2024年12月20日金曜日
ナベツネと東京高校
2011年に亡くなった柴田三千雄さんと同い年です。そればかりか、旧制東京高校で同級生、学徒援農で、信州の農家に泊まり込み、なにかでお腹を壊して苦しんでいたところ、ナベツネに背負われてその農家まで帰ったことがある、というエピソードを聞いたことがあります。
昭和20年春に二人とも東京帝大文学部に入学、ただちに徴兵されて、ナベツネは茨城へ、柴田さんは習志野へ。8月に敗戦、生きて大学に戻り、ナベツネは哲学、柴田さんは西洋史。二人とも共産党に入って、やがて抜けた、という経歴も同じです。(しかしその後は、交遊があったとは聞いていません。)
東京高等学校(東高)は、第一高等学校(一高)と同じく戦前のエリート校ですが、1921年に設立された比較的新しい(大正デモクラシーの)旧制高校で、戦後の学制改革により、一高と東高はともに東大教養学部として(人も資産も)統合されました。
俗に「官僚になって出世するには一高、学者・インテリになるには東高」と語られたようで、シティボーイの通う「ジェラルミン高校」という渾名があったようです。
渡辺、柴田以外に、有名どころの卒業生には、清水幾太郎、森有正、星新一、朝比奈隆、黒田寛一、生松敬三、城塚登、伊東俊太郎、南博、家永三郎、永原慶二、網野善彦、佐々木潤之介、山本達郎、二宮敬、高橋康也、糸川英夫、江上不二夫、小宮隆太郎、矢野健太郎、串田孫一‥‥などがいました。戦後日本を背負った、錚錚たる群像!
東高で英語の教授、松浦嘉一に教わったというのが、柴田・松浦高嶺の友情の始まりのようです。
2024年12月6日金曜日
『社会運動史』は研究誌か?
「歴史と人間」研究会 シンポジウム
〈研究誌『社会運動史』(1972-1985)とは何だったか ― 史学史的に考える ―〉
2024年12月22日(日) 13:30-17:00
一橋大学国立東キャンパス 第3研究館3F 研究会議室
国立キャンパス地図 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/index.html
13:30-13:40 司会(見市 雅俊)による趣旨説明
13:40-14:30 原 聖 報告
休憩
14:45-15:05 コメント1 加藤 晴康
15:05-15:25 コメント2 近藤 和彦
15:25-15:45 コメント3 成田 龍一
休憩
16:00-17:00 質疑応答
この集会のテーマは、ぼく自身も関係者ですので、話は具体的になります。
『社会運動史』を研究誌としてだけとらえると、さらにまた『社会史研究』とならべて論じると、その本来の意味はかなり違ってきてしまうのではないか。おそらく加藤さんもそうお考えでしょう。
『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)の第一部、第二部をご覧になれば、1968年ころ以後の青年インテリゲンチア(!)がどんな空気を呼吸していたか、見えてくるでしょう。70年代の『社会運動史』は、1982年に出現したエレガントな第一線の学者たちの(商業的な)『社会史研究』とは異質です。もっと先行きの見えない暗中模索で、ウゾームゾーの来し方行く末の可能性があったことは、加藤さんの部分も含めて、各執筆者はかなり率直に書いています。ぼく自身はというと、執筆時にはあまり意義を感じていなかった(むしろ拙速だという思いがあった)出版ですが、いま読み直すと、時代の/世代の証言集として意味があった/出てよかった本だと思います。
22日(日)には、(喜安さんは別格として)社会運動史研究会の一番上の世代=加藤と、一番若い世代=近藤の二人が、「後から来た」「外から観察する」原さん、成田さんとどういった対話ができるでしょうか。
2024年12月5日木曜日
日仏文化講座
日仏会館 日仏文化講座
〈近代日本の歴史学とフランス――日仏会館から考える〉
2024年12月14日(土) 13:00-17:30(12:40開場予定)
日仏会館ホール(東京都渋谷区恵比寿3-9-25)
定員:100名
一般1000円、日仏会館会員・学生 無料、日本語
参加登録:申込はこちら(Peatix) <https://fmfj-20241214.peatix.com/>
日仏会館の案内をそのまま転写しますと ↓
日仏会館100年の活動を幕末以降の歴史の中に置き、時間軸の中でこれを反省的に振り返り、次の100年を展望します。フランスとの出会い、憧憬、対話、葛藤は、日本語世界に何をもたらしたのでしょう。フランスに何を発信したのでしょう。100年前に創設された日仏会館は、そこでどのような役割を果たしたのでしょうか。本シンポジウムは、この問題を日本の歴史学の文脈で考えます。その際、問題観の転換と広がりに応じて、大きく四つの時期にわけ、四人の論者が具体的テーマに即して報告します。
【プログラム】
司会:長井伸仁(東京大学)・前田更子(明治大学)
13:00 趣旨説明
13:05 高橋暁生(上智大学)
「二人の箕作と近代日本における「フランス史」の黎明」
13:35 小田中直樹(東北大学)
「火の翼、鉛の靴、そして主体性 - 高橋幸八郎と井上幸治の「フランス歴史学体験」」
休憩
14:15 高澤紀恵(法政大学)
「ルゴフ・ショックから転回/曲がり角、その先へ - 日仏会館から考える」
14:45 平野千果子(武蔵大学)
「フランス領カリブ海世界から考える人種とジェンダー - マルティニックの作家マイヨット・カペシアを素材として」
休憩
15:30 コメント1 森村敏己(一橋大学)
15:45 コメント2 戸邉秀明(東京経済大学)
休憩
16:10 質疑応答ならびに討論
17:25 閉会の辞
主催:(公財)日仏会館
後援:日仏歴史学会
NB〈近藤の所感〉: 「近代日本の歴史学」を考えるにあたってフランスにフォーカスしてみることは大いに意味があります。プログラムから予感される問題点があるとしたら、
第1に、箕作・高橋・井上・二宮のライン(東大西洋史!)が強調されているかに思われますが、これとは違う、法学・憲法学の流れ、京都大学人文研のフランス研究がどう評価されるのか。
第2に、20世紀の学問におけるドイツアカデミズムの存在感(とナチスによるその放逐 → 「大変貌」)の意味を考えたい。箕作元八も、九鬼周造もフランス留学の前にドイツに留学しました。柴田三千雄も遅塚忠躬もフランス革命研究の前に、ドイツ史/ドイツ哲学を勉強しました(林健太郎の弟子でした)! さらに言えば、二宮宏之の国制史は(初動においては)成瀬治の導きに負っていました!!
2024年11月17日日曜日
山の上ホテルの記憶
1960年代に、学生のぼくにとっては、御茶の水駅から明大ブントの大きな立看群をすりぬけて、駿河台下・神保町の古書店街に下るその前に、右手にのぼる坂道があって、その奥に見える独特の洋館、不思議な、縁のない建物でしかなかった。
初めてその建物に入ったのは、正確にいつだったか覚えていません。でも、1987年にある出版社の編集部長と取締役が、(まだ名古屋にいた)ぼくを招いて企画にオルグしようとしたときの現場が、このホテルのロビーだったことは、そのときのお二人の表情までふくめて確かに覚えています。文人のホテルということは、そのころまでに認識していて、まさかここで将来、館詰めにされるんじゃないだろうな、と半分マジメに思ったものです。
【幸か不幸か、流行作家ではないので、その後にも、他の旅館もふくめて「館詰め」の上げ膳下げ膳で原稿執筆したとかいった経験は、ありません。あるのは、大学の自分の研究室で、原稿についてのヤリトリの後、編集者が「わたしは他の仕事を片づけながら待ちますから」と言って鞄からなにか書類を持ちだして、ぼくに背を向けて仕事を始め、数時間すわりこんでしまった。ぼくは机のパソコンに向かって文章をひねり出すほかなかった‥‥といった程度の経験です。】
次に覚えているのは、1989年9月の「フランス革命200年」の研究集会の折です。(組織責任者の遅塚さんが、ランチは「山の上」の中華、と指定なさって)柴田、二宮、樋口、ヴォヴェル、ルーカス、ハントといった先生方と一緒に、本郷からタクシーに分乗して、Hill Top 1階の中華料理に行って着席したのですが、遅塚さんは実務関連かなにかで到着がかなり遅れました。まぁよい、先に注文、乾杯だと柴田さんの音頭で、英仏チャンポンの談笑が始まったのですが、壁の大きな水墨画に添えられた漢詩には何が表現されているのか、とたしかリン・ハントから質問されて、日本人全員で四苦八苦、冷や汗をかいたのです。しばらくしてようやく遅塚さんが到着。白文を読む遅塚さんにとっては何でもない漢詩で、一挙に解決‥‥、といったこともありました。
この経験から後は、なんとなく気取った二次会には最適な場所、ということで、ワインを飲むためだけに数人で「山の上」のバーに行く、といったことも90年代にはありましたね。2000年をこえると、そうした luxury は縁遠くなったような気がします。他にもいろんな場所ができたから、ということもあるかな。
1937年創建の建物が、2024年にもとの明治大学に戻って改装、再利用されるというのは、めでたいことです。機会があれば、再訪してみますか?
2024年6月15日土曜日
長谷川宏さんのおかげ
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS644HNGS64UCVL049M.html
1940年4月1日のお生まれということで、もう80歳を越えておられますが、面影は昔と変わりません。島根県の少年のころの写真もあって、人の基本的な面立ちは変わらない、いやむしろその変わらない要素こそが人格を形成している、というべきなのでしょう。
(c)朝日新聞デジタル
長谷川さんは哲学の院生、ぼくは西洋史の学部3年。8歳も年長ですので、ほとんど接触はなかった。とはいえ、1969年初めの事件の夜、ぼく(と20名未満の学生・院生)は長谷川さんと摂子夫人に命を助けられたのです。おそらくぼくの名を認識しておられないでしょうが、命の恩人です。
東大闘争のころ長谷川さんは哲学の大学院を満期修了(人文闘争委員会)、ぼくは西洋史共闘。1968年6月からの(学部生の)無期限ストライキとは別に、院生たちの「人文会」は動いていましたので、遠くからお顔を見ることはあっても、討論や挨拶を交える機会はなかった。ただし、他の人びととはちょっと違う、実存的なビラを出したりしていましたね、彼も、ぼくも。
朝日新聞デジタルのインタヴュー記事では、おそらく担当記者の理解が行き届かず、時間的に前後が混乱しているところがありますが、68年11月に「文学部8日間の団交」、その後の総決起集会‥‥と続くうちに、12月にはぼくたちの知らないところで、(助手共闘が仲介して)東大の新執行部=加藤総長代行と全共闘幹部の交渉があり、これが決裂して、佐藤内閣の強圧に抗するべく、1月10日の秩父宮ラグビー場における当局と民青との手打ち式(七学部集会)、そして共闘系セクトの積極的な介入‥‥と急転直下の展開となります。その局面転換は明瞭で、ぼくたちサンキュロットにも「何かが大きく変わった」と感じさせるものがありました。東大全共闘の普通の学生は、1月16日からは、気楽に講堂=時計台に入れなくなったのです。
教育学部に駐屯した全国の民青「ゲバ部隊」は、68年9月7日未明の御殿下グランドにおけるデモンストレーション演習以後、機会をみて威圧的に動員されていましたが、1月10日の秩父宮ラグビー場の夜には、大胆な「トロツキスト掃討作戦」に出ます。その夜、文スト実のメンバーの多くは講堂=時計台に寝起きしていたのですが、「民青の襲撃に備えて」ということで、二手に別れ、一部(10人以上、20人未満でした)は法文2号館(すなわち文学部)事務棟の2階(学部長室や会議室がある)に移動し、バリケードを補強する、といった任務に就きました。ぼくはこちらでした。
70年代に歴史家ルージュリ(や木下賢一)がパリコミューンについて、また相良匡俊が世紀末のパリの労働者について形容したような bonhomie* に支配された呑気な夜でした。ところが、寝静まった未明に事態は急変。時計台前の広場から銀杏並木、そして三四郎池側まで黄色いヘルメットの民青「ゲバ部隊」が埋め尽くしているのを見て、ぼくたちシロートのトロツキスト(その実、ナロードニキ!?)は恐慌状態。小便の漏れたやつもいたのではないか。わがバリケードもどきが簡単に突破されることは、火を見るより明らかです。
【 * 木下論文は『社会運動史』No.1 (1972)、相良論文は『社会運動史』No.4 (1974) に載っていて、70年代を代表具現するような作品です。】
取るものも取りあえず、1月なので上着は着て、屋上に上がりました。今、法文1号館2号館は4階に銅屋根のプレハブ部屋が並んでいます。この空間は、70年代末まで図書の事務室以外は、細かい砂利を敷いた屋上だったのです。その屋上を伝って、文学部の研究棟に入り、長谷川さんの案内で2階の哲学研究室の鍵を開けてもらい、中で10人以上が息をひそめる、ということになりました(もちろん点灯しません)。
事務棟と研究棟は屋上でつながり、2・3階にあたるレヴェルに(いわゆるアーケードの上)「1番大教室」「2番大教室」がある、という構造です。
半時もしないうちに、法文2号館事務棟の(今は生協やトイレの入口にあたる)バリケードは破られて黄色いヘルメットが建物内を縦横に歩き回って、われわれを捜索しているらしい、このまま哲学研究室にいるのは危ない、という判断で、再び移動し、地下に下りました。心理学や考古学が使っている or 不使用の部屋に身を潜める方が安全だろうとなりました。地下のたいていの部屋は鍵がかかっていなかった。ぼくが身を潜めた部屋はかび臭く、寒く、頼りないことこの上なかったけれど、とにかく2・3人づつ別々に、外が明るくなるまで静かにしていました。
翌11日朝、本郷キャンパスはむやみに静かで、何もなかったかのごとく。しかし、学部長室/会議室に私物を置いていた人は、それらは無くなっていたと言います。左右を見ながら、走って時計台へ逃れました。
時計台にいたのは文学部だけでなく全学のスト実や院生、助手たちで、宵闇のなか、法文2号館を黄色いヘルメットの波が包囲し、やがて突入するのを遠望して、「近藤くん、死んだかとおもったわ」と西洋史の女子学生が(笑って)言ってくれました! 警視庁の機動隊より民青のゲバ部隊のほうが怖い/乱暴だ、という評判でした。その前夜、法文2号館で行動を一緒にしたのは、哲学の長谷川さん夫妻や国文の*くんや仏文の*くん等々でしたが、西洋史はなぜかぼくだけで、他は時計台の建物にとどまっていたのです(あまり組織的に職務分担したわけではなかった)。
というわけで、小杉享子『東大闘争の語り』をみても、折原浩『東大闘争総括』をみても、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』や富田武『歴史としての東大闘争』をみても、この深更・未明の事件については、具体的な叙述は乏しい。しかし、民青部隊がこのときみごとなほど機動的に動き、東大全共闘のサンキュロットを蹴散らして本郷キャンパスを制圧したので(→ 講堂=時計台は孤島のようになりました)、これに対抗して翌日より全国の大学から共闘系の党派動員が本格化する、そのきっかけになった事件でした。このとき長谷川夫妻の機転がなかったら、ぼくたちは69年1月に一巻の終わりとなってしまったかもしれないのでした。
2024年5月27日月曜日
amazonを名乗るフェイク
<以下、引用>
From : amazon
To :<amazon宛に使用していないわがアドレス> わが氏名は知らず!
Date : Sun, 26 May 2024 13:02 +0800
Subject:[SPAM] Amazon.co.jpでのご注文503-0497156・・・・・
誰かがあなたのAmazonアカウントを使用して別のモバイルデバイスからこの注文を購入しようとしました。 Amazonのアカウントセキュリティポリシーに従い、Amazonアカウントを凍結しました。
◆アカウントが盗まれる危険性があります。 この注文を一度も購入したことがない場合は、24時間以内に以下のリンクをクリックして、この注文をキャンセルし、Amazonアカウントを復元してください。
[ ボタン ] ← 危険水域にて、さわらず!
お届け先:横浜市青葉区美しが丘の、実在かもしれない方の住所氏名
注文合計:¥37,000
支払い方法 クレジットカード:¥37,000
<以上、引用>
→ 最後の3行は微妙ですが、本当ならすくなくともカードがJCBか、MCか、VISAか etc.は表示し、末尾の4桁くらいの数字も示すべきでしょう。それを知らないまま、当てずっぽうで拡散したFAKE のフィッシング・メールと結論して、無視し削除しました。
みなさまも、どうぞ慎重に、安らかに!
2024年2月12日月曜日
『ボクの音楽武者修行』その2
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】
小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。
2024年2月11日日曜日
『ボクの音楽武者修行』その1
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生!
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!
2024年2月5日月曜日
「68年世代」の修業時代
「「68年世代」の修業時代」 → https://ywl.jp/view/cIqWX という、回想をしたためました。
山川出版社のサイトで『歴史PRESS』のNo.17(12月号)、計4ぺージ。ダウンロードなどできます。かつて「70年代的現象としての社会運動史研究会」を『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)に寄稿しましたが、それと対をなすものです。
こんなものを書いた動機の一つは『歴史PRESS』誌から依頼があったからですが、もう一つは、昨夏の終わりにある人と同道した列車中の会話でした。
彼は、「今の学生たちは、"全共闘とかいって暴れていた学生たちは何も勉強せずに卒業していった" と考えているようです」と話を持ちかけ、ぼくを挑発して(?)きたのです。
『いまは昔 年譜・著作ノート』(2012年3月)と合わせて読んでくださると、年次が分かりやすいかと思います。1969年12月に「文スト実」の最後の会議で、無期限ストライキの解除決議をした後のことですが、70年の春だったか、再開された柴田三千雄先生の授業2コマの期末の課題として2つのレポートを提出しました。ことの顛末は、2013年12月『10講』の刊行時の柴田家にまで及びます。こんなことをしたためた理由の一つに、上の会話への答えといった意味もあります。
ところで、その69年12月に最後の「文スト実」を招集して筋を通した委員長Yは、その後、卒業論文「戦前における社会科学の成立」を70歳になった2017年に復刻自費出版し、さらに -「初心を忘れることは一度もなかった」と本人は言う - それを飛躍的に展開したような実証研究を2021年に公刊しました。グローバルにわたるフランクフルト学派の社会思想史/学問史です。
この1・2週にわたって新聞紙上では、「東アジア反日武装戦線」とかいうテロ組織の Leftoverメンバー、桐島聡のこと、その近辺にいたかもしれない「連合赤軍」の男女の惨劇などを想い出したように書きたてています。1974年~75年に三菱重工・三井物産‥‥大成建設・間組をはじめとする海外進出企業をねらった爆破・襲撃を繰りかえしていた秘密集団です。ぼくもYも、こういった悲しくニヒルな小宇宙とは全然別の世界、対話も成り立たない所にいて、思考し議論していたのでした。ミリゥ(milieu)が違った、と「総括」するほかありません。
50年余をへると、昭和も遠くなりにけり。ミソクソ一緒にされてはたまらない。「語り部」としてきちんと語り明かしておかねばならないことも少なくありません。
2023年11月12日日曜日
NZD ナタリ・デイヴィス ありがとう!
Natalie Zemon Davis, Historian of the Marginalized, Dies at 94
とありました。生まれは1928年です。
息子=音楽家のアーロンに看取られてトロントの自宅で10月21日に亡くなったとのことです。学生時代から一緒だった夫チャンは、去年に亡くなっていました。
落ち着いてウェブのぺージを見直すと、プリンストンもトロント大学も、バークリもミシガン大学も、オクスフォードの歴史学部も、それぞれ縁のあった所は、みなオビチュアリや懐古の記事を載せないわけにゆかない気持になっているのですね。Google ですべてヒットします。
ぼくは1995年1月にヨークで開催された社会史学会の朝食の場で遭遇して、楽しく放談することができたようすを『UP』に書きました。その縁で、97年5月、6月に彼女を日本に招聘するときにも、実務的なことも含めて、いろいろお手伝いしました。このとき、立命館、東大、北大(西洋史学会大会)でデイヴィスに接した方々は、みな強い印象 - inspiration そのもの - を受けたでしょう。
『iichiko』という雑誌に、二宮さん福井さんと一緒のインタヴューを載せることができましたが、その夜はなんとシャルチエも合流して、英語仏語チャンポンの談笑とあいなりました! 97年にはすでに69歳だったナタリは夕食時に、アルコールはいけない、脳細胞に悪い効果がある、とキッパリおっしゃって、こちら日本人学者たちを絶句させたものです。
【ちなみに『歴史とは何か』のときにやはり69歳だったE・H・カーは、アルコールを忌避したわけではないが、パブのような所には無縁の人でした。酔うことが楽しいとは思わなかったのでしょう。】
その後のデイヴィスはさらに文化史、ジェンダー史、ユダヤ人・先住民史の関わり(braided history)へと切り込んでゆき、ぼくたちをほとんど置いてきぼりにしそうな勢いでした。
「贋者のリメイク-マルタン・ゲールからサマーズビへ、そしてその先」 「16世紀フランスにおける贈与と賄賂」ともに拙訳『思想』880号(1997年10月) はよく読むと、その片鱗/予兆がうかがえます。 ぼくの「デイヴィス(ナタリ)」『20世紀の歴史家たち(3)』(刀水書房、1999)はいささか息切れしていたかもしれない。
70歳代、80歳代もまた知的に創造的に生きた、カッコいいNZD.
なんとオバマ大統領は、2013年、彼女に National Humanities Medalを授与していたんだね。これもカッコいい大統領!< https://www.nytimes.com/2023/10/23/books/natalie-zemon-davis-dead.html> こちらに写真があります。
音楽家(piano, percussion)のアーロンは来日のたびに連絡してくれたので、会うことができました。
2022年9月18日日曜日
エリザベス女王からチャールズ王へ
https://digital.asahi.com/articles/ASQ9J6581Q9HUCVL044.html
で拙稿が公開されました。印刷版では、女王の葬儀(文字どおりの国葬です)の19日(月)朝刊に載るはずのものですが、ウェブでは半日早く公開されるのですね。
他の識者・先生方とはちょっとちがう議論をしています。『イギリス史10講』も『歴史とは何か 新版』も『王のいる共和政 ジャコバン再考』も著している者として、短いスペースながら言うべきことは言いました。
ウェブですとカラー写真で、かつ「紙媒体では所定のスペースから溢れ出てしまい、ボツになったチャリティ法についてのパラグラフ」が甦りました! ここにこそ、ウェブ版のメリットあり、ということですが、しかし、これでは紙離れ、ウェブ志向が、ますます進行してしまいます! ちょっと心配。
2022年8月25日木曜日
真夏の大雪山国立公園
ぼくは母の新盆の後は、北海道に飛び、札幌から道東へ。十勝平野の北、大雪山の南の秘湯めぐりと洒落込んだのですが、警報が出るほどの強雨で、通行止めにも遭遇しました。 でも翌日にはカァーっと晴れて、たっぷり紫外線を浴びるとか。相客もそれなりに居て、(みんなマスクをしていますが)パンデミックも終局に向かいつつある、という空気でした。
然別(しかりべつ)湖、糠平(ぬかびら)湖といった名は初耳のような気がするけれど、帯広から糠平を経由して十勝三俣にいたる士幌線については、中学の人文地理で習ったな、とあやふやな記憶がよみがえり、糠平のひがし大雪自然館の脇からおりて廃線跡を歩き、左手の橋梁跡へ、右手の鉄道博物館まで行ってみました。
2022年4月28日木曜日
菊地信義さん 1943-2022
じつはぼくの関係した本で山川出版社から出たものはすべて菊地さんの装幀です。
最初の『深層のヨーロッパ』〈民族の世界史9〉(1990)からずっと、
『民のモラル』〈歴史のフロンティア〉も、高校教科書も、そして
『ヨーロッパ史講義』(2015)も、
『礫岩のようなヨーロッパ』(2016)も、
『近世ヨーロッパ』(2018)のようなリブレットにいたるまで
装幀はすべて菊地信義さんでした。
山川出版社のかつての独特の品位(センス)を表現していたような気がします。
菊地さんと同席してお話できたのは1回きりでした。 「何でも言ってください」とのことでしたが、今はむかし、です。
悼む記事が今日の『朝日新聞』夕刊に載っています。その筆者・水戸部 功さんは、なんと『歴史とは何か 新版』(5月刊)の装幀者です!
山川出版社から出た15冊については、↓のサイトから
www.yamakawa.co.jp/product/search?q=近藤和彦
ご覧ください。もしこれでうまくヒットしない場合は、
https://www.yamakawa.co.jp/product/search/
のぺージから「検索条件」として 近藤和彦 を入れて検索してみてください。
2022年4月17日日曜日
見田宗介さん 1937-2022
わかくカッコいい先生で、1937年生まれということだから、あの授業の時は、29歳の専任講師だったわけです! この朝日新聞の写真は2009年撮影とのことですが[本当でしょうか]、あのころの見田さんの雰囲気が十分に残っています。
しかしぼくがとった社会学の授業は、折原浩先生。1935年生まれで、66年度=ぼくが1年のときは専任講師から助教授になったばかり。(もしや2歳下の見田さんの人気に煽られて?)講義中に 「ひょっこりひょうたん島」を分析して見せたり、ということもないではなかったが、基本は、マルクス、デュルケーム、ヴェーバー、オルテガ・ガセット、そしてアーノルド・トインビーといった社会科学の基本文献を紹介し、東大の1年生に必要な学知を授けるものでした。とりわけマルクスとヴェーバーについては岩波文庫を持参させて該当ぺージを指示しながら読んでゆくといった丁寧な講義で、定員800人の「2番大教室」を一杯にしての授業。1列目・2列目くらいの座席は早々と席取りのコートや鞄が置いてあった。後方の座席では双眼鏡を使う学生が何人もいた。1列目では常に首を上に向けていなくてはならず辛いので、ぼくは前から6~10列目くらいに座して、一言ももらさじと構えました(コンサート会場と同じ!)。
社会調査の分野については、松島先生が分担していたようです。想えば、東大社会学の黄金時代の始まりだったのかな。
いざ2年生、進学振り分けの季節には、さんざ迷ったあげく、社会学はあきらめました。理由としては、
1) 見田さん的なカッコいい学問は、ぼくのタイプではないと考えた、というよりは
2) 社会学に進学する学生たちに、ぼくは伍して行けるだろうか、という不安
3) 案外、西洋中世史(堀米先生)もおもしろそう。ヴェーバー、そして大塚久雄を読んでいることが生きてくることは確実、という判断がありました。
その後(1970年代から)、見田さんは、次々に刊行される本の著者名として、見田宗介と真木悠介と二つを使い分けておられて、当時から説明はあったのですが、結局のところ、何故二本立てなのか、よく分からなかった。父君、見田石介との確執、といったことは風聞で耳にしましたが。
1980年代の『朝日新聞』文化欄なぞ、ほとんど見田宗介と高橋康也(英文)と山口昌男(文化人類学)に席巻されていました。 → 『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社、1987)。ケインブリッジから帰国したばかりのぼくも名古屋の自由な雰囲気のなかで、シャリヴァリ・文化・ホーガースを初めとして、社会文化史に首まで漬かった日々でした。
その後、ずいぶんたった2019年、ある方から見田宗介自身の才能についての自負、メキシコ行きの経緯、などを聞いて、そういうことだったのかと驚き、合点がいったことでした。
2021年8月4日水曜日
還暦を過ぎた桜並木
暑い盛りですね。みなさま、どうぞ無理せず、平常心でお過ごしください。
いまは無人の実家に行き、樹木も雑草も蔓延放題なのですが、隣家や公道に覆いかぶさるような枝葉だけは刈り込んで、多少の手当てをして参りました。
南北の窓をすべて開け放つと、それなりに涼風が通って、爽やかな気持ちになります。蛇口から直接、冷たい水道水を飲むと、小中高校生のころの感覚がよみがえります。
自宅にも学校にも冷房などなかった当時、夏休みは学校に行って級友と遊ぶか、自宅でなにかやっていた。島崎藤村 → 夏目漱石 → ヘルマン・ヘッセ、そして『ジャン・クリストフ』を読むか、ブラームスを聴くか。高校1年の一時期は、ベートーヴェンやブラームスの総譜を見ながら、(作曲ではなく)編曲の真似事などをやっていたこともある‥‥。大学2年の夏は ヴェーバー『宗教社会学論集』との格闘(みすず書房の『論選』翻訳が出るのは何年か後でした)。
暑さをあまりつらいとは思わなかったのは、若かったから? それとも実際いまほど暑くはなかった?
それにしても、この南の庭から北の隣家へと抜ける緑陰の涼風の感覚は、なぜか(60年くらいの時を隔てて!)なつかしく想い起こされました。
近くの公園です。もちろん遊具も道路との境界柵なども、全部入れ替わっていますが、60年を越えた桜の並木は、ぼくの9歳から23歳くらいまでの成長を見知っています。
1956年、県が開発したこの住宅団地に我が家はすぐに入居したのですが、なにもなかった公園には1・2年して遊具が置かれ、桜並木が植樹されたのだと記憶します。ですからこの桜木たちは64歳くらい‥‥。
2021年6月3日木曜日
散歩の風景
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2020/08/blog-post_31.html
また伊能忠敬(彼もまた18世紀人!)の「始めの一歩」像を拝んだりもします。
こういった水鳥の姿になごむことも。(写真の右寄りに)異種の2羽があまりヒトを気にせず休息しているのか、餌を狙っているのか。鳥の動きがあまりないので、最初は姿を見つけて喜んでいた大人も子どもも、やがて飽きて次のなにかのために歩き出す、というのも可笑しい。
2021年4月6日火曜日
山陽路
その後、住居が京都、千葉に移ってからは、母とともに山陽本線で神戸から須磨の浦、舞子の浜の美しい松林を眺め、姫路の次「相生」から岡山平野へ抜けるまでの山あいの蛇行する鉄路は、機関車がナンダ坂コンナ坂‥‥とあえぎながら上るのですが、この光景は小学生には忘れられないものでした。そして岡山、福山を過ぎて、しばらく海が見えなくなったあと、「松永」から左にカーヴして、まもなく家並みの合間に、尾道水道の海面と造船所のクレーンなどが目に入ってくる。
海が見えた、海が見える。
五年振りに見る尾道の海はなつかしい。
汽車が尾道の海にさしかかると
煤けた小さい町の屋根が
提灯のように拡がってくる。
赤い千光寺の塔が見える。
山は爽やかな若葉だ。
緑色の海の向こうに[向島の]
ドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。
私は涙があふれていた。
といった林芙美子の文章を染めた(観光用の)手拭いを、千葉に住む母は部屋にずうっと飾っていました。林芙美子は、母と同じ「尾道高女」の卒業なのです。いまは無人の家に、まだ垂れ飾ったまま。母ほどではないが、ぼくにとってもささやかな原風景のひとつです【新幹線の「新尾道」経由だと、この感動は味わえません。福山で在来線に乗り換えるにかぎります】。
この向島にいま二人の叔父が90歳を過ぎて在住です。
その尾道からさらに西へ行った隣町、三原市では
〈古民家しみず〉再生プロジェクト というのが始まったということです。叔父が『中國新聞』の切り抜きを送ってくれました。
→ http://www.kominkashimizu.net/
「西国街道の古民家を 民泊&土蔵ギャラリー&カフェ として再生し 地域に活気を取り戻す!」という謳い文句で、古民家カフェがこの春から始まるのです。
まもなくパンデミックが収まって、ご無沙汰の二人の叔父に会い、この古民家カフェにも訪ねて行けますように。
2021年2月10日水曜日
むずかしい → やさしい → 深くおもしろい → 愉快な瞬間
「むずかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに、
まじめなことをゆかいに、
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」
国会図書館の「レファレンス事例詳細」 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000158633
にありますとおり、井上ひさし・劇団こまつ座ですよ!
こまつ座の『the座』14号(1989年9月)pp.16-17 で言及され、井上家の机の前にこの一文が吊されていたということです。
これだけ「やさしく」「ふかく」「ゆかいに」真理を言い当てている名文です。敬意をもって接したい。
とはいえ、少々の物書き経験者として申しますと、最初から「むずかしいことをやさしく」というのは、そもそも不可能に近い。
「むずかしいと見えること」をためつすがめつ、寝ても覚めても考え通すことによって、ある日アルキメデスのように、「分かった! エウレーカ!」とひらめく。
そうした寝ても覚めても、風呂に入っても、の日夜をへて、ある時、ようやく啓示のように、やさしく、深く、おもしろいことがやって来る愉快な瞬間に恵まれるんだな。
2021年2月2日火曜日
2020年12月22日火曜日
野村達朗さん, 1932-2020
1977年4月に名古屋大学に赴任して、ぼくの人生は新しい局面に入ったのですが、その名古屋におけるインフルエンサが野村達朗さんでした。ぼくが『思想』630号(1976年12月)に書いた「民衆運動・生活・意識」をほめてくださって、アメリカとイギリスと違うけれど、同じ労働者民衆の世界を社会史として見ている、それ以上に「近藤さんは民衆だ!」と過大評価してくださいました。
名大文学部では非常勤の授業を続けてくださって、学生の良い先生でした。不定期ながら西洋史の研究会をやることもできました。それよりも映画についてのイニシエーションをしてくださって、名古屋は大須の芝居小屋で無声映画、グリフィスの『国民の創生』、そして『イントレランス』を一緒に見ました。小川プロの『日本国古屋敷村』も。
西洋史学会大会の大シンポジウム、『過ぎ去ろうとしない近代』(山川出版社、1993)にどうしてアメリカ労働社会史の野村が入っているんだと、尋ねる人がありましたが、こうした名古屋の「密」なソシアビリテの結果であります。
野村さんは1932年、鹿児島の生まれ。九州大学の大学院を修了してから愛知県立大学に赴任してそのまま30年間勤めあげたのでした。あの二宮宏之、遅塚忠躬と同じ「32年テーゼ」の年の生まれです。1950年代の東大西洋史は(34年生まれのTさんの言によると)、二宮・遅塚、そして33年生まれの西川正雄と「(知的)プリンスみたいな学生が揃っている研究室で、ぼくなんか気後れして‥‥」とのことでした。九州大学の、しかもエレガントでないアメリカ史をやって、野村さんも、このTさんと同じく「文化資本」の隔絶を感じてしまうはずのところ、そこはしっかり非共産党系の左翼労働民衆という立場を確立して自分の道を歩まれた。自己紹介では飲んべの「ノムラー」です、といった具合に気どらないおじさんでした。
アメリカ史、カナダ史の交遊も広く、安武秀岳、太田和子、木村和男、金井光太朗、遠藤泰生‥‥といった方々とのお付き合いも、野村さんのおかげで始まったのでした。名古屋のアメリカンセンターで David Apter, Jack Greene をはじめ重要な学者たちと面談する機会もいただきました。亡くなってしまった木村和男とは、名大から四谷通りを下っていった店で初対面ながら、カナダや毛皮のことより、まずは吉岡昭彦、そしてグレン・グールドで盛り上がりました。
近藤・野村(編訳)『歴史家たち』(名古屋大学出版会、1990);遅塚・近藤(編)『過ぎ去ろうとしない近代』で一緒に仕事をしましたが、明記されていなくとも、たとえば野村さんの『ユダヤ移民のニューヨーク』(山川出版社、1995)が〈歴史のフロンティア〉のシリーズに入っているのも、友情の結果です。『イギリス史10講』(2013)の名古屋における合評会にも出かけてくださいましたが、耳が不自由になって、とのことでした。2014年にいただいた(唯一の!)電子メールでは、長年ご愛用のワープロ専用機が壊れて使い物にならない‥‥と嘆いておられました。
なかなか語り尽くせません。想い出を愛しみたいと思います。












