2023年9月17日日曜日
怖かった! → 反省
通りにこんな掲示板が続いていました。一連の関係するメッセージですが、手前の板には queer generation、3枚目の板には Queer Joyという語が明記されています。
そのあとBLへ。ほんの数時間滞在して、出ようかと思ったら出口近くにて Magna Carta特別展。簡潔で良いト書きとともに、要領の良い史料展示、そして専門的なコメントを中世史家だけでなく、近現代史家もヴィデオでやっています。リンダ・コリ先生、ジャスティン・チャンピオン先生にも久方ぶりに対面したような気になりました! 土曜なので、5時閉館。
といった具合で、夕方は観光客より生活者のたむろする所へ。South Kensington-Gloucester Road あたりをうろつき、イタリアンで軽い夕食とワイン2杯。上機嫌で地下鉄に乗りました。自分では酔っていたつもりはないのだが、空いた夜の電車で男4人、女2人の若者の着衣とふるまいに引きつけられ、彼らが降りるところを撮影しました。(顔は写らないようにしたが、一種の隠し撮りではあった。)
それをただちに咎められ、大柄の4人+2人に攻囲され、追及され、カメラを取り上げられ、destroy it とか‥‥。ぼくとしてはカメラそのものより、この2週間の記録が台無しになるのを恐れ、中身の保全第一に考えました。
このお兄さんたちにまずは謝り、I'm sorry では軽いので、I apologize. いろんなことを叫ぶ彼らのスピードに付いてゆきつつ、どうするか、なにができるか‥‥ぼくは station staff と何度も繰り返し(そのうちに口の中がカラカラになり)、若者たちもstaff だ、policeだと口にするようになった。
改札の中年女性、そして中年の男性が中立的に落ち着いて対処してくれて、ぼくのカメラの該当画像1枚をdeleteしたうえ、他の画像もざっと確認して(なんだかよくわからぬ文書や、町並ばかり‥‥)、若者計6名はぼくを威嚇しつつ消えていった。そもそも警官とは接したくない人びとでしょう。
Station staffは怪我をしなくて幸運だったと慰めてくれつつ、車内の撮影はいけません、ときっぱり明言。たしかに観光客に興味本位で撮られちゃ、愉快ではない。
ぼくが一種の文化人類学者気取りでカメラを向けたのに怒って、‥‥最後はカメラの操作画面をのぞきこみつつ、Chinese や Kantoneseじゃなく英語にしろ、とか叫ぶ気持は分からないではない。怖かったと同時に、済まなかったという気です。I apologize again.
(40年以上前にケインブリッジで同時に留学していたイスラエル人の文化人類学者夫妻が東京に来て、街頭でも地下鉄内でも人びとの様子を無遠慮にパチパチ撮りはじめたので、ぼくが不愉快になったのを今、思い出しました。動物園の珍獣か、原住民をみるまなざし‥‥。)
みなさんも、旅先ではどうぞ慎重に。
2023年8月14日月曜日
近刊予告
『思想』No.1193(2023年9月)に 翻訳のスタイル (全4ぺージ)③
が掲載されます。【後者は『思想』7月号「E・H・カーと『歴史とは何か』」特集号における上村論稿に触発されてしたためた小文で、そこで呈示された疑問や指摘に答えています。個人間の論争ではありません。一般的な意味を求めて、多くの第三者読者に向けて発した、論文/翻訳のスタイルについてのコメントです。ぼくもかつては清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書、1959)の愛読者で、卒業論文の執筆時に大いに参照しました。】
どちらも早ければ8月末には公刊とのことで、編集サイドの厚意とすみやかな作業のお陰です。ありがとうございます。
お読みになる順序としては、先にも少し書きましたとおり、
『歴史学研究』9月号〈批判と反省〉①に最初の目を通していただき、
その次に「思想の言葉:いま『歴史とは何か』を読み直す」『思想』7月号②を、
そして、『思想』9月号の「翻訳のスタイル」③
という順で読んでいただくと、一番ナチュラルで良いかな、と思います。
②は、早くから岩波書店のウェブ「たねをまく」 → https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7306 にて公開されていますが、やはり順序として①が最初に読めるようにみずから努力すべきだったと、段取りの悪さを反省しています。
2022年12月14日水曜日
チャールズ3世の即位と立憲君主制
エリザベス二世の国葬儀の朝(9月19日)に『朝日新聞』に載った「二人のエリザベス」を見た編集者が依頼してきたものですから、おお急ぎで、研究者にとっては既知のことを述べたにすぎません: pp.133-142.しかし、一般には常識・通念にはなっていない大事なこと、共有すべき知識というのは、少なくない。
エリザベス二世の死、チャールズ新王の即位(5月に戴冠式)という代替わりに、国のかたち、権力のしくみが明示的に集約的に現れます。それは日本における1989年、2019年にも同様でした。歴史学や国家学の研究者を刺激してくれる良い機会です。
ちょうど個人的にも『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)、「天皇像の歴史を考える:コメント」『史学雑誌』、『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店)といった共同研究の成果をふまえて、十分に述べることができたと思います。いわゆるアウトリーチです。 → https://websekai.iwanami.co.jp/
なお『世界』のこの号は、特集ではなくても加藤陽子さん、橋本伸也さん、藤原帰一さんなどなど、関係しないではない記事がいくつもあり、楽しめます。「アメリカの憂鬱」という up-to-date な特集もあります。
2022年7月15日金曜日
7月14日に思ったこと
直ちにいろいろと考えましたが、身辺のことに紛れ、ブログ登載はかないませんでした。ここに遅まきながら、すこし書いてみます。
7月8日昼に奈良であった安倍元首相襲撃/暗殺について、直後の報道や政党の発言の多くは、a.「民主主義への挑戦だ」「暴力による言論封殺は許せない」といったものでした。まもなく b.「特定の宗教団体へのうらみ」という捜査陣からのリーク情報が加わりました。
後者(b)のリークについては、まず正規の記者会見報道でなくリークであることがけしからんと思いましたが、やがて海外メディアでのみこれが Moonies (文鮮明から始まった世界統一神霊教会)のことだと報じられたのには、怒りに近いものを感じました。日本のマスコミ業界の自主規制はここまで極まっているのです。こういった自主規制≒事なかれ報道に甘んじているマスコミでは、いざという時に信用されませんよ。
そもそも世界統一神霊教会のことを、今どう名を変えているとしても、「特定の宗教団体」と呼ぶべきなのか、ただの「カルト」ではないか、という付随的な疑問もありますが、こちらは(今日のところは)問題にしません。
◇
むしろ大問題なのは、(a)今回の事件は「民主主義への挑戦」や「暴力による言論封殺」のたぐいなのか、ということです。Oh, No! それ以前の、より深刻な問題ではないでしょうか。
41歳の容疑者は、民主主義や議会制民主主義に不満をもらしたことはあったのか。あるいは自分の凶行が、国政の基本(国のかたち)にある「効果」をもたらすことを期待して -政治的テロリズムとして- 手製銃の引き金を引いたのか。否でしょう。
彼はもっと別のレベルの、しかし本人にとっては深刻な不幸(母のこと、失意の人生、誰かの不用意な発言, etc.)について繰りかえし悩み、その不幸の原因を「これ」と思い詰めて、「これ」を解決する/消すためにどうするか執拗に考えた。それが母を奪ったカルトの代表を襲うこと、それが実行不可能となると、第2目標として安倍晋三元首相を襲うことだった。‥‥
そこには論理の飛躍があり、分析も検証もないままの思いつきで、それを直線的に実行するための情報とノウハウを集積したのでしかありません。しかし、そもそも複合的な事態を調査探究したり、友人や同輩と対話し討論しながら、考えを具体化してゆくという訓練も経験も、彼は -学校でも自衛隊でも- していないのではないでしょうか。そもそも「話し相手」「グチ友だち」といえるほどの人は居なかったのかもしれない。
TVなどで中学高校の同級生や、職場の同僚が「あんなにおとなしい人が‥‥」「いつも人に合わせる人で、暴力をふるうなんて想像もできない」とコメントするのを聞かされると、そもそも取材する側の無知と想像力の浅さに唖然とします。おとなしすぎる人こそ危険なのです。自分の意見を言ったことのない人こそ(いざとなれば)凶暴になるのです。
こうしたことは民主主義や議会制よりはるか以前の、人間の社会性、あるいは文明/市民性の大前提ではないでしょうか。
学校教育で、また社会で、こうした事態や証言の分析、人前での報告、ディベートやディスカッション、そして紙の上での文章化‥‥要するに以前から問われていた公民教育/文明的経験を欠いたまま、やれ「民主主義を守る」だの「言論の自由」だの言ってみても、ただのお題目にすぎないのではないでしょうか。 ◇
じつは9日(土)午後8:00-8:45のNHKスペシャル「安倍元首相 銃撃事件の衝撃」と題する番組の後半で、御厨(みくりや)貴さんがコメントしていました。【まだ土曜まで NHK plus での視聴は可能です。】
「‥‥災害、疫病、戦争と続いて、人心が惑った。この国もテロを呼びこむのか。みんなが何でも言える社会になった。これはいい。しかし(イエス or ノーの)二値論理の対立になっちゃっている。これはまずい。自分の要求(思い)が通らない時にどうするか。内容のある議論を尽くして、これなら許せるという妥協点を見つける。このマリアージュが大事です。」
「妥協できる合意」を見つけて実行しよう、という立場です。
◇
1789年7月14日から、フランス革命は時々刻々と展開しますが、1792年、93年と緊迫した情勢で、いわゆるジャコバン派(山岳派)が勢いをもち、93~94年のいわゆる「革命独裁」を国民公会が支持することになります。
この苛烈な革命独裁は、味方と敵、パトリオットと反革命、徳と悪徳、純粋と腐敗といったシャープな対置、二項対立を是とし、異論をとなえる者、迷い、曖昧なままでいる者を許さず、さらには「まちがえる権利」も許さなかった。『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店、2022)p.14. これをかつての「ジャコバン史学」は、歴史の必然とするか、あるいはせいぜい「歴史の劇薬」として是認していた。ロベスピエールやサンジュストの93~94年のメンタリティを、純粋で高貴と受けとめるか、悲劇的に狂っていると受けとめるか。革命史にかかわる人は、全員、この問題に正気で取り組むべきでしょう。
御厨さんの立場は、必然や劇薬ではない。イギリスの首相ピットも、89年に始まったフランス革命には賛同し(バークとはちがいます)、92年の急転には唖然とし、93年1月のルイ14世処刑には意を決して、2月に対仏大同盟を結成します。はっきりと識別しておきたい。巻末の「関連年表」も活用してください。
2022年6月16日木曜日
王のいる共和政 ジャコバン再考 詳しい目次
編者名や本のタイトルだけなら、他の広告でも見られますが、
かなり詳しい目次 → https://www.iwanami.co.jp/book/b606557.html
そして何より、
立ち読み(試し読み) → https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615440.pdf
のコーナーがあるというのは、すばらしい! どうぞ、ご一瞥を。
2021年11月21日日曜日
ジャコバンと共和政(12月11日)
逆に、この流れに乗りきれなかった方々は、こうした関係性から(意図せずも)排除されてしまうわけで、以前から云々されていた IT divide はますます進行するのでしょうか。
昨日(土)午後は、12月に予定されている早稲田の WIAS 公開シンポジウム「ジャコバンと共和政」のための準備会があり、十分な緊迫感をともなう研究会となりました。 初めての方とお話する場合も、対面なら1メートル~ときには数メートル以上の距離を保っての会話ですが、ウェブ会議ですと数十センチのところに据えたスクリーンで向かいあうわけで、(自分の)髪やシワなども含めて、クロースアップのTVを見るような感覚です。 自室の文献などをただちに参照できるのも便利。 ところで、「ジャコバンと共和政」というタイトルのシンポジウムに、よくも大きな顔をして出てこれるな、という声もあるかもしれません。
じつはぼくの指導教官は柴田三千雄さんですから、「ジャコバンとサンキュロット」という問題も「複合革命」という論点もしっかり刻まれています。Richard Cobb を読んでから E・P・トムスンに向かった、というのは日本人では(英米人でも?)珍しい経路でしょう。コッブの人柄については、柴田さんから60年代前半にパリでソブールのもと付き合った逸話など聞いていました。ずっと後年になって、オクスフォードの歴史学部の廊下で歴代教授の肖像として比較的小さなペン画に対面しました。 → その後任がコリン・ルーカスでした。
どこかでも申しましたとおり、1950年代のおわりに、コッブ、トムスン、そしてウェールズの Gwyn Williams の3人はフランス革命期の各地のサンキュロット(patriot radicals)を発掘する研究をそれぞれ出し揃えて比較するのもいいよね、と話合い、その一つの結果が『イングランド労働者階級の形成』という名の radical republican 形成史だったのです。
もう一つの共和政/respublica 論については、成瀬治さんの国制史(そしてハーバマス!)を経路として、時間的にはやや遅れましたが、ナチュラルにぼくの中に入ってきました。
その12月11日の WIAS催しの案内はこちらです。↓
https://www.waseda.jp/inst/wias/news/2021/10/29/8504/
ポスターは https://bit.ly/3bHG3cr
無料ですが、予約登録が必要です。 ただし、【グローバル・ヒストリー研究の新たな視角】とかいった謳い文句は、ぼくの与り知らぬものです。
2021年6月22日火曜日
パブリック・ヒストリー?
コメンテータのお一人が事前のパワポでたいへん重要なことを言ってくださっていたのに、当日欠席で、討論できなかったのは残念でした。ぼくとしても「ECCOから見えるディジタル史料の宇宙」『歴史学研究』1000号(2020年9月)よりさらに一歩踏み込んで議論すべきことがありました。
個人的感想としては、1994年以降のアイルランド和平交渉が進んだ中で I. Paisley のような長老派ユニオニスト(宗派主義右翼)が、オールマイア・パワポでも紹介されたような、2010年10月22日の発言(演説)をしたことが決定的に重要だと思います。
. . . A nation that forgets its past commits suicide.
サッチャ時代の荒廃をなんとか癒やし矯正すべく、そのための環境作りをした保守党メイジャ、労働党ブレア政権をいま再評価すべきでしょう。
宗派主義にたいして世俗合理的に考え、かつ影響力をもつ人の働きが決定的に重要となる局面が歴史にはあります。1598年のアンリ4世、1919-48年のガンディ。
日本では1990年代後半に、80台後半だった林健太郎さんが「日中戦争は侵略戦争であって、いかなる意味でもそれは否定できない」と他ならぬ『朝日新聞』に寄稿したことを想い出します。お弟子さんたちが「これはすばらしい遺言だ」と感激していました。欲を言えば、参議院議員をしている期間に、国会での演説として議事録に刻みこみ、広く国際的な物議をかもしてほしかったですね。
なお Jane Ohlmeyer については、今年初めの「フォード講義」@Zoom
Ireland, Empire and the Early Modern World ↓
https://www.rte.ie/history/2021/0304/1201023-ireland-empire-and-the-early-modern-world-watch-the-lectures/ (梗概と動画50分×6)
そして新聞などでの積極的発言 ↓
https://www.irishtimes.com/opinion/ireland-has-yet-to-come-to-terms-with-its-imperial-past-1.4444146
が、とても好ましい。マスコミがそれだけ知識人を大切にしている文化の現れでもあり、日本におけるぼくたちの側の工夫が不足していることの現れでもありますね。
2021年6月11日金曜日
集団接種に参りました
5月17日から予約期間が始まり、区の通知で「ワクチンの安定的な供給が見込まれたことから」65歳以上の集団接種は「最大予約可能人数46,400人分」と明記されていたので、慌てることなく5月18日にPCに向かい、拍子抜けするくらい簡単に予約できました。ただちに自動的に確認メールも来たので、実際の接種まで3週間あまり待ちましたが、安心していました。前日にはリマインド・メールも到来。
これに続き区内医療機関での「個別接種」が始まり、さらにマスコミは政府の大規模接種センター(大手町・自衛隊)による接種を大きく報じました。選択肢が増えたこと自体はよいことですが、これで「浮気して」or「浮き足だって」大規模センターに押しかけ、地域自治体の接種予約をネグレクトする人々の気が知れないと思っています。最近の報道だと、その大規模接種センターがガラガラだというのも問題ですね。早く65歳未満にも接種対象を広げるべきです。
江東区は広いので、集団接種会場は区のスポーツセンター6カ所。接種時間は予約の段階で15分ごとに別けられていますが、到着した人は検温のあと全員屋内の待機室に案内されて、予約時刻が1時間以内の人から奥のホール(アリーナ)へ。老人たちは1時間以上前からやってきたりするので、そのための待機室だったわけです。
ざっと見たところ(撮影は禁止でした!)広いホールでは、15分枠ごとに15人が座って(1人1分という計算)順を待つように椅子が整然とならび、4列×15=60席ではなく、余裕をみて6列用意されていました。うち2列は全空席として、次に受付する該当列とそうでない列とを視覚的にはっきり区別しつつ、同時に席のアルコール消毒や忘れ物確認などをゆっくり施すという方針のようです。
会場には「事務」「責任者」「看護師」といったゼッケンをつけた係員がたくさん。
(郵送された)「接種券」「予診票」
そして本人確認書類
の計3点の必須アイテムを携行しているかどうかは、最初の入館時から、くりかえし再確認されました。実際は順に
「受付」(であらためて本人確認と予診票記載の遺漏がないかどうか形式的に確認)
→ 「予診」(予診票をみながら医師が問診) *
→ 「接種」(別の医師と言葉を交わしつつ) *
→ 接種後の経過観察(15分~30分)
→ 「最終受付」(体調確認と接種券の済証へのシール貼りなど)
と進みました。(2回目の接種予約は1回目に済ませています。)
【* この2つのプロセスのみ個室的に囲ったブースで、他はオープンな空間でした。】
ここまでの人のフローをいかに確実に間違いなく実現するか。これが枢要で、要するに Operations Research (大学一年・林周二先生の授業でやりました)をきちんと具体的に・集団的にやっているかどうかで運用は決まり、ときに報道されているような事故・混乱は防げるはずですね。
なお大学や事業所で集団接種をするというのは、たいへん良いことだと思います。社会的免疫状態(collective immunity)という観点から考えると、なによりも公共的な業務に従事している人、活動的に飛び回っている人からドンドン接種していただくべきでしょう。横並びの順番、平等主義がじつはあまり合理的でない無責任主義だったかもしれない、と再考しておく必要があります。
2021年1月23日土曜日
罰金と過料のちがい?
いま22日の閣議決定をへて国会に上程されようとしている「特別措置法改正案」のなかの用語ですが、時短要請について知事が命令したことに違反した場合に「50万円以下の過料」; 「感染症法改正案」の場合は、感染者の入院拒否や病院からの逃亡にたいして「懲役1年以下または100万円以下の罰金」; という規定があります。
現在のあくまで個人主義的な自発性にもとづく自粛、行政側からすれば「協力のお願い」では効果がうすい、というので、現政権はおそるおそる罰則規定を加えるわけです。それにしても「過料」と「罰金」はどうちがうんだ? それに「過料」って「科料」のまちがいでは? というので辞書を引き、ウェブで調べてみました。
「罰金」は刑法に定められているとおり、犯罪の処罰のうち死刑、懲役、禁固などの下位にある制裁の一つ。1万円以上。裁判所の判決できまるわけで、有罪になればもちろん「前科」として記録にのこる。その後の人生で、原則、公務員にはなれない。
「科料」も刑法で定められた刑罰だけれど「軽微な犯罪に科する財産刑」で1万円未満。「とがりょう」とも読むらしい。
「過料」は刑法上の刑罰ではないとのこと。「江戸時代から過失の償いに出させた金銭」に由来するもので、現行法でも軽い禁止に違反した場合にしはらう「秩序罰」、「あやまちりょう」とも読むらしい。
つまり、感染者が病院への入院を拒んだり、勝手に逃亡したりした場合は刑事罰として罰金/懲役を科される。休業や営業短縮などの命令に反した場合は、秩序罰として過料(罰金より軽い、あやまちりょう)にとどめる‥‥という差をつけるのですね。
ところでぼくは今のようなパンデミックの情況下には、強制力をともなう非常措置をとることに反対ではありません。ただし、せいぜい秩序罰だし、期限を明示し、始まりも終了も国会で決める、という条件で。
歴史的にローマの共和政でも、フランス革命の革命政府でも非常事態には dictator(独裁者)の執政が有期で(6ヵ月/1ヵ月)定められました。元老院や国民公会など議会が承認し決定することが条件です。カエサルが元老院で殺されたのは、有期のはずの独裁者なのに、彼の場合は「終身の独裁者」となったからでした。<小池和子『カエサル』(岩波新書、2020)
ロベスピエールたち山岳派の革命独裁(dictature)の場合は個人独裁ではありませんが、やはり(はじめは)期限をいちいち更新していました。なんといっても「徳と恐怖」の革命政府(非憲法体制)ですから、いささか疑問や異論を唱えただけで「反革命」と認定されればギロチン(断頭台)に上るわけです。1794年の3月からは、あのダントンさえ逮捕、処刑され、いつまで続くかわからぬ大恐怖のさなか、疑心暗鬼になった革命家たちが7月にクーデタを企て、ロベスピエールやサンジュストを国民公会で逮捕し革命独裁を終わらせました。
いずれの場合も、元老院や国民公会が舞台になったこと、議会主権が肝要です。
ところで、平和な日本ではギロチンでも暗殺でもなく、せいぜい「100万円以下の罰金」か「過料」でことは済みそうですが、それにしても 「罰金は、罪状や金額に関わらず、原則として現金一括払いで、納付した罰金は確定申告の控除対象とはなりません。」とのことです。 ご注意を! <https://www.keijihiroba.com/punishment/labor-seekers.html
2020年11月4日水曜日
American democracy?
それにしても、4年前に続いてまたもや世論調査はまちがって、民主党支持率を多めに、トランプ支持率を低めに見積もってしまいました。開票してみると、かつての激戦州では、今回トランプが予想以上に伸び、バイデンが勝つ場合も差は僅差です。これが悪意のデータ操作でないことを祈りますが、根本的に方法的な問題がありませんか?
世論調査を指揮している専門家が、そして実際の対質者が(自分たちはバカじゃない、エゴイストじゃないという立場から)、こんなにも非合理な共和党・トランプ支持者をバカか、エゴイストかと見て/見えてしまう‥‥といった具合に、観察者の観点が対象に反映して、調査の結果を左右していないでしょうか。 薬の治験や、社会調査における中立性の保証(ダミー薬も投与する、or「Youの意見・投票について尋ねるのでなく your friend の意見・投票について尋ねる」)といった手法は厳守されているのでしょうか?
これまでゴア候補もヒラリ・クリントン候補も微妙な負けかたをしたけれど、最終的には潔く敗北を公に認めて政治ゲームを終わらせました。 あることないこと出まかせに言って4割のコア支持者を固め、「私は敗北を認めない」と公言する現職大統領(!)は、スポーツマンシップにももとる! こんな政治手法で権力を維持しようという「ジャイアン」を歓喜して支持する4割の有権者。こんなことがまかり通るなんて、まるで16世紀内戦中のフランスや現代アフリカの部族国家みたい。
この4割のコア支持者に訴えあおりながら権力政治を操作してゆく手法が、これからほかの国々でも定着してゆくのだとすると、恐ろしいことです。 テレビの視聴率4割だったら、モンスター番組でしょう。でもこれは大国の政治です。4割の硬い支持を根拠に(浮動・無関心が2割)面罵し、分断をあおりつつワンマンが強権的に「指導」してゆくのだとすると、これはナチスとどこが違うんですか?
ぼくはコア支持者よりもっと広く、なんらか公共性や普遍理念に訴えるスピーチを聞きたい。 すべては、投票に行かない有権者の責任でもあります。 愚かな民には愚かな政府がふさわしい。2020年11月1日日曜日
まともな発言
この間の日本学術会議問題に現れた政治文化、マスコミや有権者のより深い問題、反知性主義について、こんな文章もあります。
たとえば『日経ビジネス』における小田嶋隆さんの「ア ピース オブ 警句」 → https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00090/
は辛口で、ジャーナリストおよび国民を(臆病な)チキンないし小学生程度とこきおろします。チキンではなかった NHKクロースアップ現代の国谷裕子キャスターがなぜ降板させられたか、という問題にも説きおよびます。小田嶋氏の結論は、次のとおり:
≪ そして、[チキンたちは]学者から学問の自由を奪い、研究者を萎縮させ、10億円ばかりの税金を節約することで、何かを達成した気持ちにさせられるわけだ。で、われわれはいったい何を達成するのだろうか。たぶん、役人から安定を奪った時と同じ結果になる。 安定した生活を営む役人をこの国から追放することで、われわれは、めぐりめぐって自分たちの生活の安定を追放する仕儀に立ち至っている。おそらく、自由に研究する学者を駆逐することを通じて、われわれは、自分たち自身の自由をドブに捨てることになるだろう。 昔の人は、こういう事態を説明するために、素敵な言葉を用意しておいてくれている。 「人を呪わば穴二つ」というのがそれだ。 他人の自由を憎む者は、いずれ自分の自由を憎むことになる。≫
なおまた学者知識人の発言としては、三島憲一さんが『論座』で↓
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020102100003.html https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020091400003.html https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020102200007.htmlまともな議論をしています。とりわけ「人事だからこそ、その理由を言わねばならない」と説き、ムッソリーニやヒトラーのいない「日本型のファシズムを考え」ようとしているのは、異議なし。
ときを同じくして恒木・左近(編)『歴史学の縁取り方』(東京大学出版会)が公刊されました。恒木氏、そして最後の章の小野塚氏が冴えている。きわめて刺激的でおもしろい本。これについては、また後日に。
2020年10月29日木曜日
記者会見
学術会議会員の不任命とその後の菅総理大臣および加藤官房長官の説明にならない言い逃れ、といった事態から、じつは学術会議がどうこう、というよりもずっと深刻な情況が明らかになって来つつあると思われます。権力者の意思は黙って貫き、異論は無視して -「人のうわさも75日」だから - やがて、くどくどと同じ対質をくりかえす連中は孤立し、結局は内閣官房の思いどおりに世の中は動き定まる‥‥。その内閣官房の意思は、どのようにして(どんな理由でいつ、だれが言い出して、可能な別の選択肢は不採用として)決まったのか、については「最終的な決済」以外はゴミなので破棄して記録は残さない‥‥。
このような、法治国家や市民社会にあるまじき、権威主義的な集権国家がいつのまにか登場し、通用し、こうしたことに「おかしい」とか「気持が悪い」とか言うひとはたしかに一定数いるが、それが国民の、あるいはマスコミの大多数にはならない、という情況。これが不気味です。いつこうなったのでしょう?
古川さんと鈴木さんの始めた change.org の署名活動が、14万人以上の署名を短時間で集めたこと、そして10月13日にこれを内閣府に提出したことはNHKなどで報じられました。 → https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201013/k10012661631000.html
さらに26日には日本記者クラブで記者会見が行われ、古川さん、鈴木さん、瀬畑さんの発言、質疑の様子が Youtube で(計1時間17分)見られます。組織的でも党派的でもない、3人の誠実さと真意が現れた、よい記者会見だったと思います。まだなら、どうぞ → https://www.youtube.com/watch?reload=9&v=5W71tY9IqBY&feature=youtu.be
古川さんのキーワードは不公正(アンフェア)、鈴木さんの場合はわたし個人の考え、瀬畑さんの場合は、政府も自信をもって理由を公けにしてください、でした。2020年10月22日木曜日
〆切は今日22日(木)
菅政権の反知性主義的で、強権的というより陰険な政治のやり方への抗議の署名キャンペーンが続きます。「西洋史研究者の会」の呼びかけたものは今晩で〆切です。 → https://seiyoushi-kenkyusha-kai.org/
賛同署名者は西洋史研究者に限定していません。あくまで個人的に賛同してくださった方々です。そのご氏名(匿名希望者は除く)は、こちら → https://seiyoushi-kenkyusha-kai.org/index.php/home/sandousha/
携帯の自由競争、前例打破‥‥といった受けの良い政策提言で支持率を維持しつつも、都合の悪い文書記録は残さない/廃棄するという、近代法治国家としてはありえない官房の(断固たる!)方針に支えられた知性攻撃ですから、恐ろしい。
「総合的・俯瞰的」という管理者的で上から目線の言い逃れだけで、なにも理由を説明しない、「木で鼻をくくった」応答に終始するのではいくらなんでもまずいだろう、という発言が自民党議員のなかにもチラホラ出ています。その名は記憶しておきたい。 → 岸田文雄(前政調会長)、稲田朋美(元防衛相)、村上誠一郎(元行革担当相)! こうした議員までもが「説明責任を果たしていない/乱暴ではないか」と言明する事態なのです。
なお、10月2日のぼくの発言もご覧ください。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2020/10/blog-post_37.html
2020年10月12日月曜日
西洋史研究者の会
みなさま ご無沙汰しております。
菅政権に抗議する署名キャンペーンが始まりました。
このURL、https://seiyoushi-kenkyusha-kai.org/index.php/shomei/ をクリックして署名フォームに入ってください。
行政の長としての器じゃない驕慢な言動のある菅イカロスですが、 まだ高い支持率を引きずり下ろすには、それなりの運動が必要とみえます。 22日〆切としています。
近藤 和彦 http://kondohistorian.blogspot.com/
2020年10月11日日曜日
パンケーキが怖い
菅義偉が自民党の総裁選挙に立候補したときから、ぼくは懸念を表明していました。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
この人は政権の実務をあずかる能吏かもしれないが、No.1 になる(権力を代表具現する)にはふさわしくない人なのです。何より public speech ができない。むずかしい問題となると、担当官に言わせるか、事前に熟慮した想定問答集のメモにたより、失言しないようになるべく短く答える。
これは官房長官だったときの、あのでかく厚い帳面の端の付箋です。
→ https://www.asahi.com/articles/ASN962V20N93UEHF008.htmlなぜか朝日新聞 Online(9月7日登載)に一つや二つでなく10以上も類似の視角からの写真があります。見てみましょう。
たくさんならぶ付箋をよく見ると(クリックすると拡大)、「岸田 30万円」には上に「共」、 「30万円 妥当性」には「日テレ」、 「30万円 理由」には「朝」と朱書されている!
つまりそれぞれ共同通信、日本テレビ、朝日新聞が質問する予定項目(そして答弁)が並んでいるのです!次の写真の場合は、
「IMF予測」に「共」、 「布マスク配布」に「朝」とか朱書されて並んでいますが、それらの付箋の一番上には
一つだけ薄青い紙で「山口代表」とあります。つまり公明党の山口代表とのネゴ、あるいは配慮についての想定答弁・メモが(この場合は何社からの質問でもなく)用意されていた! 例の困窮家庭30万円給付から全国民一律10万円給付への転換( → 岸田政調会長の凋落の始まり)の直前に公明党の介入があったことの証拠でもあります!
菅おじさんは、こうした念入りの想定問答集がないと記者団の前に立つのが怖い。丁々発止、臨機応変のやりとりは苦手なのでしょう(岸田、石破、河野とは違うタイプです)。総理大臣に就任してからは通例の記者会見は9月16日のみ、それからはあのパンケーキ朝食会をはさんで、10月5日には読売新聞、北海道新聞、日本経済新聞の3社、9日には毎日新聞、朝日新聞、時事通信の3社に限定して「グループインタヴュー」なるものを設営しただけです。3社が総理を囲むように座して(予定の質問を発し)、他の記者クラブ各社はそれをただ傍聴する。当日志望の他のマスコミはクジで当選したら別室で音声のみを傍聴する(!)とかいう設営。
なにかとんでもなく「公共性を怖がる首相」を自由民主党は選んでしまったようですよ。外国メディアからあきれられても、当然です。菅個人というより、こうしたことを横行させる自民党、マスコミ、そして有権者の問題です。
2020年10月8日木曜日
田中優子さん、カッコいい!
法政大学のサイトにすみやかに総長メッセージが出ていたのを知りませんでした。 「日本学術会議会員任命拒否に関して」と題する5日付けのものです。
→ https://www.hosei.ac.jp/info/article-20201005112305/(まずこの間の経過と制度をまとめ確認したうえで)「‥‥内閣総理大臣が研究の「質」によって任命判断をするのは不可能です。」と明快です。 「さらに、この任命拒否については理由が示されておらず、行政に不可欠な説明責任を果たしておりません。」
そしてこのあとに続く文章がすばらしい。
「本学は2018年5月16日、国会議員によって本学の研究者になされた、検証や根拠の提示のない非難、恫喝や圧力と受け取れる言動に対し、「データを集め、分析と検証を経て、積極的にその知見を表明し、世論の深化や社会の問題解決に寄与することは、研究者たるものの責任」であること、それに対し、「適切な反証なく圧力によって研究者のデータや言論をねじふせるようなことがあれば、断じてそれを許してはなりません」との声明を出しました。そして「互いの自由を認めあい、十全に貢献をなしうる闊達な言論・表現空間を、これからもつくり続けます」と、総長メッセージで約束いたしました。
その約束を守るために、この問題を見過ごすことはできません。」
田中さんがカッコいいのは、和服姿だけではありません!2020年10月5日月曜日
日本学術会議会員の任命拒否 → 署名へ
前から申していますとおり、宇野重規、加藤陽子さんの態度表明は - 菅内閣の一枚上を行こうとして - 立派だと受けとめています。
菅政権は「適法にやっています」と黙って専制をつらぬく、という姿勢。いくつかの野党は「戦前への逆コース」をアピールしていますが、そうではない。これは新しい、ポストモダンの政治手法です。マスコミはトランプの病状と芸能人の死のほうが視聴率を取れるので、そちらの方面ばかり報道する‥‥。これはむなしい現状です。
このブログで嘆息する以上に、なにかできることはないか、と案じていたら、アカデミズムのなかから、鈴木淳さん・古川隆久さんの呼びかけで、こんな署名キャンペーンが始まりました。ノンポリで(むかしの伊藤ゼミ、高村ゼミのよしみ?)学問的に誠実な動きだと思います。
→ https://www.change.org/p/菅首相に日本学術会議会員任命拒否の撤回を求めます!
このまま放っておくと、香港のようになってしまいます。菅義偉の顔が習近平のように見えてきました。
2016年11月10日木曜日
ケンカを知っているトランプ
ふだんの業務に加えて、「新しい入試制度」で大学のプレゼンスをどう高めるかとか、「UKとEU」といった文章、あるいは手を抜けない「推薦書」 etc.で寸秒を争うような毎日なのに、アメリカ大統領選挙は、沈黙を許さぬ結果です。NHK-BSでの藤原帰一先生の表情も硬かったけれど、トランプはハッタリだけだろう、といった甘い態度でいると、たいへんな世の中、万人の万人にたいする戦いの世になるのかもしれませんぞ。
『朝日新聞』が「権力への怒り」といったタイトルで解説しようとしているのは、不用意で誤解をまねく。嫌悪感さえ覚えます。
トランプを駆り立てているのは「権力への渇望」「力への妄信」であって、怒りではない。むしろ人民(とくに poor white)の不定形の不安と不満を「外来のもの」に向けてあおる衆愚政治です。ユダヤ人への差別的な言説、ナチス的な要素に対してきわめて敏感なアメリカのメディアは、イスラムやラテン系に対するヘイトスピーチについては野放図でした。日本車や日米安保への無知な発言を放っておくというのも、3・40年ほど昔の大衆レヴェルです。なにか「問題を分析し理解して取り組む」といった姿勢じたいを軽蔑しているようなところがある。
ケンカの仕方を知っているトランプの最後の切り札(trump)は、州権的な大統領選挙のシステムを熟知したうえで、激戦州、決定的な州 - Florida, Ohio, Pennsylvania - にキャンペーンを傾注して、選挙人団(electoral college: すなわち選挙社団! という近世的編成ですね。)を獲得することでした。これがみごと効を奏したわけで、戦略的な勝利です。いくらマサチューセッツ州やカリフォーニア州でたくさん票を得ても、選挙人の数が定数より割り増しされるわけではないのだから。
トランプはバカではない。計算高く、権力欲は強烈。プーチンでも金正恩でも交渉次第で握手するでしょう。こうしたクレヴァーな「ジャイアン」にたいして、安倍政権は賢明に対処できるでしょうか。たくましく、現代の「万人の万人にたいする戦い」を乗り切る人材と裁量をもっているかな?
近世の states system (諸国家システム)が今日的に再現し、グロティウスの「戦争と平和の法」が書かれる前夜のような弱肉強食の情況です。こういったときに「信仰によってのみ義とされる」とか、悪魔(Antichrist)を呪うとかいう立場に、未来はありません。ひたすら「公共善」をとなえる politique派(アンリ4世!)、あるいは中道(via media)のエリザベス女王を憧憬します!
2015年11月14日土曜日
宗教戦争と文明
今年5月に刊行された、谷川 稔『十字架と三色旗』(歴史のフロンティア → 岩波現代文庫版)が論じている「やわらかいライシテ」と「やわらかいイスラム」以外には、根本解決はないのではないかと思われます。
16・17世紀ヨーロッパの宗教戦争から生まれてきて「ポリティーク派」と貶められた公共善派、すなわち純粋主義(puritanism)を離れた「世知」にこそ、信教をめぐる戦争を越える道はある。それ以外に希望はないかもしれない。近世英語でも politic という形容詞は今日の「政治」と無関係ではないが、むしろ古典語の polis(都市共同体)や politicus(都会的、文明的、公共の作法を知る)の意味合いを継承していました。用例をみても、英語 polite や civil に近い。
Civil で polite で politic な文明に希望を託したい。