2024年2月12日月曜日

『ボクの音楽武者修行』その2

そういうわけで、中3(1962)の8月には3・4日かけて音楽室でベートーヴェンの全交響曲をスコアを見つつ聴く、といったこともやりました。学校にあったのはブルーノ・ワルター(コロンビア交響楽団)のステレオ録音全集。音楽室の音響環境を十分に生かすにはモノラル録音は不足、ということで、これを聴いたのですが、この点、今になってみれば、異議ありと言いたいところ。ぼくたちはフルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラーなどのモノラル録音を聴き、しだいにフルトヴェングラーに圧倒されるようになっていたのです。
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】

小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。

2024年2月11日日曜日

『ボクの音楽武者修行』その1

小澤征爾さんが亡くなった(1935-2024)。
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!

2024年2月5日月曜日

「68年世代」の修業時代

とくにどうということのない小文ですが、〈わたしの問い、わたしの研究〉というコーナーに
「68年世代」の修業時代」 → https://ywl.jp/view/cIqWX  という、回想をしたためました。
山川出版社のサイトで『歴史PRESS』のNo.17(12月号)、計4ぺージ。ダウンロードなどできます。かつて「70年代的現象としての社会運動史研究会」を『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)に寄稿しましたが、それと対をなすものです。
こんなものを書いた動機の一つは『歴史PRESS』誌から依頼があったからですが、もう一つは、昨夏の終わりにある人と同道した列車中の会話でした。
彼は、「今の学生たちは、"全共闘とかいって暴れていた学生たちは何も勉強せずに卒業していった" と考えているようです」と話を持ちかけ、ぼくを挑発して(?)きたのです。
いまは昔 年譜・著作ノート』(2012年3月)と合わせて読んでくださると、年次が分かりやすいかと思います。1969年12月に「文スト実」の最後の会議で、無期限ストライキの解除決議をした後のことですが、70年の春だったか、再開された柴田三千雄先生の授業2コマの期末の課題として2つのレポートを提出しました。ことの顛末は、2013年12月『10講』の刊行時の柴田家にまで及びますが、こんなことをしたためたのは、上の会話への答えといった意味もあります。
ところで、その69年12月に最後の「文スト実」を招集して筋を通した委員長Yは、その後、卒業論文「戦前における社会科学の成立」を70歳になった2017年に復刻自費出版し、さらに -「初心を忘れることは一度もなかった」と本人は言う - それを飛躍的に展開したような実証研究を2021年に公刊しました。グローバルにわたるフランクフルト学派の社会思想史/学問史です。

この1・2週にわたって新聞紙上では、「東アジア反日武装戦線」とかいうテロ組織の Leftoverメンバー、桐島聡のこと、その近辺にいたかもしれない「連合赤軍」の男女の惨劇などを想い出したように書きたてています。1974年~75年に三菱重工・三井物産‥‥大成建設・間組をはじめとする海外進出企業をねらった爆破・襲撃を繰りかえしていた秘密集団です。ぼくもYも、こういった悲しくニヒルな小宇宙とは全然別の世界、対話も成り立たない所にいて、思考し議論していたのでした。ミリゥ(milieu)が違った、と「総括」するほかありません。

50年余をへると、昭和も遠くなりにけり。「語り部」としてきちんと語り明かしておかねばならないことも少なくありません。

2024年2月2日金曜日

みすず『読書アンケート2023』

みすず書房から【WEBみすず】を定期的にいただいていますが、
https://magazine.msz.co.jp/backnumber/
【お知らせ】月刊雑誌『みすず』新年の号に恒例の特集として掲載してまいりました「読書アンケート」は、本年から書籍『読書アンケート2023』として2月16日に刊行予定です。全国の書店を通してご注文になれます。
ということです。例年のことになりましたが、ぼくも執筆しています。
1.M・ウェーバー『支配について』 I、II 野口雅弘訳(岩波文庫、2023-24)
2.嘉戸一将『法の近代 権力と暴力をわかつもの』(岩波新書、2023)
3. E. Posada-Carbo, J. Innes & M. Philp, Re-imagining Democracy in Latin America and the Caribbean, 1780-1870 (Oxford U P, 2023)
4.R・ダーントン『検閲官のお仕事』 上村敏郎ほか訳(みすず書房、2023)
5.大澤真幸『私の先生』(青土社、2023)
についてしたためました。
じつは原稿を送ってから、「そうだ、この本も逃してはいけない重要なお仕事だったのに」と気付きました。その本については、また別途、きちんと論じなくては。

2024年1月31日水曜日

『イギリス史10講』ハングル版

『イギリス史10講』(岩波新書)の初版は2013年12月20日に出ましたので、まる10年を越えたところです。さいわい今も増刷を重ねて、去年春には第16刷が刊行されています。第2刷から以後、ごく微少ながら訂正・改良を重ねてきました。
2021年に中国語版が中国工人出版社から刊行され、そのことについては、こちらにもしたためました。
今年の2月中旬にハングル版が出るとのことで、そのカバーデザインが呈示されています。ご覧のとおり、出版社はAKコミュニケーションズ、書名タイトルは『イギリス史講義』とのことです。
  ブリテン諸島のうち海峡諸島やオークニ、シェトランドは消えて、若きエリザベス2世のイメージの中抜きでユニオンジャックが現れる、というのはいささかproblematicではあります。とはいえ、訳書を出してくださるということ自体に深謝しております。
そもそもは初版、第1講の終わり(p.16)に、
「イギリス史はけっしてブリテン諸島だけで完結することなく、広い世界との関係において展開する。‥‥海の向こうからくる力強く新しい要素と、これを迎える諸島人の抵抗と受容、そして文化変容。これこそ先史時代から現代まで、何度となくくりかえすパターンであった。こうしたことをくりかえすうちに、やがてイギリス人が外の世界へ進出し、他を支配し従属させようとする。その摩擦と収穫をはじめとして、さまざまの経験を重ねつつ、競合し共存し、それぞれに学びあい、新しい秩序が形成される。」
と記しましたとおり、そうしたことを具体的にるる述べた本です。
他に例のみられる、王と妃のゴシップを書き連ねたものとも、議会制民主主義の手本となる「国史」の道筋をかたったものとも違います。とくに「現代史」の知的な群像については、『「歴史とは何か」の人びと』であらためて表現してみようと目論んでいます。

2024年1月30日火曜日

イスラエル=パレスティナ問題(3)

ぼくが学生のころですが(1960年代後半~70年代はじめ)、イスラエルにはキブツ(kibbutz)というすばらしい農業集団(今でいう地産地消の共同体)があるというので、社会学の学生でそこへ行ってしまった者もいました。反資本主義・反スターリン主義のユートピアかもしれない、と「キブツ」(労働シオニズム)に身を投じたのです。カストロのキューバと同じようなイメージで語られていました。彼は今どうしているのでしょう。そもそもキブツの理念は、今どこに行ったのだろう。
南アフリカ共和国がイスラエル国家によるジェノサイドを指摘し糾弾し、国際司法裁判所(ICJ)に提訴をした件につき、『朝日新聞』1月26日の記事は、中学生のようにナイーヴでした。https://ml.asahi.com/p/000004c215/23431/body/pc.html
それと対照的に、28日(日)夜9時からのNHKスペシャル「衝突の根源に何が 記者が見たイスラエルとパレスチナ」は良かった。これは、さいわい2月1日(木)深夜0時35分に再放送だそうです。
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/GQZZMQ3VLW/
これに対応して、NHKのサイトに「複雑なパレスチナ問題 元特派員が詳しく解説」というぺージがあることも知りました。2023年10月11日付の鴨志田記者の「取材ノート」ですが、図版も豊富で、よく分かるように書いています(仮にA4で印刷すると約16ぺージ)。 https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic015.html
記者のセンスと冷静な知性がおのずから表現された記事で、一読に値します。
‥‥なんて上から目線みたいなことを申しますが、鴨志田郷くんはじつは東大西洋史の学生でした(1993年卒)。彼は在学中に『史学雑誌』に短い文章も寄せていたのですよ!
【NHKの「元特派員が詳しく解説」という記事は「初心者」むけによくできていますが、唯一、問題ありとすれば、「イスラエル建国までの歴史」という年表が、2000年前までしか遡らないこと。「パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました」という一文から始まっている点です。これではあたかも「ユダヤ人の国家」が大前提で、Amalek(好戦的な遊牧民、イスラエル人=神の選民の敵対者として旧約聖書に描写される)の存在には触れられることなく、その後2000年にわたる歴史的悲劇の民が、数々の難儀をへてようやく1948年に民族=信教国家(!?)イスラエルを建国した、といった語りに寄り添ってしまいます。
旧約聖書にあまた描かれているイスラエルの苦難の物語は、要するにこのあたり(エジプトからメソポタミアの間)にあった4000年、6000年にわたる多くの人びとの移動と戦いの歴史を、ユダヤ教徒の側から筋道をつけて語り伝えた作品 - ホウィグ史観!- なのですから、そのように相対化しておくべきでしょう。アマテラス(Amadeus!?)大御神の伝承で、日本列島の歴史を根拠づけるわけにゆかないのと同じです。付随的に、1948年建国時のイスラエルが多民族の国家だった、今もそうだ、という事実はしっかり報道したいですね!】

2024年1月29日月曜日

イスラエル=パレスティナ問題(2)

(元日、2日と大きな災害、大事件がつづき、圧倒されてしまいました。ガザへの報復(!)行為も凄惨をきわめ、理性的に思考を整えるのがむずかしく、日々がむなしく過ぎました。ただ、このところNHKのクロースアップ現代(桑子キャスター)、NHKスペシャル(鴨志田デスク)と力の入った報道がつづき、The Guardian の記事なども参照しつつ、とりあえず、次のように考えます。)
イスラエル国家の主張、その政治について批判したり疑問をもったりすると、即、反ユダヤ主義(anti-Semitism)であるとする言説、ユダヤ人を殲滅しようとしたナチスのホロコースト(ショア)と同罪であるとして許さない立場が、PC(politically correct)な世界で、ずっと勢いをもっていました。現イスラエル政権、それを中核で支えているユダヤ民族主義、それと伴走するキリスト教原理主義を批判しようとすると、公言をはばかる心理的抑制がはたらくのです。
今夕のNHK「クロースアップ現代」では、このことがイスラエル国民のトラウマ、教育と関連づけて議論されましたが、問題はより根深いと思います。アメリカ人も、日本の教養人も、英仏列強の偽善、イスラエル国家の正当性(正統性?)を前提に議論してきました。
現イスラエル政府を批判したり、さらには民族主義国家イスラエルの正当性に疑問を呈したりしたからといって、けっして反ユダヤ主義でもナチスと同罪なのでもありません。むしろ、リベラルで民主的な立場からの意見/疑念の表明として受けとめてほしいのです。
ほんの一瞬でも、「ナチスは良いこともした」とかいう含みはありません。ナチスは人類にたいする犯罪であり、それ以前からのポグロムも、反文明的なしわざでした。くりかえし糾弾すべきです。
ぼくが知っているユダヤ人のインテリは全員、知的でエネルギッシュで(ときにきわめて情熱的で)、個人として彼らに否定的な感情は抱いていません。しかし、現政府に対してはちがいます。イスラエル国のナタニヤフ首相は政権不安定の極にあったところ、10月7日のハマスの直接行動にしてやられ、にわかに挙国一致の反撃、ハマス根絶やし作戦を打ち出して、政権を維持しています。しかもそれをアメリカ合衆国がただちに支持しました。
ハマスはテロリストなのか? たとえば隣に軍事的に圧倒的な強者がいて「ジャイアン」のように横暴をきわめ、わが政治的存在を認めない場合には、どうしますか。
「弱者の武器」(James Scott のいう 'weapon of the weak')、サボタージュやゲリラ戦によって、その横暴に抗議する、ときに奇襲の反撃をする、といったことは歴史の場面で(常にではないが)ときどき行われてきました。たとえば産業革命中のラッダイト、幕末の攘夷志士、帝政ロシアのテロリスト、インドのガンディ、南アメリカのチェ・ゲバラ、ベトナム戦争における解放戦線、‥‥。
彼らが負けた場合は、歴史の進歩にさからう愚かな抵抗とみなされ、ガンディやベトナムのように勝った場合は、微妙に評価される。今回のハマスの場合も、負ければ、愚かで卑劣な/絶望的な集団とされたままでしょう。
イスラエル占領地へのユダヤ人植民たちが襲撃され人質として拉致された、というのは悲劇です。暴力は否認されねばならない。けれども、イスラエル政府のパレスティナ地区への植民政策/戦略じたいが国際法違反であり、パレスティナ人をガザに幽閉することもまた人道にもとる行為だとすると、- 前提が変わってきて - 安直な判断はできなくなります。
ましてや強者の奢りへの抗議をゲリラ的奇襲で表現したハマスにたいして、奢り/威信を保持するための報復ハマスを根絶するための戦闘に乗り出した現イスラエル政権にたいして、そのまま支持などできるはずもありません。

2024年1月1日月曜日

イスラエル問題

新年早々ですが、ちょっと微妙なことを書きます。
昨10月7日以来、悩ましく、発言を慎重にしていました。呑気に身辺のちょっとしたことをblogに書いているのも憚られるような、壮絶な事態が進行中です。もしやウクライナに攻めこんだロシアと同じくらい、いやそれ以上に、断乎たる、ナチスドイツに比肩するような、好戦的なことを遂行する国家があり、それをアメリカ合衆国が支援している。
この間のパレスティナ・イスラエル間の戦争のことです(英米では地理的に Gaza-Israel War という表記、あるいは当事者に注目して Hamas-Israel War という表記を採っています)。
病院や学校が襲撃の対象になったり、外からの支援物資の搬入が妨害され、停電で保育器の中の乳児がただ死ぬのを待つとかいった事態に驚き、悲憤していたら、さらにイスラエル軍はガザの、いやパレスティナ自治区の住民を殲滅してもかまわない、そうまでしてもイスラエル国家の存立を優先する姿勢です。何より問題はイスラエル国家の政治です。
西洋史、ヨーロッパ史に従事していると、学生時代からユダヤ人がいかに中世以来のキリスト教社会で差別、蔑視され、近代の国民主義によってさらに迫害されてきたか、そしてナチスドイツの徹底的なユダヤ人殲滅作戦についても、くりかえし知ることになります。そんな勉強をしていてもいなくても、『アンネの日記』やフランクルの『夜と霧』を読んでいてもいなくても、ショア=ホロコーストの記録映像や近年の映画類に接する機会は、少なくないでしょう。
イスラエルの政治について批判ないし非難すると、即、反ユダヤ主義(anti-Semitism)だとする言説が、PC(politically correct)な世界で、ずっと勢いをもってきました。 To be continued.

2023年11月21日火曜日

RE-IMAGINING DEMOCRACY

ふだん使っていないgmail.comのアカウントに facebook の通知があったと気付き、読んでみて驚きました。イニス=フィルプたちの例のデモクラシ・プロジェクトの新著について、Zoom会合が14日(JST では深夜未明)にあったのでした! 残念ながら後の祭り。
しかたなく、facebook最後尾に書き込みました。↓
Joanna Innes
6日前 · LAC MAIN SEMINAR Tuesday, 14 November, 5.00 pm
Main Seminar Room, Latin American Centre, 1 Church Walk, Oxford and Zoom - registration link below
To join online, please register in advance:
RE-IMAGINING DEMOCRACY in Latin America and the Caribbean, 1780-1870
Book launch: presentation by the editors, followed by comments by Professor Alan Knight,

5日前
Well….Alan Knight liked the cover. After that he found it hard to follow.
5日前
David Schwartz
oh what does he know about revolutions in Latin America . . . oh wait . . .
今日
Kazuhiko Kondo
I'm glad you mailed me about this. But I noticed only today....
Kazuhiko Kondo
To set the years 1780-1870 as a global period of democratic transformation/revolution would have delighted my Japanese mentors - Shibata, Chizuka, etc - who wanted to describe the Meiji Revolution (1867-69) in a global context.

2023年11月12日日曜日

NZD ナタリ・デイヴィス ありがとう!

昨夜、なぜか胸騒ぎがしてNew York Times の obituary欄を検索したら、
Natalie Zemon Davis, Historian of the Marginalized, Dies at 94
とありました。生まれは1928年です。
息子=音楽家のアーロンに看取られてトロントの自宅で10月21日に亡くなったとのことです。学生時代から一緒だった夫チャンは、去年に亡くなっていました。
落ち着いてウェブのぺージを見直すと、プリンストンもトロント大学も、バークリもミシガン大学も、オクスフォードの歴史学部も、それぞれ縁のあった所は、みなオビチュアリや懐古の記事を載せないわけにゆかない気持になっているのですね。Google ですべてヒットします。
ぼくは1995年1月にヨークで開催された社会史学会の朝食の場で遭遇して、楽しく放談することができたようすを『UP』に書きました。その縁で、97年5月、6月に彼女を日本に招聘するときにも、実務的なことも含めて、いろいろお手伝いしました。このとき、立命館、東大、北大(西洋史学会大会)でデイヴィスに接した方々は、みな強い印象 - inspiration そのもの - を受けたでしょう。
『iichiko』という雑誌に、二宮さん福井さんと一緒のインタヴューを載せることができましたが、その夜はなんとシャルチエも合流して、英語仏語チャンポンの談笑とあいなりました! 97年にはすでに69歳だったナタリは夕食時に、アルコールはいけない、脳細胞に悪い効果がある、とキッパリおっしゃって、こちら日本人学者たちを絶句させたものです。
【ちなみに『歴史とは何か』のときにやはり69歳だったE・H・カーは、アルコールを忌避したわけではないが、パブのような所には無縁の人でした。酔うことが楽しいとは思わなかったのでしょう。】
その後のデイヴィスはさらに文化史、ジェンダー史、ユダヤ人・先住民史の関わり(braided history)へと切り込んでゆき、ぼくたちをほとんど置いてきぼりにしそうな勢いでした。
「贋者のリメイク-マルタン・ゲールからサマーズビへ、そしてその先」 「16世紀フランスにおける贈与と賄賂」ともに拙訳『思想』880号(1997年10月) はよく読むと、その片鱗/予兆がうかがえます。 ぼくの「デイヴィス(ナタリ)」『20世紀の歴史家たち(3)』(刀水書房、1999)はいささか息切れしていたかもしれない。
70歳代、80歳代もまた知的に創造的に生きた、カッコいいNZD
なんとオバマ大統領は、2013年、彼女に National Humanities Medalを授与していたんだね。これもカッコいい大統領!< https://www.nytimes.com/2023/10/23/books/natalie-zemon-davis-dead.html> こちらに写真があります。
音楽家(piano, percussion)のアーロンは来日のたびに連絡してくれたので、会うことができました。

2023年10月31日火曜日

『図書』11月号休載 → 最終回は「E・H・カーと女性たち」

 岩波書店の『図書』に連載しています「『歴史とは何か』の人びと」ですが、申し訳ありません、11月号(899)はお休みとさせていただきます。
 第1回(2022年9月号)<https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/6074>にも記しましたとおり、三面六臂どころか、90歳まで執筆を続けたE・H・カー(1892-1982)ですが、その謎をすこしでも解き明かすために、20世紀のエリート群像の生きざまのなかで人物カーを脱特権化=相対化してみるという目論見でした。見開き6ぺージ(約6000字弱)の essay(試論)とはいえ、毎回、読むべきもの/確認すべきことが多くて、大変でした。肖像写真の選定にも苦労しました。しかし、それに見合う新しい発見/気付きもあり、充実した連載でした。
 元来は12回連載ということで始まりましたが、途中で15回に延伸できるかとの打診があり、やや充実させることができました。とはいえ、9月のアイルランド・イングランド旅行は(その準備段階も含めて)強烈で、連載原稿を仕上げることはできず、11月号は休載。12月号で第15回=最終回「E・H・カーと女性たち」をご覧に入れるということにさせてください。写真も含めて、それなりに印象的な最終回(有終の美!)とさせていただきます。(すでに最終回のゲラ校正も戻して、執筆者としての仕事は済んでいます。)
 ご愛読の方々、そして感想や声援を寄せて下さったみなさん、ありがとうございました。

2023年10月21日土曜日

巨人の足跡‥‥想像力はふくらむ

9月のアイルランド・ブリテン旅行から帰国してすでに1ヵ月。今日は、木枯らしのような風に落ち葉が舞っています。いつまでも呆けているわけには参りません。
いずれしっかり具体化しますが、印象の強烈度からしても、ベルファストから北上して北端の海岸にある Giant's Causeway (巨人の土手道/踏み固めた道)こそ、圧倒的で、写真で見ていたのとは迫力が違い、それこそ百聞は一見にしかず、でした。
地質学的には、何百万年(何千万年?)前の火山/マグマ活動の結果が今、柱状節理(columnar jointing)として残っている所です。北大西洋の海嶺から東へと地殻が変動するうちに、吹き出したマグマが地表で冷却し、また雨水の浸食を受けて、6角形の柱のようにヒビが入り、それが壮大な絶壁の風景としてアイルランドの北端に連なっているわけです。
NHKの「ぶらタモリ」では紀伊半島南端の大火山跡の柱状節理を訪ねたことがありました。予算さえつけば、タモリさんも本当はここに来てみたいでしょうね。スケールが違います。
先史のアイルランド人(Scots)は、ほんの30kmほどの海峡を渡ってブリテン島の北端に移住したので、今はそちらがスコットランドと呼ばれています。古代人の想像力の世界では、この6角形の節理の連なりこそ、アイルランド島からブリテン島に渡った巨人の通路=足跡、というわけです。
Amphitheatre(半円形の劇場・盆地)という渾名の付いている湾の入口まで歩いて、向こうを見上げると、断崖絶壁の上に豆粒より小さく、上半身裸の男が(あまりのスケールに怖いので!)座り込んで、北の海を眺望しているのが見えました。同じ写真の上右の細部を拡大してご覧に入れます。
『イギリス史10講』p.31  このあたりは中世前半のキリスト教の重要地点でもあり、ヴァイキングの常用航路帯(sea-lane)でもあり、17世紀には逆にスコットランドからプロテスタントのアルスタ移民が渡った海峡です。ウィリアム3世の足跡も。フランス軍の上陸作戦も。またロマン主義の時代には、メンデルスゾーンの「スコットランド旅行」もかくや、と想像力をかき立てられます。18世紀の亜麻産業からグラスゴー、マンチェスタの産業革命へ、そして20世紀にはベルファストの造船・タイタニック‥‥ぼくが若かったら(40歳以前だったら!)この地域/海域に焦点を合わせて壮大な歴史を書けたかも‥‥

2023年9月30日土曜日

バーミンガム大学にて

 今回の旅行は、ダブリンに2泊したあとは北アイルランドで4泊、ロンドンで2泊、バーミンガムで1泊、ロンドンで6泊、とたいへん忙しく機動的に動きました。
 バーミンガムは1982年以来です。New Street駅の近く、Town Hall(ヘレニズム様式!)やミュージアムのまわりは新しい建物が増えたとはいえ、基本は40年前と同じ。丘あり沢ありで起伏の多い街に、運河が行き渡っているのが印象的。全国的な運河網のハブだ、という歌いこみで、歩くにも飲食するにも楽しい環境を整備しています。
 今回の目的は大学図書館の Special Collection 所管の Papers of E H Carr です。New St.駅から University Stationへの鉄路も、他ならぬウスタ運河に沿って建設されています。産業革命の運輸は鉄道ではなく、運河だったという事実をみなさん、忘れがちです。18世紀後半から運河建設・改良は進み、鉄道建設は1825年/30年から始まる、というのは厳然たる事実です。ウェジウッドの陶磁器を鉄道でガタゴト運ぶわけにはゆきません。運河網を利用してリヴァプールにもロンドンにも、またその先の海外にも安全確実に運送できたのです。『イギリス史10講』pp.189-191.
 
 で、その運河脇の University駅に着くと、ホームで迎えてくれたのは、このジョーゼフ・チェインバレン。「エネルギーと人間的磁力」にあふれた美男、あの富裕ブルジョワのお嬢さんビアトリス・ポタの胸を焦がした「一言でいうと最高級の男性」です。バーミンガム市長、選挙権が拡大する時代の自由党の「将来の首相」。『イギリス史10講』pp.239-240.しかしベアトリスと別れ、1886年にグラッドストン首相と対立して自由党を割って出たチェインバレンは、civic pride のバーミンガム大学の初代総長にも就いていたんですね。市中でも大学内でもチェインバレンの存在感は大きい。
 広い空が広がるバーミンガム大学のキャンパスは、なぜか名古屋大学のキャンパスを連想させるところがあります。名大より広く、緑も多く、モニュメントも多いけれど。
 その北寄りの Muirhead Tower(ULとは別の新建築)に Cadbury Research Libraryと称する特別コレクション、手稿、稀覯本の部門があり、前週にインターネット予約をしたうえで参りました。最初の手続、確認を済ませたうえでアーキヴィストに導かれ、おごそかにドアの中に入ると、すでに予約した手稿の箱3つが待っていました。
 
 そこでは、こんな鉛筆書きのメモ(Last chapter / Utopia / Meaning of History)やタイプの私信控え etc., etc.を(座する間もトイレに行く間もなく)立ったまま、次から次に読み、写真に撮り、ということでした。各紙片に番号は付いていないし、また(私信や新聞雑誌の切抜きを除くと)日付もないので、取り急ぎのサーヴェイでは、全体的にきちんとした印象はむずかしい。それにしても、『歴史とは何か』第2版(M1986, P1987)における R W Davies の「E・H・カー文書より」(新版 pp.265-311)はかなりデイヴィス自身の問題意識に沿った引用・まとめであり、それとは違うまとめ方も十分にありうると思われます。たとえば、新版 pp.288-295では、70年代のカーの社会史・文化史への関心は十分に反映していませんでした!

2023年9月20日水曜日

往路と帰路

フライトは、来たときと同じ北極海経路を逆にたどるのかと思いきや、ヒースロウを出て、一路東へ。しかもFlight Mapなるものには、その後北上してモスクワ方面に向かうかの表示です。これは危ない!
Mapを見つめていましたら、イスタンブル、アンカラあたりの上空に達し、これは大丈夫かも、というので、睡魔に身を任せることにしました。数時間後に目覚めてみると、なんと飛行機は北京・天津・大連あたりを飛んでいます。
結局は、西ヨーロッパからイスタンブル経由で、東へ東へと向かうというのは「一帯一路」というイメージでしょうか。イギリスでも中国人のプレゼンスは色濃かった!
最後は、房総半島からぐるっと回って、東京の北から山手線に沿って、新宿・渋谷・大崎の真上を飛んで羽田に着陸しました。
蒸し暑い! でも想像したほどひどくはない。
というわけで、また日本時間の生活に復帰しました。

2023年9月17日日曜日

怖かった! → 反省

忙しかった2週間も実り豊かに終わり、今日(土)は宿からすぐ北の Regents Canal を歩いて、すぐに産業革命期の運河拠点 Coal Drop Yard へ。St Pancras駅の裏手、今日のロンドンのもっともfashionable なエリアかもしれない。東京の湾岸再開発と似て非なのは、新しい建物が東京では超高層で、あいだが空きすぎ。ロンドンではせいぜい10階建てなので、隣りが近く、また上からの圧迫感がない。ガスタンクを模したcondominiumなど、パンデミック前からあった景観ですが、住宅も店も広場もふえて、今日は土曜ということもあり、家族やカップルの人出がたいへん多い。
通りにこんな掲示板が続いていました。一連の関係するメッセージですが、手前の板には queer generation、3枚目の板には Queer Joyという語が明記されています。
そのあとBLへ。ほんの数時間滞在して、出ようかと思ったら出口近くにて Magna Carta特別展。簡潔で良いト書きとともに、要領の良い史料展示、そして専門的なコメントを中世史家だけでなく、近現代史家もヴィデオでやっています。リンダ・コリ先生、ジャスティン・チャンピオン先生にも久方ぶりに対面したような気になりました! 土曜なので、5時閉館。

といった具合で、夕方は観光客より生活者のたむろする所へ。South Kensington-Gloucester Road あたりをうろつき、イタリアンで軽い夕食とワイン2杯。上機嫌で地下鉄に乗りました。自分では酔っていたつもりはないのだが、空いた夜の電車で男4人、女2人の若者の着衣とふるまいに引きつけられ、彼らが降りるところを撮影しました。(顔は写らないようにしたが、一種の隠し撮りではあった。)
それをただちに咎められ、大柄の4人+2人に攻囲され、追及され、カメラを取り上げられ、destroy it とか‥‥。ぼくとしてはカメラそのものより、この2週間の記録が台無しになるのを恐れ、中身の保全第一に考えました。
このお兄さんたちにまずは謝り、I'm sorry では軽いので、I apologize. いろんなことを叫ぶ彼らのスピードに付いてゆきつつ、どうするか、なにができるか‥‥ぼくは station staff と何度も繰り返し(そのうちに口の中がカラカラになり)、若者たちもstaff だ、policeだと口にするようになった。
改札の中年女性、そして中年の男性が中立的に落ち着いて対処してくれて、ぼくのカメラの該当画像1枚をdeleteしたうえ、他の画像もざっと確認して(なんだかよくわからぬ文書や、町並ばかり‥‥)、若者計6名はぼくを威嚇しつつ消えていった。そもそも警官とは接したくない人びとでしょう。
Station staffは怪我をしなくて幸運だったと慰めてくれつつ、車内の撮影はいけません、ときっぱり明言。たしかに観光客に興味本位で撮られちゃ、愉快ではない。
ぼくが一種の文化人類学者気取りでカメラを向けたのに怒って、‥‥最後はカメラの操作画面をのぞきこみつつ、Chinese や Kantoneseじゃなく英語にしろ、とか叫ぶ気持は分からないではない。怖かったと同時に、済まなかったという気です。I apologize again.
(40年以上前にケインブリッジで同時に留学していたイスラエル人の文化人類学者夫妻が東京に来て、街頭でも地下鉄内でも人びとの様子を無遠慮にパチパチ撮りはじめたので、ぼくが不愉快になったのを今、思い出しました。動物園の珍獣か、原住民をみるまなざし‥‥。)
みなさんも、旅先ではどうぞ慎重に。

2023年9月16日土曜日

変わったもの、変わらぬもの

2日(土)夜にダブリンに着き、それからベルファストおよびアルスタの各地を歩き、ロンドン経由でバーミンガム大学、ロンドンでBEACHの初日(12日)だけ参加して、次の日からケインブリッジ大学、そして昨日(15日)はオクスフォードへ日帰りで91歳のO先生宅へ。 この間、ブログに書き込む暇もないくらい、タイトな2週間です。晴天に恵まれました。
バーミンガム大学ではカー文書を、ケインブリッジではアクトン文書を読んだというより、紙片や手帳やらをつぎつぎに閲覧してパチパチ写真を撮りまくりました。いろんなことが見えてくる!
オクスフォードのO先生はお元気で熱烈歓迎してくださいましたが、良い(revealing and moving)お話も聴き出せて、ものすごい収穫でした。こちらは日本人側4人の合力の成果です。いずれ活字にしたいものです。
ダブリンでもC先生、ケインブリッジではWさん、オクスフォードでO先生に再会したわけですが、それぞれ複合状況(contingency)の結果として親しくなれた人格者たち、わが人生を豊かにしてくれた方々です!
イギリス(とくにロンドン)の街並は、そして人びとは、4年前に比べてずいぶん変わったともいえるけれど、本質は変わってない。ただしEUからの逃避・脱落は、これからボディーブロウとして効いてくるでしょう。

2023年9月4日月曜日

フライトの不思議

いまダブリンです。海外に出るのは、2019年3月以来のこと。しかも戦争が進行中です。
東京から(シベリア・スカンディナヴィア経由で)ロンドンまでの直行便の飛行時間はかつて11時間(ロンドンから東京に向かう場合は偏西風に乗るので、もっと短かい)。それが戦争の影響で今では14時間半とのこと。
日本は戦争当事国ではないとしても、ウクライナ支持を明確にしている「敵性国」なわけだから、ロシア国家として、領空内の日本の民間機の航行の安全は保証しないのでしょう。どのように飛ぶのか、大いに関心がありました。
で、飛行中、(仮眠以外は)窓の外と、座席画面のFlight Mapを注視していました。
羽田を発って、千葉の幕張から霞ヶ浦を越えて、茨城の海岸から太平洋をずっと北上。以前のように日本海には向かわないのですね。それどころか、Flight Mapによると、千島列島の東を北上している! カムチャツカ半島の東側。
そこから、Flight Mapの表示は、信じがたい「奇行」を描きます↓
しばらくして、Mapは合理的な表示に戻り、アンカレッジから北極海へ
北極海からグリーンランドへ、そしてアイスランド上空(いつどのようにレイキャヴィクを通過したのかわかりませんでした)から荒々しい奇景を遠望して、なんとスコットランドへ。↓
要するに、昔のアンカレッジ航路を再利用して(ただしノンストップで)、ユーラシア大陸に触れることなく、カナダ・北大西洋を経由してブリテン諸島に到達する、という航路なのでした。ただし、ランカシャ・マンチェスタ・Midlandsは白いちぎれ雲が多く、いい写真は撮れませんでした。LHRには西から着陸。

2023年8月20日日曜日

大手町駅 B7 出入口

東西線を利用してJR東京駅に出るには大手町駅(の東側=日本橋寄り)から歩くのが便利です。
①丸の内(正面)側に出るには、改札を出てすぐに「JR東京駅」という指示のとおりに、エスカレータに乗って、その先を歩けば、迷う余地もなく、にぎやかなOazoの地下通路を通って、いつのまにか東京駅丸の内北口付近の雑踏にまぎれこむ、という構造です。これは地下通路も地上通路もあって、ほぼ同じ方角に移動する、一番利用者が多い経路でしょう。
逆に東京駅から東西線に向かう場合は、丸の内北口から丸善Oazoをめざして、それを右手に見ながら「東西線」という指示のとおりに歩けばいいのです(地上でも地下でも基本的に同じです)。
②八重洲口に出るには、大手町駅の改札を出て東西線の電車路の上を(すなわち永代通りの下を)日本橋方向=東にやや歩き、B8b あたりから右折して、あまり人出のない、さびしい昔ながらの「連絡通路」を歩いて、やがて八重洲地下街に到達する、という構造です。
逆方向ですと、東京駅で新幹線を降りて、八重洲口から東西線まで歩く、という人が辿りがちの、あまり楽しくない経路です。
③むしろ新しく - といっても10年以上前に - できた「東京駅日本橋口」にゆくには、大手町駅の改札を出て東西線の電車路の上(すなわち永代通りの下)を日本橋方向=東に向かい、B7 という出口から地上に出ます。そこは超モダンな空間で、新幹線【JR東海、JR東日本とも】の改札口、長距離バスの発着を利用する人びとが多いのですが、天井/空が高いので、混雑感・圧迫感はなく、ぼくとしては気に入っています。時間帯によっては、ツアー団体客や修学旅行客の集合場所として利用されています。

じつは今朝早くに、必要があって、この③の経路を使って東京駅に往復したのですが、ただいま大規模な再開発工事中で、さらに数年後にはすごい空間になるのだなと見上げました。「東京駅日本橋口」から北を見て左側にたつ高いビルが「サピア・タワー」という名の大きな建築で、知識産業が入居しています。何年も前にブレーン企業のセミナーに呼ばれてここの上階で話をしたことがありました。関西の私立大学の東京教室もあります。
このサピア・タワーは朝7時に開館で、それより前の早朝には館内のエスカレータが使えない。したがって東京駅を利用する大きな荷物の旅行客は、永代通りの長いB7階段をエッチラオッチラ利用せざるをえず、これは辛いな、と思わせるところでした。
 今朝の帰路に階段で気付いたのは、この写真のとおりの掲示です。
 そうか、利用者からの要望が続き、いよいよ、B7の「改良工事」に取りかかるわけですね。とはいえ今年の9月11日~2028年3月とは(5年間!)かなり長い! 近接するB6もB8aも改良工事で閉鎖中、ということは、この近辺の再開発が大規模だということを示しています。同時に、工事閉鎖中の不便もまた大きく、とりわけ東西線の早朝・深夜利用者には影響は少なくありません。

2023年8月14日月曜日

近刊予告

近況ですが、『歴史学研究』No.1039(2023年9月)に 〈批判と反省〉『歴史とは何か 新版』(岩波書店, 2022)を訳出して (全7ぺージ)①  

『思想』No.1193(2023年9月)に 翻訳のスタイル (全4ぺージ)③  

が掲載されます。【後者は『思想』7月号「E・H・カーと『歴史とは何か』」特集号における上村論稿に触発されてしたためた小文で、そこで呈示された疑問や指摘に答えています。個人間の論争ではありません。一般的な意味を求めて、多くの第三者読者に向けて発した、論文/翻訳のスタイルについてのコメントです。ぼくもかつては清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書、1959)の愛読者で、卒業論文の執筆時に大いに参照しました。】
どちらも早ければ8月末には公刊とのことで、編集サイドの厚意とすみやかな作業のお陰です。ありがとうございます。
お読みになる順序としては、先にも少し書きましたとおり、
 『歴史学研究』9月号〈批判と反省〉①に最初の目を通していただき、
 その次に「思想の言葉:いま『歴史とは何か』を読み直す」『思想』7月号②を、
 そして、『思想』9月号の「翻訳のスタイル」③
という順で読んでいただくと、一番ナチュラルで良いかな、と思います。
②は、早くから岩波書店のウェブ「たねをまく」 → https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7306 にて公開されていますが、やはり順序として①が最初に読めるようにみずから努力すべきだったと、段取りの悪さを反省しています。

2023年8月13日日曜日

OEDの新画面

しばらく Oxford English Dictionary をオンラインで利用しないまま過ごしていたので、何週間ぶりだろう、一昨日、https://www.oed.com/ にアクセスしてみて一驚。画面が一新されて、何を見ているのかすぐには分からなかったのです。
特定の単語にヒットしたあとは、
Factsheet Meaning & use Etymology Pronunciation Frequency Compounds & derived words
とかいったぺージのどれを見ればよいのか。旧来の、ほとんど紙媒体の辞典のフォントを大きくしたままの画面では、何故いけないのでしょう。
一つの単語につき、語源の発音も、多様な意味・用法も用例も、頻度も、大きな画面(A4に印刷した場合、1ぺージに収まらず、10ぺージを越えることもザラ)に一覧できれば、必要に応じて、そちらにフォーカスすればよい。この一覧性こそ、知的な思考には必要不可欠です。
特定の目的で特定の結論を求める、効用本位の(utilitarian)- いわゆる字引としての - 利用でなく、ぼくは OEDを思考をうながし(thought-provoking)、インスピレーション豊か(inspiring)なデータベースとして何十年と利用してきました(昔は大判の辞書をコピー機のある部屋まで運んで、200%くらいに拡大プリントしたうえで、読み、書き込んだりしたものです)。
近年のなにか小賢しい利用を優先した「改悪」のような気がします。
いちおうの緊急対策として、
Meaning & use のウェブぺージを開いて、Show all quotations にチェックを入れて読んでゆく/Copy & paste して(色分けなど加えて)自分の.docとする
というのと、Etymologyのぺージを開く、というのを併用する(どちらも自分の.docとして、合体し保存)といった策を講じています。皆さんは、どうしていますか?