにお名前が列挙されています)とロンドン大学歴史学研究所(IHR)、そしてトリニティホール学寮長ドーントン教授の協力の賜物です。

 じつは各セッションのコメント、また若手のペーパーについて収録できなかったものが少なくないことは残念至極です。もし時宜を逸したとのそしりがあれば、甘んじて受けます。巻末には Appendix として AJC の第1回(1994)~第7回(2012)のプログラムを収めました。これは後の刊行物ではなく実施時のプログラムによるもので、史料的な価値がないではないと思われます。
 たしかに完璧とは言いがたい刊行物ですが、Preface の最後にお名前を刻印した方々の助力があってこそ日の目を見ることになりました。叱咤激励をいただいた皆さまに感謝いたします。

 なお 今年8月10~11日には大阪大学中之島センターにて第8回日英歴史家会議(AJC)が開催されます。
http://ajchistorians.wix.com/ajc2015
 この本は、会場でも頒布される予定です。 近藤和彦

2015年7月11日土曜日

『文化財の併合 : フランス革命とナポレオン』

むしろ新刊書で驚嘆し、おもわず姿勢を正したのは、『物語 』よりなにより、
服部春彦 『文化財の併合:フランス革命とナポレオン』 (知泉書館、2015年6月)
です。
1934年生まれ(81歳!)の服部さんの、これまでとうって変わって、文化政治史のお仕事。「普遍主義ミュージアム」の立場からする略奪・押収・併合と、その後の祖国への返還を分析したモノグラフです。「研究史の概観と課題の設定」から始まって、書き下ろし、xii+481ページ。第Ⅱ部は「フランスにおける収奪美術品の利用」、その第4章は「フランス革命とルーヴル美術館の創設」です。18世紀の絵画カタログを多用なさっているようですが、これらの「ほとんどは現在インターネットで閲覧可能」と。服部先生は IT を活用なさっていたのですね。興奮します。

天上の河野健二、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬としては、これを見て脱帽するしかないのではないでしょうか。地上の現役研究者諸兄も、ね。

2015年7月10日金曜日

『物語 イギリスの歴史』

このところ AJC 2012 の会議録 History in British History の出版のために、何人かの助力をえて、火事場の踏ん張りのような日夜を過ごしました。この本は、8月の日英歴史家会議@大阪より前にご覧に入れることができます。

というわけで、近刊のみなさんの本については注意の行き届かないこともあり、君塚直隆『物語 イギリスの歴史』上・下(中公新書、2015年5月)は今ごろようやく拝見しました。上下2巻ともに巻頭の地図は、「近藤和彦編『イギリス史研究入門』(山川出版社、2010年)を基に著者作成」とあります。むしろ『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)を基に作成、とか記された方が正直か、と思いました。その他、日本語の出版も多用されているのは率直なのか、先行業績への敬意なのか。どちらにしても悪いことではありません。
でも、著者にはあまり研究史の展開/転回をアピールしようという気はなさそうです。ブリテン諸島の政治社会の複合性とアイデンティティについてなにか論じるとか、ヨーロッパ人や大西洋人やアジア人と混交した社会と歴史を呈示するとかいうことなしに、王様・女王様と政治家(politicians)の逸話をたくさん連ねただけの old-fashioned story なのでしょうか? 「帝国」という語もかなり安直に使用されていませんか? こういうことを続けていると、「だからイギリス史はつまらない」と、とりわけヨーロッパ史や中国史の先生方に揶揄されてしまうのです。昔からのパターンでした。逸話をたくさん連ねるのは良い。それによって読者の文明を見る目が修正され、歴史認識が広がり深まるなら。でも、ただトリビアが蓄積されるだけなら、退屈ですね。
「主要参考映画一覧」というのがあって、『冬のライオン』『ブレイブハート』から『英国王のスピーチ』『日の名残り』まで挙がっているのには、吹き出してしまった。『10講』の副読本だったのかと。ご免。でも『日の名残り』の英語原題名は間違っていますよ(下、p.241)、中公の校正さん! I remind you! ついでに「執事たち」という複数形も butler(使用人頭)は一人なのだから、可笑しい。

この『物語』上下は、著者の歴史観も出版社の志もよくわからない出版です。「きみの志はなんですか」と天上から尋ねる声が聞こえてきそう。

そういう事情もあって、おわりに(p.237)に「この辺で少しだけ単著は休ませていただき、‥‥と念じている」と記されているのでしょうか? そうだとしたらここは静かに、刮目して、君塚さんの次を見守りたいと思います。

2015年6月14日日曜日

立正大学 史学科の Facebook

紙媒体ではなく IT 空間で発信しようという方針です。

史学科の若手教員たちの奮闘により、このようなフォーラムが生まれました。
よろしく!
https://www.facebook.com/RisshoShigaku

2015年5月31日日曜日

オクスフォードの新総長

News and events

Professor Louise Richardson, currently the Principal and Vice-Chancellor of the University of St Andrews, has been nominated as the next Vice-Chancellor of the University of Oxford.

Prior to joining St Andrews in 2009, Professor Richardson lived and worked in the United States where she was Executive Dean of the Radcliffe Institute for Advanced Study at Harvard University.

Professor Richardson said of her nomination: 'Oxford is one of the world's great universities. I feel enormously privileged to be given the opportunity to lead this remarkable institution during an exciting time for higher education. I am very much looking forward to working with talented, experienced, and dedicated colleagues to advance Oxford’s pre-eminent global position in research, scholarship, and teaching.'

The Nominating Committee was chaired by the Chancellor of Oxford University, Lord Patten of Barnes, who said: 'The panel was deeply impressed by Professor Richardson’s strong commitment to the educational and scholarly values which Oxford holds dear. Her distinguished record both as an educational leader and as an outstanding scholar provides an excellent basis for her to lead Oxford in the coming years.'

Subject to the approval of Congregation, the University’s parliament, Professor Richardson will succeed the current Vice-Chancellor, Professor Andrew Hamilton, on 1 January 2016.

2015年5月29日金曜日

Christopher Bayly (1945-2015)

By Paul Lay < History Today, posted 13th May 2015

Paul Lay offers a few words on the eminent historian, who died in April.

The sudden, unexpected death last month of the distinguished historian Christopher Bayly, one of the pioneers of global history and a remarkable scholar of India in particular, came as a tremendous shock to those many who knew him, indeed anyone who had admired and absorbed his innovative, brilliant works.

2015年5月19日火曜日

日本西洋史学会大会 @ 富山

 富山で開催された日本西洋史学会大会、たいへん有意義に過ごすことができました。準備委員会の万端の用意と設営のおかげで、発表・討論も充実し、また懇親会の料理とお酒についても友人たちとともに感嘆いたしました。(じつは実際的にはたいへん大事なことですが、日曜日の昼食も生協食堂で明るく機能的、快適でした。)
日曜午後の小シンポジウムについても、複数の教室の間を移動しながら、いろいろと学びました。とはいえ、学術的に出席者すべてに強い印象を刻みこんだのは、記念講演の演者だったのではないでしょうか。

お二人の講演はそれぞれのお人柄がたくまずも伝わるものでしたが、個人的にはとくに立石博高さんのお話
近世スペインとカタルーニア:複合国家論の再検討
に感銘を受けました。なによりこれは第1に、近世ヨーロッパ国制史の先端的な「礫岩のような国家」論と「諸国家システム」論に棹さすもので、かつすばらしく具体的に立ち入った17世紀論でした*。スペイン・イベリア半島にかぎらず、同時代的な問題と受けとめました。かつての「17世紀の危機」論を今の研究水準で再考するならさらに得るところがあるでしょう(ぼくが学生のとき初めて Elliott という(詩人 T. S. Eliot ではない)名を意識したのは Past & Present 誌における general crisis of the 17th century 論争をめぐるエリオット先生の寄稿でした)。
第2には、学長という激務のなかで、よくまぁこれだけのものを準備なさった!と感嘆すべき密度の、明快な講演でした。中年以上の大学教師、研究時間の劣化を嘆く者すべてにたいする叱咤激励という効果があったのではないでしょうか。【*ただし『ヨーロッパ史講義』(山川出版社)をまだご覧に入れていなかった分、「時差」が生じてしまいました!】


学会のあと、日曜の夕刻には市庁舎の展望塔に登り ↑ 立山連峰を遠望して、さすが日本一の山塊という思いを新たにしました。望遠鏡も自由に見られて、この360度の眺望を無料で毎日・夜まで提供なさっている富山市の英断にも感銘しました。

委員会の皆さま、そして学生諸君にもお礼を申しあげます。 近藤和彦

2015年5月14日木曜日

酒都を歩く(英国編)

読売新聞 Online からこのような通知がきました。

>‥‥本村凌二先生の記事を今朝ほどアップしました。
>以下のURLです。
>http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150507-OYT8T50159.html
>2回にわけて掲載予定です。‥‥

関連ページがふえて、やや錯綜してきましたが、2月のぼくのインタヴューも含む、全体の「もくじ」はこうなっています。
→ http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/

あとの祭り

承前
従来のイギリスの世論調査、投票所出口調査(の方法)をめぐるマスコミ側の当惑は
→ http://www.bbc.com/news/uk-politics-32606713

労働党(と保守党)の将来については
→ http://www.theguardian.com/politics/2015/may/13/beware-of-instant-explanations-for-what-went-wrong-with-labour-campaign

2015年5月10日日曜日

連合王国(UK)総選挙の結果


1. 報道されているとおり、5月7日の庶民院(衆議院)選挙の結果は、
合計650議席(過半数は326)のうち、
現政権の保守党(Con)が24議席ふやして331議席へ
連立与党だった自民党(LD)が49議席へらして8議席へ
野党・労働党(Lab)が26議席へらして232議席へ
野党・スコットランド国民党(SNP)が50議席ふやして56議席へ
北アイルランドの民主統一党(DUP)が現状維持で8議席のまま
その他が2議席増やして15議席へ
となりました。
おおかたの予想に反して保守党が単独過半数を制し、これを機に基本的に政策構想の違う(社民リベラル的な)自民党との連立を解消し、保守党が単独で組閣するという結果になりました。
同時に(社民・EU的な)スコットランド国民党【民族党ではありません】がスコットランドの全59議席のうち56を占めて「圧勝」したわけですが、こうした事態について、日本のマスコミで明快な、筋の通る説明はありません。
一つは得票率と地域性を考慮にいれ、もう一つはSNPを「スコットランド民族党」と訳すことなく社民の地域党と認識すれば、ことは明白です。

2. 保守党またはトーリ党の正式名称は The Conservative & Unionist Party of the UK です。連合王国の保守・統一党。ディズレーリ以来の保守的=有機体的な世界・歴史観、したがって王制に親しい国民統合(one nation)主義、自由放任主義による「小さな政府」をかかげます。キャメロンは Thatcherのクールな「歴史の終わり」的アナクロニズムを反省して、ディズレーリ+ネオリベラル(それゆえの EU skeptic)で政権を運営してゆくようです。
親EUの自民党を切り捨てて単独政権とするという点で、(公明党を切り捨てない)安倍連立政権とは政治のやり方が違います。議席が24ふえたといっても、得票率は0.8%増で、むしろ現状維持。選挙上手あるいは敵失の結果といえます。One nationといっても、連合王国内の連邦主義に反対し、アイルランド・スコットランド・ウェールズを手放さない中央集権主義(England 中心主義)ですし、対外的にEU懐疑、親英連邦(pro-Commonwealth)、旧植民地以外からの移民規制に傾きます。

たいする労働党は、ブレア党首(1994)以来の New Labour, しかも Ed Miliband 党首は一時は moral economy を唱えていました。首都圏での善戦をはじめ、得票率は 1.5%増で悪くはない。ところが26議席も減らした。
なぜか? 歴史的に地盤としていたスコットランドで、社民路線のSNPに支持をさらわれてしまったから。これはスコットランド独立をめざすかどうかという国制(constitution)問題というよりも、現キャメロン政権(のあらゆる政策)にたいして明白な批判を呈示しているSNPへの支持という政治力学(politics)の問題なのではないかと思われます。
SNP(スコットランド国民党)はスコットランド以外で立候補せず、また近々にはスコットランド独立をはかるつもりもなく、むしろ連合王国政治におけるスコットランド地域の発言力をます、ということが目標です。
元来、グラッドストン、ロイドジョージ以来のリベラルと、80年代の労働党から分離した社会民主同盟がくっついてできた「自由民主党」(Liberal Democratic)-日本の自民党とは成り立ちが全然ちがいます- ですが、2010年から保守党と連立政権を維持して、不本意な「共犯者」の5年間を過ごしてきた結果、有権者から見捨てられたわけです。

3. 結局、これは推測ですが、
イングランドの従来の自民党(LD)支持者が → 保守党へ
スコットランドの従来の労働党支持者が → SNPへ
という大きな地滑りが生じ、スコットランドで労働党の死票がふえた、ということでしょう。選挙戦中には「接戦になる」という予想がもっぱらだったので、それに対応して SNPは anti-Tory, 保守党を連立政権から排除するために何でもすると明言し、つまり労働党=SNPの連立を予期していました。
蓋を開けてみると、232(Lab)+56(SNP)=288、これに8(LD)を足しても全然およばない。(スコットランドとロンドン以外では)反保守党勢力の完敗です。
保守党の one nation をかかげるキャメロン首相にとって、ウィリアム王子の姫シャーロットが選挙戦中に生まれ、大々的に報じられた、というのは、願ってもない追い風となりました。ナイーヴな愛国の国民は、王家とキャメロン一家と現政権下の繁栄を支持して投票場に行ったわけです。

投票率はUK全体で66.1%、スコットランドでは71.1%でした。【総選挙で66%すなわち3分の2が投票に行くというのは、現日本ではありえない数値ですが、イギリスでは伝統的に7割をこえていました。日本人よりはるかに political な nationです! ∴英国民としては(Scottish politics 以外では)、あまり燃える要素がない総選挙だったということになります。】
数値などデータは BBC および The Guardian(どちらも Online)、そして分析の前提は『イギリス史10講』(岩波新書)によります。

選挙予報・世論調査の信頼性という、もう一つの考えるべきイシューも露呈した総選挙でした。

2015年5月6日水曜日

SNP とは「スコットランド民族党」なのか?

 否。
 日本のマスコミは(新聞協会かどこかで決めたのでしょうか)5月7日の総選挙がらみで「スコットランド民族党」というのが存在するかのような報道が繰りかえされています。これは大間違い。
Scottish National Party とは、その公式のサイトには「スコットランド独立をめざす社会民主主義の政党です」とあり、民族うんぬんはいっさい言っていません。
http://www.snp.org/about-us

1) つまり右翼ではなく、社民の政党で、現保守党=自民党連立政権に反対する、というのが一番のポイント。選挙結果により連立が組まれる場合も、anti-Tory (トーリ党を政権に入れない)という方針で動く、と明言しています。
2) 雇用、福祉と地方自治、減税、環境、EU堅持を訴え、緊縮財政・ネオリベラリズムに反対しています。
votesnp.com/docs/manifesto.pdf

3) ロンドンの現 Westminster politics に反対してまずはスコットランドの発言力を増す、というのが第1の political な課題。次いで第2に(1707年に消滅した)スコットランド国の再生・独立、という constitutional な目標をかかげています。
すでに1999年からエディンバラに議会(Scottish Parliament)は存在し、機能していますが、完全独立国家になろうとしているわけです。(カナダやニュージーランドと同じような)英国王を元首としていただく、英連邦内の主権国家になろうという主張です。
4) その結果(おそらくは同君連合という関係になる)イングランド王国もまた改めて、手続きをへて独立国家となるのかどうか、ウェールズはどうするのか、は礫岩政体の、今後の重大・国制イシューですね。

∵なにより、大前提ですが、「スコットランド民族」というものは存在しません。ハイランドのケルトの血が騒ぐとかいっても、ロウランドは全然ちがうし、スコットランド住民には黒人もアジア系も多い。スコットランド国民(Scottish nation)という政治的な国民の党なのです。

結論:SNP の正確な訳は「スコットランド国民党」です。21世紀だから多民族党、というのではなく、Nation を民族と訳すことに無理がある。「国民」と訳しましょう。 ちなみに「アイルランド民族」というのも存在しません! すでに19世紀からアイルランド自治をかかげた Irish National Party 「アイルランド国民党」(80議席ほど)が、やはり二大政党政治のなかでキャスティング・ヴォートを握っていました。グラッドストンの時代にも理念型的な二大政党政治があったわけではありません。 cf. 『イギリス史10講』pp.227, 244-6, 267-8, 277-8.

 歴史学や政治学や社会学における常識を、マスコミの皆さんも考慮にいれて、尊重してくださいね。マスコミ(デスク)の知的水準が問われますよ。

2015年4月19日日曜日

『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)


こういうタイトルで「あたかも12名のオムニバス授業の渾身の一コマの記録」のような本を作りましょう、と呼びかけたのが 2012年5月でした。共著者の皆さん、公私ともに多事多端の折から、力作の原稿が出そろうまで難儀をしましたが(校正もなかなかたいへんでした)、最初の企てどおり12名の力作ぞろいの共著としてちょうど3年目に刊行されます。いま見ている巻末・奥付のゲラ刷りに 5月20日発行と記されています。
最初の「序」では「‥‥全体をとおして、時代によって変化する人と人の結びつきやアイデンティティ、政治や世界観をめぐって、ヨーロッパにかかわる世界の歴史のポイントを考える連続講義として」企画、執筆された、としたためられ、12の章は次のとおりです(すべてに副題が添えられていますが、ここでは省きます)。
 1.佐藤 昇 「建国神話と歴史」
 2.千葉敏之 「寓意の思考」
 3.加藤 玄 「国王と諸侯」
 4.小山 哲 「近世ヨーロッパの複合国家」
 5.近藤和彦 「ぜめし帝王・あんじ・源家康」
 6.後藤はる美「考えられぬことが起きたとき」
 7.天野知恵子「女性からみるフランス革命」
 8.伊東剛史 「帝国・科学・アソシエーション」
 9.勝田俊輔 「大西洋を渡ったヨーロッパ人」
 10.西山暁義 「アルザス・ロレーヌ人とは誰か」
 11.平野千果子「もうひとつのグローバル化を考える」
 12.池田嘉郎 「20世紀のヨーロッパ」

計247ページ、「入門書の顔をした小論文集」のような大学テキストです。図版や参考文献表もしっかり備わっています。 山川出版社から本体価格は2300円と聞いています。カバーのデザインは決まっていますが、その校正刷りはまだ見ていないので、色の具合などどぎつくないか、ドキドキして待っています。 → 追記:出来上がりは、シャープで端整な装丁となりました。物理的にあまり重くないというのも良かった!
ぜひ大学(および大学院)の授業でもご活用ください。請うご期待。

2015年4月18日土曜日

ピケティの仕事

 The History Manifesto (2014)も明示的に The Communist Manifesto (1848)のパロディ、あるいは「虎の威を借りて」登場したマニフェストといった側面がありました。別にこう言ったから The History Manifesto の価値が貶められるとは思いません。若い人に『共産党宣言』って何だ?と喚起する波及効果もあるし‥‥
Thomas Piketty, Le Capital au XXIe siècle (2013; みすず書房 2014)もまた Das Kapital (1867)を21世紀的に横領した命名です。でも、これは非難や否定ではない。
 → http://www.msz.co.jp/book/detail/07876.html


 ピケティの『21世紀の資本論』が力強く目覚ましいのは何故か。けっして一部でいわれているような
・「格差」の深刻さ/不可避性を明らかにした、とか
・日本の将来のための有効な処方箋が示されている、とか
いったことではない。ピケティは社民党や共産党の広告塔ではありませんし、アベノミクスの批判者として登場したのでもありません。
12月~3月くらいの新聞雑誌・テレビにおけるすごいブームが、年度替わりとともに後退したかにも見えますが、これはマスコミの浮気心の証拠ではあれ、ピケティの仕事の限界でも何でもありません。

 むしろ、学問的に彼の方法と議論がすばらしいのは、
1) 短期でなく歴史的に長期の(3世紀にわたる)データを集積し分析することによって、クズネッツの短期分析の誤り(時代に拘束された楽観論)を明らかにし、それまで見えなかった長期変動と法則性を見えるようにしてくれたこと【この点で、マルクス『資本論』における議会刊行物を使った本源的蓄積[原蓄]の長い歴史よりもずっと計量的で説得的な議論を呈示している】;
2) 「国民経済の型」があるとしても、それは50年以上もすれば変わりうることを示し;
3) 1930年代~70年頃までに(万国共通とはいわないが)多くの国で特異な民主的移行期を経験したこと、を説得的に明らかにしているからでしょう。
ぼくなら、経済分析における(久々の)歴史的dimensionの復権、or 歴史学における経済分析の再登場、or もっと端的に歴史学のルネサンスといいたい。

 なお以上に加えて、4) 付随的に、ニューディール期からヴェトナム戦争期までの間に成長し、知的形成をおこなったインテリたち(民主的知識人)の存在被拘束性があばかれ;丸山真男、岡田与好、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬、和田春樹から、ずっと下って、近藤にまでいたる、知と発言が相対化されているのではないでしょうか? 民主主義の歴史化。日本現代史の相対化。そういったすごい仕事だと受けとめました。

 学問は、その政策的な提言・有効性で評価するのでなく、その知的なインパクトで評価したい。

2015年4月15日水曜日

The History Manifesto

Guldi & Armitage, The History Manifesto (Cambridge U.P., 2014)
ですが、Creative Commons ということで、遅まきながらPDFをダウンロードしました。
http://historymanifesto.cambridge.org/

このページからコロンビア大学でのシンポジウム(conversation!)の動画も視聴して、アメリカの歴史家たちの知的健全さを再認識した次第。American Historical Review でもさっそく議論しています。

Thinking about the past in order to see the future ということ、あるいは
we are all in the business of making sense of a changing world というのが、歴史家の、忘れてはならぬ、自明の仕事・ミッションだとくりかえし説いています。
せいぜい5年計画、あるいは次の学長選挙までの任期の範囲内でしかものを考えない、今日の公共言説における歴史的=長期的発想の欠如から説きおこし、歴史の復権、長期的な big questions の大切さをとなえ、歴史学教育の細分化に警鐘をならします。
最初、索引をみて Hobsbawm, Tawney, Thirsk などが当然ながら見えますが、E.P. Thompson がなく、おや?と思いましたが、本文ではしっかり 41ページあたりで触れています。
歴史学者およびインテリの世代論(68年~70年代論)でもあり、そこで『歴史として、記憶として』も想起しましたが、後者の場合はセンチメンタルな懐古で、前を向いていなかったような気がします。
本書についてはピケティ先生も推奨者に名を連ねていて、さもありなんと思いました。
ルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房、2013)とも大前提は共通しますが、ルカーチよりもはるかにディジタル時代にたいして前向きで積極的です。
全体にむしろ、日本の歴史学界、人文学の現状への警鐘・警告ととらえるべきかもしれない。

2015年4月8日水曜日

作為の過ぎる ダウントン・アビ

 毎日曜夜の Downton Abbey について、前にも言及しました(2014年12月8日)。
http://kondohistorian.blogspot.com/2014/12/downton-abbey.html

 第一次世界大戦をはさむ変動の時代のヨークシャ貴族の館をセンチメンタルに描く period melodrama ということで、これまで見てきましたが、回を重ねるごとに、ちょっと盛りだくさん過ぎて、興がそがれます。登場人物が(制作側の理由で)都合よく死にすぎだし、また彼・彼女の気持は(視聴者の気を持たせるために?)フワフワと揺れすぎ。
 作者 Julian Fellowes は、時代考証もたっぷり、何十組の男女の交錯をしっかり描いたと自信をもっているらしいが、男女関係も、投資の破綻と相続信託の形成、所領経営も次から次に転回させているうちに coherence がなおざりになってしまう。
 この日曜には三女 Sybil が娘を産むとともに死にましたが、やがて長女 Mary の出産後に Matthew も事故死するそうです。二女 Edith はさらに男運のなさに翻弄されるらしい。悪役従者 Thomas の度重なる非行にもかかわらず、彼にたいしてグランサム伯夫妻が甘いのはよく分からない設定だし-いくら good, old days とはいえ-、せっかく出獄する Bates と Ana を襲うさらなる不幸の連続も、やりすぎです。

 結論として、かなり通俗的な視聴率ねらいのメロドラマで、「‥‥アイルランド、カトリック、ロイドジョージ内閣といった同時代史をまったく知らないシロートにも、衣装や有職故実が楽しめる」というねらいの21世紀的な「作り物」かな。Yorkshire accentをあまり強調すると、アメリカの視聴者にさえ英語が分からなくなってしまう、ということか、ローカルな労働者以外は、かなり標準語アクセントです。
そもそも NHKの放映でさえ、複数のエピソードが細切れに同時進行して楽しめないが、もともとイギリスのITVで放映されたときには、さらにコマーシャルが話の進行を分断していたわけだから、インテリには耐えがたい連ドラだったかもしれない。

2015年3月11日水曜日

BL の撮影解禁

12月19日のアナウンスに続いて、ついに MSS, Rare Books も! Asian ということは India Office Records もという意味ですね!
英国図書館(BL)を史料館として利用している者にとって、使い勝手が、大転換するということで、うれしい!

March 2015
Reader Service message
Self-service photography in our Reading Rooms

Dear Kazuhiko,

Following the initial roll-out of self-service photography http://email.bl.uk/In/77814854/0/ImXcnYgrN9plRfBAFSNb4zKFlqr1d9OGegMbENZPiJm/ in several of our Reading Rooms in January, we are pleased to tell you that this facility will be extended to the following Reading Rooms in March 2015:

• Asian & African Studies
• Business & IP Centre
• Manuscripts
• Maps
• Rare Books & Music

Our curators have been working hard behind the scenes to identify material that can be photographed. With over 150 million items in our collections this is a huge task that will take some time to complete. From 16 March 2015 a significant amount of additional material will be available for photography for personal reference purposes and curators will continue to identify more material appropriate for inclusion.

Items which cannot be photographed include (but are not limited to): those that have not yet been assessed as appropriate for photography; restricted or special access material; items at risk of damage; and items where there may be data protection, privacy or third party rights issues. This will be a small proportion of our overall collections. Of the material ordered across all of our Reading Rooms in 2014, more than 95% of those items would now be available to photograph.

You may use compact cameras, tablets and mobile phones to photograph material and any copies made must not be used for commercial purposes. As with our current copying services, copyright, data protection and privacy laws must always be adhered to.

Before using your device to take photographs, we kindly ask that you view our Self-service Photography Video http://email.bl.uk/In/77814855/0/ImXcnYgrN9plRfBAFSNb4zKFlqr1d9OGegMbENZPiJm/ This video outlines the new policy, along with information on copyright, data protection and collection handling.

A handout, available in the Reading Rooms, explains this facility and if you need further advice or assistance, please speak to our Reading Room staff.

Best wishes,
Reader Services

2015年2月24日火曜日

『史苑』75巻1号の書評

『史苑』(立教大学)の75巻1号(2015年1月)のPDFが送られてきて、拝見しました。青木 康さんが『イギリス史10講』をたっぷり書評してくださっています(pp.229-235)。
3週間あまり前に『西洋史学』に載った金澤 周作さんの書評は、『10講』を評しつつ彼じしんを語るかのごとく、若さ溢れる文章でした。『史苑』の青木さんの書評も、空気は全然異なるけれども、評者の人柄が巧まずして現れる、明晰な文章です。しかも読者の必要を配慮して(?)註の付された文章で、ありがたく受けとめました。

なお確認になりますが、
I. 『イギリス史10講』は、岩波新書としてはすでに限界を越えそうな分量でした。索引についてコメントしてくださっていますが、その項目は900以上用意したのを最終的に292にしたので、無理が残りました。刊行の1ヶ月前に、(本文が長くなりすぎたので)索引は4ページが限界と申し渡され、岩波書店の一室に2度にわたって缶詰になり、項目を削りました。
最終的な取捨選択基準としては、人名が時系列的に素直に(定石的な位置に)出てくる場合は、エドワード2世もフィリップ2世もヴォルテールもペインもエンゲルスも、アルバート公や E.パウエルさえも割愛するということにしました。研究者名についても、索引に日本人はほとんど登場しません。これでも「索引無しよりは、よほどまし」と自分に言い聞かせながらの苦しい作業でした。通常よりかなりポイントが小さいことにお気づきでしょう。

II. 本文最初のページ(p.3)で「アイデンティティと秩序のありかたに注意しながら、できるだけ具体的なイメージの浮かぶように述べたい」と記しているからには、「イギリスの通史‥‥の変化とそれらを通じての統一性を体現する要素」については、たとえば「王位の正当性の3つの要件」を -①②③という印とともに- p.33~p.274の間に 数度にわたって刻んでみました。これをご指摘のp.142 にも、またヴィクトリア治世の最初と後半(pp.214-15, 217-18)、1936年の王位継承危機(p.274)、そしてサッチャ期の王室と国教会(p.298)にも繰りかえし明記しても良かったかもしれませんが、くどくなるかな、と迷いました。
王を推挙したり承認したりする政治共同体については、中世史で「賢人‥‥すなわち歴史を知る聖俗の有力者」といった言い方から始まり、近世・近代・現代では「議会と教会」(p.158以下)にフォーカスすることになります。

III. 17世紀以降、トーリとホウィグのアイデンティティの核心らしきもの(pp.139, 160, 205-6, 213 . . . )、そして「ピットは‥‥自由主義者である」(p.204)と記述するときには、もちろんフランス史研究者たちと同時に青木さんの顔を思い浮かべていました。ピット、ピール、グラッドストンを同列に扱い、新自由主義者ロイド=ジョージと対照する(pp.257-8)というのは単純化しすぎ、とされるかもしれません。
また19世紀末からの現代的情況への取り組みとして、チェインバレン、ウェブ(ほかの社会主義者たち)、ランドルフ=チャーチル、ロイド=ジョージの交錯(そのなかにアイルランド・スコットランド・ウェールズ・インドなどの Home Rule 問題も組み込まれる)などをもっとしっかり浮き彫りにできればもっと良かったでしょう。そこは示唆に留まったかもしれません。
読者には明快な筋を示し、同時に問題の広がりと深さみたいなものを示唆して、各々考えていただく、というのが執筆の基本方針でした。ODNBや『イギリス史研究入門』のような参照文献は、巻末に明示しています。概してイギリス人歴史家の文章は、思い切りがよく、かつ余韻がのこる。政治も文化もしっかり取り組み、解釈する姿勢を、見ならいたいと思います。

IV. それにしても、ご指摘のとおり「‥‥近年有力となっている研究動向に積極的に向き合って叙述した結果、本書の上述の特徴が生じた」というのは真実です。『10講』のための勉強によって、ようやく「わかった/見えた」という論点が多々あります。「ハムレット」や「ぜめし帝王」や「本国さらさ」や「ワイン」(in vino veritas)では知的に遊ぶことができたし、また『福翁自伝』から『米欧回覧実記』『80日間世界一周』への繋がりは、年来あたためていたアイデアでもあり、pp.226-231で印象的に語れたかな、と思います。ビアトリス・ウェブ(pp.239-243, 278)についても、ケインズ(pp.271-272)についても、もっともっと素材はあるのですが‥‥
とにかく分量との、そして時間との戦いでした。キビキビとストーリを展開し、イメージ豊かに、しかも理屈はしっかり述べるといった、欲ばりの本でした。

ところで今日、再見した映画『イングリッシュ・ペイシャント』で、火傷で死に瀕したラズロ・アルマシ伯(Ralph Fiennes)が言っていました。「きみの読み方は速すぎる。キプリングの書いた速度で読んでくれ。カンマを付けて!」
この恋愛至上主義の映画の隠れたテーマは、20世紀前半のインテリたちの読書癖(ヘロドトス‥‥)と、朗読する習慣ですね。

2015年2月14日土曜日

ぶりてん数寄

きのうの続きですが、読売新聞オンラインの「ぶりてん数寄」には↓
http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150127-OYT8T50116.html
↑「坂次劇場」のシティ観光案内にことよせて、かなり単刀直入に
イギリス法の世界、そして信託法チャリティの歴史に読者をいざなう、たくみなウェブページもあります(やはり3回物)。
グローバルに仕事をするビジネスマンにとって、コモンロー、信託(基金)法、そしてチャリティの理解は必要不可欠です。小坂記者は「タテマエとホンネ」という筋に話を落とし込もうとされていますが、ずっと本質的な問題だろうと思います。
『イギリス史10講』では、公益団体、endowment、そして「ワクフ」や国のかたち論(pp.219-221)にまで言及してみました。
これには小松久男さんが『史学雑誌』の回顧と展望(2014年5月)でさっそく反応してくださり、ほっとしたものです。

2015年2月13日金曜日

ワインな英国人


12日に読売新聞オンラインの記者さんから下記のような連絡が参りました。
題名「酒都を歩く(ぶりてん数寄)」「ワインな英国人」からもご想像のつくとおり、帰宅途上にスマートフォンで読むようなライトな記事(3ページもの)です。

≪先ほど、インタビュー記事をアップいたしました。
 URLは以下の通りです。
http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakababanashi/20150130-OYT8T50208.html

また、連載記事の紹介を在日英国大使館が運営している Taste of Britain でも
紹介させていただいています。
https://www.facebook.com/oishii.igirisu

ヨミウリオンラインにアップ後、使用している写真の一部を使い、こちらのフェイスブックでも紹介をする予定です。≫

2015年2月7日土曜日

工藤光一さん

もう1ヶ月近く経ってしまいましたが、1月10日に工藤光一さんが亡くなりました。56歳でした。先月にはある方からメールで悲報をいただきましたが、昨夜は、ご夫人からの寒中見舞いが到来しました。

彼が院生の頃からのつきあいで、いろいろな場面が想い起こされます。樺山先生のお宅で毎正月に開かれていた(らしい)「一斗会」のこととか、柴田先生と彼とのやりとりとか‥‥。外語大からの、自他ともに任じる二宮宏之さんの愛弟子の一人でしたから、『二宮宏之著作集』第3巻(岩波書店、2011)の「解説」も執筆しておられます。闘病生活が長いことは存じていましたが、そのころは復調していたようだし、ぼくとしてはこの文章のトーンに不満で、そのように伝えました。

ぼくが「礫岩政体と普遍君主:覚書」の最後を執筆したときに想い浮かべていた人の一人が彼であることを隠す必要はないでしょう。
彼とのメールのやりとりの最後は2013年6月13~14日でした。
工藤さんの長いメールには次のような部分がありました。
以下引用
‥‥「礫岩政体と普遍君主:覚書」は、スケールの大きな問題提起にうならされるとともに、「おわりに」の二宮先生のお仕事についてのご見解には、考えさせられました。確かに、1990年代以降の二宮先生については、エトノスの複合性をふまえたうえでの res publica 論やホッブス的秩序問題、思想史・概念史にかかわる議論は棚上げされたかにみえます。ルフェーヴルの「革命的群衆」論文が集合心性の研究への橋渡しとしていかに枢要だったかを強調される一方で、「複合革命」論には言及されなかったのもご指摘のとおりでしょう。からだとこころとソシアビリテを軸に「社会史」ないし「歴史人類学」を構想してゆくうえで、「複合革命」論を取り込むことは、さしあたって必要なかったということなのかもしれません。
ご高論の中で、二宮先生の「文化史的な内向の磁力が、追随する若手研究者におよぼす抑制的影響力」を懸念しておいでで、「2000年代の内省的二宮は、具体的にその〔六角形の〕枠組ををこえて内外に浸透した秩序問題、そして概念史、世界史へと研究を広げようとする者に対する抑止力でもあった」とおしゃっておいでですが、「抑制的影響力」や「抑止力」という二宮先生が一番嫌われた力が現にあとに続く者に働いているかというと、私にはそうは思えません。私の場合、確かに「六角形の枠組」を越えることなく、フランス農村世界の政治文化史に一貫してこだわってきましたが、これは二宮先生からの直接的な影響力によるものというよりは、アラン・コルバンの「感性と表象の歴史学」が政治史に新たな地平を拓いたことに触発を受けています。コルバンの研究によって、農村世界の政治文化史には、まだ広大な未開拓の領野が残されていることが明確に見えてきたと思っています(詳しくは、『歴史を問う4 歴史はいかに書かれるか』岩波書店、2004年に所載された拙稿「記録なき個人の歴史を書く―アラン・コルバンの試みが意味するもの」pp.105-106をご参照ください)。
この未開拓の領野を切り拓いてゆく方向性において、私は二宮先生の「呪縛」なるものを感じたことはありません。他の研究者の場合は分かりませんが、多くの人たちが「偉大な先達をおもいつづけ、そのたおれたあと、未完の課題を引き継いで前へ進もうとする」点では、近藤さんと同じ立場を採っているのではないでしょうか。二宮先生のあとに続く者たちの間に、大塚史学の場合のように、「護教論者の集団」ができるようなことはないと信じています。
自分の病に対する不安で、少々鬱々とした気分でいましたところに、近藤さんから喝を入れられた思いがいたしました。刺激を与えて下さったことに深く感謝いたします。
工藤光一
以上引用

これにたいして、ぼくは謝意を表すると同時に、「‥‥歴史学はなにより体力勝負のようなところがあります。ぼくも家族も壮健ではありませんが、どうぞお大切に。」
と書いて送ったのでした。そのあと1年半、ついにふたたび拝顔することはかないませんでした。
ご冥福を祈ります。

2015年1月29日木曜日

『西洋史学』253号の『イギリス史10講』評

新年のご挨拶もないままで、失礼しました。余裕のない、しかし皆さんの厚意に守られた日夜がつづき、このブログの更新どころではありませんでした。

学年末、あわただしくも憂鬱な気持でいるところに『西洋史学』253号(2014年)が岩波書店から転送されてきました。金澤周作氏による『イギリス史10講』の書評(pp.63-65)があり、拝読、再読。これだけ「相当の気構えで臨んだ」書評をしてもらえるのは、人生でしばしばあることではなく、著者冥利に尽きるというものです。記されているコメントはいちいちごもっとも。さらにはこちらの意図を忖度して言語化してくださる部分もあります。
感想と弁明を、ちょっとだけしたためてみます。

I. ご指摘のとおり、『民のモラル』(1993年)で描いたような猥雑さや民衆的な生活文化が後景に退いているのではないか、という点は、自分でもこれ以外の書き方はないのかと思案したところです。結局は「国のかたち」「秩序問題」で筋を通すことにしました。政治社会史です。民衆文化的なところにはあまり歴史的変化の相は認められず、丸山眞男なら basso ostinato とでも呼ぶようなものを感じました。
ぼくは決して本質論的な/国民的な political culture 探しをしているわけではないので、その傾きのある「政治文化」論には反対でいます【歴史学研究会(編)『国家像・社会像の変貌』2003年】。むしろ歴史的に与えられた条件のもとで取り組まれた政治構想にこそ、今の興味と課題はあるようです。大学1年で学に志してからすでに50年近くも遍歴したぼくの今の営みを「広義の intellectual history」と呼んでくださるのに異存はありませんが、「卓越した人物たちが織りなす政治史(ハイ・ポリティクス)」とは、すこし違うのではないかという気がします。High politics とは politician たちの(政権/覇権をめぐる)権力闘争・合従連衡のことであって、政治構想・秩序問題の論議とは、やや次元を異にするか、と。
「認識論的歴史プラトニズム」とは、正直のところよく分からない表現でもありますが、しかし、水田洋さんが柴田三千雄『バブーフの陰謀』(1968年)の書評で「(意味ある)歴史とは結局、思想史なのではないか」といったコメントを記されたのを想い出しました【『史学雑誌』1969年】。クローチェが下敷きのコメントかもしれませんが、名言ではないでしょうか。

II.「‥‥作者のコントロールを越えたポリフォニーよりも、指揮者的な筆者が‥‥編成するシンフォニーが目立ってしまう」という評は、至言です。突き詰めると、近藤は、『フィガロ』のような遊びを知っているアマデウスより古典主義的な意志を通した晩年のモーツァルトの構成的なシンフォニー、そしてほとんど古典主義とロマン主義を体現したベートーヴェンのほうに、換言すれば「近代」に寄り添ってしまっている;その意味で、柴田史学を批判しているようにみえても、じつはその掌中で遊んでいたにすぎない - ということになるでしょうか。
「この‥‥作品を乗り越える一つの方向性は、多声性を叙述に反映させることにある」というのは当たっています。なにしろ通史は生まれて初めての経験でしたから(中学・高校の教科書で世界史を編集執筆したし、また別にヨーロッパ近世史の叙述を繰りかえしてはいますが)、そこまでバロック的な冒険をする自信はなかった。

III. なお最後に「‥‥見る主体である自分自身を反省し、哲学を定めて叙述する」と記しておられます。ぼくの場合は16年間の取り組みによってこそ、自分自身の歴史観/世界観は形成されたと思います。成熟したと言いたいところです。この間の情況的な転変に影響されていることは否定しませんが(ブレたのでしょうか?)、それはまたピューリタン的な純粋主義/原理主義をどう見るか、スミスを、豹変する君子たちをどう理解するか、帝国の経験と公共財、マルクス主義とは全然ちがう企てであるケインズやガンディをどう受けとめるか‥‥といった具合に、「一気呵成に書き下ろすやり方では不可能な」、試行錯誤というか、迷妄と勉強の産物です。
「哲学を定めて」それから書き出したのではなく、E・H・カーが歴史家の仕事について述べているひそみにならえば、史料文献を読みつつ、あるとき興が湧いて書き出し、一定程度すすむとまた史料(というより辞典から始まってあらゆる文献やインターネット情報)に返ってそれを別の視点から読み直す‥‥といった往還の繰りかえしでした。能率が悪く、あまり合理主義的でないぼくの仕事(歴史の作法)のせいで16年もかかってこの程度の書物となりました。叙述しながら哲学していたのです。

感動的な書評に動かされ、元気をいただきました。多謝。 近藤和彦