2026年5月26日火曜日
デモクラシーを歴史的に問いなおす
そのうちの後半、OEDのデータによる republic / republicanism, democracy / democratic の使用頻度の増減グラフはそれなりの意味があって、ひとを考えさせるものがあったのではないでしょうか。フロアでは久しぶりに元気なお顔を拝見できた方々もありました。
このシンポを核に、他の報告も一緒に英語/日本語の本として出版できるよう、すでに動き出しています。西洋史学会大会シンポをもとにした論集は少なくありませんが、ぼくがかかわったもので既刊のものには
『長い18世紀のイギリス その政治社会』近藤(編)(山川出版社、2002)
『礫岩のようなヨーロッパ』古谷・近藤(編)(山川出版社、2016)
『王のいる共和政 ジャコバン再考』中澤(編)(岩波書店、2022)がありました。
『「主権国家」再考 近代を読み替える』中澤(責任編集)(岩波書店、2025)の場合は、歴史学研究会大会の合同部会シリーズにもとづくものでした。
それぞれの準備のための討論に加えていただき/もろもろの勉強をすることができました。ありがとうございました。
2026年3月1日日曜日
『「歴史とは何か」の人びと 20世紀知識人群像』読者との交信 IV
‥‥まず全体として本書は、『歴史とは何か』の副読本にとどまることなく、また内容的にも E.H.カーをめぐる人々の単なるエピソード集に収まることなく、20世紀の史学史・ヨーロッパ思想史になっている、と感じました。
最も印象に残ったのは、いかに20世紀のイギリスがヨーロッパからの頭脳の流入により受益していたか、という点です。ネイミアやエルトン、ホブズボームといった歴史家に加え、バーリンやポパーといった20世紀思想史の最重要級もその列に連なります。こうしてみると、20世紀のイギリスは長期衰退過程にあっても、最強の国際言語たる英語と教育/研究機関、リベラルな政治体制により、すばらしい人材を誘引していたことが改めてわかりました。同じ衰退国でも、21世紀の日本では逆立ちしても真似できそうもないのが、悲しいところです。
<中略>
また、カーのある種の欠落を明らかにする7章、8章も、非常に効果的だと思います。『パースト&プレズント』の面々との没交渉、フランス革命史研究への言及の欠如は、カーの知的傾向を理解するうえで重要でしょう。また女性たちおよび周辺人物とのコミュニケーション不全(15章)も、著作のみからはうかがえない彼の人格的凹凸をよく示しており、彼を把握するための助けになろうと思われます。
誰もが知る思想史上の大物ももちろんですが、個人的にはアクトンあたりに深い解説が加えられているのがありがたいです。主だった単著も邦訳もないアクトンの場合、特別な関心がない限り彼の著作を読むことも調べることもまずないと思われるので、彼の業績や歴史的評価に関する記述が読めるのは、貴重だと思います。
マンチェスタ大学史学科に関する記述(特にp. 219-220)も心が躍りました。わけても「オクスフォード・マンチェスタ・ケインブリッジ・ロンドンの4点からなる四角形」なる表現は、非常に誇らしい思いを抱かせるものでした。
以下には(些末ですが)気になった点を。
「付記10 LSEの変貌」の最終センテンス(p.180)、「そこにはかつてのように前近代の歴史を研究する教員はいない」という表現について。この文章は二重にとれまして、「LSEにはもう前近代経済史の専門家はいない」とも、「かつてのように」が「研究する」にかかるとすると「LSEの前近代経済史家の姿勢がかつてとは変わってしまった」とも解釈できます。いずれにせよ、「LSEにおける前近代経済史研究にかつての勢いはない」、あるいは、「前近代経済史研究から熱気が失われた」くらいの意味の文章だと拝察します。
しかし例えば、Oliver Volckart、イギリス史のPatrick Wallisなどは近世経済史において手堅い研究をしていると思います。アジア史でも、Tirthankar Royなどの仕事はどうでしょうか。
別にLSEを擁護する義理はないのですが、LSE:Department of Economic Historyの教員一覧を眺めるに、前近代についても専門誌でよく見る名前がそろっていて、依然として経済史研究の最前線だな、というのが私の印象です。これ以上充実した経済史のスタッフを揃えている機関は、そうはない。確かに往年のPatrick O'Brienのような大物が見当たらない、といわれればその通りです。また「黄金時代」のような熱気が感じられないとするなら(それも否定できません)、個々人の資質というより「付記」にも指摘されるとおり、もっと大きな知的潮流の変化に原因があるのでしょう。
OTさんに近藤より返信
ほとんど書評のようなコメント=メールをいただきました。内実のあるコメントを下さって、うれしい。たいへん心強く受けとめて、筆が軽く流れてしまった箇所など反省しています。
¶ マンチェスタについては、最初の留学で Boyd Hilton と V.A.C. Gatrell の指導を受けつつリサーチを開始したのですが、Manchester Central Library で Douglas Farnie先生(1926-2008)に会えてからは、ローカルな事情についてのお知恵を伝授していただくばかりでなく、史学史的な話もお好きなので、イギリスでも日本でも、会ってお話するのが楽しくなりました(拙著では p.281)。1987年9月に京都にいらしたときの写真をご覧にいれます(ぼくもまだ40歳になったばかり!)。
¶ 今日のLSEにおける歴史的学問の現状については、すみません、印象主義的な記述で凌いでしまいました。「付記10」p.180 の記述は、12行目「飛ぶ鳥を落とす勢いがある。」で終わりとし、以下は削除します。ここはむしろ、LSEは経済学自体の変貌、そしてヨーロッパ(西欧)中心史観からグローバルな視野への移行といった大きな変化を、オクスブリッジよりもはっきり代表具現している、と言うべきだったかもしれません。
2026年2月15日日曜日
『「歴史とは何か」の人びと』(岩波書店)について II
AMさん
‥‥岩波の『図書』に連載されていたエッセイは、部分的に読んでいたのですが、内容に引き込まれて、先週末に一気に読み終えました。「人物対照年表」を見ながら、錯綜した人間関係とOxbridge, LSEとの関係を改めて見直すことができました。
描かれる人物像とともに、付記の部分にも引き付けられました。付記12の、英米の出版事情の相違と、ご自身のオリジナルな史料的「発見」の部分は、さりげなく書いてありますが、本書における重要な独自性にもなっていると感じました。
KHさん
‥‥すぐにご本を拝読いたしました。複雑な面白さなので、読んでいると止まらなくなって2晩で読了。二、三の感想を記して御礼にかえたいと思います。
登場する歴史家たちの大半について、学生時代以来さまざまの読書で学んできました。このご本の I部では文句なしに、第6章 経済史家にして教育者、トーニ。
II部では、第7章 フランス革命史-ルフェーヴルとコッブ、第9章 バーリンとドイチャ、カーの二人の友人 の両章がすばらしい。私はバーリンは大嫌いでしたが、今回その理由が分かったと思います。ルフェーヴルの本は何冊か持っていますが、やはり筋金入りの歴史家であることを納得。
III部は、とてもきつい。戦後育ちの私は、第15章 E・H・カーと女性たち を読むのが辛かった。時代的被拘束性は分かっていますが、それにしても何というカーなのだ、と。この本はこれから何度も読み直すと思います。
率直な不満があります。第8章 『パースト&プレズント』の歴史家たち の記述にはやはり不十分さを感じました。私は、学生時代からホブズボームの仕事が好きでしたので、E・H・カーとホブズボームはいったいどのような関係であったのかを知りたい。その探索の可能性は果たしてないのでしょうか。‥‥
YNさん
‥‥引き込まれるように一読させていただきました。素晴らしいご著書で、感嘆しております。
E.H.カーを軸に、20世紀を歩んだイギリスの歴史研究者を、その研究や大学人としての歩みだけでなく、全人格とともに描写し尽くす。これは並大抵なお仕事ではないと、門外漢ながら感じ入っております。英国におけるオックスブリッジの位置、また学寮を基礎とする大学の社会や機能、そこを主な舞台として繰り広げられてきた20世紀英国の歴史学の状況が、きわめて鮮明な像として描かれ、とてもよく理解できました。
いくつも印象的な部分がありました。
*ネイミアのいう、歴史家の仕事は画家に似ている、医者の診断に似ている。。。
*(歴史家の)頭のなかで響いていた音を聞き分ける
*ハスラム「カー評伝」における、私生活を含め「全人格をあつかう」という手法
*こうした視点で叙述された「知と愛とセクシュアリティー」の各章
また、ぜひ再読させていただくつもりです。
KSさん
‥‥興奮をもって読了しました。
激動の20世紀のイギリス主要大学で、伝統の血/知と外国からの新しい血/知が混ざり合い、濃密な人間関係の中で、互いの仕事を意識しつつ、強烈な自負をもつ、総じて「奇矯な」人びとが、教え学び、時代の荒波を生きて、同時代的課題に向き合い、友情や嫉妬や恋心や虚栄心や失望に翻弄されながら歴史を書いていたさまが、息遣いを再現するかのように描かれていて、ほんとうに、ほんとうにおもしろかった。
たしかに人生を生き切ったような綺羅星のごとき人たちの頭を「いっぱい」にしていたことを踏まえてはじめて、その人の仕事の真の評価ができるのだなと思います。
本書は、まことに「ポリフォニック」な作品だと思います。カーを出発点にして、数珠つなぎのように人間関係を探査していくうちに、当初計画にはきっとなかったような意外な事実が次々に浮上したのだろうと推察いたします(研究計画に偶然性を組み込んでいる、ということではないでしょうか)。登場人物が勝手に語り出すような、勝手に自己主張し始めるような、そんなところが随所にある気がいたします。著者自身が登場人物のお一人でもあり、そのことが独特の臨場感を与えています。 個人的に、昔お世話になった人に出逢った感もありました。「地上の星」的な存在にも随所で言及しておられるのも素晴らしいです。
本書は一書として自律したポリフォニックな書物ですが、また『イギリス史10講』と『歴史とは何か 新版』とトライアングルを成していて、互いのサブテクストになっているのだな、との印象を抱きました。このようなコンステレーション - 近藤史学の星座 - を観られるのは幸せです。
2025年11月1日土曜日
はしがき
<Quote:>
先にわたしはカーの『歴史とは何か 新版』(岩波書店、二〇二二)を訳出したが、その翻訳中に興味関心をひかれ、もっと知りたくなったのは、著者カーの頭はいったい何で一杯だったのか、彼が思いうかべてもの言わんとした相手はどういう人物なのか、ということであった。『歴史とは何か』でカーが俎上(そじょう)にのぼせた人びとは、二〇世紀を代表するような知識人たちだった。重要でありながら、なぜか正面から切り結ぶことなく、パスした人もある。そうした人びとの思想と人柄について、生活環境(ミリュー)に注目しながら、「列伝」のようなものを描いてみたいと考えた。カーは『歴史とは何か』の第二講で「良い伝記とは結局、悪い歴史である、などと言ってみたい気にもなります」(『何か』p. 72)と読者を笑わせてから、悪い歴史どころか、すばらしい歴史の例として友人ドイチャによる伝記の著作をあげていた。
じつはイギリスは一九世紀に歴史学の最先進国ではなく、史料の保存・編纂についても研究教育についても、ドイツやフランスが先を行っていた。アクトンやアンウィンのようなドイツ留学経験者、そしてフランスで学んだ若手により、イギリスの学問は革新された。さらに二〇世紀前半、とくに一九三〇年代には中欧・東欧出身のユダヤ系の優秀な/独特の人材が ー 自発的に、あるいはナチスに追われて ー イギリスに渡来し、知的世界の「大変貌」をもたらす。そうした人びとのたくましい生涯も見ることにしよう。英語が商業言語より以上の知的なグローバル言語となるのは、これ以後である。
本書はこうした人びとの生活環境として大学事情にも説きおよぶが、多くの大学は二〇世紀半ばまで男女別学である。また二〇世紀イギリスの知識人群像のうち一定の割合の人びとにとって、親子の愛情の薄さ、同性愛もふくむセクシュアリティは現実的な問題であった。いくつかのケースと並べて見ると、カーのかかえた個人的な問題は相対化されてくる。パートナーとの関係、老いと病いについても考えよう。
<Unquote.>
少なからぬ方々にはそれぞれのお約束を守れず、失礼を重ねています。申し訳ありません!
2025年9月27日土曜日
近況ご報告
なんとか無事に日々を暮らしていますが、ブログの更新がないのは、① 言いたいことがないのではなく、むしろ逆で、日本の政治社会よりもなによりも、トランプの3権分立なきがごとき独裁政治について憤懣やるかたない毎日です。これほど傍若無人の男にディクタトルぶりを発揮されては、モンテスキューもジェファソンも天を仰ぐでしょう。しかし、ぼくがブログをしたためるとしても、せいぜい新聞の社説に毛を3本加えた程度の(サザエさんの父=磯野波平くらいの)コメントしかできないでしょう。虚しい。
ブログ更新のないもう一つの理由はもうすこしポジティヴで、② 拙著
『「歴史とは何か」の人びと - E・H・カーと20世紀知識人群像』(岩波書店)
がいよいよ最終局面で、そちらに集中するしかないという事情もありました。(過去形で書いているということは、今は一段落ついたということです!)
これは『図書』の15回連載をもとにしたもので、それで骨組はできているとはいえ、調べれば調べるほど発見があり、「止められない止まらない」状態でした。最初は岩波新書にしようという話だったのに、註も図版も豊富な四六判で行こう、となり、この2年間に現地調査・取材した成果も生かしたく - といっても完璧な学術書というより、むしろ「こんなにおもしろいこと/すごいことがある。皆さんに伝えたい」としたためた試論(essay)であり、皆さんの思考と探究をうながす「いざないの書」という性格を打ち出しています。
『図書』連載時より分量はだいぶ増えて、内容も充実したかと思います。 ← https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/6074
「15章+エピローグ」編成ですが、全体を3部に分け、
Ⅰ.歴史学とオクスブリッジ
Ⅱ.変貌するイギリスの知的世界
Ⅲ.知と愛とセクシュアリティ
としてみました。各章の「付記」も含めて、書き込んでいます。
やがて校正ゲラにて目次などご覧に入れられるかと思います。
2025年4月17日木曜日
主権・IR・カー
→ https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0616940.pdf (目次のあとです)
そうした出版のオンライン開示は便利だなぁと見ているうちに、さらに今月刊のE・H・カー『平和の条件』(岩波文庫)も、訳者による解説(部分)が読めることを発見。
→ https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/8771
ちょうど『「主権国家」再考』がらみで、中澤論文からドイツの Andreas Osiander による
'Rereading early twentieth-century IR theory: Idealism revisited', International Studies Quarterly 42 (1998) へと導かれ、この論文でE・H・カーの国際関係学(IR)批判が試みられていることを認知したばかりでした。
この間のいろんなことが繋がってきて、嬉しいかぎりです。
2025年3月5日水曜日
主権国家サイコー!?
歴史学研究会編(中澤達哉責任編集)『「主権国家」再考』(岩波書店、2025)
ですが、ぼくは 序章「主権という概念の歴史性」を担当しています。
昨夏の終わりが原稿〆切、暮れから正月に初校、2月に再校の期間がありました。歴史学研究会大会の合同部会で4年間にわたり共通テーマとして議論されたことが前提で、各章ともすでに部分的には『歴史学研究』大会特集号に連載されている論考を「再考」し、整えたものです。ぼくの場合は「序章」なので、第989号に載ったコメントから大幅に加筆して、「歴史的で今日的な問題」としての主権を、19世紀の東アジア、近世のヨーロッパについて論点整理してみたつもりです。そのさいに
・H. Wheaton, Elements of International Law (1836/1857)とその漢訳『萬國公法』(1864)および和訳・海賊版(1865-)
・J.H.エリオット「複合君主政のヨーロッパ」内村俊太訳、古谷・近藤編『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)所収
が議論を展開するうえで、たいへん役に立ちました。
とはいえ、11月~2月のあいだに国際政治上の緊迫と変化は著しく、悠長なことばかりで済ませることはできない、と再考しました。 → つづく
2025年2月19日水曜日
『読書アンケート 2024』
→ https://www.msz.co.jp/book/detail/09759/
ぼくも短かいながら5件の出版について感想を述べました(pp.175-178)。掲載の順番は、おそらく原稿がみすず書房に着いた順で、この本文180ぺージのうち、ぼくはビリから4番です。
月刊誌『みすず』は紙媒体ではなくなり、今はウェブ配信ですが、毎年2月号に載っていた読書アンケートだけで単刊書とすることになり、毎年の年初の楽しみは保たれます。むしろ前より厚くなった観があります。
ぼくの場合は、
1.二宮宏之『講義 ドラマールを読む』(刀水書房、2024)
2.木庭顕『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ、2024)
3.松戸清裕『ソヴィエト・デモクラシー 非自由主義的民主主義下の「自由」な日常』(岩波書店、2024)
4.Lawrence Goldman, The Life of R.H.Tawney: Socialism and History (Bloomsbury Academic, 2013)
5.『みすず』168号~177号(1973-74)に連載された、越智武臣「リチャード・ヘンリー・トーニー あるモラリストの歴史思想」
を挙げてコメントしました。
4,5については、今書いている本『「歴史とは何か」の人びと』のなかの一つの章にもかかわり、また著者ゴールドマンが、E・H・カーの世代のインテリ男性の性(さが)について明示的に問うているので、響きました。
巻末の奥付に (c) each contributor 2025 とあり、著作複製権についてはぼくにあるのでしょうが、出たばかりの本ですので、ここには言及するだけで、文章は引用しません。
2024年9月2日月曜日
Re-imagining Democracy
ドタバタとしていますが、このあとぼくは、スコットランド・イングランドに参ります。
いろいろと書くべきことは多いのですが、3月にオクスフォードでお世話になったイニス、フィルプのお二人がオクスフォード大学のウェブサイトに
・Re-imagining Democracy というぺージを作成し、ニュース・近況を告知しています。すでにご存知かもしれませんが、念のためお知らせします。
→ https://re-imaginingdemocracy.com/
共著『民主政のイメージ更新』プロジェクトの第4巻:中欧・北欧は、2027年完成を目標としています。中澤科研としては黙って看過できませんね。cf. 『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店、2022)pp.20-21.
なおこの8月に彼らが始めた
・Centre for Intellectual History という試論ぺージもありますが、こちらはほとんど共著のエッセンス/論文素案のお披露目の舞台といった感じです。
Joanna Innes ↓
https://intellectualhistory.web.ox.ac.uk/article/what-did-it-mean-to-be-a-democrat-in-the-age-of-revolutions
Mark Philp ↓
https://intellectualhistory.web.ox.ac.uk/article/between-democracy-and-liberalism-ludwig-bambergers-path
中澤編『王のいる共和政 ジャコバン再考』(2022)、歴研編『「主権国家」再考』(2025)とも問題意識の重なる共著企画ですね。
2024年4月20日土曜日
燕の巣
であれば、あの巣に戻ってきたのだろうか? 近くの集合住宅の駐車場の天井脇に営巣された古巣を見に行ってみました。これは(よそのマンションなので委細は知りませんが)管理組合で大切にされて、床が糞尿で汚れるけれど、それは黙って掃除する、上の巣のあたりは汚れてもそのままに放置する、という方針のようです。
夜に、つがいの燕が狭い巣に身を寄せあっている様子を(失礼!)パチリと撮影しました。こんなに狭くて、このままでは卵を産んでもあふれ落ちたりしないだろうか、それまでに「増築」するのだろうか、と心配になるくらいです。
ところで、他の巣には燕はまだ戻ってきていないようです。慣用句で
One swallow does not make a summer.
Eine Schwalbe macht noch keinen Sommer.
とはよく言ったもので、英独ともに4月はまだまだ夏とは言えません。ところがフランス語・イタリア語の場合は
Une hirondelle ne fait pas le printemps.
Una rondine non fa primavera.
と言って、夏ではなく、春まだき、という感覚なんですね。
地中海に近接しているかどうかで、春か、夏か、といった季節感も違うということでしょうか。
2024年4月18日木曜日
マウリツィオ・ポッリーニ、その2
バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、なんといってもS・リヒテルの録音(ザルツブルク、1972年~73年)があって、これがそれ以前の演奏すべてを上書きし(無にした!)、以後の演奏者はリヒテルとどう差別化するかで苦闘してきました。なにしろザルツブルク郊外のSchloss Klessheimでは、録音演奏中のリヒテルのピアノに感動した雀たちがリヒテルに唱和していっしょに歌ってしまった(!)、そのような歴史的な演奏です。
【ぼくにこの演奏の魅力=迫力を教えてくれたのは、名古屋の土岐正策さんでした。1990年代以降の再版CDでは鳥の唱和を雑音として消去してしまったので、聞こえません! ぼくはもとのLPレコードから、白黒デザインのEurodisk、瀟洒な日本ヴィクター、美しくない肖像写真のalto、RCA Victor Gold Seal とCDだけでも4つの版を持っていますが(同一の演奏なのに!)、それもこれも雀の唱和を求めてのことでした。ディジタル処理が容易になってしまった時代に、きれいに処理される以前のヴァージョンを求めての、むなしい探索でした。ちなみにグレン・グールドの我が道を行く演奏も、リヒテルという偉大な「敵」あればこその試行だったのでしょう。こんなことをいうと、天国の木村和男くんが嗤うかもしれない。】
ですから、2009年にポッリーニの演奏で「平均律クラヴィーア曲集」の第1巻だけ、ドイツグラモフォンからCD2枚組が出たときには、ただちに買って期待して聴きました。しかし、なぜか先を急ぐような演奏で(リヒテルの正反対)、あまりくりかえし聴きたいという録音ではなかった。
そして2019年6月、ミュンヘンにおけるベートーヴェン最後の3つのソナタ(2020年ドイツグラモフォン発売)です。先の日曜夜にNHK-E tvでポッリーニの死を悼んで再放送したのは2019年9月のミュンヘンにおける公演ですから、同年6月の演奏録音と基本的に同じ解釈・表現と受けとめてよいでしょう。
これはしかし、77歳、ポッリーニ円熟の演奏というよりは、なにかに憤っているのか、時代を諫めるというか、厳しい表現行為です。テレビ画面で見ていても、表情はずっと硬くて、最後にも笑顔はない。あたかもリヒテルの(ロシア的?)ロマン主義に対抗し、グレン・グールドの(アングロサクスン的?)ego-historyを諫め、これこそベートーヴェンの理性と構成主義なのだ、と息せき切って説いているかのようです。彼の遺言でもあったのでしょうか。
2024年4月17日水曜日
マウリツィオ・ポッリーニ(1942-2024)、その1
NHKの日曜夜の番組では、先週には初来日時のブラームス・ピアノ協奏曲1番(N響)、今週は30代の録画の断片いくつかに吉田秀和のコメントを加えて、最後に、なんと2019年ミュンヘンの演奏会における最後のピアノソナタを放送しました!
先に「ボクの音楽武者修行」(1・2)にも書いたとおり、わが音楽人生は何も自慢できることのない、恥じらいで一杯のものです。演奏会にもさほど熱心に通っているわけではない。
それがしかし、1994年の10月には幸運が重なり、テムズ南岸の Queen Elizabeth Hall におけるポッリーニ演奏会に行きました。曲目は、ベートーヴェンの最後のソナタ3つ。
10代には「悲愴」とか「熱情」とか「ワルトシュタイン」といった渾名のついた曲に惹きつけられていたけれど、年齢とともにそうした「若い」曲よりは、もっと成熟して、かつ知的に構成された曲を好んで聴くようになっていました。最後のピアノソナタ3曲は、晩年の弦楽四重奏曲の場合と似てなくもなく、ベートーヴェンの知的構成力と幻想的な心情(ロマン派の前衛!)が十分に表現されて、聴く人の心を揺さぶり、慰める。
(人生を70年+やっていると、こうした経験に恵まれているわが人生は、幸運に満たされている、と静かに想いいたります。)
この夜の演奏会より前にぼくはポッリーニの「後期ピアノソナタ集」(1975年~77年に録音)のCDを持っていて、ロンドンにも携行していたのでした。 録音から17年を経て、52歳のポッリーニがどういった演奏をするのか。その夜の演奏会は、満場の期待を静かに十分な感動に変えたと思います。すでに30番(op.109)、31番(op.110)の後の休憩時間に洩れ聞こえてきた他の聴衆の反応もそうだったし、最後の32番(op.111)は、着席するやただちに力強いMaestosoが始まり、それまで穏やかに感傷的になっていた気持を揺さぶって、ハ短調(運命!)の最後のソナタ(といっても形式的にかなり自由な大曲)の宇宙にわたしたち聴衆を浸したのでした。
満場の拍手に促されるように、憑かれたように、ぼくは舞台脇から楽屋へと向かい、マウリツィオ・ポッリーニにつたない英語で感動を伝え、握手しました。
公演のあと楽屋まで押しかける、あるいはせいぜい廊下でご本人に挨拶する、といったことはあまりできないぼくですが、このときは何故か自然に突き動かされるようにそうしたのでした。
じつはその半年後、1995年の初夏、今度はアルフレート・ブレンデルがやはりテムズ南岸の Queen Elizabeth Hall で、同一のプログラムで演奏しました。やはり知的なピアニストで 1970年~75年の録音CDを持っているぼくとしては、大きな期待をもって出かけたのですが、なぜでしょう。長い日照に邪魔されて(?)、会場もぼくも集中できず、やや散漫な印象に終わってしまった夜でした。むしろメンデルスゾーン的な「夏至の夜の夢」でした。
先の吉田秀和さんの評によると、ポッリーニは知的な構成力が勝ちすぎて、たとえばシューベルトの幻想的なソナタを弾くときには(吉田さんの求める)即興性・幻想性に不満が残る、ということらしい。そこには知性と感性の二律背反が前提されているかに見えますが、どうでしょう。少なくともベートーヴェンにあっては、両者は背反しない、理知と感情が矛盾なく合わさって表現されるのではないか。ポッリーニこそ、その点で最適の演奏者=表現者なのではないか、と思います。
2023年9月20日水曜日
往路と帰路
Mapを見つめていましたら、イスタンブル、アンカラあたりの上空に達し、これは大丈夫かも、というので、睡魔に身を任せることにしました。数時間後に目覚めてみると、なんと飛行機は北京・天津・大連あたりを飛んでいます。
結局は、西ヨーロッパからイスタンブル経由で、東へ東へと向かうというのは「一帯一路」というイメージでしょうか。イギリスでも中国人のプレゼンスは色濃かった!
最後は、房総半島からぐるっと回って、東京の北から山手線に沿って、新宿・渋谷・大崎の真上を飛んで羽田に着陸しました。
蒸し暑い! でも想像したほどひどくはない。
というわけで、また日本時間の生活に復帰しました。
2022年6月16日木曜日
王のいる共和政 ジャコバン再考 詳しい目次
編者名や本のタイトルだけなら、他の広告でも見られますが、
かなり詳しい目次 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
そして何より、
立ち読み(試し読み) → https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615440.pdf
のコーナーがあるというのは、すばらしい! どうぞ、ご一瞥を。
2022年6月11日土曜日
中学生から知りたい ウクライナのこと
「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人びとに連帯する声明」なるものを京都大学有志の会が2月26日に発表したようですが、その声明が巻頭に引用されています。この有志のうちの二人、近世ポーランド史の小山さん、現代ドイツ史の藤原さんがそれぞれの専門で長年考え感じてきたことをふまえながら、ウェブや新聞で発言している、それをもとにここに整えて一書としたものと受けとめました。
表題のうち「中学生から知りたい」についてのみ、ちょっと留保したい気持は残りますが、しかし(写真入りで)ポーランドのバルシチ(スープ)からウクライナのバルシチ(スープ)を見ると、どれほど具だくさんで「すごく豊かで滋養があるけど、ちょっと見た目が不思議な感じ」というイメージから、すごく大切なことが説きはじめられる。中学生だって知りたい。大人だって知りたい。高齢者だって知りたいです。
ですから「中学生から知りたい」というタイトルの修辞のみ留保して、あとは全面的に推薦したい。
細かい活字で補われている註も - 固有名詞の表記を含めて - 大事なことを教えてくれます。
(株)ミシマ社、6月10日刊。http://www.mishimasha.com/
2022年6月6日月曜日
王のいる共和政 - ジャコバン再考
6月28日には、やはり岩波書店で中澤達哉さん(編)の共著『王のいる共和政 ジャコバン再考』が出ます。このところ似た意匠の共著論集がないではないようですが、こちらはいささか ambitious な共同研究、中澤科研の成果です。この公刊により学界の景色、そのトーンもすこし変わるかと期しています。
ぼく個人にとっても数年かけて自分自身と先生方の研究をふりかえり、この何十年来に学び模索してきたことを総括する文章とすることができて、爽やかな快感をともなう仕事でした。序章「研究史から見えてくるもの」(pp.1-27)を執筆しています。ただし「市民革命」という語は用いていません。
中澤さん、近藤の他に、共著者は:森原隆、小山哲、阿南大、正木慶介、古谷大輔、小原淳、小森宏美、池田嘉郎、高澤紀恵のみなさん。巻末の関連年表もぜひご覧ください。 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
2021年11月8日月曜日
史学会大会 11月13-14日
東京大学(本郷)‥‥法文2号館一番大教室 にて
公開シンポジウム「世界主義の諸様相 - コスモポリタニズム・アジア主義・国際主義」
と予告されていました。13日(土)1時から勝田俊輔さんの司会・趣旨説明につづき、
川出良枝「普遍君主政の超克-18世紀ヨーロッパ」
中島岳志「アジア主義‥‥」
長縄宣博「静かなラディカリズム-20世紀ロシア」
後藤春美「‥‥国際連盟」
翌14日の部会については法文1号館113教室。
というわけで、久しぶりに本郷へと、期待していました。
ただしちょっとだけ心配で、念のためとウェブぺージを見て、びっくり ↓
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http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
開催方法は、ウェブ会議システム(Zoom)によるオンライン参加のみの実施となりました。事前登録が必要となりますので、こちらより参加申し込み・参加費のお支払いをお願いいたします。締め切りは11月4日(木)です。 PEATIXの利用方法はこちらをご参照ください。本システムでのお申し込みができない場合は、shigakukai.taikai■gmail.com(■を@に変えてください)へご連絡ください。
昨年度は臨時的措置として参加費を無料といたしましたが、本年度は例年通り参加費(2日間共通)をいただきます。一般1,000円、学生500円。会員・非会員の別はございません。
お申し込み・お支払いいただいた方には、大会前にプログラムを郵送いたします。また報告レジュメ、ZoomのURLは11月11日(木)頃ご連絡いたします。
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Zoom開催で、しかもすでに締め切りを過ぎている!
だれもが史学会のウェブぺージをいつも見ているわけではないでしょう!
それでも、とにかく13日のシンポジウムだけでも視聴したいので、Peatixなるぺージへ初めて入って手続を進めてみたら、締め切りは超過しているはずなのに、予約完了。その確認メールまで到来しました。
この事態は放置しておいてはいけないのでは、と考えて、司会・趣旨説明者と史学会事務にメールで連絡してみました。 すみやかに反応があり、
≪‥‥混乱をまねきましたことをお詫び申し上げます。
他に期限後の申し込み希望の方もいらっしゃいましたので、サイトからの申し込みは
11日(木)17時までということを明記いたしました。≫
ということです。[ただし、どこに明記されたのかは不詳。]
→ http://www.shigakukai.or.jp/
ご関心の皆様も、どうぞご覧になってください。
2021年7月4日日曜日
〈ドイツ史の特別の道〉?
今日(3日)は早稲田のWINE シンポジウムで「帝政期ドイツの国民形成・国家形成・ナショナリズム」が催されました。1871年のドイツ帝国成立から150年、ということで、要するに現時点で、ドイツ近現代史の何がどう問題か、という討論会でした。
https://www.waseda.jp/inst/cro/news/2021/05/06/5771/
報告は西山さん、小原さん、
コメントは篠原さん、森田さんでした。
https://mobile.twitter.com/winewaseda/status/1398826161564647427
いくつも大事な論点が指摘されましたが、ぼく個人としては、
1) deutscher Sonderweg の訳として「特有の道」ではなく「特別の道」「特殊な道」とすべしということ(おそらくドイツ史研究者にとっては既に前々からの合意点)とともに、
2) ドイツ国民史の枠内だけで考えるのでなく、外との関係、またビスマルクをカヴール、ルイ・ナポレオン、ディズレーリ、(さらには伊藤博文、大久保利通‥‥)のような同時代人との連続性で捉えるべき、という小原さんには十分に賛成できます。西山さんの場合は、おそらく似たことを contingency という語で表現されていました。
じつはイギリス史でもかつてイングランド(人)の特殊性(peculiarities of the English)といった議論がされたまま、あまり発展しませんでした。 ぼくの場合は、ペリ・アンダスンの近現代史のとらえ方に関連して、こう言ったことがあります。
「その論理はこうである。西欧(≒フランス)史の理念型が想定され、その理念型に照らして自国史に欠けているもの/遅れている要素をさがす。日本やドイツにおける「特有の道」論にも似た、自国史批判の急進版劣等複合(コンプレックス)である。グラムシのヘゲモニー論を用いて、独自の世界観をもたず貴族の価値観に拝跪する俗物ブルジョワ、そして利益還元にしか関心のない組合労働者が批判される。
なぜこうなったのか。それは、イギリスの17世紀以降、近現代史を通じて「本当の市民革命」がなかったからだという。あたかも日本近代史についての大塚久雄、丸山眞男の口吻さえ想わせるほどである。」『イギリス史10講』pp.289-290.[ただし13刷にて、すこし修文改良]
アンダスンも、大塚も丸山も、あくまで国内の諸要素(の編成)に絞って議論し、同時代の外との関係を有機的に議論しようとはしなかったのです。国内の市民社会の充実、民主主義の成熟を一番に考えていたから!? そのためにこそ、同時代を広くみるしかないのに。30年代の講座派の成果(山田盛太郎の「過程と構造」!)に絡め取られた日本の歴史学と社会科学、ヨーロッパの場合は学問の雄=歴史学における系譜的発想の拘束性。
1970年代からぼくたちは、こうした祖父の世代の成果=殻=拘束衣からゆっくりと脱皮し、ようやく発見の学、分析の学としての歴史学を参加観察し、また具体的に担ってきたのだろうか。
Public history ないし森田コメントにかかわって指摘されたとおり、新しいメディアの出現・蔓延にたいしては、ぼくたちの積極的参加・関与、同時にすでにある史資料をしっかり読み、既存のテクノロジを最大限に活用するというのが、参加者たちのコンセンサスでしょうか。先の歴史学研究会の「デジタル史料とパブリック・ヒストリー」はアイルランドにおけるうまく機能している企画の紹介でした。↓
https://kondohistorian.blogspot.com/2021/06/blog-post_22.html
今日の早稲田のシンポジウムはドイツ近現代史やナショナリズム研究を共通の場として、司会の中澤さんも含めて、ほとんど同じ世代の気心も知れた研究者たちだったから(?)、議論が噛みあい、補強しあうシンポジウムとなりました。
2021年5月18日火曜日
〈主権〉概念の批判的再構築 ‥‥
16日(日)15:20~18:30の日本西洋史学会大会・小シンポジウム「礫岩のような国家にみる〈主権〉概念の批判的再構築」ですが、Webinarの裏方も含めると200名を越える参加者(視聴者)があったようです。全参加者名はリアルタイムでは分かりませんでしたが、Google Form で寄せられた質疑で多くの既知の方々の発言を正確に読むことができました。かなり水準の高い学会シンポジウムになったという感想をもっています。【その後、主要参加者名は、発言しなかった方も含めて、知ることができました。】
→ http://seiyoushigakkai.org/2021/convention/
ぼくの場合は技術的に支障があり、机上に2台目のPC(タブレット)は開けていましたが、そこから(せっかく司会が用意してくれていた)裏方連絡網に入ることができず、司会と質疑スプレッドシートと Webinarのchat だけによって「舞台」の進行についてゆく、という事態となりました。(途中から)時間制限についてあまり気にしなくて宜しいという司会の連絡があったのは知らぬまま、また焦って事前の想定からやや外れたナーヴァスな発言をしたかもしれません。
18:30から Zoom Meeting に移ってからは、参加者の名前もお顔も見えて、二次会的なムードになりましたね。パネラー以外の学識が開陳される好機となりました。
それにしても、15:20~19:45の長時間にわたって、大事な論点がたくさん出て/飛び交い、それを多くの研究者と同時にシェアしたわけです。研究史的に意義あるシンポジウム(& post-session)だったと総括できるのではないでしょうか。
Google Form に記入していただいた質疑・発言は(これがディジタルの利点ですが)すべてしっかり保存され、パネラー全員が共有できるようになっています。
とはいえ、たとえば1977年・東北大学における西洋史学会大会シンポジウムもそれだけで終わらず、2年後に『近代国家形成の諸問題』として公刊されたからこそ、(各報告の深い学識と、今となっては批判されるべき点の充溢する)研究史に残る有意義な研究集会だったと言えるわけですね。今後が大事だと思います。
ご協力、ありがとうございました。個人的にはITの習熟がなお残る課題です。今後ともよろしく。
2021年5月14日金曜日
日本西洋史学会大会(土・日)の報告レジュメ
→ http://www.seiyoushigakkai.org/2021/index.html
とはいえ、Zoom だ Webinar だと言われてもちょっと‥‥という人も少なくなく、ぼくの知る退職世代ですと、若干の努力と試行錯誤のあと、「もぅいい」と止めてしまう人もあり、残念です。
かくいうぼく自身、小シンポジウム【礫岩のような国家にみる「主権」理解の批判的再構築】
→ http://www.seiyoushigakkai.org/2021/symposia.html
でコメンテータをつとめます。そして4月末日には(大会報告要旨集とは別の)配布レジュメ(A4・3ぺージ)を送達したつもりだったのですが、学会ウェブぺージからは行き着くことができず、登載は未だなのかと勝手に納得して放置していました。とはいえ、今日(木)になっても見えないのはおかしいと、ついに代表者=ITエキスパート氏に質問。
その返答にて問題は一挙に解決しましたので、そのエッセンスを次に引用します。
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Q. ところで、先日から大会のサイトで捜しているのですが、すでに2週前に提出した(事前配布の)各報告レジュメはどこに収められているのでしょうか。
A. レジュメへのたどり着き方、確かにわかりにくくなっています。最初わかりませんでしたが、すでに先週の金曜日から公開されています。以下にたどり方を記します。
① http://seiyoushigakkai.org/2021/convention/
にはいってください。この頁に入るには大会登録者のパスワードなどが必要です。
② 16日の「15:20~18:20 小シンポジウム」という行までスクロールしてください。
「15:20~18:20 小シンポジウム」の右隣に小さな小さなGoogle Drive(△)とOne Drive(雲)のアイコンが二つならんでいます。このいずれかをクリックしてください。
③ たとえばGoogle Driveのアイコンをクリックすると、「小シンポジウム」のフォルダに飛びます。そこの3番目のフォルダに、皆様のレジュメ(PDF)が並んでおります。
これをダウンロードする、という次第です。
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というわけで、ぼくの場合は解決しました。しかし、こうしたエキスパート氏がいない小シンポ・グループやそもそも一般参加者(視聴者)は、いったい、どうするんでしょう? そうでなくとも多忙な大会準備委員会を質問攻めに?
あるいは、焦っていろいろ試みたあげく、時間切れであきらめ、挫折感とともに(自分およびITにたいする)憤りにちかいものを覚える‥‥
そもそも Covid-19 の長期化とともに憂鬱が昂じているのに、さらに心の健康に悪いことが加わる‥‥
そうしたことを回避して、爽快な5月の学会を楽しむためにも、上記の交信が少しでもお役にも立つなら、幸せです。
それではみなさま、16日(日)に! この日は二宮宏之さんのお誕生日でもあります。








