2018年12月13日木曜日

深沢克己さん、松浦純さん


 朝刊で日本学士院会員に西洋史(近世社会経済史)で深沢克己さん、ドイツ文学(ルター・聖書研究)で松浦純さんが選任されたとのこと。おめでとうございます。
(学士院のニュースぺージ)↓
 http://www.japan-acad.go.jp/japanese/news/2018/121201.html
 お二人とも、世間の(表面的な)流行とは一歩離れて、しかし学問的には大きな潮流に棹さし、意義ある研究に専念され、ご自分の世界を築き、良いお仕事を公刊なさってこられた。日本学士院のためにも明るい展開だと思います。
 個人的な点では、深沢さんはとくに史学会の公益財団法人化のために、松浦さんはとくに東大の Gateway 認証(高輪Gateway ではありません!)によるデータベース利用の継続性のために尽力された、そうした成果の恩恵にぼくも浴しています。大塚久雄、丸山眞男、内田義彦、村川堅太郎、水田洋‥‥といった世代からの戦後学問の良き伝統を継承するだけでなく、その世代と違ってコンピュータ・リテラシを備えておられるので(!)、21世紀の日本の学問のために新しく寄与なさる姿を期待しています。

2018年12月11日火曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 3


I'さん「‥‥各国史に軸足を置きつつ、つまり自分の研究地域の事をいつも想起しながら、近世ヨーロッパの一体的な歴史展開を考えるようになっている。真に議論すべき論点は何かを簡潔に提示するというのは『イギリス史10講』と同様の姿勢であると思いますが、規模がヨーロッパと広くなったことで、『10講』よりもいっそうシャープに著者の問題意識が表明されることになったのではないか。」

¶ ご指摘のとおりです。ぼくにとってイギリス史は派生的・副次的なもので、(高校時代はもっぱらドイツ・オーストリア音楽でしたし)本郷進学時にはドイツ史ないしドイツ語圏と北イタリアあたりの都市史をやろうかと考えていたのですから、今回のような範囲で論述できるのは、故郷に帰ってきたような気分!
イングランド史およびフランス史をヨーロッパ史のなかで相対化しつつ議論できるのは喜びでした。【ですから Brexit は狂気の沙汰と考えています!】
もちろん『イギリス史10講』のために先史から(!)十分に勉強したこと、そして近年の「礫岩」や「コスモポリタニズム」や「主権」、そして「ジャコバン」をめぐる科研の共同研究から学習したことは無限にあり、ここに生きています。【このジャコバン科研でなにを問うているか、5月の西洋史学会大会@静岡の小シンポジウムでご報告します。】

I'さん「‥‥私自身がこれから考えて行かなければならないのは、「それでは、近世の主権国家と近現代の国民国家とはどう違うのか」(p.50)という問いであると感じています。
[中略]ある意味で停滞した伝統社会を描いてしまうという問題、これを克服するためには、本書(p.52)が16世紀後半のポリティーク派や神授王権について行ったように、私の時代と文脈において、すなわち当時のグローバル化された社会・経済・思想文化において再検討する必要があるのだと感じます。現地行政官が抱く「混乱(無秩序)の恐れから生まれた徳と国家理性、公共性と主権の考え‥‥」、とても重要なフレーズだと思います。本書が示唆する方法論を意識しつつ(それは C.A.ベイリーが、そして B.ヒルトンが共有した研究視角と思われます)、自分の研究を振り返ってみようと思います。」

¶ このあたり(p.50~)については、別の分野のK'先生も似たことを記してくださり、「‥‥50~53頁の主権にかかわる記述はインパクトのある、とてもいい内容だと感じました。」
その上で、「ついでですが、18世紀の啓蒙思想家たちは、共和政をパトリ(patrie)と重ねて論じており、またこの時期には国王への忠誠か、それともパトリへの忠誠かが議論となっています。近世におけるパトリ観念はもっと論じられていいテーマだと思います。この問題は二宮さんの1969年論文(『二宮宏之著作集』4、370~372頁)にも少し出てきます。」
と書き添えてくださった。パトリは中東欧史とアメリカ史の専売特許じゃありませんよ、ということですね。【ちなみに『フランス アンシァン・レジーム論』(2007)ですと、pp.40-42. パトリには「祖国」「愛国」等の訳語があてられていますが。】

2018年12月9日日曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 2


H先生「[長い文の最後に]‥‥私は18世紀末までを「近世」とし、以後を「近代」とするのはフランス革命の過大評価ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。」

¶‥‥フランス史のH先生にしてこのコメント! そうでした。時代区分という点では、迷ったあげく『近世ヨーロッパ』では完全に割愛しましたが、宗教改革でもなくフランス革命でもなく、歴史をきわめて長期でとらえて18世紀半ばくらいを「鞍のような時代」(Sattelzeit)と考え、その前後を分けるドイツ史の議論を、もうすこし討論すべきでした。
想い起こせば、旧『岩波講座 世界歴史』(1968年刊行開始)でも、おそらくは柴田先生の提唱で、18世紀末のフランス革命・産業革命ではなく、18世紀初めの啓蒙/カルロヴィッツ後の東西関係でもって「近代世界の形成」(第16巻まで)と「近代世界の展開」(第17巻以降)とを分けようとしていたのでした。アジア史との連結部でちょっとズレが残っていますが。

Kさん「‥‥本書の語り口は、『民のモラル』ではなく、『イギリス史10講』のそれであると思いました。‥‥『イギリス史10講』において非常に顕著だった用語・訳語の原理的な解説と言い換えは、本書でも随所にちりばめられていて(近世、近代=今様/当世風、新旧論争、人文主義、カトリック、公共善、イギリス革命、諸国家システム、啓蒙=文明開化)、また、世界史教科書の諸項目を相当に意識した構成とあいまって、想定読者の多くを占めるであろう高校世界史・日本史教員にとって親しみやすくかつ非常に有益な副読本として、この上ない仕上がりだと感じました。
世界史の「常識」を硬軟取り混ぜて、さらりと転倒させる筆致も『10講』以来のものだと思われます(ヘンリ8世は「セクハラ君主」ではない、『君主論』は「なんでもあり」の推奨本ではない、など)。
歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つものであるとの確信から書いておられるであろうことがひしひしと伝わってきました。そして、(『10講』でも感じたことですが)お書きになるものから、一種の歴史哲学的志向が透けて見えてくるようになってきているとの印象を抱いています(グローバル状況を背景/ネガにして可視化される、モラルと秩序を軸にしたヨーロッパ近世的なるもの)。
 今ちょうど、時代区分に関して考えている最中で、なおのこと本書の歴史哲学的な面を深読みしすぎたのかもしれません。」

¶「歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つ」ということは、内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書)あたりから学んだ大事なことだと今も思います。それが歴史哲学といえるほどの質を備えているかどうか分かりませんが、歴史的に考えるよすがであり、調べるに値することです。(およそ言葉に鈍感な人の文章は、読むにたえませんね。)
 なおマキャヴェッリの思想史的重要性とともに、その議論にジェンダー的含意が隠されているというヒント【運命という女神の髪は前にしか付いていない;(virtu)とは本来、男らしさ、男気、力強さ‥‥】をくれたのも、内田の『社会認識の歩み』でした。

 皆さんのおかげで少し自分を相対視できます。ありがとうございました。

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続


 この本が出来上がったことにより、ぺージをめくって速やかに前後を参照しながら読みやすくなって初めて気付かされる欠点・難点も、じつはあります。校正中に気付かなかったのは恥ずかしいですが、にもかかわらず、良き読者の良き評に恵まれて、幸せです。以下の方々ばかりでなく、皆さんに感謝しています。

Yさん「‥‥「高校世界史」の近世の前半と後半の2つの章にあたるヨーロッパ世界を、もっと大きな視野をもって、また、高校教科書では許されないと思われるような大胆な筆致と、個別事例の印象的な使い方で描いておられます。」

Hさん「‥‥私はリブレットのようなものをまだ書いたことがありませんが、なるほどこのような筆致で書くものなのか、と惹き付けられながら読んでいるところです。ときに先生の肉声が聞こえてくるような一節もあり、楽しみながら読んでいます。」

K先生「‥‥いろいろな出来事が重なりあいながら15・6世紀からフランス革命期まで発展してゆくヨーロッパ史をこれだけのわずかな紙幅にうまく収めるのは大変ご苦労があったことと思います。そこで、目次はきわめて簡潔に抽象的な語彙を並べて構成されることになったのだと思いますが、これを見て全体構想を掴み取るには、ある程度の歴史の素養が必要だろうという気がします。これだけ見ると難しい本だという印象を与えると思います。
中身を見れば、多くの固有名詞や礫岩国家というような新しい概念が出て来はしますが、かなり具体性があります。が、これを読みこなすのにはやはりある程度の素養が必要だろうという気がします。全体的にはかなり高度な書物だと思います。
でもよく書けているのではないでしょうか。これは紹介程度ではなく、真っ向からの書評に値する書物でしょう。」

Iさん「‥‥まずは表紙の絵に強い衝撃を受けました。じっくり拝読いたしますが、政治社会をめぐるこれまでの考察にくわえ、ヨーロッパ規模のみならず、世界規模の時代像についての議論も打ち出され、全体として組み合わされているようで、実に密度の濃い本であるとの印象を受けています。表紙の図版、さらには『百科全書』の日本語アルファベットの写真など、これまで私たちが見てきたナショナルな文化空間に閉じこもった日本像自体、近代以降のナショナルヒストリーの語りでつくられてきたものだということなのだと思います。それを解体して新しい像を提示するという使命は、日本史研究者だけではなく、むしろ西洋史研究者こそが担わねばならない、という気概のようなものを感じました。」

2018年12月1日土曜日

レパントの戦い

Mさん、
『近世ヨーロッパ』(山川出版社)について、早速にご関心をもっていただいてありがとうございます。
ご指摘のとおり、表紙には「レパントの戦い」の屏風絵を用いました。10年ほど前に Biombo (屏風)という展覧会がサントリー美術館であり、見てビックリしたものです。同時に展示されていたカール5世やフランソワ1世(かもしれない)武将の群像も含め、それ以来、いつかどこかで利用したいと考えていた材料です。

ヨーロッパ(ろうまの王)軍とオスマン帝国(とるこ)軍の戦闘を、1600年前後の日本で屏風絵として製作していたという事実がまず興味を惹きます。また戦国から徳川最初期の日本において、屏風絵という美術品がもっとも価値ある贈り物、輸出品だった、ということも、あまり広くは知られていない。家康のブレーン以心崇伝の『異国日記』を読んで気付かされることです。1613年、イギリス東インド会社のセーリスにたいして「日本国 源家康」が「イカラタイラ国主」への御朱印状とともに(おみやげとして)もたせたのは「押金屏風 五双」でした【『ヨーロッパ史講義』p.103】。

世界史リブレットですから(本文はたったの88ぺージです)、あまり立ち入って詳しく書き込めないのですが、
1) 近世という時代それじたいを問題として呈示し、
2) 各国史の叙述、とりわけフランス史中心史観を相対化し、
(副次的に、帝国礼賛史観にももの申し、)
3) またヨーロッパ史とアジア史・日本史との関係性(の大転換)を明示する、
(そうしてはじめてポンパドゥールのインド更紗画、そして産業革命が理解可能となる!)

というのが、本書に自ら課したミッションでした。

本体価格たったの729円で、近年の研究動向をふまえた政治社会史・(躍動する)国制史・文明史の成果を簡便に示す。しかも、引用されている歴史家は、ランケ『ロマンス系諸国民とゲルマン系諸国民の歴史』に始まり、ホブズボーム『革命の時代』で締める、というのも、ちょっとだけ、おもしろいでしょ!