2019年3月31日日曜日

対馬の厳原(いづはら)


3月14日から以降、ブダペシュト(ブラティスラヴァ) → ロンドン → 早稲田 → 対馬
と順序よくご報告すべきですが、(しばらく忘れていた花粉症の辛さに翻弄されつつ)対馬の歴史には圧倒されました。
近世日本列島の「4つの窓」とよく言いますが、それが幕府にも十分に重視されていたこと、また古代から中世、近世、そして近現代の(小中学生でも知っている)画期ごとに顕著な痕跡=史跡を残していることが知れて、たいへんな勉強になりました。チームの皆さん、ありがとうございます。
なおまた『つしまっ子郷土読本』(対馬市教育委員会,2016)というすばらしい、小学6年生むけの副読本があると知って、厳原唯一の大西書店でさっそく購入しました。

2019年3月30日土曜日

厳戒の首相官邸


ブダペシュトからロンドン、そして対馬(!)と刺激的な3月でした。
写真はロンドン・ダウニング街の入り口。鉄の柵のなかに4人も武装警官で、写真も気安くは撮らせないといった雰囲気でした。


スーツケース破損問題もあり、今回の旅行の収穫と写真については、おいおいに。

2019年3月23日土曜日

Brexit ロンドンは disaster かと思いきや

ブダペシュトからロンドンへ移動しました。

かねて定宿としていたのはユーストン駅の脇、便利で明るくて、なんといっても朝食がよく、バスタブがある Ibis Euston London.裏手にはインド人コミュニティと飲食街もある。ロンドンに Ibis Hotel はいくつもありますが、何年もかけて実際に比較してみたあげく、ここだけが、立地も施設も人もお気に入りでした。
ところが、昨秋にはなぜかオンラインでアクセスできず、別の宿に予約するほかなかったのですが(4泊でなんと610ポンド≒85千円を超える!)、案の定、たいしたことない、というより客の質も(体型も!)、これじゃぁな、という所。東京都心で一泊2万円なら相当のビジネスホテルに泊まれるでしょう。いくらポンドが(円に対して)威張っているからといって、これはあんまりだ。対応する人も威張ってみえる。

忘れかけていた、ユーストン・ロードの排気ガス、汚い路面、そして歩行者に優しくない交通信号。身の危険さえ覚えます、まるで中国の大都市みたい! スーツケースも一部damageがあり、イギリスおよびイギリス人を嫌いになりそう、と思ってしまった。
とはいえ、さっそく会った友人は変わらずやさしいし、翌朝、大学に行ってゴードン・スクエアに寄ったら、春の花が咲き始め、鳥(blackbird)はさえずり、人々はおだやかに談笑したり、原稿を書いたり。ブルームズべり・グループの中庭は、いまやロンドン大学の中庭のような趣きですが、このように静かに春の訪れを味わわさせてくれます。(昔、ぼくがUCLに居た94-95年ころはなかったと思いますが)インドのタゴール像、フランス・レジスタンスの Noor Khan像があって、大学の姿勢も現れています。
ランチ時の Gordon Square Gardens

テレビではブレクシットの権謀術数で大わらわですが、案外、48%のイギリス人は、そして67%のロンドン人は、多様性こそイギリスの本質・生命線と考えて落ち着いているのでしょうか? 21日、メイ首相の演説、EU27会議にともない、IHR における「Brexit を歴史家はどう見るか」というセミナー報告は急遽中止。しばらく観察するほかなさそう。

なおぼくのスーツケースについては、電話はうまくゆかず、メール添付で写真もやりとりし、ようやくBAが damage replacement に対応してくれて、最悪状態は脱します。
こんな具合でした。
【写真については、使用中のカメラからSD移転できないので、ウルトラCを使いました!】

2019年3月19日火曜日

ブダペシュト

ただいま、ブダペシュトに滞在中。初めての地です。
ヨーロッパのど真ん中ゆえにCEU(Central European University)があって、そこでこんな話をしています。
https://pasts.ceu.edu/events/2019-03-18/european-jacobins-and-republicanism
本日までは、(原稿未完のまま飛来したので)寝ても覚めてもナーヴァスな日夜でした。報告・討論を終えて、ようやくホッとしています。

リスト、ルカーチ、ポランニ、バルトーク、セル、といった人材を輩出したハンガリー。
ブダ+ペシュトは、ドナウ川が流路を90度変えたあと、ハンガリーの大草原に出てくる所にある、というわけで西と東、ヨーロッパ・カトリック教圏と正教圏、あるいは近世ですと神聖ローマ帝国とオスマン帝国との境目にあたります。ユダヤ人街がこんなにも広く展開しているとは、想像もしていませんでした。
CEUもここになくてはならぬわけではない . . .
昨日はたいへん暖かい快晴日、ドナウ川をさかのぼる形ですが、ブラティスラヴァまで出かけました。
今日はふたたび曇天、夜は冷えます。
(写真はたくさん撮っているのですが、カードリーダを忘れできたので、こちらに転送することができません。帰国してからゆっくりご覧に入れます。)

2019年3月6日水曜日

『大塚久雄から‥‥』

昨5日(火)は青山学院大学における合評会
大塚久雄から資本主義と共同体を考える』(日本経済評論社)
https://www.freeml.com/kantopeehs/69/latest
に参りました。主催者(政治経済学・経済史学会 関東部会)からはレジュメは30人分とか指示されていましたが、それよりずっと多い人数。団塊の世代以上が半数?

オファをいただいても、率直に言って、あまり気乗りのしない話でしたが、小野塚さんから上手に持ちかけられて
言うべきことを言えばよいか、と参加いたしました。

大塚久雄は(丸山眞男も)両大戦間期に自己形成した、憂国の知識人として並みいる戦間期の学問のうち最高級のものをプロデュースした。【念のため、当日の一人の発言について申します。ナチズムや太平洋戦争に言及したからといって、その賛同者ということにはなりません。たとえば、近藤がアクチュアルな問題としてトランプや習近平に立ち入って言及したら、70年後の一知半解の「若い研究者」が、近藤は心底はその信奉者だったのだ、と解釈するのでしょうか? AIレベルのアホです。】
問題はむしろ、大塚・丸山とは全然ちがう条件を与えられた情況に生きるわれわれとして、どう向きあうか、という問題だろうと思います。

「資本主義と共同体を考える」というより、大塚の資本主義論(過程と型)と共同体論(ゲルマン共同体・ローカル市場圏・民富)の有効性を理解したうえで批判する;要するに20世紀前半の歴史学から学び反芻しつつ、現在の研究水準で超えてゆく、ということではないでしょうか。
よく知らなかった論点を指摘してくださる方もいらしたし、逆に歴史学がいま動いている、ということをあまり意識せずに、ご自分の学生時代の理解のままの枠組で「老人の繰り言」をリフレインする方もいらっしゃるようです。
敬意を失わないよう自戒しつつ参加したつもりですが、いかがでしたでしょうか。
個人的には、これまであまりご縁がなくて十分親しくできていなかった方々のお考えがよく分かり、それは収穫でした。

ぼくの場合は、大塚史学に限定することなく、歴史学の問題として
1) commonweal・respublica にかかわる中世末から(古代から!)の議論、そして革命独裁や帝国秩序へと議論が絞り上げられていった近現代史が問い直されるし - 早くは『深層のヨーロッパ』(山川、1990)における二宮・近藤対談がありました -
2) いささか観念的に(?)称賛されてきた association については、charity や公益法人といった制度的・財政的保証のある社団へと議論をフォーカスしてみてはいかが? - 「チャリティとは慈善か」(年報都市史研究、2007)そして北原敦ほか「フランス革命からファシズムまで」(クリオ、2016)があります -
と思います。
編者の方々、『大塚久雄から‥‥』というタイトルは、もしや大塚の祖述に甘んじるのでなく、大塚を卒業してその先へ、という含意でしたか? 

今後ともよろしく!

2019年3月1日金曜日

折原浩先生と大庭健さん


 折原浩先生は、亥年でぼくの一回り上ですが、これまで特定の若い人の名を挙げてどんなに交友を楽しんだかを公言することは控えておられたと思われます。
 今回、個人ホームぺージで、
「1967-68年当時、東大教養学部の一般教育ゼミ「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」に参加していた駒場生で、拙著155ページで触れた五人」
のうち、亡くなった八林秀一舩橋晴俊、そしてとりわけ大庭健を悼む文章が公開されました。
→ http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/tenkai2.htm
「5人のゼミ生のうち、残るは2人となってしまいました」と言われるその2人とは、八木紀一郎とぼくのことですが、彼とぼくが暮から新年にかけて期せずして折原先生に長い私信を送って、それをきっかけに、この長い、細部まで分析的な文章(A4に印刷して6枚!)をしたためてくださったのです。5人についてそれぞれ温かい思いが刻印されていますが、なかでも「大庭節」への懐かしさと哀悼は感動的です。
 11歳年長の折原先生に愛され信頼された大庭さん。当然ながら、1年下のぼくに対する影響も決定的で、- こんなことを言うと生意気そのものですが - 駒場の折原ゼミで鍛えられ、大庭(→ 倫理学)、八木(→ 社会学)と同じ空気を呼吸したぼくは、本郷の西洋史に進学して「不安」は全然感じなかった。本郷の先生方や先輩たちを侮っていたのではありません。むしろその学知を100%学習し吸収する用意(基盤)が既にできていると自覚できたのです。
 昨年にもしたためましたとおり、大庭さんを慕う後輩は多く、(そのケツをまくった口吻にもかかわらず)たしかな学識と誠実さはただちに感得されました。編集者たちにも、そのことはすぐに分かったでしょう。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/10/19462018.html
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html

 なおぼくの場合、折原先生と同じ猪鼻台の千葉大教育学部付属中学に通った(校長は同じ飯田朝先生=憲法学)というのは、かなり恵まれた「初期条件」でした。ぼくの親は地域ブルジョワでも教育界でも転勤族でもなく、また受験界にも無知で、ただ小学校6年の後半(初冬?)に担任に勧められて、子どもの受験手続きをしてみたに過ぎませんが。