2010年12月27日月曜日

大阪にて

 たいへん充実した研究会、その翌朝です。
 この勢いで、しっかり実りある冬休みを過ごしたいものです。
 皆さん、良いお年を!

2010年12月26日日曜日

Amazing Grace 映画


           図像は Wikimedia Commons →

映画「アメイジング・グレイス」について、「ウィルバーフォースと友人たち」という題で、要旨、下のようなことをしたためました。来春3月5日から一般公開されるときに、頒布パンフレットに載ります。あらかじめ、ほんの一部を抜粋してご覧に入れます。

 テーマは、激動の時代における人の生き方と信仰、友情、政治と正義。主要な登場人物は実在の4人です。

 主人公ウィリアム・ウィルバーフォース(ウィルバーと呼ばれ続ける)1759~1833
 その親友ウィリアム・ピット(24歳で首相) 1759~1806
 ホウィグの怪物政治家、チャールズ・フォックス 1749~1806
 奴隷貿易船の航海士であったジョン・ニュートン 1725~1807

彼らについて歴史的な知識があると、映画のおもしろさは倍増するでしょう。もちろん全員、ODNBに項目があります。
 奴隷たちの亡霊に囲まれつつ、回心したニュートンの作詞した賛美歌が「アメイジング・グレイス」です。
 「すばらしい神の恵み
  私のようなヒトデナシも救ってくださった。
  かつて私は道に迷っていたが、神は見いだしてくださり
  かつて目の見えなかった私だが、今は見える」

 18世紀~19世紀の初め、
   カリブ海の西インド諸島 ⇔ アフリカ ⇔ イギリスなど西ヨーロッパ諸国
のあいだの三角貿易とイギリスの産業革命が表裏一体だったことは、最近の世界史の授業では常識かもしれない。「アメイジング・グレイス」に歌われるような回心と改革の Evangelicalism は、まだ常識ではないでしょう。女性作家ハナ・モアは、英文学関係者には知られていますね、大石さん。
 福音伝道主義者が取り組んだいくつもの課題のうち、奴隷制および奴隷貿易の廃止をめぐって、これを男の友情として描いたのが、映画 Amazing Grace だと言えるでしょう。ケインブリッジにおけるぼくの先生 Boyd Hilton, そして友人 Joanna Innes の研究テーマでもあります。(12月18日イギリス史研究会の) moral economy 論もまた、この転換期をどう理解するかといったことに極まります。
 もっとも良い参考文献は、『イギリス史研究入門』の5章(長い18世紀)、6章(19世紀)、10章(議会)、11章(教会)、12章(帝国)でしょうか。

 時代考証をふまえた映像情報もゆたかで、男女の衣装も、婚活マインドも楽しい。ジェイン・オースティンを連想する人も少なくないでしょう。温泉都市バースにおける社交、議会の本会議場における討論のテンポとウィット、558名いるはずの議員が重要案件の議決にさえあまり出席しないという事実、本会議場の別棟にあったクラブの様子もまた、印象的。
 ピットは享年46歳、首相在任中に過労死。ライヴァル、フォックスも同じ1806年に死にます(56歳)。ところが闘病をくりかえしていたウィルバーのほうは、結局、74歳まで生きながらえます。映画の前半の「結婚は愛と健康をもたらす」という従兄弟ソーントンの言は、伏線として置かれていたのでしょうか。
→ http://www.imdb.com/video/screenplay/vi330694937/

2010年12月25日土曜日

The King's Speech 映画


 今夕、忙中の時間をつくって、試写会に行って参りました。邦題は「英国王のスピーチ」、ご存じジョージ6世(在位1936~52)と先年101歳で亡くなった Elizabeth Queen Mother、そして知られざる Lionel Logue の3人を中心とした、感動の物語です。
 期待せずに行ったのですが、2時間の上映の終わりには、感涙。いくら顔をふいても止まらず、照明の前に長いクレディトのつづいたことに感謝したほどです。左右の男女もすすり上げていました。清らかな涙と、シネマートの外、夜の六本木の雑踏 ‥‥ なんというコントラスト!

 ジョージ5世の長男エドワード(David)は外向的で、女にももてる王太子(ウェールズ公)でしたが、その弟アルバート(Bertie、ヨーク公)はつねに兄と比較され、シャイでどもり、学業成績は68人中68位、病弱、泣き虫。めだつ兄の陰にあって、親にもナニーにさえバカにされていたとのこと。生来の左利きを無理に矯正されたことも、どもりの誘因だったようです。ここまではよく知られています。第1次大戦における海軍士官としての従軍も含めて、ODNBにはしっかり書きこんであります(Colin Matthew 執筆)。これを克服するために妃エリザベスの献身のあったことも、第二次大戦中の(自明の悪ナチスにたいする)国民的な戦意高揚のための行脚も、周知の事実。
 ところが、兄エドワード8世の「世紀の恋」のとばっちりで、もっとも不適格とみられたアルバートがジョージ6世として王位を継承するわけですから、confidenceを欠くアルバート=ジョージの、どもりはますますひどくなる。ここで登場するのがオーストラリア人 Lionel による言語治療 兼 カウンセリングなわけで、王族の親子関係からイギリスの階級関係、そしてすでに自治国のはずのオーストラリアにたいする差別意識までが上手に扱われて、この映画をおもしろくします。ちょっと Pygmalion=My Fair Lady のヒギンズ教授を思わせるところもないではない。
 英国王といっても、ジョージ6世の正式の称号は、king of Great Britain, Ireland and the British dominions beyond the seas, and emperor of India です。複合国家の王+インド皇帝。即位時にすでにアイルランドは独立しているのに!
【それからジョージ王も兄エドワードも Lionelも freemason だった[それのみが3人の共通点だった]という事実は、この映画では[単純化のために?]見逃されます。】
 映画のコリン・ファースの立派な体格のあたえるイメージと違って、国王ジョージは見るからに神経質で、胃腸も弱そうでした。1939年、小柄のかわいらしい王妃エリザベスと一緒の写真は、こちら↓
→ http://www.flickr.com/photos/striderv/2407182783/
 この映画を100%楽しむには、シェイクスピアの favourite quotes が頭に入っていることが必要かもしれません。もう一つ、映画音楽として前半はモーツァルトが使われ、後半の大事なところからベートーヴェンに変わることにも気付かされます。ラジオのことを wireless と呼んでいたこと、日本の玉音放送と違って、ライヴで放送されたことも大前提ですが、とにかく交響曲7番の第2楽章を背景に、どもる国王の大スピーチを聴いて涙しない聴衆は、よほど鈍感な人でしょう。スピーチの終わると同時に、BBCの職員、バキンガム宮殿の職員、ラジオに耳傾けていた市民のあいだで自然に拍手の波が広がることになり、音楽はピアノ協奏曲5番(emperor!)の第2楽章に替わる! 心にくい演出。

 来たる2月26日に一般公開だそうですが、すでに出来上がっているパンフレットに監修者=某大学教授がしたためた小文は、残念ながらフツーの高校生の感想文のレベルです(ウェブの世界の雑文と大差なし)。せめて、スピーチとは「演説」以前に、話すこと、言語能力、話しかたでもあるということくらい、指摘してもバチは当たらないのに。それから、きっとせわしなく視聴なさって、シェイクスピアもベートーヴェンも聞き流したのでしょう。
 
 結論。アカデミー賞を取っても取らなくても、これは感涙の作品。日本版監修者がだれであれ、ODNB を読んでから、ぜひ見に行きましょう。当然ながら、Lionel Logue の項目もあります。
→ http://www.imdb.com/video/screenplay/vi752421145/

2010年12月23日木曜日

冬至の満月


 満月の21日は、雨でお月さんを見ることができなかったので、昨22日、ほぼ満月の本郷構内を撮りました。手前の全身像が Conder (1852-1920), 向こうに小さくみえる胸像が West (1847-1908). どちらも工部大学校(帝大工科大学)の創設期の重要なイギリス人お雇い教師です。

 美しい光景ではありましたが、月を撮るのは、コンパクトカメラではむずかしい。

2010年12月19日日曜日

Illuminated!


 例年、クリスマスから新年にかけて医学部本館のイルミネーションが行われ、夜間に図書館脇から経済学部裏手を通過する者にとっての楽しみです。17日(金)の午前中に、医学部前でなにやってんだ‥‥と不審な男女グループを目撃しましたら、夜にはご覧のとおりとなりました。
 新年の御用始めまで点灯するから、2011 なんですね。
 昨冬の様子は、こちらです↓
http://kondohistorian.blogspot.com/2009/12/merry-christmas.html

2010年12月15日水曜日

『二宮宏之著作集』全5巻



 全5巻、2月8日から隔月(つまり偶数月)で、岩波書店の刊行です。
 その宣伝パンフの写真が、すばらしい。こちらをまっすぐ見つめて、おだやかに、容赦ない。
だれか若い人が「ニコニコしてる」と評しましたが、そうではない。知的なのです。
「フッフッフ、‥‥近藤くん、青空を眺めるためにここに来たんじゃないね。
やはり、△▼△ は止めにしましょう。」

2010年12月12日日曜日

『イギリス史研究入門』は品切れ状態?


 写真は University College London (UCL:『研究入門』pp.11, 132 をどうぞ。伊藤博文、夏目金之助の大学でもあります。)

 さいわい、この共著は好評で【掲示板でのコメントは → http://kondo.board.coocan.jp/】、
品切れ状態の小売り店もあるようです。だからといって直ちに増刷に走らないのが、山川出版社の堅実経営。日本の再販・委託販売システムゆえに、売る気のない特定の小売店に配達されたまま開箱されず倉庫に積んであった物が、3カ月の期限まぎわにドカンと返品されてくるかもしれないのです。
 ベストセラーを作ったのに(ベストセラーゆえに)やがて潰れてゆく出版社は、ほとんどこのパターンに眩惑されて、どんどん増刷し、返品の山を作って、その重みに潰れてしまうようです。恐ろしい。
 したがって、2刷は必ず出るようですが、そのタイミングをいま量っているとのこと。

2010年12月11日土曜日

積雪か?


 本郷の銀杏並木は黄葉が散り敷いて、こんなぐあい。↑
 夜、ほかのことで頭が一杯のまま、扉を開けて外に出ると、路面が明るく輝いて、一瞬、雪が積もったのか?と驚くことがあります。滑らないように気をつけながら歩くというのも、積雪のときと似ています。
 工学部 建築学科前の広場で銀杏をバックに一番さえるのは、Josiah Conder 先生。↓ コンダを 明治の人はコンドルと聞いたんですね。コンドーと聞こえてもよかったのに。

2010年12月7日火曜日

歴史学が元気


 11月から12月へ、いつどのように替わったのかわからぬうちに、師走も第2週です。皆さまには迷惑の掛けどおしで、申し訳ありません。
 そうしたなかにも来日中の Pat Thane (KCL) とゆっくり昼食をともにすることができました。
 こういうウェブサイトが始まっているんですね。
→ http://www.historyandpolicy.org/
いただいた British Academy: Policy Centre 刊行のブックレット Happy families? History and family policy (Oct. 2010) もそうですが、イギリスの歴史学は元気。

2010年12月2日木曜日

『伝統都市』

 全4巻のシリーズ完結を記念して、シンポジウム・合評会が4日(土)、5日(日)に予定されています。東大工学部にて。「ふるってご参会ください」と宣伝されています。
http://uhsj.itolab.org/event:201012sp

 なおまた、これに関連して当サイトにも、昨日コメントがありましたが、この blogspot の場合、新しい発言があっても、そのスレッドは元の日付の位置からは動かないので、見過ごされてしまうかもしれません。
→ こちらです:http://kondohistorian.blogspot.com/2010/06/blog-post_05.html

2010年11月30日火曜日

美女と銀杏


 ただいま本郷の銀杏並木は、こんな具合。
 だれしもにわかカメラマンといった趣があります。
昼食後、めずらしく三脚を脇にかかえて出てみたら、カメラを構えるすばらしい被写体が左から‥‥。ソフトフォーカスながら、撮らせていただきました。

2010年11月29日月曜日

Virtual reality とはこんなもんか

0. 世の中にはよくわからないことがありますが、以下は、単純にして怠慢なアウトソーシングと copy & paste の結果をだれも確かめてなかった、というお粗末な始末記です。

1. Manchester workhouse 関連で、新しくアプロードされた史料か文献はあるかな、とインターネットを探した折に、信じがたい発見をしたのです。
何番目かのヒットに次のようなものがありました。
 ------------------------------------------------------------
 Title: The Workhouse Issue at Manchester Selected Documents, 1729-35
 Author: 近藤, 正治 Kondo, Shoji
 Issue Date: 31-Mar-1987
 Publisher: 名古屋大学文学部
 Citation: 名古屋大学文学部研究論集史学. v.33, 1987, p.1-96
 URI: http://hdl.handle.net/2237/9791
 ISSN: 0469-4716
 ------------------------------------------------------------
 おいおい、近藤正治さんよ、これはあなたではなくぼくの仕事だよ。あなたがどんな方か知らないが、名古屋大学文学部に所属したことはないだろうに。
そもそも、Nagoya Repository という、名古屋大学の紀要類をディジタル・アーカイヴにする企画の一部らしいが、
http://hdl.handle.net/2237/9791 をクリックしてみると、正しく『研究論集』でぼくが編纂した史料集が PDF で出てきます。PDFなので 最初のページの著者名は Kazuhiko Kondo のまま。 → だったら問題ないじゃないか、と言いたいところですが、そうではない。

2. そもそも著作権は著者=近藤和彦にあるはずだが、その仕事が、①本人の関知しないまま、②著者名が変えられて、③ヴァーチャル世界に登載されている、という問題です。
① じつは何年か前に、名大図書館から同じく『名古屋大学文学部研究論集』に載ったぼくの Town and county directories in England and Wales, 1677-1822 という article について名大リポジトリに掲載してよいかどうか、郵便で問い合わせが来ました。これに OK した覚えはあります。同時に、1985年のこの article だけについて問い合わせが来て、翌々87年の workhouse issue について来ないのはどうしてか。リポジトリの年度区切りとか、著作権25年といった考え方とか、ありうるのかと想像しましたが、それ以上は深く考えないままで打ち過ごしていたのです。
‥‥いずれ材料を補充しつつ、この第2版を制作しなくてはいけない、と考えていました。Workhouse issue は英米ではそれなりに引用・参照されている史料集なので [→ Handley 1990; Horner 2001; Innes 2005; Langford 1991; Speck 1999]。→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/Quoted.htm

3. 大学の知的資源の公共的アクセス・情報公開の推進といったことが数年前から話題になりました。大学の図書を市民に開放するとか‥‥。そもそも公共図書館の不備・未成熟をどうするかという問題と、官公庁の情報公開とが一緒になっての動きだと思われますが、しかし大学の人的資源はギリギリだという与件もあり、 じゃぁ SOLUTION はアウトソーシング、ということでにわか情報業者がもうかる構図です。
 そうしたアウトソーシングの意味を全否定するつもりはありませんが、競争入札で、かつ新規業者を優先する方針でやった結果が、ここに出ています。
 なにかの contingency の結果として、名大工学部の近藤正治先生の論文をPDF化した直後に、近藤和彦の番になって、そのままコピー&ペイストして「いっちょ上がり」だったのでしょう。
 仕上がりを再確認するのはいったい同じオペレータか、職制か知りませんが、いずれにしても sine ira et studio、たんたんと作業を進めたのでしょう。
 著作権許諾を問われた近藤正治先生の側も、多数のペーパーについて、PAが(?) たんたんと「承諾」という返事を繰りかえしたに違いない。
 
4. 上の3に書いたのは、憶測 a plausible conjecture に過ぎませんが、これに随伴して
②近藤和彦の仕事として検索した場合にはヒットせず、
③しかし、本人の知らぬまにインターネットの世界では利用が繰りかえされてきた、
という問題があります。英米の歴史研究者で Kondo Shoji という名は知られていないでしょう。 Google などで検索・ヒットしてもパスする(内容を見ない)、というケースがほとんどだったでしょう。
 そもそも本人の研究計画のなかで The workhouse issue at Manchester: selected documents は緊急性の低い課題だったのでよかったとは言えますが、もし緊要な仕事だったらどうするのでしょう。損害賠償の訴訟‥‥といったこともありえますよ。

 これを書くためにまさか、と思いながら検索したら
 長谷川 博隆 の読みが Hasegawa, Kazuhiko
となっています!(Ciceroの法廷弁論にあらわれるcolonus と clientela)

ふざけるな、と言いたい。リポジトリを構築する図書館の担当者さん、委託された業者さん、どうぞ堅実に仕事してください。
【上の Workhouse Issue at Manchester の author にかぎって、名大図書館はすでに修正してくださいました。12月3日追記】

2010年11月25日木曜日

横浜の収穫



 24日(水)、横浜みなとみらいの「図書館総合展・学術情報オープンサミット2010」に行って参りました。
 パシフィコ横浜で開かれたいくつもの公開セミナーのうち、「大学図書館における人文社会系データベース」という催し。早稲田大学図書館のドン・中元さんの組織なさった催しだから、有意義であることは最初からわかっていて、オーディエンスのみなさんも、そうしたことは先刻承知でいらしたのでしょう。雄松堂および Cengage の方々にはお世話になりました。
 ぼく個人としては、「自分がいま夢中になっているテーマを話すと、決められた時間をどうしてもオーバーする」という定理からそろそろ学習しなくては、と反省しております。討論では、当然ながら IT 格差の問題も提起されました。

 事後には、NII の担当者にも直接に要望を伝えることができて幸いでした。Webcat Plus のひどい状態は、かならず改善してくださる、としっかり耳に刻みました。ここにも記しておきます。Webcat から Wikipediaへのリンクも、はずしましょうね。品位の問題です。

2010年11月20日土曜日

KJC@熊本


 隔年の会合ですでに3度ご一緒し、もはや haiku を交わす旧友という関係になりました。
【一斉写真を撮れなかったので、2次会の -見通しの悪い- スナップですが】
 Thomas Spence の土地構想を論じた『史学雑誌』研究ノート(松塚俊三)を発見して勇気が出たという趙先生の学生時代。青山・越智(編)『イギリス史研究入門』を持って勉強していた1980年前後の韓国の院生たちは、いま初老の大学教授。わたしたちは日本語で仕事していても、ガラパゴスではなかった‥‥!
 いま新しい『イギリス史研究入門』を手にする日韓の院生たちは30年後にどうしているでしょう? 後景に見える方々にも注目。
 Robert Bartlett って熊本で初めて意識しましたが、良い先生ですね。ずっと前にロンドンの AJC(2000年)でコメンテータをつとめられた Clanchy 先生も、2003年にいらした Harry Dickinson 先生もそうですが、理想的な「先生」。こういった師に学べるひとは幸せです。

2010年11月14日日曜日

遅塚忠躬先生



 遅塚忠躬先生が亡くなったという電話を、続いてメールを、今晩、熊本にて受けました。
12日~14日、熊本大学にて KJC の充実したコンファレンスに参加している最中です。

 厳粛な事実を耳にして、一言で言えない恩義と、これまでの様々なことを想起します。
 【写真は高橋幸八郎先生の60歳退官を記念したパーティで。右端が遅塚先生。1973年春、隣の二宮宏之さんと同じく、ちょうど40歳でした。高橋先生をはさんで、左端は柴田三千雄先生、46歳。】

 目黒区・碑文谷会館にて14日(日)夕刻に通夜、15日(月)正午に告別式が行われるということです。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。

2010年11月11日木曜日

イギリス史研究会など

12月18日・19日に3つの研究会が集中するようです。

  イギリス史研究会第21回例会
  2010年度イギリス女性史研究会
  第190回「歴史と人間」研究会

それぞれの許可をいただいて、転載します。
右肩の FEATURES の小見出しをクリックしてください。
ダウンロード、プリントもできます。

2010年11月7日日曜日

‥‥京都やあらへん



 11月2日に京都の史学研究会でお話をする機会を与えられ、ついでにぼくの懐かしい原風景(の一部)を再確認してきました。2日、3日と快晴でしたし、北山もよーく見えた。百万遍から烏丸御池・烏丸丸太町あたりまでを徒歩で往復して、京のまちなかをゆったり見ることができたのも(予定になかった)収穫でした。
 9歳まで、阪急 桂 駅からのぼった月見ヶ丘の北窓から、なんとなしにいつも稜線を眺めていました。まわりは建て込んでなかったので、西山・北山・東山と遮るものなく見えました。
 「桂ゆうたら 京都やあらへん」
ゆうこと言やはった先生にも来ていただいて、「伝説」と「記憶」の創造・捏造について、木屋町のお店でしばらく再審することもできました。ありがとうございます。
 3日の読書会に出席するのも初めてでしたが、たくさんの懐かしいお顔に挨拶できて良かった。

 そこでも話題になった『イギリス史研究入門』については、こちらで対話が継続中です。お時間があったら、たっぷり10月26日の分まで遡ってご覧ください。

2010年10月28日木曜日

『イギリス史研究入門』 をめぐって



 新刊書について、さっそくご感想・ご意見などをいただいていますので、双方向でやりとりしやすい掲示板〈イギリス史研究 Q&A〉に抜粋登載しています(10月26日以降)。
こちらです → http://kondo.board.coocan.jp/

 個人的な要素はできるだけ省いて、共有される論点 or 普遍性のある問題を討論できればと思います。よろしく。

2010年10月20日水曜日

Schedule 11月

 11月といえば、まだ先のことですが、自分のためにも混同しないよう、明記しておきます。

2日(火) 京都大学文学部にて史学研究会、翌3日に読書会

12日(金)夜~14日(日) 熊本大学にて Korean-Japanese Conference of British History

24日(水) パシフィコ横浜にて 図書館総合展・学術情報オープンサミット2010
   の公開セミナー「大学図書館における人文社会系データベース
   【もちろん無料です。ただし予約は必要。 ← クリック】


 --------------------<以下 未確定も含む>--------------------
12月4日(土)5日(日) 『伝統都市』合評会@東京大学出版会

12月18日(土)   イギリス史研究会@青山学院大学

 組織者の方々、それぞれ日時だけでも早めに確定してくださいな!

2010年10月18日月曜日

読者へ



  だれもが知っている(と思っている)イギリス。
  じつは歴史の重さゆえに、わかりにくい英国。

 新刊の『イギリス史研究入門』(山川出版社)ですが、最初からことばの問題に取り組みます。
でも、どこかの修正主義文献のように「ことは複雑で一様に語れない」「合理的分析にはなじまない」なんて論法ではありません。学問=科学なら simple & clear に論じてみよ!というのが、知り合いの scientist たちからの教訓です。

 「読者へ」というアピールもありますので、右肩の FEATURES からクリックしてご覧ください。

 この程度の抜粋引用は、著作権契約の許容範囲内でしょう。ただし皆さんがこれらから一部・全部を引用なさる場合は、出典を明示する必要があります。

2010年10月15日金曜日

史学研究会(11月2日@京都大学)



 案内のポスターをいただきました。ありがとうございます。
 「モラル・エコノミー論を歴史的に再考する
という題で話をいたします。右上肩の FEATURES(ページ)に案内状を転載させていただきました。

 このブログでは、これまで以下のようなエントリで一寸づつですが関連ある発言をしてきました。

モラル・エコノミー(労働党の今日)↓
http://kondohistorian.blogspot.com/2010/09/blog-post_28.html
悲報(EPTの研究助手の死)↓
http://kondohistorian.blogspot.com/2010/10/blog-post_12.html
ウォーリク大学 現代史史料センター
http://kondohistorian.blogspot.com/2010/09/sent-to-coventry.html
ジョン・ウォルタ
http://kondohistorian.blogspot.com/2010/06/john-bron.html
ずっと前、2007年のインタヴューも関連します ↓ 
http://www.cengage.jp/ecco/2007/05/post-1.html
つまりディジタル史料論でもあり ↑
また、わが『民のモラル』(1993)の再考 ↓ という意味もあります。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/statet0402.htm
どうぞよろしく。

2010年10月14日木曜日

新 刊



『イギリス史研究入門』(山川出版社)、ようやく見本を手にしました。まだ糊付けの乾いていない状態の写真を14日に載せましたが、それはあまりにひどかったので、16日、端正なものに入れ替えました。なにしろ菊地信義さんの装丁です。

 奥付は 10月15日 1版1刷 発行 となっていますが、実際に全国の書店に並ぶのは20日だそうです。
 ノンブルを打ってないページも加えると viii+412 pp. これで2500円+税というのは安い。出版社としては、しっかり売って元をとろうということでしょうね。
編集会議が始まったのは 2006年の科研費を申請する前でしたから、結局、何年がかりでしょう。


 皆さんの手元に行きわたったら、メリットと問題点など、おいおい討論しましょう。

2010年10月12日火曜日

悲 報

 なんたることだ。今はウースタに一人で暮らす Dorothy からメール到来。

Dear Kazu

I sent you the name and address of Edward's former research assistant Malcom Thomas . . <中略>. . but I thought I should tell you that I have just had a
'phone call from his wife to say that he died yesterday.
He was only 67 and apparently in reasonable health. His wife didn't know whether you had been in touch as she is not an academic and doesn't keep in detailed touch with his academic work.

He was a delightful man and his death will be a loss but his files will be full of unpublished material - he was too much of a perfectionist to publish much of his work.

Best wishes Dorothy Th.

 このマルカムの次のリサーチ助手が E. E. Doddで、後者とのコレスポンデンスがウォーリク大学にあって9月に読みに行ったのです。Moral economy 論議をめぐってそちらで判明しない事柄はしっかりマルカム君に尋ねなくては、と考えながら後回しにしていた。ぼくは一種、現代の切迫したオーラル・ヒストリをやっているのだという自覚が不足していました。油断してると当事者はどんどん消えてゆく! 反省します。
http://kondohistorian.blogspot.com/2010/09/blog-post_28.html
http://kondohistorian.blogspot.com/2010/09/sent-to-coventry.html

 ドラシへの返事には次のようにしたためました(抜粋)。

. . . thank you for letting me know the truth.
<近況について中略>
I now realize that Edward acknowledged both 'the late E. E. Dodd' and
'Malcolm Thomas . . . whose gifted services I was once fortunate to have as a research assistant' in his Customs in Common.

I just regret that I should have come in touch much sooner.
Thank you again and please take good care of yourself.


 それにしてもアナログ時代の写真の管理は、よほどしっかりしないと迷宮入り。Wick Episcopi で
EPT夫妻と一緒に撮った写真はどこかに隠れてしまい、その白黒ゼロックスの何度も複写したものしか手元にはない!? これまたひどい話、なんとかしたい。

2010年10月11日月曜日

事 情 説 明

 帰国してこのかた、このブログは間遠になっていますが、その一般的な理由は、帰国翌日の文学部講義からただちに平常業務に復帰して、また内外の公務を処理して、余裕がなかったということ。もう一つ、やや憂鬱な特定事情がありました。話は長くなります。


 ぼくは海外で使う財布と国内で使う財布をわけて、中身はそのままとし、出入国・通関の前後に2つの位置を鞄から衣服のポケットに(& vise versa)替える習慣にしています。こういうことはあまり公衆の面前ですべき仕事ではないと考えて、トイレやあるいは飛行機の座席で落ち着いておこなうのが普通。こんどの帰国に際しても、機内でそれを済ませたつもりでいたのですが‥‥。
 9月29日昼ヒースロウ発 V社の帰国便はむやみに混んで、しかも機械チェックインで夫婦別々の席になってしまったので、非常口脇の脚部が十二分に空いている51A-Cに替えてもらいました(二人で計75ポンド)。空間があってよいのですが、欠点は前に座席がないのでちょっとものを置くネット袋がなく、また手荷物を座席下に置くこともできない(頭上の物置にあげるしかない)という点です。
 座席ではケインブリッジで完成しなかったペーパーに、未練がましく推敲をいれ(それどころか議論の順を変えてパラを移動してみたり‥‥)、それにしても鞄がすぐ足下にないと、こんなにも不便とは‥‥。食事のあとはちょっと気を抜いて映画 Robin Hood と Bollywood を見て、あまり睡眠できないなぁ、と疲労感とともに、30日午前、雨模様の成田に降り立ちました。日本としては涼しいのかもしれないけれど、14度15度のイギリスから来ると残暑を感じる。
 離陸時と着陸時に非常口前に対面して着席する客室乗務員の美女とのあいだで、ケインブリッジのパントがむずかしいとか、清澄白河がどうとかいったローカルな話で盛り上がったついでに、彼女は「成田から東京に出るには疲れたときにはリムジンバスが一番」という意見。そもそも通関時に別送品(25キロ×2)を申告し、税関の捺印申告書をヤマト運輸の「GPAお預かりカウンター」に提出。そのとなりの宅急便で大きなスーツケース2つ(33キロ+30キロ!)の即日配達を託してようやく身軽になり、ふだん使っている鉄道ではなくリムジンバスへ。そうか、箱崎ばかりでなく、東陽町「イースト21」行きのバスもあるんだ、と目を開かれ、快適な高速の帰途についたのです。
 10月1日は早暁から目ざめ、講義の第1回目を慌てて済ませ、その後さっそく学生と面談はいいけれど、*出版社もただちにやってきて、これとそれとあれのスケジュールの念押し。
 2日と経つうちになんだかおかしい。ポンドや University of Cambridge のカード、CULの利用票をいれた財布がどこかに紛れてしまっている‥‥。
 V社に連絡しようとしても、少なくともインターネットには成田・東京のメールアカウントは無いようだし、ようやく探し出した電話番号も月曜~金曜のみ受付! いくら日本便を軽く見ているとしてもそれはないよ。‥‥ようやく4日アサイチに電話してみました。応対は丁重ですが、調べたあげく、午後にそうした遺失物の連絡はありませんという返事。
 うーん、こちらの不注意というか、無意識におこなった習慣的行動の確認不足のせいで紛失したらしいのだから、20ポンド紙幣5枚~10枚未満+コインは諦めるとして、ケインブリッジ大学のカードと図書館利用票は(もしロンドン便に乗った誰かがこれを見つけて)悪用しようと思えば可能だ。これは連絡しておかないと面倒なことになるかも‥‥。
 翌5日、歯医者、三菱財団、11月の京都出張、etc. の処理をしているうちに、自宅から電話。久松警察署から東大へ連絡があった、という連絡があったとのこと。? ただちには意味が飲みこめず。


 翌6日午前に日本橋・人形町の久松警察署(なるものが存在するとは初めて知りました)に参上。リムジンバス会社からの遺失物届け出のうちの一つに Kazuhiko Kondo のカードと外国の通貨の入った財布があったとのことで、落としもの係で、簡単な確認の後、無事143ポンド余り+University of Cambridge のカード+CULの利用票+クレアホールのコピーカードを手にしました。リムジンバスの座席前の網袋に置いたままだったのです。
 V社には(掃除が行き届かないとか)根拠のない嫌疑をかけて済みませんでした。
 それにしてもリムジン会社は一律に所管の久松警察署に届けることにしているのでしょうが、警察はどうやってぼくの日本のアイデンティティを探し当てたのでしょう。昔むかし41年前の記録?ヤマカン?
 でも若い人によると、ウェブでローマ字の氏名 + university で検索すれば一発。しかもカードに顔写真があるからコンファームもできる、とのこと。そうかもしれない。
 そういえば、このネットの検索力を信じているからこそ『イギリス史研究入門』では、『アメリカ史研究入門』のように長たらしい URL を記すことなく、Googleによるキーワード検索を原則としたのでした!
 日本の安全平和と、警察の有能さを再認識しました。円強(日本の底力の高い評価)の傾向がつづいて、しごく当然ですね!
 関係者の皆々さま、ありがとう。

 というわけで10月6日まではこのブログに書きこむ元気も消沈し、6日からは気を取りなおして公校務に紛れ、土日は風邪の症状が始まり‥‥今日にいたるわけです。
 暑いのか寒いのか、身体のほうであまり対応できないようで、ちょっと困りました。
 皆さまはどうぞご自愛ください。

2010年10月5日火曜日

Newton Institute

 何ごとにも終わりはあって、哀しみとともに帰国いたしました。

 夕刻のケインブリッジには、このように「伝統都市」ならぬUFO集団が着陸したかのような風景もあります。
 この地区を昼間訪ねると、個々の建物はこんな感じ。玄関の「碑文」をみてください。クリックすると拡大します。

 なにしろニュートンの大学ですので(!) 数理科学研究科は、東大駒場の建物の比でなく、いかにもなんだかおもしろいこと(変わったこと)やってるぞ、という雰囲気が生きています。

2010年9月29日水曜日

モラル・エコノミー?


 こちらでのリサーチの進行中、労働党の党首選が数ヶ月にわたって5人の候補の間でたたかわれました。昨日、かつての左派理論家 Ralph Miliband の息子たちミリバンド兄弟のうち最有力候補 David (兄) を Ed (弟) が1%の僅差でやぶった、ということで話題になっています。次の首相候補ですから、どういう考えか、知りたいところですが、兄弟ともに moral economy をキーワードにしている!
 彼らのいう moral economy は、鳩山兄弟の友愛ほどヤワではないが、それにしても甘く素人っぽいところがある。こんな具合です(写真も発言も public domain より)。

Ed & David Miliband - setting out ideas to hand more powers to communities, tackle social inequalities and build a more "moral economy".

David Miliband - attacked some behavior in the financial sector. “I stand for a moral economy. People should not be playing games with other people’s money in the welfare state, but nor should they do so with our pensions on the trading floor of the City.”

Ed Miliband - "I am for a moral economy in which there is responsibility from top to bottom".

わがペーパーの出だし(問題の所在)で、純アカデミックな意味づけだけでなく現今の政治言説にも論及できるので、その点はおもしろくなってきましたが、昨夕討論したボイド・ヒルトン先生も、EPT未亡人ドラシもまた、現代政治における有効性には懐疑的です。

2010年9月27日月曜日

British history 1600-2000


 右肩 欄外にある Features に登載したのは、新刊の
  British history 1600-2000: expansion in perspective,
  edited by Kazuhiko Kondo & Miles Taylor (London: IHR, 2010)
  xiii+279 pp.
  ISBN 9781 905165 605
です。

編集出版書誌にかかわる部分について、ページからどなたにもダウンロード可能としました。
ご利用ください。

2010年9月26日日曜日

先行研究は?

 どういった分野でも、本当に意味ある研究は「息が長い」というか、20年、30年のスパンでは簡単にひっくりかえらなかったりする。
 昨日 Wiley-Blackwell からの Online 登載通知で知ったのですが、最新のEconomic History Review Online に、例のブローデル & スプーナによる中世末から18世紀半ばまでの全ヨーロッパの穀物価格グラフ【初出は1967年。たとえば『岩波講座 世界歴史』16巻、pp.21-26】をめぐる議論と修正が、載りました。紙媒体の EconHR そのものは未だですが、これを定期購読している図書館からなら閲覧・ダウンロードできるはずです。


 (c) Economic History Society 2010
 『岩波講座 世界歴史』16巻を書くに先だって(1997~99年初ころでした)、二宮宏之さんに最近の研究について質問したのですが、ブローデルのような大きな議論はね ‥‥ と消極的な反応。それにしても1967年から30年経ってもそのまま放っとかれているのか、それとも日本の学界が鈍感なのか、と不思議な気持でした。
 今回の Victoria Bateman 論文によると、関連する個別研究がなかったわけではなさそう。
 そこで、わが懐かしの「馬の肩から鼻先までを横からみたグラフ」が、Bateman 女史によって前は14世紀、後は1782年まで引き延ばされ、また近世についても、こんなふうに変形されてゆきます。‥‥

 でも、落ち着いて読んでみると、これは本質的な修正なのか。ポーランドなどバルト沿岸を考慮にいれないで近世ヨーロッパ経済の収斂を語ってよいのでしょうか。これでは論点先取りで、バルトなしのヨーロッパは最初から統合的市場をもっていた、(馬の身体の上方のシルエットだけをみると、ほとんどアザラシかイルカのように見える)となる。
 卒読ですが、もしや、この論文にはかなり重大な視野の限定があって、これでは結局、研究をブローデル & スプーナ、ウォーラステインよりも前に引き戻す、ただの「業績」論文なのか(?) レフェリーは何のためにいるのでしょう。
 悪貨が良貨を駆逐する、というグレシャムの法則は学問の世界では流通してほしくない。

2010年9月25日土曜日

実学としての歴史学

 モリル先生に誘われて The 1641 Deposition Online というプロジェクトの打ち上げ研究会に交ぜてもらいました(11時~16時、17時までドリンク。その後ディナー)。


正式のインタフェイスはまだですが、すでに試行版がトリニティ大学図書館のサイトに載っています。今も、今後も無料。http://www.tcd.ie/history/1641/ すばらしい。見てみてください。

 アイルランド史で「研究のもっとも盛んな時代」すなわちおもしろいのは、近刊の『イギリス史研究入門』p.306 によると18世紀らしいですが、もしや史料的には、この1641年問題こそ外国にいる日本人にも互角に取り組める、取り組みがいのあるテーマなのか、と思いました。アイデンティティ、言語、記憶、記録、すべてにかかわる暴力、司法といった観点から、やるべきこと、やれることが山ほどありそう。

 革命のきっかけになった「アイルランド大叛乱=大虐殺」の証言録取書を全部テクストとしておこして、全文検索できるようにし、しかも元のマニュスクリプトも画像として対照しつつ見られる。これはすばらしく教育的。
 しかし教育的というのは、もっと広い公衆教育という意味も込められています。アイルランド・ブリテン間の喉に突き刺さった骨である、370年前の atrocity を
  The Irish cannot forget it;
  The English cannot remember it.
だったら原史料(公文書)をウェブに公開してだれにもアクセスできるようにし、大いに議論してもらおうじゃないか。こういう姿勢で、日韓・日中・日米のあいだの「歴史問題」を議論する公衆に委ねるということは可能なのでしょうか。
 これまでのイングランド(Cambridge)・スコットランド(Aberdeen)・アイルランド(Trinity)の3国研究者と、IBMのIT技術者と、オーバードクターの協力と雇用を兼ねた、何重もの trinity 企画。
修正主義者にしてよき教師モリル先生の手にかかると、このアカデミックな企画が、来年10月に完成して、正式ローンチをアイルランド共和国大統領と、北アイルランドのユニオニストの同席のもとに敢行し、しかも多様なブリテン、多様なアイルランドへの堅実な一歩としようというわけです。

 松浦高嶺先生、こうなると「修正主義は木をみて森をみない」という批判は、引っ込めないわけに行きませんね。テキは一枚も二枚も上でした。民族主義史観やピューリタン(純情)史観の克服をめざすのが修正主義なので、日本のナイーヴな「修正主義」とは本質的に違います。
Knowledge is mightier than ignorance. モリル先生の言うとおりですね。
ヨーロッパ的コンテクスト、17世紀の全般的な危機(と暴力の象徴主義)といったことも話題になりました。
(それから今晩、 Russell と Morrill との間には友情の亀裂があって、ラッセルが亡くなるまで本当の修復はできなかったと聞きました。)ぼくはぼくで、1980年、最初の留学時に Mark Goldie に勧められながら、revisionist seminar に出ることを忌避したという事実を告解して、赦しを請いました。

 ダブリン側の中心にいる Jane Ohlmeyer (上の写真で両 John にはさまれた美女)は、高神さんと同期とか? カレン先生ともお友だち。

2010年9月23日木曜日

Salzburg-Wien-Praha

この9月には(も)いろんなことが続いたので、Catholic Europe の大旅行が大過去のことになってしまいそうですが、そうしないために--


 【写真をクリックしてくださいな 】ザルツブルク(イギリス人にいわせればサルツバーグ)では「フニクラ」(!)で城に上ったらそれまで雨模様の空が晴れて、はるかにアルプスの氷河が望めました。モーツァルトの場合は、これをみて旅心を誘われたでしょう。氷河も向こうにはイタリア。「この街を出よう、大司教のもとから離れよう」と決めたときにも、やはりこの風景を見つめていたのか‥‥それは知りません。

 ウィーンは大都会なので、もっとゆっくりしないと見尽くせないな、と思いながら、それにしても美術史博物館はハプスブルク家の威信をかけた、圧倒的な知と美の殿堂。

ここで画学生(?) が模写しているのは、ブリューゲルの「謝肉祭と大斎節との争い」(『民のモラル』pp.230-1)でした。ぼくも絵心があるなら、1週間くらいかけて模写したいくらい不思議な迫力にみちた、構成的な絵です。
 木曜夜は9時まで開館ということで、館内のすばらしいホールでディナーをいただきました。

 プラハ城では 1618年、窓外放擲事件の現場をみて満足し、城の敷地内に、別料金で入る Lobkowicz Palace についてはパスしようかな、と思いながら下のカフェに入ってビールを飲みました。そこで思いがけず一つのビラを目にすることがなかったら、Lobkowicz に入ってカナレットの「ロンドン市長就任式の水上パレード(テムズから望む聖ポール)」に遭遇することはなかったでしょう。これは『江戸とロンドン』p.230の原画です。


これを contingency というのか、天の配剤(oeconomy)というのか。思ってたより、ずっと大きな絵。

 そもそもジェイムズ6世=1世の姫エリザベスは、ファルツ選帝侯フリードリヒに嫁するんだから、ブリテン内戦(イギリス革命)・ヨーロッパ大戦(30年戦争)の観点からも、この辺はきちんと観察しておかねばならないことでした。反省。

2010年9月16日木曜日

sent to Coventry?

 繁忙中、ウォーリク大学の Modern Records Centre に行ってリサーチをして参りました。雨がちの2日間、屋内でしっかり仕事をして、夕刻外に出ると、雲が晴れて快晴。
ウォーリク大学に行くのはじつは生まれてはじめて。一言でいうと名古屋大学を美しくしたようなキャンパスですね。


 それと正反対の印象が、コヴェントリ市。戦災の象徴のような大聖堂は、イングランドにおける広島の原爆ドームにあたり、しっかり詣でましたが、戦後の都市造りという点では、車の走行の激しいリングウェイで旧市街を円く包囲してしまったのには、大失敗、という印象を避けられません。

 夜、「人っ子ひとり居ない」とは言わないが、見えるのは20歳±のガキだけ。Middle class は家庭から出ないのでしょうか。食文化も無きがごとし。残念でした。

 大聖堂のネイヴに据えられた掲示板の文章が泣かせます。

 隣どうしとはいえ、むかし Newdigate mss を読むために通ったウォーリク市(Warwickshire CRO)とは全然ちがいます。

2010年9月12日日曜日

Anglo-Japanese History Colloquium, 10 Sep. 2010



 この間いろいろ書くべきことが続いていますが、時間がありません。

 すべて飛ばして、10日(金)に歴史学研究所(IHR)で開かれた colloquium ですが、国際交流基金からも来ていただきました。ありがとうございます。
英国史4本、日本現代史4本のコローキアム、どうなるかと心配しましたが、Harry, Ian, Joanna, Pene, Robert, Vivian, 島津さんにも来てくださって、活発でした。

 しかもその夕には、Miles Taylor によって待ちかねた出版物(右の写真)が launch されました。
  British history 1600-2000: expansion in perspective,
  edited by Kazuhiko Kondo & Miles Taylor (London: IHR, 2010)
  xiii+279 pp.
  ISBN 9781 905165 605
  高さ23cm, 幅15cm の出版物です。
  全報告、コメント、junior paperも所収。
  [イメージとして Historical Research の版型と色調を思わせる造りです。HRより濃紫色がつよく厚いのですが。]
ただし、まだ見本をみて触らせてくれただけで、配布まではされません。
もちろんAJC関係者(委員・報告者・コメンテータ)には送られますが、10月までお待ちください。

 マイルズには、また11月に九州の日韓で、ということでお別れしました。

2010年9月7日火曜日

Praha にて


8月末から中欧に旅行して、9日間、なかなか効率的に、お勉強しました。
カレル橋からプラハ城・大聖堂を望む夜景です。



こういった光景のただなかに身を置いて、高揚しないわけにいきませんね。
琢の書き物を読めば読むほど、invention of tradition といったことを考えざるをえません。19世紀のプラハ城・大聖堂、ヴァーツラフ広場を見おろす国民博物館、1989年11月17日、カレル大学の建物の壁の銘文、等々。The unbearable lightness of being も。
カナレットのウェストミンスタ橋および Lord Mayor's Day にしっかりめぐり逢ったのも、嬉しい付録でした。

2010年8月30日月曜日

In München und Salzburg

Now in Munich, I am sorry I cannot promptly respond to incoming emails.
I cannot read Japanese either!
Also I am not accustomed to German keyboard. z & y are replaced to each other, and you do not have dele key?

2010年8月28日土曜日

『イギリス史研究入門』のカバー


「だれもが知っているイギリス。歴史の重さゆえにわかりにくい英国。‥‥
 イギリスなる存在の広がりとアイデンティティの歴史的変化こそ、本書を貫く心柱のようなテーマである。」

と、400ページ余の共著の総説の初めに書きました。

 お待たせしています。
『イギリス史研究入門』のカバーができました。
ご覧にいれるのは、裏と背中。
山川出版社から送ってきた写真はA4より小さく、
表・背中・裏の全部を一挙に見せる画像がありません。
表は端正ですが、とくにおもしろみはなく、逆に裏カバーのほうに
定価を含めて必要情報が集中しているので、こちらの写真を載せます。
9月末です。 よろしく!
目次はこちらです

 10月から文学部の授業では、この本の使い方を案内することにします。
携行するために作ったレファレンスですが、索引もふくめて、利用しだいで何倍にも生きてくる本です。
インターネット関連についても充実していますよ。

2010年8月23日月曜日

Friends

 今週は超いそがしくて、-「極度乾燥(しなさい)」のノリだと 極度多忙にて -、ちゃんと分かるように(articulateに)ブログしてる時間がない。

 というわけで、火水木・土・日に参集したお友だち、および、はるばる panforte を託送して可哀相なアルプス以北のわれわれを歓喜させてくれたトスカーナの Oくんの厚意を記念して、
memento vivere の写真を4葉 登載します。

 備忘録風に、いちおう日付順に19日、21日、22日の撮影です。

 被写体からは、ROMの皆さまにもよろしくのことでした。

Landed aristocracy その3:御当主夫妻と会見

 じつは18世紀はじめのホウィグ貴族のもう一人の大物、turnip Townsend (すなわち「マンチェスタ騒擾とジョージ1世」の国務大臣タウンゼンド伯) の館も10キロほど離れたお隣さんですが、これは closed to the public.
 夕刻、車で農地のあいだを20分ほど南に戻って、緑のなか、これまた closed to the public と明記してある15世紀の館へ、お茶しに寄りました。

 こちらの当主 Sir John は Trinity Hall の卒業生、高級官僚・国際公務員でした。奥様が相続した館は、玄関のうえの家紋も崩れているように、ちょっとメインテナンス不足とはいえ、内部は16世紀くらいの板に描いた祖先の油絵肖像画が、こっちにもあっちにも掛けてある。【なにしろ奥様は、1770年代はノース首相の末裔でいらっしゃいます。】17世紀のタペストリもあちこちに。わたくしメ夫婦を案内してくださった2階のいくつもの寝室は、あきらかに何ヶ月も開けてない模様。隠れ階段もあるし、夜は怪しげな音も聞こえたりして、ちょっと怖いんではないだろうか。
 Sir John は退職後は美術愛好家で、NPOの理事もしている模様。Who's who にも載っています。レノルズ描いた誰某の肖像画、と話題になると、ただちにそのレファレンスを持ってきて、会話を確かなものにしてくださった。
 この陶磁器室には、サンドリンガムから Princess Anne がお茶しにいらっしゃいます!

 というわけで Sir は「平民」なのか? という問題にあらためて帰着します。今日訪問した3館の主、首相ウォルポールも、農業改良のクックも、もと国際公務員 Sir John も、平民最上位の Sir で、だからこそ庶民院(衆議院)の議員になれたのですが、House of Commons ははたして近藤の言うように「庶民院」でいいのか? むしろ青木さんの言うように、爵位貴族の上院(Lords)に準ずる、爵位なき貴族的下院(Commons)と呼ぶべきだ、というのも、たしかに一理ありますね。
 ただし、Sir を「卿」と訳すのだけは止めたい。卿は正真正銘の爵位貴族にのみあてはまる呼称です。

2010年8月20日金曜日

Whig aristocracy その2

 車でノーフォク州の農地のあいだを20分?ほど飛ばして、Holkham Hall へ。
・17世紀初めののコモンロー司法官にして「権利の請願」の起草者の一人 Sir Edward Coke (クック 1552~1634)の所領でしたが、

・18世紀初めに Thomas Coke, first earl of Leicester (1697~1759) が 7年間のgrand tour でイタリア美術に目ざめ、買ってきた美術品を効果的に展示するために建てたという豪邸 Holkham Hallです。
・このレスタ伯と次代の放蕩息子ゆえに破産するところ、これを防ぐべく、1776年に所領を相続して農業改良を推進した甥 Thomas William Coke of Norfolk (のちに first earl of Leicester of second creation (1754~1842))はというと、Arthur Young と ノリッジのRigby のお友だち。

 こうした3者の関係は、常識でしたでしょうか?
Walpole家では破産しそうになると3代目が絵をエカチェリーナ女帝に売却して凌いだ。∴エルミタージュ宮にウォルポール収集のコレクションがめだつ。 ⇔ これにたいして、Coke家では破産の危機に対処すべく、3代目が農業改良に専心する‥‥。ブルームやグレイとともに選挙法改革にもとりくむ‥‥。
 仕入れたばかりの知識を、本日リグビの坂下さんあいてに開陳してみたら、釈迦に説法でした。

 ホゥカム邸のご当主レスタ伯はいささか商業的で、日曜の午後ともなれば、庭や経営ホテルはひとで一杯。外も中も写真 OK。外装は質実剛健に力強く、内装は豪華絢爛、そこらの美術館・18世紀図書館に負けない備品。
そもそもあなた、所領は約100平方キロ(約10キロ×10キロ)! 北海の海岸線まで拡がります。東京の山手線のなかより広いかも。馬か自転車を借りなきゃ、周りきれません。

Whig aristocracy その1

 15日(V J day!)にノーフォク州の貴族の館2つを訪問したのですが、そのあとの付録もふくめて、印象は圧倒的です。あまり理性的でないブログとなりますが--

 10.00に4人で剣橋発、一路北へ。Houghton Hall(ハウトンです!)は日曜のみ11.30に gardens (複数形です!) が開場。
 まずはかつての kitchen garden に、期待せずに入りました。なんといっても首相ウォルポールの邸宅を見るのが目的ですから、18世紀前半でないものは、あまり‥‥
 野菜や果物、花などを栽培した所を、その機能も生かしながら、生垣でいくつもに囲い分けて性格のちがう遊びの空間を造ったものです。ごく最近の火炎を噴く噴水(water flame)といった際物もありますが、全体として安らぎと発見のある、楽しい空間。それぞれ囲いの中はちがう小世界をなすので gardens なのですね。

 厩舎のあとを改造したレストランで軽い昼食。
 1.20より本館開場。日本的感覚とちがって、西向きに(夏のディナーで長い夕刻の日射しを活かすために)こうした country house は建てられています。上の写真では館の西面を撮っていますが、撮影者の背面=西方には長ぁく植林されていない帯状の緑地が延びています。

 館内は、残念ながら撮影禁止。パラディオ様式、イタリア趣味、ディナー室の奥に cabinet room がありました。史上最初の閣議は、ウェストミンスタはホワイトホールではなく、ここで開かれたのだ、と自慢げに語られていますが、実はそれはヒイキの引き倒しですよ。Downing Street より前に Cock Pit と18世紀人が呼んでいた所でやっていました。 cf. List & Index Society: Cabinet Meetings をご覧じろ。
 ウォルポールが権力政治だけに専心していたとまで思いこんでいたわけではありません。
 それにしても(客を招いて見せる≒魅せるだけでなく泊める)空間のシンボリズムにまずは感銘しました。
 運転手の M.に急かされて、次の Holkham Hall へ。