2019年4月30日火曜日

5月の予定


日本西洋史学会大会(5月19日@静岡大学)では「ジャコバン研究史から見えてくるもの」という題目で、中澤科研の議論およびブダペシュトの研究集会で学んだことを還元したいと考えています。
日曜の午後2:15~5:30の小シンポジウム「革命・自由・共和政を読み替える-向こう岸のジャコバン」での報告です。

また歴史学研究会大会(5月26日@立教大学)では、去年の合同部会から続きですが、「主権国家」再考 Part 2 という設営で、
皆川卓さん「近世イタリア諸国の主権を脱構築する:神聖ローマ皇帝とジェノヴァ共和国」
岡本隆司さん「近代東アジアの主権を再検討する:藩属と中国」
という二つの報告があります。これにコメンテータとして、大河原知樹さんと近藤が加わります。
日曜朝の9:30から17:30まで、全日シンポジウムとなります。

これとは別にさる催しで「イギリスとEU:歴史的に見ると」といったお話もしますので、いささか過度に充実した5月となります‥‥。

2019年4月18日木曜日

寺院? 大聖堂!


 パリのノートルダムの大火災は驚くばかりで、痛ましい事件です。
ただし、CNNによれば、精緻な計測とディジタル記録が残っているとのことで、再建の望みはそれなりにあるわけですね。
https://www.cnn.co.jp/world/35135896.html

 日本の報道では、あいかわらず「ノートルダム寺院」という呼び方で、いかに仏蘭西(!)とはいえ、仏の教えの痕跡はどこにもないでしょう。法隆寺や本願寺ではないのだから、そしてカテドラルには「大聖堂」または「司教座聖堂/大司教座聖堂」という定訳があるのだから、こちらを使ってください!
 ロンドンの場合ですと、Cathedral Church of St Paul's が「セントポール寺院」、Collegiate Church of St Peter at Westminster が「ウェストミンスタ寺院」と呼び習わされているのも、イージーというか、混濁的ですね。

2019年4月11日木曜日

向う岸のジャコバン

 日本西洋史学会・静岡大会における小シンポジウム(きたる5月19日)ですが、
そのウェブサイトのどこを探しても、各小シンポジウムの趣旨説明と「目次」は見えますが、各報告の要旨は載っていません。昨12月末〆切で、準備委員会の定める厳密な書式設定で提出しました物はどうなっちゃったのでしょう? 例年の大会サイトでは各報告の要旨も掲載されて、どんなシンポジウムになるか、事前からよく想像できるようになっていました。

 中澤達哉さんの組織した小シンポジウム6「革命・自由・共和政を読み替える-向こう岸のジャコバン」は、このとおりです。

革命・自由・共和政を読み替える ― 向う岸のジャコバン ― 」

近藤 和彦 ジャコバン研究史から見えてくるもの
古谷 大輔 混合政体の更新と「ジャコバンの王国」― スウェーデン王国における「革命」の経験 ―
小山 哲  ポーランドでひとはどのようにしてジャコバンになるのか ― ユゼフ・パヴリコフスキの場合 ―
中澤 達哉 ハンガリー・ジャコバンの「王のいる共和政」思想の生成と展開 ―「中東欧圏」という共和主義のもうひとつの水脈 ―
池田 嘉郎 革命ロシアからジャコバンと共和政を振り返る

コメント 高澤紀恵・正木慶介・小原 淳
(企画:中澤達哉)

 このうち近藤の発表要旨について、右上の Features で紹介します。

2019年4月7日日曜日

SPQR


「文明」を代表具現した(と自称した)ローマの SPQR の印は、神聖ローマ帝国の印でもあった。『近世ヨーロッパ』のカバー写真でも、それは当てはまります。

アルプスないし黒森に淵源をもつドナウ川が東に向かい、ハンガリーの大平原に出る直前に地峡部を縫って、流れを南に90度かえる、そのあたりが古代から軍事的な要点になっていたようです。ローマ帝国の後継を僭称した神聖ローマ帝国に異議を申し立てる、もう一つの普遍主義オスマン帝国によるモハーチ戦(1526)、ブダペシュト陥落にともなうハンガリー王国のブラティスラヴァへの遷都(1541-1784)‥‥そしてバルカンの東西関係を変える1699年のカルロヴィツ条約。
このようにドナウ沿岸のブラティスラヴァ≒ウィーンあたりからカルロヴィツ≒ベオグラードあたりまでがボーダー(境界地帯)をなしていて、ブダペシュトがほぼその真ん中だったのか。アウステルリツ戦のあとの条約(1805)もプレスブルク(ブラティスラヴァ)の大司教館で締結されたのですね。

2019年4月6日土曜日

境界 すなわち交流圏


ブダペシュト、そしてブラティスラヴァを訪れたのは科研(向こう岸のジャコバン)の企画ででした。帰国して直ちに対馬に赴いたのは科研(主権概念の再構築)の一環です。

対馬については、また後日ふれるとして、Border すなわち国境()ではなく境界(地帯)であり、交流のあらわになる圏域だなという認識を強くしたのは、ドナウ川、ローマ帝国の辺境、そしてオスマン帝国と神聖ローマ帝国のせめぎあい(また20世紀には東西冷戦)の現場に立ってのことです。
ドナウ川を南に見下ろすブラティスラヴァ城(現スロヴァキア)で撮った写真2葉をご覧に入れます。快晴ですが、遠くはすこし霞がかっています。
左手=東にはハンガリーの工場の煙突群が遠望され(ブダペシュトまで200キロ)、
右手=西にはオーストリアの風力発電群が遠望されます(50キロ余り先はウィーン)。
手前・川向こうの中高層は労働者の集合住宅です。国境の最前線に労働者街のコンクリート建築というのは、かつて東ベルリンでも見た風景ですね。
ドナウ川は西から東にかなりの水量≒速さで流れています。1838年3月の(雪解け)大洪水の水没線が、ブラティスラヴァでもブダペシュトでも記録・表示されているのが印象的でした。

2019年4月5日金曜日

ブダペシュトの市場にて

建築学的にブダペシュトはおもしろいと言い始めたら、都市史学会の面々は黙っちゃいないでしょう。

社会史的におもしろいのは、この中央市場です。タイル張りで1897年竣工。なかは2階建て。その活況が楽しい。それから隣接の Corvinus University (経済大学)はかつてポランニ先生がイギリスへ移る前にいた所と知ると、親しみが沸いてくる。すぐ脇が「自由橋」です。

ところで撮ってきた写真を眺めていて、ランチを摂った中央市場のテーブルに、白いビニールの掛けものがありました。
なんとこれを拡大してみると(真ん中やや上の部分)、こんなことが記してある。
サッチャ首相、ブッシュ大統領、ダイアナ妃は、さもありなんという方々だが、Emperor of Japan って今上陛下のこと? 
美智子皇后もこの活気ある空間に立たれたのか! グーラシュを召し上がったのだろうか?
そこで検索してみると、宮内庁のサイトに「平成14年7月16日(火)」ハンガリー大統領主催の晩餐会@国会議事堂(!)で述べられた「お言葉」が載っています。つまり2002年。そこでは、
1770年に来日し,長崎のオランダ商館に滞在したイェルキ・アンドラーシュから、
翌年,ハンガリー生まれの冒険家であったベニョフスキー・モーリツの来航に言及したうえで、
「オーストリア・ハンガリー帝国が成立した1867年は,私の曾祖父明治天皇がその父孝明天皇を継いだ年であり,二百年以上続いた徳川将軍を長とする幕府が廃された年でもあります。我が国が,諸外国との交流を深め,国の独立を守り,近代化を進めるための非常な努力を始めた時でありました。オーストリア・ハンガリー帝国と我が国との間に国交が開かれたのは,その翌々年になります。‥‥」そして
「ハンガリー語と日本語が共にウラル・アルタイ語族に属しているということから,20世紀初頭,語学研究のため,ハンガリーに滞在した白鳥庫吉のような東洋史学者‥‥」といったことまでディナースピーチは及んだのでした。引用は、http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#HUNGARY より。わが不明を恥じます。

ブダペシュト議会

ヨーロッパ滞在中は花粉症の気はなかったのですが、調子に乗って、帰国翌日に早稲田あたりでウロウロしたあげく、対馬で3日間外歩き。その結果がこの数年に経験しないほどの苦しい症状となってしまいました。
その後はもっぱら休養と必要最低限の外出にとどめて、なんとかなっています。

想い起こすに、中欧の経験はやはり強烈です。
19世紀ブダペシュトの繁栄は建築史的にもおもしろい証を残していて、それは19世紀前半までのダブリンの繁栄と比較できるくらい。人口的にはブダペシュトのほうがずっと大きく、アイルランド島よりも広いハンガリー王国の人口も大きい。なんといってもドナウ流域圏の「女王」です。19世紀にアイルランドがブリテンと連合王国(UK)をなしていたのと似て、ハンガリーはオーストリアとアウスグライヒ(二重帝国)をなして、従属的とはいえ、どんどん成長しました。
隣接する大国の普遍言語(英語、ドイツ語)が浸透しつつもゲール語、マジャール語に集約される豊かな民俗文化が強烈に残っているという共通性も指摘できます。
この場合、アイルランドとハンガリーの違いは、地理的に内陸か臨海かといった相違点に加えて、1) アイルランドの人口流出が人口減少にいたったのにたいし、ハンガリーは人口減少にはいたらなかった。2) アイルランドは歴史的な議会を失い、ハンガリーは歴史的な議会を維持した。3) ハンガリー(ブダペシュト)におけるユダヤ人口の大きさ。といった差異は決定的かもしれない。
Annabel Barber, Blue Guide Budapest (3rd ed., 2018) によると、
18世紀までハンガリー議会は開催地を固定せず、時に応じて召集されていたが、19世紀に入るとプレスブルク(ブラティスラヴァ)からペシュトに召集されるようになり、1880年に上下両院を一つ屋根のもとに収容できる立派な建物、「他のすべての建物を下に見、ハンガリー国民の力を表現し、ハンガリー人の全体を代表具現するような象徴的建造物をドナウ川岸に」たてる計画が始まり、1902年に竣工した。両翼の端から端まで265m、真ん中のドームの高さ96m.大きさと威容だけでなく、ドナウ川に面したゴシック・リヴァイヴァル様式の美しさは、テムズ河畔のウェストミンスタ議会(1852竣工)にも比すべきものです。
ところで、両議事堂はそれぞれ大きな川に面していますが、ブダペシュトでこれは西に面し、ウェストミンスタでは東に面し、そのため千数百キロを隔てつつも、両議事堂は対面している、という関係です!