2018年6月6日水曜日

階級闘争の歴史

 <承前>
 いま立正大学の院生たちと一緒に読んでいるテキストは、Gordon Taylor, A Student's Writing Guide (Cambridge U.P.). この p.10 に挙がっているエピソードを、昨日のラウル・ペック監督は味読すべきだと思いました。

... when I read those words by Karl Marx, 'The history of all hitherto existing society is the history of class struggles', childhood memories made me say 'and that's true!', just as years of reading and observation later were to fill in the details for that proposition and raise doubts about what it leaves out.

 そう、階級闘争は、ことの一面にすぎない。それ以外のことが人類史には一杯ある。読むべきこと、考察すべきことをネグレクトして、問題を単純に絞り上げて「敵」を示した上に、ナイーヴな大衆を扇動したマルクス・エンゲルスは、ほとんど文革の毛沢東と同罪、共和党のトランプと同じかもしれない。

 19世紀前半まではどうか知らないが、少なくとも1848年『共産党宣言』以後の社会主義運動にとって、ブルジョワ社会を倒したあと、どういった社会を創るのか、そして議会や国家、そして正しい者の「前衛党」といったものをどう機能させてゆくのか、こうした問題をきちんと考えることができないまま(棚上げにしたまま)、「批判的批判」に甘んじていた。これは、重大な欠損でした。

 というわけで、映画「マルクス・エンゲルス」は「カール・マルクス生誕200年記念作品」と銘打つには、足りない出来。責任の過半は、監督と制作スタッフの力量不足にあるかと見えます。
 いかに今の世がひどい、ネオリベラルが跳梁跋扈しているからといって、旧態依然たる共産党のプロパガンダでよしとするのは、人民への愚弄だと、ぼくは受けとめます。そう、ぼくはマルクス主義についても、ピューリタニズムについても、修正主義者です。悪しからず!

1 件のコメント:

Yoshiro さんのコメント...

私もマルクス・エンゲルスの党派性をそのまま描いているところは、どういう意図なのだろうと頭をひねってしまいました。党派性を客観的に描くことで彼らの限界を示す、とかそういうことなら驚きはしないのですが、何となくこの監督は二人のあの戦闘性をかなり肯定的に描いている(若気の至り、ということも含めて、あれくらいの勢いがなければ世界は変わらないのだと言わんばかりに)。しかし義人同盟(正義者同盟という変な訳がついていましたが)の乗っ取りのあたりは、ボリシェヴィキが1917年から18年あたりに他党派や民衆運動を相手にやっていたことそのままで、正直辟易しました。『宣言』をみんなで書いているあたりは流石に感動したのですが、そのあとでボブ・ディランが流れてストレートに現代の格差問題につなげられると、もう少し歴史性を考えて19世紀のヨーロッパを見なければ駄目だろと思ったのでした。プルードン、バクーニン、ワイトリングといった面々がかえって個性的でした。都市や工場の情景もなかなかリアル。マルクスとエンゲルスもあんな感じかなと思いましたが、イェニー・フォン・ヴェストファーレンは全く違う。女優としてはいいのだろうが、アリストクラティックな感じがなければジェニーではない。