2018年11月24日土曜日

大久保の街路樹は まだ青々


 23日(金)午後、大久保(北新宿3丁目)の柏木教会、大庭健さんの告別式に参りました。
 キリスト教(プロテスタント)の式と、告別の辞のアカデミックな弁論が、微妙な関係だなと思うのは、ぼくが無信仰(「祭天の古俗」派)だから? おぼろげな記憶ですが、まだ駒場時代のある夕刻のこと、ウェーバー『古代ユダヤ教』を読み合わせていた会で、霊や信仰をめぐって「不条理なるがゆえにわれ信ず」という立場をもちだした(年長の)あるキリスト者にたいして、大庭さんは慎重に言葉を選びながら「ぼくたちは啓蒙より後の合理主義的信仰だから‥‥」と語ったのが想い起こされます。 最期の日には、聖書の一節を読み、賛美歌を歌って、夜静かに死を迎えられたということです。
 おそらくは60代半ばの遺影がすばらしくて(ぼくの知っている大庭さんです)、悲しさより嬉しさが募りました。
 ご本を26冊も出版なさったと今日うかがいましたが、最後の書は執筆8割ほどで筆を折るしかなかったとのこと。無念だったでしょう。
 階下の懇親会では『私はどうして私なのか』『善と悪』を担当したという岩波書店の編集者とお話ししました。遅筆のぼくとしてはなおさらに、お約束の『映画と現代イギリス』も含めて、せめてあと4冊を書き終わらないまま時間切れ、アウト、というのは、耐えがたい。きっと見苦しい臨終となってしまうでしょう。

 若者とエスニシティの溢れる大久保駅界隈ですが、柏木教会の中は静か、脇の街路樹は11月下旬というのに青々していて、生命力をうかがわせます。初冬のおだやかな午後、そのまま帰路に就く気持になれず、百人町の住宅地からグローブ座、高層マンション群、西戸山公園から高田馬場まで、ゆったりと歩いてみました。

2018年11月23日金曜日

コングロマリット(国際複合企業)のゆくえ


ゴーン・ショックと言ったらオヤジ・ギャグめいた響きもありますが、なんと NHK World では
Nissan's Ghosn is gone
といった見出しで報じています!
歴史における礫岩のような政体をテーマとしてきたぼくとして、今回の conglomerate「日産・ルノー・三菱自」の事案、そしてこれからの展開には大いに想像力を刺激されます。
オクスフォード大学の博物館に展示されている礫岩の標本を『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)のカバー表紙に用いましたが、これはポルトガルで採取された岩の断面でした。それで、「ポルトガルから独立したブラジルに生まれ、レバノンで育ったフランス人、カルロス・ゴーンが社長を務める国際複合企業「ルノー=日産」をみる場合にも、示唆的」なんて文をしたためています(p.16)。当時はまだ三菱自は加わっていませんでした。しかも、彼の学歴をみると、パリで Ecole Polytechnique (1974) についで Ecole des Mines de Paris (1978) を修了しているというのが、なんとも礫岩的でおもしろい。

報じられているところでは、
a.個人的な報酬や利権といった法律的な問題とならんで、b.ルノー・日産・三菱自の間の「アライアンス」(連携・関係)のありかたについて(こちらは法的には問題なし)、ルノーおよびフランス政府から現在よりも一体化した経営への転換が示唆されていたとのこと。概念図は、22日深夜の www.nikkei.com によります。 

だとすると、今回の事案は、
a.ただ経営者(会長)としての私利私欲や背任の問題にとどまらず、むしろ b.現在の同君連合的なコングロマリット(礫岩アライアンス)を、ルノーないしフランス政府主導の中央集権(一君万民の単一国家)へと転変させる動きにたいして、日産側から造反した、ということなのではないでしょうか。
b.のほうが日産にとっては、いったい良い日産車をつくって売る、利益を上げるのはフランス国庫およびフランス国民の為なのか、という気持的に重要な問題なのだが、しかしこの論法はグローバルな取締役会でも日本の司法においても、見解の相違(好き嫌いの問題)として片付けられてしまう。より法律的に責任追及しやすい a.を前面にたてて司法にタレコミ、(ゴーン、ケリ以外の2人のフランス人を含む)取締役会に解任を提議して通した、ということでしょう。

あたかも豊かで勤勉なカタルーニャ人が、なんで高慢ちきで口ばっかりのカスティーリャ人と同じ国で一緒にやってゆかねばならんのだ、と異議を申し立てているのと同じ問題ですね。礫岩のようなアライアンスで微妙なバランスをとってきた礫岩君主ゴーンが monarch (ただひとりの君主)として会長職を務めていること自体は、ことがうまく機能しているかぎりだれも問題にしません。しかし、a.ゴーン会長は、日産という企業が製品や品質管理上の瑕疵でマスコミの矢面に立たされているときに我関せずで家族レジャーにいそしんでいた;さらには b.フランス政府ないしルノー側の意向を体現してアライアンス(連邦主義)ならぬ一体化(中央集権)に向かっているようだとすると、これにはクーデタでも司法取引でも可能な手段で抵抗するしかないのですね。

日産はスペインにおけるカタルーニャ、連合王国におけるスコットランド(をいま少し強くした存在)、
ルノーはカスティーリャ、あるいはイングランドのような存在とたとえれば良いでしょうか(三菱自は北アイルランド?)。今秋から、そのルノーがあたかも imperial な意思(支配欲)を内々に表明した or そうした動きを日産の幹部が感知したことで、一挙に事態が動き出した‥‥。不十分な情報ながら、そう推測しました。

2018年11月18日日曜日

絶対王政? アンシァン・レジーム? 近世という時代の主権国家

 『史学雑誌』10号で山﨑耕一さんの仲松優子『アンシァン・レジーム期フランスの権力秩序』(有志舎、2017)にたいする書評を読みましたが、最後の近くに(p.98)「いわゆる「コップの水が半分なくなったか、半分残っているか」の論争に近いように思われる」という名言がありました。これでちょっと重たい書評文が明るく締まりました。
その直前直後に入江幸二『スウェーデン絶対王政研究』(知泉書館、2005)を読んでいて、こちらはカール12世の即位儀礼(1697年)の特異性を明らかにしていておもしろい。しかし13年前のお仕事ということもあって(?)「主権」の主張が即「絶対主義」に結びついてしまう趣き。p.14における「絶対王政(絶対主義)」の定義も、いわば「君主政をとる近世主権国家」の特徴を述べているに過ぎないような気がします。
 かくも山田盛太郎の『日本資本主義分析』における absolutism/absolutisme/Absolutismus/天皇制絶対主義[という語が使えないので、様々の形容を用いる]の範式=のろいが、そうと自覚しない若い世代にも、戦後民主教育によって血肉化しているのです! コミンテルン・日本共産党とともに(隠れ)二段階革命戦略をとる方々ならともかく、そうでない立場から自由に、歴史的に考えようとする人なら、「絶対主義」「絶対王政」のいずれの語も、自己欺瞞か目潰しの効果があると意識したほうが良い。
 とか思いながら『史学雑誌』の巻末・出版広告を眺めていたら、なんと、一番最後の左下に、近世ヨーロッパの広告があるではないですか。96頁、本体729円とのこと。ただし、ぺージはどこからどこまで数えるのか、ぼくの見たところ92ぺージというのが正しいような気がします。宣伝文句も3行ばかり見えますが、これはぼくがしたためた文のほぼ半分の短縮形。元来は(縦書きで)こうでした。
 ≪表紙の絵は一五七一年、レパントにおけるスペインなど連合軍(左)とオスマン帝国海軍(右)との戦いを、想像により描いた日本の屏風絵である。裏表紙の肖像画は一七六四年、インド更紗を着たフランス貴婦人を描く。十六世紀から十八世紀の間に、ヨーロッパの政治・経済・文化は、そしてアジアに対する関係はどう変わったのか。ルネサンスと大航海の時代から、戦争と交流と学習を重ね、啓蒙と産業革命にいたる近世の三〇〇年を、ヨーロッパだけでなく世界史の変貌として見てゆこう。
 というわけで『近世ヨーロッパ』は写真のような装丁です。まもなくお目にかかります。

2018年11月8日木曜日

東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男

和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男』(ウェイツ ISBN 978-4-904979-27-3)という本が到来。

和田といえば、中学・高校・大学と一緒だった男だ。かっこいいヤツで、裕次郎どころじゃない、言ってしまえば、日本のアラン・ドロン。高校の世界史で「人権宣言」を習った直後には、兄貴に教わったに違いないが、フランス語で
Déclaration des droits de l'homme et du citoyen
と手書きしたシャツを着て校舎内を闊歩して注目されたりした。そもそも白や薄青じゃないデザインしたシャツを着用すること自体が問題だった! だが、60年代の高校は不思議なところで、彼がそのような格好をしたり、ぼくが体育の授業をずっとさぼって図書館にいたり、Kという男が、学校の授業は意味がないというだけの理由で年間100日以上出校しなくても、一言注意されるくらいで、学業成績さえ問題なければ、黙認されていたのだ。学業主義のもたらす自由!(Kのほうは、B. ラッセルのような数学者になるつもりで東大理Ⅰに入学。しかしまもなく佐世保、羽田、三里塚と駆け回る活動家になった。東大闘争では党派の指導部にいたから、あまり本郷に顔は出さなかったと思われる。)

和田は東大文Ⅰに入学してからも、やはりノンポリのアラン・ドロン風の生活を送っていたが、1968年(法学部3年)のある日から法闘委(全共闘)に加わり、翌69年1月19日に安田講堂内で逮捕され、起訴され、裁判で有罪判決をうけた。刑務所を出るとき、高倉健の出所のようにかっこよくはいかないな、と考えていたら、なんと「門の向こうに、黄色いハンカチを手にして、K子が立っていた」p.161 とまるで映画みたいな場面がいくつもあります。

本は2部に分かれ、第一部「安田講堂戦記」はぼくも知っていること、体験したことが少し、知らないことが沢山。「文スト実」と「法闘委」のちがいはあまりに大きい。
具体的には、またいつか分析的に述べますが、たとえば19日午後の安田講堂の中で、闘いも止み、いよいよ逮捕される直前に、法闘委のメンバー20名(と周辺の学生)には
「すぐに機動隊がきます。若い隊員は興奮しているでしょう。殴られたり蹴られたりするかもしれません。しかし、そのうち上級の隊員が来て収めます。それまで抵抗してはいけません。彼らは殺気だち、諸君はますますやられます。」
「逮捕されてから48時間以内に送検されますが、そこで釈放されることはないでしょう。検察官は必ず24時間以内に裁判官に勾留の請求をします。それから勾留裁判がありますが、そこでも釈放されないでしょう、裁判官は必ず10日間の勾留を決定します。そしてまた10日間延長するでしょう。身柄の拘束は全部で23日、それでも終わらないかもしれません‥‥」(pp.93-94)
といった正確なインストラクションが司法試験勉強中の学生からあったという。自分がどうなるか、予測がついて長期勾留されるのと、いったいどうなるのか霧の中、というのとは全然ちがいます。
その後の「司法制裁」の具体相と、警官や司法役人との出会いについても印象的な記述があります。和田本人については、司法側のかなりイージーな予断と誤認によって地裁で実刑判決をうけ、控訴審=高裁でも認定はそのまま本質的に継承され(地裁判決を否定することなく)、執行猶予を付けてケリとしたという。

第二部は、「丸山教授の遭難」と題して、例の1968年12月23日、法学部研究室封鎖のときの丸山眞男の言説をめぐる伝説の真偽、そしてこれが虚偽でなくとも不正確なことは明らかなのに、なぜ誤報が友人や弟子たちによって異議申したてられないままなのか、この不思議を分析します。
「‥‥「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」と言う丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。」(毎日新聞、翌日朝刊) ⇔ 他の新聞にはない記事! しかも、『毎日』は他のニュースソースから文章を流用したうえ、「ファシスト」を「ナチ」に変えてしまった(pp.203-209)。
吉本隆明によれば、「新聞の報道では‥‥丸山真男は‥‥〈君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎しみはしない、ただ軽蔑するだけだ〉といったことを口走った。」(『文芸』3月号) ⇔ 『毎日』と伝聞にのみ依拠した記述。

じつは当時から(ぼくの場合、毎日新聞か吉本か、どっちを読んだのか判然としないけれど)「ナチもしなかった」という表現に強い違和感がありました。ナチスは大学研究室の封鎖や狼藉にとどまらず、ユダヤ人や自由主義者を肉体的に殺害し、その出版物を焚書したのだから、そしてそのことは歴史をちょっと学んだ人なら誰でも周知の事実なのに、本当に丸山教授はそんなナイーヴな発言をしたのだろうか、そこまで激情にかられて(?)基本的な知識まで吹っ飛んでしまったのか、と。むしろ報道側が扇情的にフライイングをした、と考えるのが合理的、ということに、ぼくたちの間では落ちついたように記憶しています。

そうだとしたら、何故、丸山本人およびその友人や愛弟子たちが、『毎日』と吉本の可笑しな記事に異議を申し立てなかったのか、という疑問が残ります。そのあとの推論は、和田くんが分析しているとおり(pp.212-258)だったろうと思われます。

なおちなみに、丸山眞男は父が『毎日新聞』記者で、戦後もいろいろな機会に『朝日新聞』でなく『毎日』を優先して対応していた。学生内藤國夫を推薦した先も『毎日』だった。それが70年代からは変わって、(他に褒章のない[固辞していた?]丸山が)1985年に朝日賞は受賞した、というのも、この『毎日新聞』12月24日記事への憤りが影響しているのだろうか。知りたいところです。

この本は第一部も第二部も、法廷弁論を聞いているようで、明快な「力」があります。体験と文献史料の分析とがあいまって、読むに足る「メモランダム」ができました。元来 memorandum とは、記憶や覚書より以上に、(フォーマルではないが)記憶しておくべきこと、忘れてはいけないこと、という意味ですね。

ちなみに、先にも触れた 小杉亮子『東大闘争の語り』(新曜社)には、この和田くんは登場しません。

2018年11月5日月曜日

真剣度

 こんなメールや電話が、年に一度くらい(?)の割で到来します。

 「突然ご連絡、大変申し訳ございません。
テレビ**の○○という番組を担当しております△△と申します。
私どもが放送する○○という番組の中に、□□を紹介させていただくコーナーがあります。本日は、‥‥ の雑学についていくつか取り上げるにあたり、いろいろ調べておりましたところ、イギリスを中心に、‥‥という記事を見かけました。
つきましては、この記事内容について詳しいことを近世イギリス史を専攻されている先生に直接お話を伺えればと思っております。
まだ、企画の段階で、‥‥大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。」

 どこでどう間違えたか、インターネット検索でぼくの名が引っかかったので、慇懃無礼な挨拶文をしたためて、立正大学のアドレスあてに出してみたわけでしょうね。
「いろいろ調べて、‥‥という記事を見かけました」
といっても、その記事がどこのどういう記事か特定することのないままでは、この人がどの程度の「リサーチ」をしたうえで問い合わせてきたのか、「検索サーチ」で一発ヒットしただけか、要するに「真剣度」が伝わってきません。そのうえ、こちらは「トリビア」に関心がありません。「お相手できません」とご返事する以前的な、そのまま無視、という対応しかできません。ついでにテレビ局って、こんなにも無意味なことを取材、放映して利益を上げてるの! とビックリします。

 こういったことがあると想い出すのは、世間もバブリーで、出版界も学生たちも、いささか浮いていた1990年前後のことです。東大のある女子学生が進学したばかりで「‥‥本で読んだんですけど」と問いかけてきたので、「なんていう本? 著者は?」と聞くと、彼女は答えられなかったのです。かわいくて知的な家庭の出身で幸せそうな様子、大学院を志望していたようですが、読んだ「本」を特定できないのでは話になりません。ぼくとの会話はそれで途切れました。
 2年後、その子は語学ができたので大学院に合格したけれど、数ヶ月もしないうちに授業に出てこなくなっちゃった。指導教授が(ぼくではありません!)張り切って関連文献の実物を見せながら指導していた場面に、たまたま居合わせたことがありました。
 複数の情報を特定しながら、そのズレにこだわり、相互の違いから、事実の割れ目にテコを差し込んで、新しい発見に迫る。その出発点は「疑問」「違和感」です。そこに問うに足る問題がある、と直観するからこそ、力業(ちからわざ)を続けることができる。

 むかしこのことを、黒田寛一は「否定的直観」と呼びました。ノーベル賞の本庶佑さんは「教科書を疑うことから始まる」とおっしゃっています。そうした直観、疑問を特定し(分析し)、考察を継続する(リサーチする)ためには、それだけの情熱が必要です。テレビのディレクターに、そしてただかっこいい職業として大学教員を志望していた女の子に(男の子も同様に)、それだけの「真剣度」はなかったな。張り切っていた指導教授はひどくガッカリして、端で見ていても気の毒なくらいでした。