2016年7月21日木曜日

『礫岩のようなヨーロッパ』 山川出版社

 7月下旬とはいえ、今の大学では授業や校務が続きます。
そうしたなかに涼風がさわやかに吹きわたるように
古谷大輔・近藤和彦(編)『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)が公刊されました。本体価格 3,800円
 写真と目次は → こちら

出版社は、刊行前からの評判におどろき、急ぎ増刷りしたとのこと。一般書店配本は週末の模様です。

 じつは、残念ながらすでに誤植を発見!
p.129 下から3行目の見出し
  礫岩のような近代国家の集塊性(誤) → 礫岩のような近世国家の集塊性(正)
p.131 上から13行目
  三者は,信教国家化的な状況‥‥(誤) → 三者は,非信教国家化的な状況‥‥(正)

 校正ゲラが行き交うなかで事故が起こってしまったようです。さっそく訂正スリップを挿入して対応します。

 このことはさておき、全体はすばらしい出来上がりです!
内容の充実度にくらべて、案外に厚くない。横組でエレガントな仕上がり。
註と索引のポイントが小さいので、v + 223 pp. に内実がコンパクトにぎゅっと収まっている感じ。

 あらためて仕上がりを手にして、この本の価値は3つあるなと思います。
第1に、第Ⅰ部として、1章(ケーニヒスバーガ)・2章(エリオット)・3章(グスタフソン)の翻訳章が本体の半分近くを占めて、なにより重要な3論文の良心的な邦訳(訳註もふくむ)を提供することに、この出版の意義があると明示しているかのごとくです。
第2に、第Ⅱ部として5人の日本人の研究論文が呼応するように続き、近世ヨーロッパ史の前線がよく見えます。
第3に、第Ⅰ部と第Ⅱ部をはさむように、序章索引が、それぞれ本の始まりと終わりから各部分の有機的なつながりと構成を示し、担保しています。
ちなみに索引の最初には、こう記しました(p.210)。

 「本書はまえがきにも記されたとおり数年にわたる共同研究の所産であり、表記と用語についても討論と調整を重ねてきたが、礫岩のような政体をあつかう彩りゆたかな議論にたいして形式的な統一を強いて無理が生じるのは避けたい。文脈により「同君連合」や「複合君主政」や「礫岩」が、そして「主権」と「絶対主義」が共存しているのには、それなりの理由がある。
 索引は悉皆性よりも有用性を優先して作成した。そのさいの留意点は次のとおりである。[中略]複合君主は煩瑣になりすぎない範囲で明示した。また「王による支配/統治」「議会」「君主」「君主政」「国民国家」「従属的な合同」「神聖ローマ帝国」「政治共同体と王による支配/統治」「政治的」「対等な合同」「帝国」「ハプスブルク(家/朝)」「複合国家」「モナルキア」「礫岩」等々といった重要キーワードについては、その語義や用法を述べたページを斜体(イタリック)で示した。」

 各部分のそれぞれの価値は言うまでもなく、それと同時に、論文集としての全体的なまとまりとダイナミクスは、自画自賛ながら、数年間におよぶ古谷科研の全員の協力の賜物であり、研究会などで叱咤激励し協力してくださった関係者の皆さまのおかげです。
なおまた3月に山川出版社を退社なさった山岸美智子さんの全面的な支援(介護?)によって、これだけエレガントな本になったという事実は特記しておきたいことです。

(校務の洪水のあいまに)取り急ぎ、感想を申し述べました。

2016年7月12日火曜日

立正大学のPR

 昨夕、山手線の電車に乗り込んで、自然とドアの上方に目がゆき、びっくり。わが目を疑いました。立正大学の広告があるではないですか!

これまで地下鉄でもJRでも、新聞でも、他大学の(かならずしもよいとは限らない)広告を見るたびに、なぜわが立正大学はこういったPRに消極的なのだろう、と不思議に思っていました。東急・池上線の電車には車内広告があるらしいですが、あまりにもローカル。ぼく自身はまだ見たことがありません。

立正大学は今から30年ほど(?)前に経営的な失敗に遭遇してからは、アツモノに懲りて、「石橋をたたいて渡らない」経営方針で来ました。今では毎年発表される私学の財政収支の番付で、ベストテンどころかベスト3くらいにいつも着けているほどの黒字なのに、それを有効に使わないでいたのです。「カネの使い方を知らないコガネ持ち」。1968年まで学長をつとめた石橋湛山(1884-1973)に顔向けできない大学経営陣でした。
なにしろ日本で一番古いかもしれない高等教育機関(日蓮宗・飯高檀林、1580年)で、しかも立地は抜群。JR「大崎」駅には、山手線だけでなく、湘南新宿ラインが走り、隣の「品川」乗り換えで、東海道新幹線および総武線快速、上野東京ラインにも便利、ということで、神奈川県、埼玉県、千葉県からのアクセスは抜群によいのです。静岡県、茨城県、群馬県から毎日通学している学生も少なくありません! 山手線沿線の私学というだけなら、いくつもありますが、立正ほどにアクセスのよい大学は他にあるでしょうか? これに都営浅草線の「五反田」、池上線の「大崎広小路」も加えてみると、徒歩数分の駅が3つあって、これは他もうらやむ「資源」です。
さらに去年から、付属中高の移転にともない、品川キャンパスが広く、きれいになりました。山手通りも歩道がたいへん広く歩きやすくなっています(自転車道が独立)。
これらが生かされることなく「知る人ぞ知る」で経過していたのです。

今年4月から新学長・齊藤昇さん(英米文学)に替わって、なにか変わるかな、と思っていたら、
1) だれもが知る看板教授をゲット:吉川洋さんを経済学部に、冨山太佳夫さんを文学部に迎えました。従来から心理学、社会学、有職故実で活躍なさっている方々は、いつもどおり、テレビ画面にご登場です。
2) 研究支援課を改組して「研究支援・地域連携課」とし、品川区とのコラボが増えました。ぼくの場合も、去年のある市民講座は条件が合わず辞退しましたが、今年秋のシェイクスピア公開講座には講師をつとめます。「<学者王ジェイムズ>と<インテリ王子ハムレット>」は10月12日(水)です。よろしく!
3) こうしたことの一環として、山手線の電車広告があったわけですね。内向きからの脱皮です。
とはいえ次の戦術がほしい! 中長期的には、なにより若手教員を大切に育てることかな。

ところで、立正大学と創価学会(創価大学)、そして立正佼成会とは、無関係です。非公式の交流さえないようです。ときに誤解もありますので、念のため。

2016年7月5日火曜日

Brexit と議会主権

 その後の経過を見つめつつの考察です。マスコミに載る多くの論評よりは、おのずから歴史的で、すこし深みのある考察となります。

A. レファレンダムとはそもそも「特定問題についての有権者の意向伺い」なので、最終的な決定は、議会で首相が何をどう言うかにかかっています。6月23日のレファレンダムの無視ややり直しはありえないとしても、国民総懺悔で、「ご免なさい、軽率でした」とEUメンバーの全国民に謝って歩く行脚、というのは理論的にありうる。しかし、現実的にはほぼない。ふざけんな、ということになります。

B. EUからの離脱(Brexit)を唱えていた二人、ボリス・ジョンスン(保守党)とナイジェル・ファラージ(UK独立党)の二人ともに、レファレンダム前にとなえていた主張=政策を撤回して、リーダーであることを辞退しました。- これが意味するのは、次の3点でしょうか。
 1) 二人ともに公党の指導者としては不適格で無責任なデマゴーグだった。
 2) そうしたデマゴーグに煽られてEU離脱に投票した52%の有権者の危うさ。
 3) そうしたデマゴーグの煽りを書き立てたマスコミの危うさ。

C. ただし、EU離脱に投票し、それに賛意を表明したマスコミ・政治家は全員デマゴーグか右翼かだったと捉えては、表面的すぎます。むしろ、残留派のキャメロン首相が情勢を見誤ったように、離脱派のインテリの一部もまた情勢分析を誤った。すなわち、イギリスの国制(国のしくみ)という観点から、「EU官僚の中央集権主義/高慢と偏見」なるものを牽制し、英国の議会主権を維持するために、究極は_僅差で_EU統合・残留することを望みつつ、その僅差が十分に「批判票」ないしは「牽制/交渉のためのプレッシャ」として政治的意味をもつことを期待した。ところが、意外に伸びて過半をこえてしまったというのもあったでしょう。

D. ここで想起するのは『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、7月刊)です。こんなことになるなら、3・4週間でも早く公刊されれば良かったですね。
 その第2章で「複合君主政のヨーロッパ」を論じるエリオットは、章の最後に、現在の問題を「統一性と多様性を願うというヨーロッパ史に通底していた‥‥気持を両立させるための試み」とまとめ、17世紀の司教の言を引用しつつ、「神が創造した世界では、より完全な統合をめざしても不完全なものにならざるをえない」と結論しています(p.74)。
 また第1章では、ケーニヒスバーガが「複合国家・代表議会・アメリカ革命」を論じつつ、ふつう議会主権というところを「絶対主義的な議会による統治」とまで言っています。近世の「ボダンの主権理論の勝利の行進」(p.45)のなかに、jura summi imperii としての議会主権が位置づけられているのです。そう、イギリス法では(アメリカや日本のような)三権分立ではなく、議会の絶対主義。王権も議会のなかにあってこそ機能します(Crown in Parliament)。だからこそ行政は議会に従属する議院内閣制だし、司法のトップは2009年まで議会(貴族院)に所属した。‥‥この事実と意味を日本のイギリス史や政治学は十分に認識し強調してきたでしょうか。
 専制、君主の絶対主義にたいする防衛、また千年をこえるイギリス史の経験にもとづく知恵、として表象されてきた、何にもまさるべき議会の絶対主義。これを、ヨーロッパ議会ならぬヨーロッパ行政官が陵辱するのは許しがたいと考えたのだとすると、今回のレファレンダムは、歴史的な意味も見え方も違ってきます。
 エリオット先生(1992)、ケーニヒスバーガ先生(1989)の慧眼に脱帽。【ページは、印刷所に入る前の責了版のものを示しています。】