先の(9月6日)書込みのあと、何人もの方々と、谷川稔さんのこと、それにちなむあれこれについてメールや電話で、また対面で話しこみました。懐かしい写真も共有しました。彼も出席した2012年6月の「二宮宏之と歴史学」@東京外語大、「『社会運動史』の時代」@東洋大、といった催しについて、ぼくの記憶には混乱が残っていましたが、お蔭で訂正され、補強されました。
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2012/06/blog-post.html
【1976年4月初めに京都・大原で社会運動史研究会メンバーと京阪在住の方々との合宿がありました。その時の一斉写真(20名+)はかつて大事に所持していたはずなのですが、いつのまにかどこかに紛れてしまいました。どなたかまだ持っていらしたら、ぜひコピーさせていただきたいものです!】
谷川さんの個性について、いかにも京都人という本質と、団塊世代の左翼という側面が結合して独特の魅力が醸し出されていました。それゆえにこそ、彼と距離を保つ人もいました。時代とミリューの所産でしたね。
ぼくにとって、京都西洋史のほぼ同世代の大切な友人として、川島昭夫(2020年)、谷川稔と亡くなってしまい、寂しいことこの上ありません。
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2020/02/19502020.html
それよりずっと前には『社会運動史』にも関係し、京都大学学術出版会が胚胎するにあたって枢要な役割を果たした八木俊樹さん(1943-1996)も早々と亡くなりました。彼とは友人と言えるほどの付き合いはなかったけれど、「吉田寮」出身で、容赦のない方。
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2022/11/blog-post_5.html
→ https://www.facebook.com/groups/2006664346237293/posts/4483119388591764/
→ https://urag.exblog.jp/239321481/#google_vignette
闘病後、1996年夏に八木さんが亡くなると、『朝日新聞』(東京版)が2度にわたって大きなコラムを組んで出しました。その存在感もわかるでしょう。
2026年9月21日月曜日
2026年5月26日火曜日
デモクラシーを歴史的に問いなおす
5月17日の学会小シンポジウムに向けて準備はドタバタしましたし、当日も(ぼくは)あたふたと時間超過でお話しし、討論の部でも司会の期待どおりとはゆかず、済みませんでした。↓のような表紙に始まるPPTにより、ベイシックなお話をしました。
そのうちの後半、OEDのデータによる republic / republicanism, democracy / democratic の使用頻度の増減グラフはそれなりの意味があって、ひとを考えさせるものがあったのではないでしょうか。フロアでは久しぶりに元気なお顔を拝見できた方々もありました。
このシンポを核に、他の報告も一緒に英語/日本語の本として出版できるよう、すでに動き出しています。西洋史学会大会シンポをもとにした論集は少なくありませんが、ぼくがかかわったもので既刊のものには
『長い18世紀のイギリス その政治社会』近藤(編)(山川出版社、2002)
『礫岩のようなヨーロッパ』古谷・近藤(編)(山川出版社、2016)
『王のいる共和政 ジャコバン再考』中澤(編)(岩波書店、2022)がありました。
『「主権国家」再考 近代を読み替える』中澤(責任編集)(岩波書店、2025)の場合は、歴史学研究会大会の合同部会シリーズにもとづくものでした。
それぞれの準備のための討論に加えていただき/もろもろの勉強をすることができました。ありがとうございました。
そのうちの後半、OEDのデータによる republic / republicanism, democracy / democratic の使用頻度の増減グラフはそれなりの意味があって、ひとを考えさせるものがあったのではないでしょうか。フロアでは久しぶりに元気なお顔を拝見できた方々もありました。
このシンポを核に、他の報告も一緒に英語/日本語の本として出版できるよう、すでに動き出しています。西洋史学会大会シンポをもとにした論集は少なくありませんが、ぼくがかかわったもので既刊のものには
『長い18世紀のイギリス その政治社会』近藤(編)(山川出版社、2002)
『礫岩のようなヨーロッパ』古谷・近藤(編)(山川出版社、2016)
『王のいる共和政 ジャコバン再考』中澤(編)(岩波書店、2022)がありました。
『「主権国家」再考 近代を読み替える』中澤(責任編集)(岩波書店、2025)の場合は、歴史学研究会大会の合同部会シリーズにもとづくものでした。
それぞれの準備のための討論に加えていただき/もろもろの勉強をすることができました。ありがとうございました。
2026年5月13日水曜日
日本西洋史学会大会(於)日本女子大学
5月17日(日)の日本西洋史学会大会(於)日本女子大学における午後の小シンポジウムですが、もくじ的なプログラムぺージが更新されました。
→ https://seiyoushigakkai.com/2026/common/pdf/symposium.pdf
中澤科研の「民主共和政」の会場は、他の小シンポとは別棟の「成瀬記念講堂」とのことです! ただし、事前に(3月に)実行委員会あてに提出した報告要旨についてはオフラインのままのようです。
日本女子大学といえば、青山吉信、喜安朗両先生、そして森田安一さんのころからお世話になっている大学です。久しぶり、といっても前に訪れてから数えて30年近く(!)経っているでしょうか。そういうこともあって、気を入れて準備しています。
ぼくの第1報告要旨について、修文を加えたものを、あらかじめ公開いたします。
→ 右肩の Features:「デモクラシーを歴史的に問いなおす」をご覧ください。
→ https://seiyoushigakkai.com/2026/common/pdf/symposium.pdf
中澤科研の「民主共和政」の会場は、他の小シンポとは別棟の「成瀬記念講堂」とのことです! ただし、事前に(3月に)実行委員会あてに提出した報告要旨についてはオフラインのままのようです。
日本女子大学といえば、青山吉信、喜安朗両先生、そして森田安一さんのころからお世話になっている大学です。久しぶり、といっても前に訪れてから数えて30年近く(!)経っているでしょうか。そういうこともあって、気を入れて準備しています。
ぼくの第1報告要旨について、修文を加えたものを、あらかじめ公開いたします。
→ 右肩の Features:「デモクラシーを歴史的に問いなおす」をご覧ください。
2026年3月1日日曜日
『「歴史とは何か」の人びと 20世紀知識人群像』読者との交信 IV
OTさん
‥‥まず全体として本書は、『歴史とは何か』の副読本にとどまることなく、また内容的にも E.H.カーをめぐる人々の単なるエピソード集に収まることなく、20世紀の史学史・ヨーロッパ思想史になっている、と感じました。
最も印象に残ったのは、いかに20世紀のイギリスがヨーロッパからの頭脳の流入により受益していたか、という点です。ネイミアやエルトン、ホブズボームといった歴史家に加え、バーリンやポパーといった20世紀思想史の最重要級もその列に連なります。こうしてみると、20世紀のイギリスは長期衰退過程にあっても、最強の国際言語たる英語と教育/研究機関、リベラルな政治体制により、すばらしい人材を誘引していたことが改めてわかりました。同じ衰退国でも、21世紀の日本では逆立ちしても真似できそうもないのが、悲しいところです。
<中略>
また、カーのある種の欠落を明らかにする7章、8章も、非常に効果的だと思います。『パースト&プレズント』の面々との没交渉、フランス革命史研究への言及の欠如は、カーの知的傾向を理解するうえで重要でしょう。また女性たちおよび周辺人物とのコミュニケーション不全(15章)も、著作のみからはうかがえない彼の人格的凹凸をよく示しており、彼を把握するための助けになろうと思われます。
誰もが知る思想史上の大物ももちろんですが、個人的にはアクトンあたりに深い解説が加えられているのがありがたいです。主だった単著も邦訳もないアクトンの場合、特別な関心がない限り彼の著作を読むことも調べることもまずないと思われるので、彼の業績や歴史的評価に関する記述が読めるのは、貴重だと思います。
マンチェスタ大学史学科に関する記述(特にp. 219-220)も心が躍りました。わけても「オクスフォード・マンチェスタ・ケインブリッジ・ロンドンの4点からなる四角形」なる表現は、非常に誇らしい思いを抱かせるものでした。
以下には(些末ですが)気になった点を。
「付記10 LSEの変貌」の最終センテンス(p.180)、「そこにはかつてのように前近代の歴史を研究する教員はいない」という表現について。この文章は二重にとれまして、「LSEにはもう前近代経済史の専門家はいない」とも、「かつてのように」が「研究する」にかかるとすると「LSEの前近代経済史家の姿勢がかつてとは変わってしまった」とも解釈できます。いずれにせよ、「LSEにおける前近代経済史研究にかつての勢いはない」、あるいは、「前近代経済史研究から熱気が失われた」くらいの意味の文章だと拝察します。
しかし例えば、Oliver Volckart、イギリス史のPatrick Wallisなどは近世経済史において手堅い研究をしていると思います。アジア史でも、Tirthankar Royなどの仕事はどうでしょうか。
別にLSEを擁護する義理はないのですが、LSE:Department of Economic Historyの教員一覧を眺めるに、前近代についても専門誌でよく見る名前がそろっていて、依然として経済史研究の最前線だな、というのが私の印象です。これ以上充実した経済史のスタッフを揃えている機関は、そうはない。確かに往年のPatrick O'Brienのような大物が見当たらない、といわれればその通りです。また「黄金時代」のような熱気が感じられないとするなら(それも否定できません)、個々人の資質というより「付記」にも指摘されるとおり、もっと大きな知的潮流の変化に原因があるのでしょう。
OTさんに近藤より返信
ほとんど書評のようなコメント=メールをいただきました。内実のあるコメントを下さって、うれしい。たいへん心強く受けとめて、筆が軽く流れてしまった箇所など反省しています。
¶ マンチェスタについては、最初の留学で Boyd Hilton と V.A.C. Gatrell の指導を受けつつリサーチを開始したのですが、Manchester Central Library で Douglas Farnie先生(1926-2008)に会えてからは、ローカルな事情についてのお知恵を伝授していただくばかりでなく、史学史的な話もお好きなので、イギリスでも日本でも、会ってお話するのが楽しくなりました(拙著では p.281)。1987年9月に京都にいらしたときの写真をご覧にいれます(ぼくもまだ40歳になったばかり!)。
¶ 今日のLSEにおける歴史的学問の現状については、すみません、印象主義的な記述で凌いでしまいました。「付記10」p.180 の記述は、12行目「飛ぶ鳥を落とす勢いがある。」で終わりとし、以下は削除します。ここはむしろ、LSEは経済学自体の変貌、そしてヨーロッパ(西欧)中心史観からグローバルな視野への移行といった大きな変化を、オクスブリッジよりもはっきり代表具現している、と言うべきだったかもしれません。
‥‥まず全体として本書は、『歴史とは何か』の副読本にとどまることなく、また内容的にも E.H.カーをめぐる人々の単なるエピソード集に収まることなく、20世紀の史学史・ヨーロッパ思想史になっている、と感じました。
最も印象に残ったのは、いかに20世紀のイギリスがヨーロッパからの頭脳の流入により受益していたか、という点です。ネイミアやエルトン、ホブズボームといった歴史家に加え、バーリンやポパーといった20世紀思想史の最重要級もその列に連なります。こうしてみると、20世紀のイギリスは長期衰退過程にあっても、最強の国際言語たる英語と教育/研究機関、リベラルな政治体制により、すばらしい人材を誘引していたことが改めてわかりました。同じ衰退国でも、21世紀の日本では逆立ちしても真似できそうもないのが、悲しいところです。
<中略>
また、カーのある種の欠落を明らかにする7章、8章も、非常に効果的だと思います。『パースト&プレズント』の面々との没交渉、フランス革命史研究への言及の欠如は、カーの知的傾向を理解するうえで重要でしょう。また女性たちおよび周辺人物とのコミュニケーション不全(15章)も、著作のみからはうかがえない彼の人格的凹凸をよく示しており、彼を把握するための助けになろうと思われます。
誰もが知る思想史上の大物ももちろんですが、個人的にはアクトンあたりに深い解説が加えられているのがありがたいです。主だった単著も邦訳もないアクトンの場合、特別な関心がない限り彼の著作を読むことも調べることもまずないと思われるので、彼の業績や歴史的評価に関する記述が読めるのは、貴重だと思います。
マンチェスタ大学史学科に関する記述(特にp. 219-220)も心が躍りました。わけても「オクスフォード・マンチェスタ・ケインブリッジ・ロンドンの4点からなる四角形」なる表現は、非常に誇らしい思いを抱かせるものでした。
以下には(些末ですが)気になった点を。
「付記10 LSEの変貌」の最終センテンス(p.180)、「そこにはかつてのように前近代の歴史を研究する教員はいない」という表現について。この文章は二重にとれまして、「LSEにはもう前近代経済史の専門家はいない」とも、「かつてのように」が「研究する」にかかるとすると「LSEの前近代経済史家の姿勢がかつてとは変わってしまった」とも解釈できます。いずれにせよ、「LSEにおける前近代経済史研究にかつての勢いはない」、あるいは、「前近代経済史研究から熱気が失われた」くらいの意味の文章だと拝察します。
しかし例えば、Oliver Volckart、イギリス史のPatrick Wallisなどは近世経済史において手堅い研究をしていると思います。アジア史でも、Tirthankar Royなどの仕事はどうでしょうか。
別にLSEを擁護する義理はないのですが、LSE:Department of Economic Historyの教員一覧を眺めるに、前近代についても専門誌でよく見る名前がそろっていて、依然として経済史研究の最前線だな、というのが私の印象です。これ以上充実した経済史のスタッフを揃えている機関は、そうはない。確かに往年のPatrick O'Brienのような大物が見当たらない、といわれればその通りです。また「黄金時代」のような熱気が感じられないとするなら(それも否定できません)、個々人の資質というより「付記」にも指摘されるとおり、もっと大きな知的潮流の変化に原因があるのでしょう。
OTさんに近藤より返信
ほとんど書評のようなコメント=メールをいただきました。内実のあるコメントを下さって、うれしい。たいへん心強く受けとめて、筆が軽く流れてしまった箇所など反省しています。
¶ マンチェスタについては、最初の留学で Boyd Hilton と V.A.C. Gatrell の指導を受けつつリサーチを開始したのですが、Manchester Central Library で Douglas Farnie先生(1926-2008)に会えてからは、ローカルな事情についてのお知恵を伝授していただくばかりでなく、史学史的な話もお好きなので、イギリスでも日本でも、会ってお話するのが楽しくなりました(拙著では p.281)。1987年9月に京都にいらしたときの写真をご覧にいれます(ぼくもまだ40歳になったばかり!)。
¶ 今日のLSEにおける歴史的学問の現状については、すみません、印象主義的な記述で凌いでしまいました。「付記10」p.180 の記述は、12行目「飛ぶ鳥を落とす勢いがある。」で終わりとし、以下は削除します。ここはむしろ、LSEは経済学自体の変貌、そしてヨーロッパ(西欧)中心史観からグローバルな視野への移行といった大きな変化を、オクスブリッジよりもはっきり代表具現している、と言うべきだったかもしれません。
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2026年2月18日水曜日
『「歴史とは何か」の人びと 20世紀知識人群像』の読者より III
あいつぐ私信から、シャープな指摘、そして思考の糧をいただいています。有難いことです。その一部をご紹介します。
HMさん
‥‥『図書』連載が始まったときから、毎号拝読しておりましたが、それを数段もヴァージョンアップされた、とても内容の充実した御本ですね。カー/『歴史とは何か』を取り巻く歴史家・学者の研究・著作からプライベートまで、それぞれの個性が伝わってきました。20世紀イギリスの知識人のコミュニティを、立体的というのでしょうか、「ポリフォニー」的に感じ取ることができました。
錚々たる歴史家・学者ばかりでそれぞれの研究の意義をおさえるだけでも至難ですのに、各章のタイトルに掲げられた人物はもとより、現在の歴史家についてのエピソードも織り交ぜられ(キャナダインとコリーの結婚公告まで!)、大変面白かったです。また「付記」では歴史学の見方、日本の歴史学の先駆性・独創性にも言及されていて、イギリスを越えた同時代的な様子を知ることができたのも、有益でした。ご自身のリサーチによる『歴史とは何か』のアメリカ版刊行に関する書状の発見は、とてもスリリングでした。
拝読していつも感じるのですが、文体に無駄がないと申しますか、よく研かれていると感じます。加えて、アイリーン・パウワの箇所で「元気(パウワ)にあふれるアイリーン」「‥‥社会政策の「発電所(パウワ・ステーション)」と韻を踏まれるなど、読み手を楽しませてくれます。‥‥
NSさん
‥‥イギリスの歴史家論というと、ジョン・ケニヨン『近代イギリスの歴史家たち』を思い起こしますが、ケニヨンが情報豊富で勉強になりはするものの、記述がやや平板なのと比べると、ご著作のほうは人物の複合的背後が浮かび上がると同時に、筆致が活き活きしており、とても面白く、勉強になりました。
折に触れて示される鋭い洞察もとてもためになりました(アクトンがなぜ大著をまとめられなかったか、歴史家に構想力が必要なこと、しかし近年、資料の撮影が容易になり、資料フェティシズムには注意すべきこと‥‥)。
アダム・スミスがオクスフォード時代に読書に打ち込んだことにも言及されておりますが、近年の研究を踏まえても言えることで重要だと思います。かつてはスミスはオクスフォードであまり学びがなかったとされていましたが、フィリップスンらにより、スミスはオクスフォードで、グラスゴー大学にはない書籍に触れたことがわかってきました。
思想をどう歴史に組み入れるか、歴史的実態の中の思想をとくに意識するようになり、その点模索中です。とくに日本の思想史は、テキスト解釈に集中し、歴史的実態との関連を軽視する傾向にあります(内田義彦なども歴史を重視しましたが、それは講座派的な理解だったと思います)。イギリスの歴史解釈の層の深さを感じておりましたが、それはじつは20世紀に発展したものでした。‥‥
SOさん
‥‥歴史をやっている者にとってこの本が意義深いのは、一方で第15章で「わたしは孤独で、そして深く不幸です」というよく引用される言葉の本当の意味を教えてくれるというようなことだけでなく、『歴史とは何か』に登場する人たちが、20世紀史のなかに位置づけられ描写されていることだと思います。これは近藤さんにしかできない仕事だと思います。歴史学界の端っこにいる私にとって、興味深いだけでなく勉強にもなったところです。たとえば『P&P』誌の変身の舞台裏について、などなど。
個人的になるほどと思ったのはR・H・トーニのところでした。彼の人となりが魅力的なのは大昔に『ハエとハエとり壺』を読んで以来ですが、ながいこと彼が熱心なアングリカン[国教徒]だったことがしっくりきませんでした。ウェーバーの読み過ぎだったのかもしれません。[人口・家族史の]ケンブリッジ・グループの創立者たちがノンコンフォーミスト[非国教徒]だったことにも影響されていたかもしれません。‥‥
それが今回R・H・トーニの親友三人組の話を読んで、だいぶわかってきたように思います。その一人テンプルがアングリカンでキリスト教社会主義者、最後は大主教になったことを知り、あの時代のアングリカン改革派は国教会を内側から動かし、三人組のもう一人ベヴァリッジが構想した福祉国家への道を推し進めることになったのだと理解しました。有意義で楽しい読書でした。
KYさん
‥‥こうしてまとまって読ませていただくと、『図書』で拝読した時以上に、イギリスの歴史家たちへの近藤さんのまなざしがよく分る気がします。近藤さんが最も愛着を覚えているのはネイミアだろうという印象で読み終わりましたが、違っているでしょうか。
『図書』にはなかった「付記」も、日本関係の話題などを盛り込まれる形で、それぞれ短いながら読み応えがありました。カーの新訳同様、多くの方に読まれる本だと思います。
KYさんに近藤より返信
‥‥ぼくが一番愛着を覚えるのがネイミアなのかどうか、よく分かりません。ある時期にそうだったのかもしれませんが‥‥。カーその人については、ぼくとは違うタイプの人だが、理解はできる、という所まで辿り着きました!(かつて E.P.トムスンに距離感を覚えて以来、)あまり特定の一人に執着することはないかもしれません。むしろ拙著の執筆のために勉強した結果、従来は嫌いだった/理解の外だった、トレヴァ=ローパとか K.ポパーとかについて、少しは理解が増した気がします。
個人的に申しますと、1970年代に、フランス革命、18世紀英仏の民衆運動といったことで R.コッブ、G.リュデ、R.B.ローズ、M.ベロフなども読んでいたのですが、今回はこの人たちと E.P.トムスンばかりかネイミア(そしてベロフの場合はカー)との関係/摩擦まで浮かびあがってきて、目の覚める思いです。
フランス革命修正論とベティ・ベーレンス、そのカーへのつながりについて、なおまた I.バーリンが1955年にアリーンと婚約発表したあと(結婚前のハネムーンとして)夏の南フランスから車でたっぷり大旅行を敢行し、ローマの国際歴史学会議に向かったことについても(p.165)、柴田三千雄先生がお元気なら、ぜひ伝えたかったことでした。
【まだぼくが学部の5年生のころ、本郷の喫茶店で柴田先生から、世紀転換期ウィーンにおけるウェーバーの周辺の知識人世界をやるのも面白いんじゃないか、と誘惑されたことを、今ごろになって想い出しました。まだカール・ショースキの安井訳『世紀末のウィーン 政治と文化』(岩波、1983)が出るよりはるか前のことでしたが、ぼくが駒場で折原ゼミに精勤していたのをご存知だったので、柴田さんと西川正雄さんのあいだの懇談から、こうした発言が派生したのかもしれません。】
全体を通じてですが、巻末の「人物対照年表」の18名(→ 右上の Features に特別ぺージを設けました)について列伝みたいなものを試みたことにより、相互の意外なほどの関係が見えてきたのは収穫でした。当初に考えていたよりずっとテマヒマかかりましたが、調査探究の実が上がり、historiaという営みを生涯の仕事としてきたがゆえの喜び(これを西川さんなら醍醐味!というのでしょうか)を感じています。
HMさん
‥‥『図書』連載が始まったときから、毎号拝読しておりましたが、それを数段もヴァージョンアップされた、とても内容の充実した御本ですね。カー/『歴史とは何か』を取り巻く歴史家・学者の研究・著作からプライベートまで、それぞれの個性が伝わってきました。20世紀イギリスの知識人のコミュニティを、立体的というのでしょうか、「ポリフォニー」的に感じ取ることができました。
錚々たる歴史家・学者ばかりでそれぞれの研究の意義をおさえるだけでも至難ですのに、各章のタイトルに掲げられた人物はもとより、現在の歴史家についてのエピソードも織り交ぜられ(キャナダインとコリーの結婚公告まで!)、大変面白かったです。また「付記」では歴史学の見方、日本の歴史学の先駆性・独創性にも言及されていて、イギリスを越えた同時代的な様子を知ることができたのも、有益でした。ご自身のリサーチによる『歴史とは何か』のアメリカ版刊行に関する書状の発見は、とてもスリリングでした。
拝読していつも感じるのですが、文体に無駄がないと申しますか、よく研かれていると感じます。加えて、アイリーン・パウワの箇所で「元気(パウワ)にあふれるアイリーン」「‥‥社会政策の「発電所(パウワ・ステーション)」と韻を踏まれるなど、読み手を楽しませてくれます。‥‥
NSさん
‥‥イギリスの歴史家論というと、ジョン・ケニヨン『近代イギリスの歴史家たち』を思い起こしますが、ケニヨンが情報豊富で勉強になりはするものの、記述がやや平板なのと比べると、ご著作のほうは人物の複合的背後が浮かび上がると同時に、筆致が活き活きしており、とても面白く、勉強になりました。
折に触れて示される鋭い洞察もとてもためになりました(アクトンがなぜ大著をまとめられなかったか、歴史家に構想力が必要なこと、しかし近年、資料の撮影が容易になり、資料フェティシズムには注意すべきこと‥‥)。
アダム・スミスがオクスフォード時代に読書に打ち込んだことにも言及されておりますが、近年の研究を踏まえても言えることで重要だと思います。かつてはスミスはオクスフォードであまり学びがなかったとされていましたが、フィリップスンらにより、スミスはオクスフォードで、グラスゴー大学にはない書籍に触れたことがわかってきました。
思想をどう歴史に組み入れるか、歴史的実態の中の思想をとくに意識するようになり、その点模索中です。とくに日本の思想史は、テキスト解釈に集中し、歴史的実態との関連を軽視する傾向にあります(内田義彦なども歴史を重視しましたが、それは講座派的な理解だったと思います)。イギリスの歴史解釈の層の深さを感じておりましたが、それはじつは20世紀に発展したものでした。‥‥
SOさん
‥‥歴史をやっている者にとってこの本が意義深いのは、一方で第15章で「わたしは孤独で、そして深く不幸です」というよく引用される言葉の本当の意味を教えてくれるというようなことだけでなく、『歴史とは何か』に登場する人たちが、20世紀史のなかに位置づけられ描写されていることだと思います。これは近藤さんにしかできない仕事だと思います。歴史学界の端っこにいる私にとって、興味深いだけでなく勉強にもなったところです。たとえば『P&P』誌の変身の舞台裏について、などなど。
個人的になるほどと思ったのはR・H・トーニのところでした。彼の人となりが魅力的なのは大昔に『ハエとハエとり壺』を読んで以来ですが、ながいこと彼が熱心なアングリカン[国教徒]だったことがしっくりきませんでした。ウェーバーの読み過ぎだったのかもしれません。[人口・家族史の]ケンブリッジ・グループの創立者たちがノンコンフォーミスト[非国教徒]だったことにも影響されていたかもしれません。‥‥
それが今回R・H・トーニの親友三人組の話を読んで、だいぶわかってきたように思います。その一人テンプルがアングリカンでキリスト教社会主義者、最後は大主教になったことを知り、あの時代のアングリカン改革派は国教会を内側から動かし、三人組のもう一人ベヴァリッジが構想した福祉国家への道を推し進めることになったのだと理解しました。有意義で楽しい読書でした。
KYさん
‥‥こうしてまとまって読ませていただくと、『図書』で拝読した時以上に、イギリスの歴史家たちへの近藤さんのまなざしがよく分る気がします。近藤さんが最も愛着を覚えているのはネイミアだろうという印象で読み終わりましたが、違っているでしょうか。
『図書』にはなかった「付記」も、日本関係の話題などを盛り込まれる形で、それぞれ短いながら読み応えがありました。カーの新訳同様、多くの方に読まれる本だと思います。
KYさんに近藤より返信
‥‥ぼくが一番愛着を覚えるのがネイミアなのかどうか、よく分かりません。ある時期にそうだったのかもしれませんが‥‥。カーその人については、ぼくとは違うタイプの人だが、理解はできる、という所まで辿り着きました!(かつて E.P.トムスンに距離感を覚えて以来、)あまり特定の一人に執着することはないかもしれません。むしろ拙著の執筆のために勉強した結果、従来は嫌いだった/理解の外だった、トレヴァ=ローパとか K.ポパーとかについて、少しは理解が増した気がします。
個人的に申しますと、1970年代に、フランス革命、18世紀英仏の民衆運動といったことで R.コッブ、G.リュデ、R.B.ローズ、M.ベロフなども読んでいたのですが、今回はこの人たちと E.P.トムスンばかりかネイミア(そしてベロフの場合はカー)との関係/摩擦まで浮かびあがってきて、目の覚める思いです。
フランス革命修正論とベティ・ベーレンス、そのカーへのつながりについて、なおまた I.バーリンが1955年にアリーンと婚約発表したあと(結婚前のハネムーンとして)夏の南フランスから車でたっぷり大旅行を敢行し、ローマの国際歴史学会議に向かったことについても(p.165)、柴田三千雄先生がお元気なら、ぜひ伝えたかったことでした。
【まだぼくが学部の5年生のころ、本郷の喫茶店で柴田先生から、世紀転換期ウィーンにおけるウェーバーの周辺の知識人世界をやるのも面白いんじゃないか、と誘惑されたことを、今ごろになって想い出しました。まだカール・ショースキの安井訳『世紀末のウィーン 政治と文化』(岩波、1983)が出るよりはるか前のことでしたが、ぼくが駒場で折原ゼミに精勤していたのをご存知だったので、柴田さんと西川正雄さんのあいだの懇談から、こうした発言が派生したのかもしれません。】
全体を通じてですが、巻末の「人物対照年表」の18名(→ 右上の Features に特別ぺージを設けました)について列伝みたいなものを試みたことにより、相互の意外なほどの関係が見えてきたのは収穫でした。当初に考えていたよりずっとテマヒマかかりましたが、調査探究の実が上がり、historiaという営みを生涯の仕事としてきたがゆえの喜び(これを西川さんなら醍醐味!というのでしょうか)を感じています。
2024年6月15日土曜日
長谷川宏さんのおかげ
「朝日新聞デジタル」に今、長谷川宏さんのインタヴューが連載中です。
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS644HNGS64UCVL049M.html
1940年4月1日のお生まれということで、もう80歳を越えておられますが、面影は昔と変わりません。島根県の少年のころの写真もあって、人の基本的な面立ちは変わらない、いやむしろその変わらない要素こそが人格を形成している、というべきなのでしょう。
(c)朝日新聞デジタル
長谷川さんは哲学の院生、ぼくは西洋史の学部3年。8歳も年長ですので、ほとんど接触はなかった。とはいえ、1969年初めの事件の夜、ぼく(と20名未満の学生・院生)は長谷川さんと摂子夫人に命を助けられたのです。おそらくぼくの名を認識しておられないでしょうが、命の恩人です。
東大闘争のころ長谷川さんは哲学の大学院を満期修了(人文闘争委員会)、ぼくは西洋史共闘。1968年6月からの(学部生の)無期限ストライキとは別に、院生たちの「人文会」は動いていましたので、遠くからお顔を見ることはあっても、討論や挨拶を交える機会はなかった。ただし、他の人びととはちょっと違う、実存的なビラを出したりしていましたね、彼も、ぼくも。
朝日新聞デジタルのインタヴュー記事では、おそらく担当記者の理解が行き届かず、時間的に前後が混乱しているところがありますが、68年11月に「文学部8日間の団交」、その後の総決起集会‥‥と続くうちに、12月にはぼくたちの知らないところで、(助手共闘が仲介して)東大の新執行部=加藤総長代行と全共闘幹部の交渉があり、これが決裂して、佐藤内閣の強圧に抗するべく、1月10日の秩父宮ラグビー場における当局と民青との手打ち式(七学部集会)、そして共闘系セクトの積極的な介入‥‥と急転直下の展開となります。その局面転換は明瞭で、ぼくたちサンキュロットにも「何かが大きく変わった」と感じさせるものがありました。東大全共闘の普通の学生は、1月16日からは、気楽に講堂=時計台に入れなくなったのです。
教育学部に駐屯した全国の民青「ゲバ部隊」は、68年9月7日未明の御殿下グランドにおけるデモンストレーション演習以後、機会をみて威圧的に動員されていましたが、1月10日の秩父宮ラグビー場の夜には、大胆な「トロツキスト掃討作戦」に出ます。その夜、文スト実のメンバーの多くは講堂=時計台に寝起きしていたのですが、「民青の襲撃に備えて」ということで、二手に別れ、一部(10人以上、20人未満でした)は法文2号館(すなわち文学部)事務棟の2階(学部長室や会議室がある)に移動し、バリケードを補強する、といった任務に就きました。ぼくはこちらでした。
70年代に歴史家ルージュリ(や木下賢一)がパリコミューンについて、また相良匡俊が世紀末のパリの労働者について形容したような bonhomie* に支配された呑気な夜でした。ところが、寝静まった未明に事態は急変。時計台前の広場から銀杏並木、そして三四郎池側まで黄色いヘルメットの民青「ゲバ部隊」が埋め尽くしているのを見て、ぼくたちシロートのトロツキスト(その実、ナロードニキ!?)は恐慌状態。小便の漏れたやつもいたのではないか。わがバリケードもどきが簡単に突破されることは、火を見るより明らかです。
【 * 木下論文は『社会運動史』No.1 (1972)、相良論文は『社会運動史』No.4 (1974) に載っていて、70年代を代表具現するような作品です。】
取るものも取りあえず、1月なので上着は着て、屋上に上がりました。今、法文1号館2号館は4階に銅屋根のプレハブ部屋が並んでいます。この空間は、70年代末まで図書の事務室以外は、細かい砂利を敷いた屋上だったのです。その屋上を伝って、文学部の研究棟に入り、長谷川さんの案内で2階の哲学研究室の鍵を開けてもらい、中で10人以上が息をひそめる、ということになりました(もちろん点灯しません)。
事務棟と研究棟は屋上でつながり、2・3階にあたるレヴェルに(いわゆるアーケードの上)「1番大教室」「2番大教室」がある、という構造です。
半時もしないうちに、法文2号館事務棟の(今は生協やトイレの入口にあたる)バリケードは破られて黄色いヘルメットが建物内を縦横に歩き回って、われわれを捜索しているらしい、このまま哲学研究室にいるのは危ない、という判断で、再び移動し、地下に下りました。心理学や考古学が使っている or 不使用の部屋に身を潜める方が安全だろうとなりました。地下のたいていの部屋は鍵がかかっていなかった。ぼくが身を潜めた部屋はかび臭く、寒く、頼りないことこの上なかったけれど、とにかく2・3人づつ別々に、外が明るくなるまで静かにしていました。
翌11日朝、本郷キャンパスはむやみに静かで、何もなかったかのごとく。しかし、学部長室/会議室に私物を置いていた人は、それらは無くなっていたと言います。左右を見ながら、走って時計台へ逃れました。
時計台にいたのは文学部だけでなく全学のスト実や院生、助手たちで、宵闇のなか、法文2号館を黄色いヘルメットの波が包囲し、やがて突入するのを遠望して、「近藤くん、死んだかとおもったわ」と西洋史の女子学生が(笑って)言ってくれました! 警視庁の機動隊より民青のゲバ部隊のほうが怖い/乱暴だ、という評判でした。その前夜、法文2号館で行動を一緒にしたのは、哲学の長谷川さん夫妻や国文の*くんや仏文の*くん等々でしたが、西洋史はなぜかぼくだけで、他は時計台の建物にとどまっていたのです(あまり組織的に職務分担したわけではなかった)。
というわけで、小杉享子『東大闘争の語り』をみても、折原浩『東大闘争総括』をみても、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』や富田武『歴史としての東大闘争』をみても、この深更・未明の事件については、具体的な叙述は乏しい。しかし、民青部隊がこのときみごとなほど機動的に動き、東大全共闘のサンキュロットを蹴散らして本郷キャンパスを制圧したので(→ 講堂=時計台は孤島のようになりました)、これに対抗して翌日より全国の大学から共闘系の党派動員が本格化する、そのきっかけになった事件でした。このとき長谷川夫妻の機転がなかったら、ぼくたちは69年1月に一巻の終わりとなってしまったかもしれないのでした。
→ https://digital.asahi.com/articles/ASS644HNGS64UCVL049M.html
1940年4月1日のお生まれということで、もう80歳を越えておられますが、面影は昔と変わりません。島根県の少年のころの写真もあって、人の基本的な面立ちは変わらない、いやむしろその変わらない要素こそが人格を形成している、というべきなのでしょう。
(c)朝日新聞デジタル
長谷川さんは哲学の院生、ぼくは西洋史の学部3年。8歳も年長ですので、ほとんど接触はなかった。とはいえ、1969年初めの事件の夜、ぼく(と20名未満の学生・院生)は長谷川さんと摂子夫人に命を助けられたのです。おそらくぼくの名を認識しておられないでしょうが、命の恩人です。
東大闘争のころ長谷川さんは哲学の大学院を満期修了(人文闘争委員会)、ぼくは西洋史共闘。1968年6月からの(学部生の)無期限ストライキとは別に、院生たちの「人文会」は動いていましたので、遠くからお顔を見ることはあっても、討論や挨拶を交える機会はなかった。ただし、他の人びととはちょっと違う、実存的なビラを出したりしていましたね、彼も、ぼくも。
朝日新聞デジタルのインタヴュー記事では、おそらく担当記者の理解が行き届かず、時間的に前後が混乱しているところがありますが、68年11月に「文学部8日間の団交」、その後の総決起集会‥‥と続くうちに、12月にはぼくたちの知らないところで、(助手共闘が仲介して)東大の新執行部=加藤総長代行と全共闘幹部の交渉があり、これが決裂して、佐藤内閣の強圧に抗するべく、1月10日の秩父宮ラグビー場における当局と民青との手打ち式(七学部集会)、そして共闘系セクトの積極的な介入‥‥と急転直下の展開となります。その局面転換は明瞭で、ぼくたちサンキュロットにも「何かが大きく変わった」と感じさせるものがありました。東大全共闘の普通の学生は、1月16日からは、気楽に講堂=時計台に入れなくなったのです。
教育学部に駐屯した全国の民青「ゲバ部隊」は、68年9月7日未明の御殿下グランドにおけるデモンストレーション演習以後、機会をみて威圧的に動員されていましたが、1月10日の秩父宮ラグビー場の夜には、大胆な「トロツキスト掃討作戦」に出ます。その夜、文スト実のメンバーの多くは講堂=時計台に寝起きしていたのですが、「民青の襲撃に備えて」ということで、二手に別れ、一部(10人以上、20人未満でした)は法文2号館(すなわち文学部)事務棟の2階(学部長室や会議室がある)に移動し、バリケードを補強する、といった任務に就きました。ぼくはこちらでした。
70年代に歴史家ルージュリ(や木下賢一)がパリコミューンについて、また相良匡俊が世紀末のパリの労働者について形容したような bonhomie* に支配された呑気な夜でした。ところが、寝静まった未明に事態は急変。時計台前の広場から銀杏並木、そして三四郎池側まで黄色いヘルメットの民青「ゲバ部隊」が埋め尽くしているのを見て、ぼくたちシロートのトロツキスト(その実、ナロードニキ!?)は恐慌状態。小便の漏れたやつもいたのではないか。わがバリケードもどきが簡単に突破されることは、火を見るより明らかです。
【 * 木下論文は『社会運動史』No.1 (1972)、相良論文は『社会運動史』No.4 (1974) に載っていて、70年代を代表具現するような作品です。】
取るものも取りあえず、1月なので上着は着て、屋上に上がりました。今、法文1号館2号館は4階に銅屋根のプレハブ部屋が並んでいます。この空間は、70年代末まで図書の事務室以外は、細かい砂利を敷いた屋上だったのです。その屋上を伝って、文学部の研究棟に入り、長谷川さんの案内で2階の哲学研究室の鍵を開けてもらい、中で10人以上が息をひそめる、ということになりました(もちろん点灯しません)。
事務棟と研究棟は屋上でつながり、2・3階にあたるレヴェルに(いわゆるアーケードの上)「1番大教室」「2番大教室」がある、という構造です。
半時もしないうちに、法文2号館事務棟の(今は生協やトイレの入口にあたる)バリケードは破られて黄色いヘルメットが建物内を縦横に歩き回って、われわれを捜索しているらしい、このまま哲学研究室にいるのは危ない、という判断で、再び移動し、地下に下りました。心理学や考古学が使っている or 不使用の部屋に身を潜める方が安全だろうとなりました。地下のたいていの部屋は鍵がかかっていなかった。ぼくが身を潜めた部屋はかび臭く、寒く、頼りないことこの上なかったけれど、とにかく2・3人づつ別々に、外が明るくなるまで静かにしていました。
翌11日朝、本郷キャンパスはむやみに静かで、何もなかったかのごとく。しかし、学部長室/会議室に私物を置いていた人は、それらは無くなっていたと言います。左右を見ながら、走って時計台へ逃れました。
時計台にいたのは文学部だけでなく全学のスト実や院生、助手たちで、宵闇のなか、法文2号館を黄色いヘルメットの波が包囲し、やがて突入するのを遠望して、「近藤くん、死んだかとおもったわ」と西洋史の女子学生が(笑って)言ってくれました! 警視庁の機動隊より民青のゲバ部隊のほうが怖い/乱暴だ、という評判でした。その前夜、法文2号館で行動を一緒にしたのは、哲学の長谷川さん夫妻や国文の*くんや仏文の*くん等々でしたが、西洋史はなぜかぼくだけで、他は時計台の建物にとどまっていたのです(あまり組織的に職務分担したわけではなかった)。
というわけで、小杉享子『東大闘争の語り』をみても、折原浩『東大闘争総括』をみても、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』や富田武『歴史としての東大闘争』をみても、この深更・未明の事件については、具体的な叙述は乏しい。しかし、民青部隊がこのときみごとなほど機動的に動き、東大全共闘のサンキュロットを蹴散らして本郷キャンパスを制圧したので(→ 講堂=時計台は孤島のようになりました)、これに対抗して翌日より全国の大学から共闘系の党派動員が本格化する、そのきっかけになった事件でした。このとき長谷川夫妻の機転がなかったら、ぼくたちは69年1月に一巻の終わりとなってしまったかもしれないのでした。
2013年3月2日土曜日
三宅ディレクター
NHK-BSの予告を見ていたら、昔の名前ばかりか、笑顔も出てきたので驚きました。
【こちらは、むかし1999年9月、オクスフォードからウェルズ大聖堂、グラストンベリに行った小旅行のときのスナップ。14年くらいでは人は変わらないということかな。】
学生のころ、第2志望として映画関係で仕事ができれば、ということを聞いていましたから、その道に進んでいるわけですね。
母上のご実家は福島県とは承知していましたが、311に海通りでご親戚がたいへんな被害とは‥‥
[BS1] <以下引用 (c) NHK>
2013年3月8日(金) 午後11:00~午前0:40(100分)
福島第一原発事故のニュースを海の向こうで知ったロンドン在住のディレクターの三宅響子が、福島県浪江町の親類たちの軌跡を1年半にわたって追った。国際共同制作
【後日加筆】 見たあとの感想ですが、三宅さん自身の(進行形の)認識の歩みと、邦子おばさん一家とのこれまでの歴史と現在が交錯するドキュメンタリ作品でした。
Fact とはそれ自身の歴史をもつ;語られたこと、語られかたに左右されるし;そもそも近世英語では feat (なされたこと、事績)である、という ジョン・ルーカス(ルカーチ)を想い起こしながら見ました。
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