2013年11月26日火曜日

ルカーチ 『 歴史学の将来 』


このところ多事多端で、必要最低限のやりとり以外は、あまりウェブの世界も眺めていなかったら、
今晩、偶然にこんなページができているのを発見。いつから登載されているのか、わかりませんが。
http://www.msz.co.jp/news/topics/07764.html

最新刊のジョン・ルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房)について、カバー写真、編集者の思いと関連書誌情報が載っていて、有益です。
ぼく個人としては、
ちょうど2年前に編集者が本郷の部屋に現れて、「まずは読んでみてください」と、本と New York Review of Books を渡されて(しかたなく)読み始めたのです。それが良かった。
1) historia とは「語り」であるより前に「調べてえられた知」だと明言したうえで、
2) 返す刀で、一次史料に取り組んだからといって、その成果を「役人が書くように醜い文章で」発表して恥じない凡庸な専門家にたいして、それでよいのかと叱咤激励し、
3) さらには「言語論的転回」の波に溺れて、「韻律の最新理論」を紹介するだけで、ご自分の「叙事詩」を産み出そうともしないヤカラを批判する、
そうしたルカーチは、禿頭の老先生かもしれないが、親近感をおぼえます。

さすが、みすず書房。品のある美しい造本です。

2013年11月15日金曜日

D くん

拝復

 多色彩の初校ゲラ 306 pp. を戻したら、再校ゲラは 310 pp.になって帰って来ました。つまりどこかで行がはみ出してしまったのでしょう。もとの306ページに戻さないと、索引のページが無くなります!

 ところで、Dくんの御メールのとおり、たしかに『10講』で礫岩という用語を数度つかいますが、それにしてもこれは conglomerate のみを視点にした単純な本ではありません。たしかに(イギリス史については明示的に)絶対主義という語の使用に反対しています。関連して、アメリカ史における「巡礼の父祖」伝説や、独立宣言における absolute despotism/tyranny への攻撃は、ためにするゾンビへの攻撃と考えています。
とはいえ、これらは『10講』の多くのイシューのうちの1つに過ぎず、他にもおもしろい論点は親と子、男と女といったことも含めてたくさん展開しています。

 御メールはさらに、次のように続きます。

>「歴史的ヨーロッパにおける複合政体のダイナミズムに関する国際比較研究」は、人間集団の政治性獲得のモメントを重視し、中世から近代へ「政体」のダイナミックな変遷をおうものと理解しています。
> 例えば、‥‥あたりで、それぞれの時代における「帝国的編成」との比較でコメントを頂くのも一興です。

 うーん、「帝国的編成」となると、ますます「ある重要な一論点」でしかないな。
通時的には「ホッブズ的秩序問題」を心柱にして叙述し、
同時代的には、たとえば1770年代のアメリカ独立戦争をアイルランドのエリートたちが注視し、
19~20世紀転換期アイルランド自治の問題をスコットランド人もインド人も注視していた、といった論点は出していますが。

 研究者の顔を意識した「問いかけ」もあります。一言でいうと、そもそも『イギリス史10講』は、二宮史学、柴田史学との批判的対話の書なのです!(これまで小さく凝り固まっていた分野の諸姉諸兄には、奮起をお願いします。)

>‥‥composite state や composite monarchy といった議論がまずは
> イギリスの学界で展開された議論だったことに関心を払う必要もあるようです。

 そうかもしれません。が、重要な方法的議論は英語で、という傾向が歴史学でも1980年代から以降、定着したということかな。
もっとも「1930代~40代のイギリス・アメリカ(とソ連)が旧ドイツ・オーストリアの知的資産をむさぼり領有した」こと、
「英語が真に知的なグローバル言語になったのは、このときから」といったことが、事柄の前提にあるわけですが。
イギリス史10講』では、戦後レジーム成立過程における人・もの・情報の「大移動」も指摘してみました。
S・ヒューズ『大変貌』にも示唆されていますが、1685年以後の名誉革命レジーム成立過程における(対ルイ太陽王)人材移動も視野において言っています。

 これまでの歴史学のアポリアが少しづつ解決してゆくのを、ともに参加観察するのはよろこびです。個人的にも、積年の「糞詰まり状態」を解消して、快食快便といきたいところです。単著ではないけれど、お手伝いしたルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房)や『岩波世界人名大辞典』などが公になるのは、爽やかです。収穫の秋です!

2013年11月14日木曜日

拝復

Aさん
 お久しぶりです。メールをありがとうございました。

 じつは7月から以降10月まで、校務や学外公務や91歳の母親のことはそこそこに(済みません!)、『イギリス史10講』優先の日夜を過ごしていました。岩波書店は、脱稿から初校、再校、校了にいたる日程表を、それなりに余裕をみて組んでくださったのです(11月でなく12月発売、といった具合に)。しかし、やはり実際には「火事場」とまでは言わないが、ドタバタしています。
 大学入試や中国・アメリカ出張もありましたが、本当に入稿してよい原稿はぎりぎりまで改訂して、最後の最後の部分を出したのは10月14日。長く暑い夏でした。
 すでに2色刷りの初校ゲラも戻し、図表の整頓、カバー関連なども済ませましたが、ホッとするまもなく、今週末には再校ゲラが来るはずです。本文とあとがきで306ページ、巻頭の目次、巻末の索引が加わって、岩波新書としてはたいへん厚いものとなります。
 爽快に書けたうえ図版ともうまくマッチしたと思われる箇所もあり、逆に中途半端で心残りの箇所もあり、複雑な気持です。そうはいっても、もう延ばすわけには行かず(Now, or never!)、思い切りました。足りない所は今後の仕事ですこし構えを変えて取り組んだほうが合理的かもしれません。

 一言でいうと、ぼくは戦後史学、柴田史学、二宮史学から大いに学んできましたが、それを部分的でなく根本的に乗り越えたい。ただ大きな歴史をすりぬけ、スキマ産業に従事して了とするのでなく、代替すべきものをみずから産み、呈示したい、という気持に支えられてきました。あらゆる部分が柴田先生(およびイギリスの実証史学)との対話です。
 Aさんとは『近代世界と民衆運動』(1983)が出版された直後から、その野心に感心しつつも特定箇所について似たような批判的発言を重ねてきましたね。『フランス史10講』(2006)については、むしろ全体の構えに不満がありました。今度の『イギリス史10講』はこの異なる性格をもつ2著にたいする、両面的な対話です。本文最初のページをくって直ぐに(p.4) こう述べます。

  歴史とは現在と過去の対話であり、また将来を見すえた歴史家の語りであるといった
  のは、E・H・カーである。『イギリス史10講』も、今を生きる歴史家が過去の事実
  および研究とくりかえす対話であり、イギリス史を語りなおす試みである。

「過去の事実および研究とくりかえす対話」とは生じっかのものではありません。やはり年末に出るルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房)もくりかえし述べるとおり、historia とは「調べること、そのうえでの語り」ですし、research とは何度でも調べなおすことです。こちらがええかげんでは対話できません。
 岩波新書なので(またすでに十二分に厚いので)註はありませんが、分かる人には分かる書き方をしたつもりです。また今年度末の『立正大学大学院紀要・文学研究科』に長い註釈を載せて、論拠を明示し、誤解の余地のないようにします。

 急に寒くなりました。けやきの街路樹がきれいに色づいています。
 12月20日に見ていただきます。どうぞお元気で。

2013年11月1日金曜日

『10講』のもくろみ


12月20日発売の岩波新書ですが、その第1講に「本書のもくろみ」として、こんなことをしたためています。 → といっても、今このブロッガーが写真(.jpg、.png)などを受け付けないので、こちら http://kondo.board.coocan.jp/bbs/ で校正ゲラのごく一部をご覧に入れます。

 今回の著書は『フランス史10講』『ドイツ史10講』との共通了解があって始まった本ですが、じつは相違する点も大きいと考えています。
 戦後史学やホウィグ史観の批判、歴史の作法、etc. 長らくもろもろのおしゃべりが続きましたが、実際の作品(praxis)としてどれほどのものが生れたでしょう。『イギリス史10講』は、そうした情況にたいするポジティヴな発言でもあります。
 岩波新書だからといって、あなどるなかれ。