2019年12月31日火曜日

水戸へ

 年の瀬に、なぜか水戸へ1泊2日で参りました。
 茨城県立歴史館および駅前の会議室にて研究会討議。そのあと、水戸市の発行による「水戸学の道」という案内図も参照しながら、複数の名ガイドとともに、水戸城の土塁=空堀の構造がそのまま残っている所を歩きました。水戸は1945年のなんと8月2日に空襲されたのですね! → https://www.city.mito.lg.jp/001373/heiwa/heiwa/p002581.html

 快晴の冬空の下、義公(光圀、水戸黄門)生誕の地から、坂を登って旧本丸の県立第一高校、二の丸の白壁塀、大日本史編纂の地(格さん像)、師範学校跡、再建された大手門から大手橋をわたって、三の丸の弘道館へ。慶喜謹慎の場でもありました。
https://www.ibarakiguide.jp/kodokan/history.html
漢文の書式(作法)についても教えられましたが、戊辰戦争にともなう弘道館の戦い(天狗争乱)については、まったく知らなかった。後まで尾を引く、悲しい(むなしい)歴史です。
 梅園を通って、旧県庁の裏手、そして正面へ。
 ここで今井宏さんの生涯、そして遅塚家のことも思い浮かべ語りながら、銀杏坂へ。坂道を下りきったところにある大銀杏も、水戸空襲の忘れ形見なんですね。

 2日間ともに寒く、快晴。水戸を訪れるにはふさわしい日でした。

2019年12月25日水曜日

生き延びる力

これからの日本、そして英国、合衆国、中国‥‥、世界について、暗い気持になることばかりの今日この頃。メールでやりとりした英国の友人たちも1人を除いて、みんな今回の総選挙に怒るか、悲しむか、困惑しています。合衆国の政治も、中国も、暗澹ですね。
 そうしたなか、偶然目にしましたが E. トッドは数年前にこう言っていたんですね。なるほどと思いました。
「‥‥今後に楽観はしていません。政治的指導者は歴史的に、誤ちが想像されるときには、必ず誤ちを犯してきました。私は、人類の真の力は、誤ちを犯さない判断力よりも、誤っても生き延びる生命力なのだと考えています。」

 思えば、1792-4年のフランス人も、1930年代のドイツ人も日本人も、1960年代からの中国人も、2016-9年のイギリス人も、存在した選択肢のうち最悪(に近いもの)を選んでしまった/過ちを犯した。 にもかかわらず、その後たくましく生き延びられれば良いのですね。
 ふぅぅ。元気でないと。

2019年12月13日金曜日

英国の解体


 悲しい予測が当たり、イングランドにおけるジョンソン保守党の圧勝、コービン労働党の完敗、スコットランド国民党の勝利、という選挙結果です。株式や為替市場がこの結果を歓迎しているというのは、国有化・反大企業をとなえる労働党(社会主義)政権への見込みがなくなったことを歓迎してのことでしょう。
 Get Brexit done! という単純でナイーヴなジョンソン路線が有権者に是認され、来年早々にヨーロッパ連合(EU)からの離脱手続に入ることになります。
 これではっきりしなかったイギリスの先行きが見えてきた、と歓迎する人は、問題の表面しか見ていない。ニワトリ程度のレベルの知性しか持ちあわせていません。ジョンソン政権が公言してきたことは、すべての問題をEUの官僚主義に帰し、イギリスが国家主権を回復すればすべてが解決するというだけで、なにも具体性がない。ヨーロッパから離れて、どうするのでしょう? 頼りにする盟友は、アメリカ合衆国? インド? 中国? すでに破綻した造船業は中国資本の肩入れで営業継続というニュースがありました。日本企業はどんどん離れて行きます。
 なにより憂慮するのは、労働党のこれからです。
 
 図に示すのは Politico の世論調査で、2016年のレファレンダム以来、もう一度あらためて(冷静になって)EUについてレファレンダムをやるとしたら、あなたはどちらに投票しますか、という「仮定の Brexit Referendum」です。2016年6月の投票の一瞬だけヨーロッパ離脱(Leave)票が50%を越えましたが、その後は一貫して、今日までヨーロッパ残留(Remain)派が常に数%の差をつけて優位なのです! つまりイギリスの有権者は悔い改めている! しかも別の調査では、若者であればあるほどヨーロッパと一緒でいたい派。
 こうした絶好のチャンスであるにもかかわらず、党の方針としてヨーロッパ残留、EU内での改革、孤立主義との闘い、を唱えることのできなかったコービン労働党とは何なのか。多くの良識派が党から去り、今回の総選挙ではイングランドでもスコットランドでも議席を失ったのには理由があります。コービンは直ちに党首を辞するべきです。
 なお、Scottish National Party は「民族党」ではありません。スコットランド民族というものは存在しないので。むしろスコットランド国民としての誇りをかかげた政党で、イングランドが賢明であるかぎり、ヒュームやスミスの時代から、連合王国として一緒にやって行こうとしてきたわけですが、これほど愚かで自己中のイングランド政治家たちを見ていると、分離独立してEU内に留まるしかないという決断を下すのも理解できます。
 北アイルランドは、さらに険悪なことになるかもしれません。

 EUのメンバー国にとっても、イギリス連合王国の離脱が良い効果をもたらすはずがなく、‥‥これまで、文明の中心、高等教育の拠点としてかろうじて存続してきたヨーロッパが、そうした知的ヘゲモニーを失い、グローバルな地殻変動(大混乱!)の21世紀へと突入するのでしょうか。2001年から始まっていた悪の連鎖ですが。
 経験と良識のイギリス知性が完敗した2019年総選挙でした。
 イギリス史を研究する者として、悲しく無力感を覚えます。

2019年12月12日木曜日

木曜日は投票日


 今日12月12日はイギリス(連合王国)総選挙の日。なんとも憂鬱な気持です。
https://www.bbc.com/news/uk-politics-49826655
 というのは、ぼくがもし有権者だったら、どう投票するか。ヨーロッパ連合(EU)に踏みとどまって、経済も文化も人的交流も、したがってイギリスの誇る高等教育を維持するには、第1に、ジョンソン保守党政権を打倒することが大前提。
 では野党第一党の労働党に投票するか、といえば、これがただの旧左翼に過ぎない。内政のこと以外頭にないコービン労働党が、EU堅持という政策を押し出すことができないのは、80年代までの「資本家ヨーロッパ」に反対した左派(ベン、フット‥‥)と同じです。フット党首の下でともに働くことを拒否して「4人組」(Roy Jenkins, Shirley Williams, David Owen, William Rodgers)が離党し、社会民主党(SD)を立ち上げたのは、ぼくの留学中のことでした。国民的観点よりも階級的利害を優先する党であるかぎり、政権を担い続けることはできない。80年代のサッチャ政権を長らえさせ、また現在の(2010年以来の)保守党政権を長らえさせているのは、野党第一党「労働者階級党」の愚劣さの「成果」です。
 12日の投票日に、多くの賢明な有権者は迷うほかない。ジョンソンには反対票を投じるのは自明として、しかし愚劣な現労働党には投票できない。で、第三党、EU堅持の自由民主党(LD)に一定の票が集まるでしょう。
 

しかし、イギリスは小選挙区制で、得票第1位の候補者のみが当選する! 一定の労働者票はあいかわらず労働党に行くので、ジョンソン政権批判票は分裂し、結局(50%に達しなくても)得票1位は保守党、という選挙区が一杯で、全国集計では保守党の単独圧勝、という結果がほぼ見えているのです!
 ただしこれはイングランドについて。「保守党」とは正規には Conservative & Unionist Party で、すなわちピール以来の(革命を避けるために改良を重ねる、近代的な)Conservative と、連合王国の Union を死守する=反権限委譲の二つを党是とする政党ですから、現今のように地域利害が正面に出た政治が続くと、イングランド以外では支持を保つことができない。スコットランドでは国民政党SNPが、ウェールズではやはり国民政党 Cymru が多数を占めるでしょう。北アイルランドは元々地域政党の地盤です。

 というわけで、総選挙後のイギリス政治は、中長期にはスコットランド、ウェールズ、北アイルランドがEUに留まることを希求して、連合王国から離反する、すなわち United Kingdom の解体に向かってゆきます。資産も人材も流出し、世界大学ランキングのトップテンから、オクスフォード大学、ケインブリッジ大学、ロンドン大学(Imperial College)の名が消えるでしょう。イギリスがイギリスであったのは、スコットランド人、ウェールズ人とアイルランド人の知性・感性・エネルギー・信仰心と偉大な自然があったからでしょう。小さな、狭量な老イングランドが、単独で往時の威信と平和を取り戻せると夢想するのは愚かというものです。
 ぼくたちの知っている「イギリス」「英吉利」「英国」は、2019年の総選挙とともに、過去のものとなるのでしょうか。それもこれも、2016年のレファレンダムにいたる・そしてそれ以後も拡大再生産されてきた politician たちの無責任な(野心まる出しの)言説、キャンペーンの結果です。公人、エリートたちは「分断」をあおるような発言を繰りかえしてはならない、という教訓を今さらのように(苦い思いとともに)再確認します。

2019年11月24日日曜日

コートールド家


 コートールド美術館といえば、1980年代末に現在のストランド Somerset House に移転するより前、ブルームズベリの Woburn Square(Senate House および IHR の裏手、 Gordon Square に向かって歩き始めた所)にあって、有名な Warburg Institute と隣接していたころです。81・82年に訪れたときには、両者が一緒の茶色い建物にあって、階段をどんどん登っていった気がします。

 それより前に Courtauld という名を初めて知ったのは、ユグノ由来の繊維業ブルジョワ、その社史を書いた Donald Coleman という繋がりでした。
Courtaulds: An economic and social history. i) The nineteenth century - silk and crape; ii. Rayon; iii. Crisis and change 1940-1965 (OUP, 1969/1980)
 経営史の和田さんから、すでに1979-80年に、ケインブリッジの経済史といえば(今ではポスタンではなく)コールマン先生、といってそのときは2巻本を見せられました。
→ https://www.independent.co.uk/news/people/obituary-professor-d-c-coleman-1600207.html
そもそも Courtaulds ってどう読めばいいんだ? ユグノは高校世界史でやったのより、もっと広く深い難題かも。しかも18世紀末にはユニテリアンになった‥‥。戦後歴史学の小宇宙とは別個に展開している深い世界をほんの少しのぞき込んで、おののくような感覚。同時に、だからこそ留学する意味があるという期待。
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Courtauld_(industrialist,_born_1761)
https://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Courtauld_(industrialist)
 そのケインブリッジで社会経済史のセミナーに出てみたら McKendrick, Brewer, Styles などを集めて、ツイードのジャケットが似合い、パイプをくゆらせる理知的な紳士でした。81-82年ころには、Gentlemen and players といった問題を立てながらも、ゼミの報告にたいして「 Social history なんて学問として成り立つのかい」といった発言があり、ぼくのような若造から見ると、保守的なのかリベラルなのか、よくわからなかった。それは、彼の代表作ともされるコートールド社史3巻本における分析と叙述の統一といった点に表れ、かつイギリス学界で高く評価されたのとも不可分の、イギリス経験主義だったのでしょう。 → to be continued.

2019年11月16日土曜日

「主権国家再考」の公開研究会

 もはや今日のことになってしまいましたが、ご案内を転載します。

「歴史的ヨーロッパにおける主権概念の批判的再構築」公開研究会
  『「主権国家再考」の再考』

          主催:科研基盤研究(A)「歴史的ヨーロッパにおける主権概念の批判的再構築」
          共催:ヨーロッパ近世史研究会

 秋麗の候、みなさまにおかれましては、ますますご清祥のことと拝察します。
科研基盤研究(A)「歴史的ヨーロッパにおける主権概念の批判的再構築」は、『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社)の刊行後に求められる議論として、複合的政治編成の知見を踏まえたヨーロッパ史解釈の再構築をすすめるべく、具体的に「主権」概念に焦点を絞りながら検討をすすめてまいりました。
それらの研究成果の一端は、2018年、2019年に歴史学研究会が主催した合同シンポジウム「主権国家再考」において披歴されました。
 この度は2019年5月に開催されたシンポジウムの講演録がこの10月、『歴史学研究』増刊989号に刊行されたことを機会に、今回はヨーロッパ近世史研究を専門とするみなさまとあらためて検証すべく、以下のような公開研究会を開催します。みなさまの参加を心から歓迎します。

 日時:2019年11月16日(土)14時-17時30分

 場所:早稲田大学戸山キャンパス39号館5階第5会議室
 https://www.waseda.jp/flas/cms/assets/uploads/2019/09/20181220_toyama_campus_map.pdf

 次第:①主旨説明:古谷大輔(大阪大学)『礫岩のようなヨーロッパ』の先に - 主権概念の批判的再構築

 ②基調報告:佐々木真(駒沢大学)「主権国家再考」の議論について

 ③「主権国家再考」シンポジウム関係者からの応答
 科研基盤(A)「歴史的ヨーロッパにおける主権概念の批判的再構築」の研究分担者から、佐々木報告へのリプライを行います

  休憩:15分程度

 ④フロアの皆さまとの討論と総括

2019年11月12日火曜日

平田清明著作 解題と目録


 史学会大会から帰宅したら、『平田清明著作 解題と目録』『フランス古典経済学研究』(ともに日本経済評論社)が揃いで待ってくれていました。
どちらも「平田清明記念出版委員会」の尽力でできあがったということですが、知的イニシアティヴは名古屋の平田ゼミの秀才:八木紀一郎、山田鋭夫にあることは明らかです。
 『フランス古典経済学研究』は平田39歳の(未刊行)博士論文。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2537
 『平田清明著作 解題と目録』は、刊行著書のくわしい解題と、略年表、著作目録。http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2538

 こうした形で出版されことになった事情も「まえがき」にしたためられています。
 「門下生のあいだでしばしば浮上した平田清明著作集の構想の実現が、現在の出版事情から困難であったからである。‥‥しかし、図書館の連携システムや文献データベース、古書を含む書籍の流通システムが整備されている現在では、一旦公刊された文献であれば、労を厭いさえしなければ、それを入手ないし閲読することがほとんどの場合可能である。‥‥そう考えると、いま必要なのは、著作自体を再刊することではなく、それへのガイドかもしれない。‥‥それに詳細な著作目録が加わればガイドとしては完璧であろう。‥‥
 そのように考えて、著作集の代わりに著作解題集・著作目録を作成することになった」と。
 まことに、現時点では合理的な判断・方針です。1922年生まれ、1995年に急死された平田さんの『経済科学の創造』『市民社会と社会主義』『経済学と歴史認識』から始まって、すべての単著の概要・書誌・反響・書評が充実しています。また「略年表」とは別に、なんと143ぺージにもわたる「著作目録」があります。見開きで「備考」が詳しい! 「追悼論稿一覧」も2ぺージにおよびます!
 とにかく、ぼくが大学に入学した1966年から『思想』には毎年、数本(!)平田清明の論文が載り、『世界』に載った文章も含めて『市民社会と社会主義』が刊行されたのは1969年10月。東大闘争の収拾局面、ベトナム戦争の泥沼、プラハの春の暗転。こうしたなかで平田『市民社会と社会主義』が出て、ぼくたちが熱烈に読み、話題にしはじめて3ヶ月もしないうちに、日本共産党は大々的に平田攻撃を開始して『前衛』『経済』を湧かせ、労農派も平田の反マルクス主義性をあげつらう、という具合で、鈍感なぼくにも、誰が学ぶに値し、どの雑誌や陣営がクズなのか、よーく見通せることになった。
 そうしたなかで、わが八木紀一郎は驚くべき行動をとりました。東大社会学・福武直先生のもとで「戦前における社会科学の成立:歴史意識と社会的実体」というすばらしい卒業論文(1971年4月提出)を執筆中の八木が、東大でなく名古屋大学の経済学大学院を受けて(当然ながら文句なしに*)合格して、卒業したら名古屋だよ、と。すごい行動力だと思った。
 *じつは受け容れ側の名古屋大学経済学研究科の先生方は、筆記試験も卒業論文も抜群の東大生がどうして名古屋を受験するのか、なにか秘密があるのか、戦々恐々だった、と後年、藤瀬浩司さんから聞きました。平田先生のもとで学びたい、というだけの理由だったのです! ただし、その平田先生は73年に在外研究、78年に京都大学に移籍します。八木もドイツに留学します。

 ぼくも西洋史の大学院に入ったばかりのころ、八木の紹介で、本郷通りのルオー【いまの正門前の小さな店ではなく、菊坂に近い現在のタンギーにあった、奥の深い喫茶店】で平田先生と面談し、わが卒業論文(マンチェスタにおける民衆運動:1756~58年)の要点をお話ししただけでなく、1972年3月には滋賀県大津の三井寺で催された名古屋大学・京都大学合同の経済原論合宿の末席を汚して、経済学批判要綱ヘーゲル法哲学批判などを読み合わせたりしたものです。そこには奈良女の学生もいました。
 マルクス主義者というより、内田義彦に通じる、経済学と人間社会を(言葉にこだわりつつ)根底的に考えなおす人、としてぼくは平田清明に惹きつけられたのでした。

 68-9年からこの『平田清明著作 解題と目録』の刊行にいたるまで、現実に与えられた諸条件のなかで「筋を通す」という生きかたを貫いておられる、「畏友」八木紀一郎に敬意を表します。

2019年11月8日金曜日

明日のシンポジウム

既報の再録ですが、明日、史学会大会の公開シンポジウムは〈天皇像の歴史を考える〉です。

史学会大会・公開シンポジウム http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
日時: 11月9日(土)13:00~17:00 

会場: 文京区本郷 東京大学・法文2号館 1番大教室

公開シンポジウム 〈天皇像の歴史を考える

<司会・趣旨説明>
  家永 遵嗣(学習院大学)・ 村 和明(東京大学)

<報 告>
  佐藤 雄基(立教大学)「鎌倉時代の天皇像と院政・武家」
  清水 光明(東京大学)「尊王思想と出版統制・編纂事業」
  遠藤 慶太(皇学館大学)「歴史叙述のなかの「継体」」

<コメント>
  近藤 和彦

<討 論>

 日本史の古代・中世・近世の3研究にたいして、西洋史で政治社会・国制・主権などをテーマに勉強している立場から、問いかけと若干の提言をいたします。君主制および天子・天皇・皇帝・Emperor という語についても。
 翌10日(日)午後には日本史部会で〈近代天皇制と皇室制度を考える〉というシンポジウムがあります。これと呼応して、おもしろい議論が出てくるといいですね。

2019年11月3日日曜日

南アフリカ、強かったね


 日本が10月20日に 3対26 で圧倒的に負けた相手ですが、11月2日、エディ・ジョーンズHCのイングランドは、ラシ・エラスムス(!)HCの南アフリカ(Springboks)にやはり実力で圧倒されてしまった。トライなしで 12対32.
 その点をBBCは飾ることなく、
   South Africa broke English hearts with a ruthless display of power rugby
   to seize their third Rugby World Cup in devastating fashion.
という見出しで伝えています。これまた、なんという力強い、簡にして要をえた英語なんだ!

(C)BBC 

 そして、写真の真ん中、黒人主将 Siya Kolisi のドラマも語りあげます。
その語りにおいては、1899-1902年の不義の闘い・南アフリカ戦争の意趣返し、といったことは、品がなくなるので口にせずに、エラスムス的[≒オランダ起源のコスモポリタンの]多様性の文化が、南アフリカ共和国の将来を示す、というストーリです。
 これはマルチ=エスニックな日本チームについて報じられているのと、方向性は同じです。美しくない過去の克服について、南アでは政府イニシアティヴでポジティヴに取り組んでいる;日本ではそれがどこまで意識的に追求されているか、という違いはありますが。

2019年10月31日木曜日

首里城 炎上


今朝、寝ぼけ眼でスマホをみると首里城の炎上する写真。にわかに信じられず、TVをみましたが、法務大臣の交代だの、マラソン開催地の変更だの、ちょっと二次的なニュースが続きました。マスコミ側もにわかに対応できなかったのでしょうか。
今年2月に島内をめぐり、首里城については見学もしたし、外から美しい写真もいろいろと撮れて(戦中の陸軍の陣地跡もふくめて)、良い印象をもっていたものですから、本当ににわかに信じがたい惨事です。
  ↓
http://kondohistorian.blogspot.com/2019/02/blog-post_13.html

先のパリ・ノートルダム大聖堂の「再建」案についてと同じく、中世以後、いつの首里城を復元・再建するのかという問題も、歴史家たちが参加して真剣に議論してほしいと思います。日本列島の歴史の本質に触れる重要なモニュメントです。21世紀にのこすべき歴史遺産なのですから、防火・防災についてはもちろん。再建資金については、ノートルダムに負けないくらいの民間寄付を集めても良いのではないか。

2019年10月25日金曜日

ノートルダム大聖堂 と 時代


 10月19日(土)にはパリ・ノートルダム大聖堂の炎上 → 再建・修復をめぐってのシンポジウムが上智大学であり(司会・問題提起は坂野さん)、問題は単純ではないということが具体的に示されて有意義でした。http://suth.jp/event/20191019/ 「つくられた伝統」という観点からも。ただし、多くの報告者が建築の歴史を語るときに、フランス王国ないし共和国の枠組が自明のように前提されて、「美(うま)し国」のなかで歴史も文明も完結するかのごとく、縦の系譜がたどられて、ちょっと待ってくださいという気にもさせられました。
 その点で、最後の松嶌さんの報告は、ケルンやシュトラースブルク、さらにはコヴェントリにも議論を拡げていました。「ゴシック様式」の起源がイル=ド=フランスだったらしいというのはいいとして、建築様式をはじめとする技能は(そもそも中世には薄弱な)国境を越えて遍歴する職人集団によって伝えられたし、そうでなくともアイデアやノウハウは真似られ、流行し、継承され、いずれ改変される。近現代においても技術やアートは、たやすくネーションや国境を越えて伝播しますよね。
 また都市史の観点からも考えさせられる指摘があり、大聖堂とその周囲の街並みとの交わりについて、中島さんの図版に、18世紀前半までパリ・ノートルダム大聖堂のすぐ近くまで町家が建て込んでいたことが示されました。その後のクリアランスはパリやフランス諸都市に限らず、およそ啓蒙ヨーロッパに共通の改良(improvement)運動として展開するのが、おもしろい。イギリスでは18世紀が(道路や広場の)改良委員会の時代です。ロンドンの聖ポール大聖堂も、ケインブリッジのキングズ学寮チャペルも、周囲に(今あるような)公共空間ができるのは18世紀です。有名どころとしては、キャンタベリの大聖堂が「街並み改良」としては立ち遅れて、その結果、今日にいたっても建て込んで、ちょっと離れた位置から大聖堂全体の美しい写真を撮ることができませんね。観光絵ハガキでは、したがって、航空写真を使うのがふつうです!
 18世紀が啓蒙だけでなく、新古典主義とバロック・ロココ、あるいは加藤さんの論じられた「良き趣味」の拡がりという点からも、画期なのだ;ドイツでコゼレクたちの論じてきた Sattelzeit がここにも認められる、と思いました。このシンポジウムでは、ヴィクトル・ユゴーやル=デュクの中世趣味的な「修復」の観点を強調することによって、19世紀の中世=ロマン主義の時代性、それに先行した the age of enlightenment の普遍性みたいなことが浮き彫りにされたのかもしれません。

 音楽演奏では、ブリュッヘンたちの Orchestra of the eighteenth century,
専従指揮者のいない Orchestra of the age of enlightenment,
そして J E ガードナ(Gardiner)の Orchestre révolutionnaire et romantique
が競合し共存した時代をへて、今はまたすこし変貌しているかに見えますが。

2019年10月22日火曜日

芋づる式!?


 拙著『イギリス史10講』は今月初めに第12刷を出していただきました。
2013年12月に初版1刷でしたので、6年間にこれだけ増刷というのは有り難いことです。じつはそのたびに、気付いた範囲で、また該当ぺージ内での添削にとどめますが、ちょこちょこと改良・修文をしています。ですから、扉裏の年表に初版にはなかった「2017  EUからの離脱交渉始まる」といった記述がある、といったちょっとした改変があります。

 そういった著者の提案による加筆とはまた別に、今回あたらしく付いた帯に
つながる ひろがる、(芋づる式!)岩波新書
とあって、裏側にはなんと、
  金澤 周作『チャリティとイギリス近代』(京都大学学術出版会)
  小川 道大『帝国後のインド』(名古屋大学出版会)
  木畑 洋一『帝国航路を往く』(岩波書店)
  清水 知子『文化と暴力』(月曜社)
という4冊が挙がっています。
帯の折り返しに「芋づる式!読書MAPhttps://iwanami.co.jp/news/n31558.html
とあり、こちらをみると、さらに『図説 英国ティーカップの歴史』(河出書房新社)
も加わり、よくわからないネットワークが絡み合ったMAPが現出します。
https://twitter.com/maktan0308/status/1184790143850336256

岩波新書が岩波の他の本だけでなく、他社の出版物とつながっているのが良いですね。知らなかった本もたくさん。しかも大きなMAPの右下には、
  丸山真男『日本の思想』、内田義彦『社会認識の歩み』、安丸良夫『神々の明治維新』
といった本もあって、こうした名著と
「つながる ひろがる」岩波新書フェア
だそうで、ちょっと面はゆい。

2019年10月15日火曜日

都市史学会大会@青山学院大学

2019年度都市史学会大会のお知らせ

  日時 2019年12月14日(土)、15日(日)
  会場 青山学院大学青山キャンパス14号館12階(もより:渋谷・表参道)
     https://www.aoyama.ac.jp/outline/campus/aoyama.html

◆12月14日(土)
13:00~15:00  研究発表会  司会 小島見和
15:15~16:15  総会(会員のみ)
16:30~18:00  公開基調講演 桜井万里子「ポリスとは何か」
   紹介・司会 樺山紘一
18:30~21:00  懇親会 アイビーホール・フィリア 参加費6000円 学生5000円

◆12月15日(日)
「歴史のなかの現代都市」
  http://suth.jp/event/convention2019/
10:00~10:15  趣旨説明 伊藤毅(建築史)
10:15~11:00  北村優季(日本古代史)
11:10~11:55  河原温(西洋中世史)
12:00~13:00  昼食
13:00~13:45  桜井英治(日本中世史)
13:55~14:40  中野隆生(西洋近現代史)
14:40~15:00  休憩
15:00~15:45  妹尾達彦(東洋史)
15:45~16:00  池田嘉郎(近現代ロシア史)
16:00~16:15  北河大次郎(土木史)
16:30~17:30  討論

2019年10月10日木曜日

天皇像の歴史 シンポジウム

恒例の史学会大会@東京大学文学部ですが、今年は、公開シンポジウム「天皇像の歴史を考える」があります。

史学会大会・公開シンポジウム
日時: 11月9日(土)13:00~ (史学会賞授賞式のあと)

会場: 文京区本郷 東京大学・法文2号館1番大教室

公開シンポジウム 「天皇像の歴史を考える

<司会・趣旨説明>
  家永 遵嗣(学習院大学)・ 村 和明(東京大学)

<報 告>
  佐藤 雄基(立教大学)「鎌倉時代の天皇像と院政・武家」
  清水 光明(東京大学)「尊王思想と出版統制・編纂事業」
  遠藤 慶太(皇学館大学)「歴史叙述のなかの「継体」」

<コメント>
  近藤 和彦(東京大学名誉教授)

<討 論>

2019年10月8日火曜日

編集力の問題


 10月7日、『日経』文化欄にて、「誤記や捏造、揺らぐ出版」と題する、久しぶりに郷原記者の署名記事を読みました。
・池内紀『ヒトラーの時代』(中公新書、2019)
についてあまりに誤記、間違いが多い、という指摘に、研究者・小野寺さんのコメントが引用されています。じつは、こちらはそう珍しくない、多作な執筆者になくはない話かな、と思わせます。池内さんの翻訳文について、二昔ほど前にも話題になったことがありました。ゆったり温泉につかって書いているような随筆文なんでしょう。脇から舛添要一のコメントも加わったりして、やや混乱していますが、問題はやはり編集力ということではないでしょうか。

・深井智朗『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(岩波書店、2012)
こちらはずっと深刻で、表向きは学術的な、学問を否定する作品でした。捏造、盗用、デッチ上げ。すでに本人は東洋英和女学院を懲戒解雇され、岩波書店も公に謝罪してこの本を回収しています。

 郷原記者は、こうしたことが続く原因を、現今の出版社の点数主義と、編集者の(忙しすぎるゆえの)手抜きとしています。そのとおりですが、もう一つ、編集者の水準の低下、「ゆとり世代」の基礎学力不足も深刻なのではないでしょうか。専門書ならばレフェリー制度、というのが一つの解決策ですね。

・かくいうぼくも、じつは剽窃まがい(無断の借用)の被害者です。加害者は多作で名の通った大学教授(and 創業100年をこえた出版社の担当編集者)で、もしや教授殿から、本文はできたから、「地図等はテキトーにやっといて」と任されたのでしょうか。若い編集者が、それこそテキトーに手にした、近藤和彦編『イギリス史研究入門』(山川出版社、2010)p.394 の地図を無断で拝借したのでした(対照してみると、ぼくが選択した地名だけでなく、文字の配置・傾斜も、イタリックもすべて一致。海の波線は異なります!)。完璧なコピー&ペイストです。参考文献表のある本でしたが、近藤の名も『イギリス史研究入門』という表記も、巻頭から巻末まで、どこにも見当たりませんでした。
 その著者先生の人柄は前から存じていましたので、ご本人と交渉してもノレンに腕押し(!)でしょうから、出版社の編集部に釈明を求めました。
 直ちに、担当編集者とその上司から平身低頭の対応がありました。担当編集者(20代?)のセリフによると「地図なんてどれも同じ」、コピーライトがあるなんて知らなかったというのです。この老舗出版社の名声を揺るがすような発言でした。
 おそらく事態をはじめて認識した上司が奮闘したに違いありません。次の第2刷から(微妙にニュアンスをつけて)「近藤和彦著『イギリス史10講』による」という1行が地図の下に加わりました。執筆者ご本人はというと、ある時、ある所で遭遇したら、‥‥頭を下げずに「お騒がせしました」とのご挨拶でした!

2019年9月28日土曜日

アイルランド・チームは国境を越えて

 日本 v. アイルランド は19 対 12という結果でした。ぼくも思わずリアルタイムで観戦してしまいました。
BBC (www.bbc.com/sport/rugby-union)によれば、
Hosts Japan pulled off one of the biggest upsets in Rugby World Cup history as they beat world number two-ranked Ireland 19-12 in Shizuoka.

This was not a result borne of Irish indiscipline or stage fright, but of a truly stunning Japanese performance in front of a cacophonous crowd that lifted their side with a stunning noise that greeted every metre gained, tackle made and turnover won.
It is a result that will, regardless of what happens in the next six weeks of rugby, leave a legacy for generations to come, and will send rugby into a new stratosphere of popularity within the country.

¶ というわけで、ここまではスポーツナショナリズムに圧倒されそうな夜ですが、冷静に受けとめるべきひとつの事実があります。アイルランド・チームは、最初の anthem にも表象されていたとおり、Ireland's Call を歌い、「アイルランド共和国」+「北アイルランド」=アイルランド島 を代表している、つまり国境(政治)を越えたチームだということです。
Irish Rugby Football Union (IRFU)が1875年に結成されたときには、北も南もなかった、島内全域のラグビ・ユニオンだったから、その後の愚かな政治・歴史には左右されない、という単純明快な理由ですね。ラグビ・ワールドカップだけでなく、Six Nations (En, Sc, Wa, Ir, Fr, It) など国際試合での枠組です。
この点、しかしサッカーの場合は Irish Football Association (IFA)が結成されたのは1882年で、その点で事情は同じだったはずなのに、そしてアイルランド国が独立してからも1950年までは国際試合では(努力のうえ)単一チームを編成していたのに、1950年以後は北アイルランドとアイルランド共和国で別チームを編成せざるをえなくなった(政治に負けた)という事実があります。
サッカーに比べてラグビは、より紳士的でエリートの卵向きのスポーツだから、ということでしょうか? どなたか反論してください!

日本チームもまた選手31名中、海外生まれが15名という事実もあり、diversity という点では奮闘しているのですが、それを「君が代」や「さむらい」でまとめるというのが、残念ですね。Nation が政治と歴史によって形成されてきたのなら、このナショナル・チームにふさわしい、現代的な anthem で唱和できれば、much better なのにね。

2019年9月27日金曜日

主権は議会にあり、それを制限する内閣の決定は違法にして無効

 9月5日、13日にも書きましたとおり、迷走し、自由民主主義および社会民主主義の祖国というイメージを裏切りつづけるイギリスですが、現地24日の最高裁の判決(11名の判事全員一致)は、久方ぶりの快哉でした。
 この判決文は、全文24ぺージのPDFとして容易にダウンロードできます。
https://www.supremecourt.uk/cases/uksc-2019-0192.html Judgment(PDF)
 
 こう書くと「またデハのカミが」と揶揄されそうですが、それにしても最高裁判決が、このように知的で明晰だというのは、羨ましいかぎり。大学院の授業で教材として熟読したいくらいです。
 判決文の出だしに、1段落使って、重要なことだが、そもそも問題になっているのは Brexit の内実ではなく、ジョンスン首相が8月末に女王にたいして議会を prorogue するよう助言(進言)して10月14日までそのように定めたことが、法にかなっているかどうかである。このようなイシューは空前絶後であり、再発はありそうもない、one off (1回きり)である、と確認しています(p.3)。
 以下の論理がすばらしい。
 そもそも議会の会期の定義から始まります。Prorogation とは「会期延長」や「停会」ではなく、議会の活動停止であって、その間は議場での討議だけでなく、委員会で証言をとることもできないし、内閣に対して書面で質問することもできない。政府は法的権限内で権力行使できる(p.3)。
 Prorogation を決めるのは議会の権限でなく、君主(王権)の特権である。が、議会主権ということに随伴して、prorogue する権限は法によって制限される。というわけで、挙がっている先行法は 1362年法(エドワード3世)、1640年法、1664年法、1688年法(権利の章典)、スコットランド1689年法(権利の要求)、1694年法‥‥(p.17)
【法の年度の数え方が、われわれ歴史家と違って、法律実務家の慣行に従い、議会会期の始まった時点の西暦年で記されています。歴史的に[われわれの世界では]、権利の章典は1689年、権利の要求は1690年なのに‥‥】
 それにしても最高裁の判事さんたちも The 17th century was a period of turmoil over the relationship between the Stuart kings and Parliament, which culminated in civil war. という認識を共有しているのは嬉しいですね。The later 18th century was another troubled period in our political history . . . .(p.12) といった判決文を読み進むのは、心地よい。イギリス史をやってて良かった!と思える瞬間です。

 判決文の後半では、議会主権(Parliamentary sovereignty)という語が、何度繰りかえされているでしょう。きわめつけは、ブラウン-ウィルキンスン卿の判例からの引用で、 the constitutional history of this country is the history of the prerogative powers of the Crown being made subject to the overriding powers of the democratically elected legislature as the sovereign body (p.16). というのです。いささかホウィグ史観的だけれど、とにかく行政権力による議会主権の制限は違法であり、無効であり、ただちに取り消されなければならない、という力強い結論に導かれます。
 ここでは「議会絶対主義」という語こそ用いられないけれど、現在の民主主義の本当の問題は、まさしく
    議会主権 ⇔ ポピュリズム 
    議会制民主主義 ⇔ 人民投票型衆愚政治
というところにあるのではないか、と考えさせる、知的な判決。
 英国の最高裁が全員一致で、迅速に、こうした明快な判決を出したこと、そしてそれを誰にも読みやすい形で(全文とサマリーと)公表したことは、すばらしい。『イギリス史10講』の最後(p.302)を久方ぶりに読みなおすことができます。日本の司法もこうあってほしい。

2019年9月24日火曜日

脅迫メール!

(一見したところ)ぼくのアカウントから発信、ぼくのアカウントへの着信で、脅迫メールが来ました。
ビットコインで(50時間以内に)$730を払い込まないと、ぼくの見た恥ずかしいサイトや写真や etc. を知友全員にバラまくぞ、というのです。
でもこりゃ下手なコドモの脅迫だな、と判断して無視し、また皆さんに告知します。

理由の1:発信時刻がすでに問題。↓
Date:25 Sep 2019 05:29:16 +1100
これでハッカーの(中継地の)時刻が日本列島のぼくのアカウントとは異なる、太平洋のどこか(日本から時差2時間の所)、ということがバレちゃった!

理由の2:英語力に問題多し。
¶まず
Subject:Security Alert. Your accounts was hacked by criminal group.
・中1レヴェルですが、もし主語が accounts なら be動詞は were でしょう。
でも、この場合なぜ複数にしなくちゃならんのか、理由はないから、正しい主語は単数で Your account; そして時制を過去にすると「今と関係ない過去の出来事」になっちゃうから、正しい動詞は現在形で is とするか、あるいは現在完了で has been かどちらかでなくちゃなりません。
by criminal group もナチュラルでない。単数形なら a という冠詞が必要。無理にでも The Criminal EX とかいう固有名詞にしてもよかったね!

¶つづいて、本文の書き出しですが
As you may have noticed, I sent you an email from your account.
・ここでも時制が問題で、ワンセンテンスのなかでは時制を一致(照合)させなくちゃいけないわけで、I sent you という過去形はありえない。I send you か I'm sending you かどちらかでしょう。

¶そしてちょっと複雑になると、構文が混乱しちゃう。
This means that I have full access to your device. . . .[中略]
This means that I can see everything on your screen, turn on the camera and microphone, but you do not know about it.
・この turn on the camera and microphone が、どう that I can see に繋がっているのか、全然不明ですね。I can see you turn on . . . なら成りたつけど。
最後の , but you do not know about it の部分も、大学生以上ならもう少し気の利いた句にできたでしょう。
つまり「犯行グループ」の英語力は、非ネイティヴないし英語国なら高校中退レヴェルで(自分と同じ程度の)不良ユーザを相手に引っかけようと企んだ、と想像されます。払込金額が730ドル(7-8万円!)というのも、あながち無理ではない実行可能な額、というので設定したのでしょうか?

理由の3:脅迫されているぼくのアダルトサイト閲覧とかそれに類似した事実はなく、こちらに暴かれて困る事実はないので、ここは強気に出ます。【クリントン大統領のホワイトハウス・スキャンダルが話題になった Windows 開闢期[1990年代!]にその関係を数度にわたって閲覧したことはありますが‥‥】
ぼくと似たメールアカウント(とくに @nifty)をお持ちの方々、同じような脅迫メールが来たら、どうぞ慌てず騒がず、だまって無視し、削除してください。
なお
If I find that you have shared this message with someone else, the video will be immediately distributed.
というのが脅迫の最後のセンテンスです(ここでも英語として正しくは anyone else でしょう!)。今後どんなヴィデオが拡散するのか、笑って期待してください!

パソコン・バッテリーの健康管理


 この夏は、全国的な猛暑、そして台風や前線の通過にともなう「線状降水帯」や「経験したことのない」ほどの強風の被害がつづいて、大変なことでした。ぼくの身の回りでも、たしかに雨や風のすごさは感じましたが、特別の被害はなく、その点は有り難かったです。
 IT関連では家族のケータイやぼくの WiMax について(その料金システムについて)いささか不審な/納得できない点は残りますが、致命的な問題というわけではない。

 そうした折に、ぼくの知己のなかでも最高の IT リテラシを誇ると思われたDくんが、大きなPCトラブルに見舞われたとのこと。
 「‥‥PCがバッテリー膨張を起こし、PC内部の入れ替え(データも一から再構築)などもありました。火災事故の一歩手前だったという訳です。四半世紀PCを使ってきましたがはじめての経験でした。」

 またこれに加えて、同じころ、TさんのPCが突然壊れたということで、「先生もお気を付けください」というメールをもらっても、いったい、どう気をつければ良いのだろう?
 近年は(以前と違って)毎夜、仕事終わりには電源をシャットしていますし、
充電バッテリーに過剰な負担をかけないよう、常時コンセントに接続はせず
また100%に達したら電源からはずして使用する、
とかいった心がけ程度かな。

 Dくんからは、折り返し、
「ノートパソコンの場合、スイッチを切っていても、ACアダプタにつなげているだけでバッテリーに負荷がかかっているのだと思います。ノートパソコン(そのほかスマートフォンなどバッテリーに接続させる機器はすべて)はACから外すことも必須なのだろうと。
 実のところ、同系列の MacBook Proではバッテリー問題ですでにリコールがあり、一部の航空会社は当該機種の機内持ち込みを禁止しています。‥‥」

 マックではないぼくとしては、Windows系で検索して、こんなウェブぺージに行き当たりました。
https://panasonic.jp/cns/pc/appli/workstyle/pc_knowledge/battery.html

こんなことが書いてある。↓ <こちらはぼくのコメント>
¶買ったままの初期状態でノートパソコンを使っていると、バッテリー残量が分かるとはいえ、作業内容によっては急速にバッテリーを消費することもあります。モバイルワークや移動が多いビジネスマンにとっては、作業する環境や時間を考えた電源管理が重要です。
<ビジネスマンならぬ知的生産者にとっても当てはまりますね!>
1. 画面の輝度を下げる
 輝度とは画面の光の明るさのこと。画面が明るすぎるとバッテリーの消費も大きくなるので、周りの明るさに合わせて適切な輝度に調整しましょう。

2. 不要なUSB機器を外す
 プリンターや外付けハードディスクなどを電源オンの状態で常時接続しているとパソコンのバッテリーを消耗するので、使用時以外は外しておくのがベスト。

3. 使わないアプリを終了する
 マルチタスクで多くのアプリを立ち上げていると、バッテリーの消費が大きくなりがちに。使わないアプリはこまめに終了させましょう。
<こまめに終了させるというより、そもそも使わないアプリは Uninstall してスッキリするのが一番。>

¶<さらには根本的な考えかた、というか、だいじなノウハウですが:>
【バッテリーを長持ちさせる3つのポイント】↓
1. なるべくバッテリーを低い温度で管理する
 バッテリーを高温の状態で使い続けてしまうと劣化するスピードを早めてしまいます。 しっかりと排熱・冷却し、なるべく低い温度で使うようにしましょう。

2. バッテリーの充電回数をなるべく減らす
 バッテリーは充電を頻繁に行うと劣化するスピードが速くなります。充電回数をなるべく抑え、パソコンを長時間使用しないときはACアダプターを外しましょう

3. 使用状況に合わせてバッテリーを変更する
 ひとつのバッテリーを使い続けるのではなく、状況に応じて複数のバッテリーを使い分けましょう。バッテリーへの負担も少なく、持ち運びも快適になります。

→ こういうことって、常識にしたいですね!

 じつは、もっとも肝要なのは、PCよりもそれを使うご本人の健康状態です。
 お互いに、もう馬力だけで勝負するのでなく、質を大切に、良き人生を歩みましょう。

2019年9月22日日曜日

大庭健さんを偲ぶ会 

 今日22日(日)、専修大学の眺望の良い部屋で大庭健さんを偲ぶ会が催されました。遺された原稿を編集した『人-間探究としての倫理学 - 遺稿』というA4の冊子(付録と一緒で計160ぺージ)もいただき、また回想や逸話を聞いて充実した夕べでした。
倫理学・哲学関係のみなさんに続いて、ぼくも旧友として4番目に挨拶をしました。他にもっと適切な方が(とくに折原先生とか、八木さんとか)おられるはずですが、その代わりのようなつもりで、また弟分のような気持でお話ししました。要点は以下のとおりです[一部割愛します]。

¶ 昨年10月に大庭健さんが亡くなり、11月23日、柏木教会の葬儀告別式に参りました。
 → http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html
ほぼ1年後の今日は「偲ぶ会」に来ているわけですが、残念ながら、じつはどちらの会でも存じ上げないお顔ばかりです。これは、大庭さんの人倫の交わりの広がりのうち、近藤がクリスチャンでなく、哲学・倫理学関係でもなく、専修大学関係でもない、マージナルな所に位置しているため、と思われます。Odd man out ではありますが、大庭さんの死を悼み、お人柄を偲ぶという点では人後に落ちないつもりです。機会をいただきましたので、1960年代後半、大庭さんが倫理学者・大学教師になるより前のエピソードをお聞きください。

¶ そもそもぼくが大庭さんに出会ったのは、1967年の春、折原浩先生の一般教育ゼミでした。大庭さんが東京大学に入学なさったのは1965年で、ぼくはその1年下です。なにか人文社会系の学問みたいなことをやりたいと思っていましたが、焦点は定かでなく、大教室で聴いた3つの講義がおもしろいな、と思っていたころでした。
 と申しますのは、第1に城塚 登 先生の社会思想史、第2は京極純一先生の政治学、第3が折原先生の社会学でした。デュルケムの自殺論からアノミーを論じ、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』や『経済学批判』から唯物史観の考えかたを説き、ヴェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』から信仰・社会層・生活規範の分析をやってみせる。大学に入学したばかりの者に、岩波文庫の何ぺージ、何行目と指示しながら学問のイントロダクションをやってくださったのです。圧倒されました。2年生になる前に直訴して、講義とは別に開講されていた小人数のゼミに出席させてくださいとお願いしたのです。
 折原先生はまだ31歳で、駒場の教員になって3年目。ヴェーバーの『宗教社会学論集』を踏まえながら、テキストとしてはあの『経済と社会』のなかの「宗教社会学」という章、まだ翻訳がなく、英訳を用いてこれをしっかり読んでゆく演習でした。このゼミを仕切っていたのが(駒場で3年目の)大庭さんだったのです。読み進むにつれて、パーソンズの弟子フィショフの英訳にはいろいろ問題があるというので、結局ドイツ語のテキストを参照することになりますが、そのドイツ語の読み方から、報告レジュメの切り方、討論の仕方にいたるまで、リードしてくれたのは大庭さんでした。折原先生も、大庭さんを右腕のように頼もしく思っておられたのではないでしょうか。

¶ 翌68年度に、大庭さんは熟慮のうえ(何度も和辻哲郎の名をあげていました)倫理学へ、ぼくは西洋史へ進学しました。同時に折原先生の駒場のゼミには2人とも毎週欠かさず通いましたし、文学部では「宗教社会学」という講義を始められたので、これも出ました。さらに大庭さんに誘われて、駒場の杉山 好先生のお部屋で隔週でしたか、夕方からヴェーバーの『古代ユダヤ教』を読みました。みすず書房の内田芳明訳がすでに出ていたのですが問題が多い翻訳で、原文を読んで、誤訳や不適訳を見つけて腐(くさ)す、という会でした。ドイツ語については杉山先生の学識に大いに啓発されましたが、その信仰心には付いて行けず、居たたまれなくなることもありました。『古代ユダヤ教』については、その後も(杉山先生抜きで)68年夏に野尻湖のある人の別荘で合宿して読み合わせました。
 少し前後しますが、折原先生も書いておられるように、68年の学年始めまで「約3年間[余り]は、講義と演習の準備に追われ、学問の季節‥‥」(『東大闘争総括』p.134)だったということですが、その学問の季節をぼくたちも、大庭健、社会学の八木紀一郎、舩橋晴俊、経済史の八林秀一といった人たちとご一緒できたのは幸せなことでした。今のぼくの学問の基礎力・エッセンスのようなものは、折原ゼミと大庭さんによって学び、鍛えられたと考えています。

¶ そうこうするうちに、68年6月17日に本郷キャンパスに機動隊が導入されて、学内の空気は一変し、学科討論やゼミ討論、そして無期限ストライキへと向かいました。ナイーヴなぼくにとってはエキサイティングな政治の季節の始まりでしたが、大庭さんの場合は落ち着いて運動も学問も積極的にこなしておられたようで、だからこそ無期限ストライキのさなかに大庭提案による『古代ユダヤ教』合宿もありえたわけです。68年6月に始まった文学部の無期限ストライキは、1年半後の69年12月まで続きます。
 急いで付け加えますが、この18ヶ月におよぶ学園闘争中に政治と学問は別のものではなく、一つのことの二つの面でした。だからこそ、マルクスやヴェーバーといった古典から、大塚久雄や丸山眞男を読み、さらにルソーやスミス、内田義彦や平田清明『社会主義と市民社会』を読み合わせる会のようなことをずっと続けていました。
若い世代、といっても今60歳未満の方々ということになりますか、この点ははっきり区別していただきたいのですが、一方で、東大執行部の権威主義的でパターナルな姿勢を批判する、ビラのガリ版を切り、謄写版で何百枚か刷り、食堂や教室の入り口で配る、立て看をきれいに仕上げて銀杏並木に立てかける、ヘルメットをかぶって街頭デモ行進をするといったことと、他方で、ゲバ棒を人に向かって打ちつけるとか、「帝大解体」を叫ぶとかいったことは、全然別のことでした。

¶ 70年代に入ると大庭さんの口からベンサムの pleasure & pain、 分析哲学、そして廣松渉といった名がしばしば出てきて、なにか大きな展開が始まったな、とぼくにも感じられました。その後、ご存じのとおり、大庭さんは倫理学者として、広く人と社会にかかわる発言に積極的に取り組むことになります。ぼくの最初の単著は『民のモラル』というタイトルで、大庭さんにも送りましたが、人倫を問い続けていた大庭さんの感想はまた独特でした。
 最後にお目にかかってお話したのは2007年で、図書館長として多忙ななか、専修大学で「人文学の現在」といった講座を企画して、ぼくにも加わるよう誘ってくださったのでした。これは残念ながら実現しなかったのですが、その折のメールのやりとりで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、心配していました。
 たくさんの本を出版なさり、倫理学会会長もつとめ、漏れ聞いているだけでも「大庭兄」に私淑している方は何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったと思いますが、知的な影響力という点で実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした影響を享受した「弟分」の一人です。
 大庭さん、ありがとうございました。

2019年9月17日火曜日

後ろを見つめながら未来へ


暑さをなんとか凌いだところで、ちょっと振り返りますが、

・5月19日(静岡大学)の西洋史学会大会・小シンポジウムは、ぼくにとっては3月18日のブダペシュトのつづきで、フランス革命におけるジャコバン独裁の研究、他国のジャコバン現象の研究、共和政と民主主義の歴史といったことを考えることができて良かったのですが、文章にしないとなかなか定着しませんね。パーマの『民主革命の時代』の学問的な前提にあった両大戦間の corporatist の研究からなにを学ぶかという点で、二宮史学を相対化できたのも、思わぬ成果でした。

・5月26日(立教大学)の歴史学研究会大会・合同部会は、主権国家再考 Par 2 ということで、昨年(Part 1、早稲田大学)のつづきでした。すでに『歴史学研究』976号(2018)に昨年の合同部会における研究発表・コメントと討論要旨が載っていて、「‥‥公共的で批判的な学問/科学の要件」『イギリス史10講』p.165 が満たされています! 今年の大会増刊号のために「主権なる概念の歴史性について」という小文を書いて、すでに初校ゲラも戻しました。秋の終わり頃には公になっているでしょう。それにしてもぼくは、皆川卓氏と岡本隆司氏の引き立て役にすぎません。
この間、合衆国のトランプ、連合王国のジョンスンばかりではない、中華人民共和国の習近平、大韓民国のムンジェイン、日本国の安倍晋三、等々の政治家たちはみな「主権の亡者」のごとく、マスコミもまた国家主権の強迫観念を客観視できないようです。

・今秋の11月9日(東京大学)ですが、史学会大会シンポジウムでは〈天皇像の歴史〉という共通論題で日本史3名の研究報告があり、なぜかコメンテータは近藤です。
すでに準備会などで討論していますが、ぼくとしては第1に、君主の位の正当性根拠(3つの要件)*といったことから、「万世一系」を正当性のなによりの根拠としているらしい日本の天皇という制度の独自性を際立たせたいと思います。第2には、江戸時代から明治時代への転換において、いかにして欧語 emperor の指す権力が征夷大将軍(imperator)から天皇(総帥権をもつ皇帝)へと変わるのか、維新の政治家たちの判断(決断)理由を問います。エンペラーという語がカッコイイというのもあったでしょう。19世紀半ばという時代性を際立たせたいと思います。
なお大日本帝国憲法について、その絶対性ばかり指摘されがちですが、じつはその第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬し、此ノ憲法ノ条規ニヨリ之ヲ行フ」とあるように、モンテスキュにならって、君主制は即、法の支配の下にあると明記していました。だから美濃部「天皇機関説」こそ正しい解釈だったのですね。
それをファシストたちが崩していったときから日本帝国は法治国家でなくなり、いわゆる「天皇制絶対主義」という解釈の余地が生じてきます。安丸良夫、丸山眞男の見識を再評価したいと思います。他方で、講座派およびその優等生・大塚久雄は、ここの転換のデリカシーを受け容れない、硬い解釈を採っています。

* 君主位の正当性の3要件とは、『イギリス史10講』を貫く理屈のひとつの柱でした。p.33 から p.274まで。

2019年9月13日金曜日

Contingency は「偶然」ではない


 「取り扱い注意!」の行政文書のつづきです。
 歴史家としては、ここで contingency というキーワードが使われていることにも注目します。これまで修正派(revisionist)がよく使う語として(必然史観の反対の)「偶然性」といった訳語とともに紹介されてきましたが、それでは不適訳です。偶然どころか、複数の要因が複合して生じる、情況しだいの非常事態
 良い辞書には contingency plan=非常事態の防災計画、
contingency reserves=危険準備金、
contingency theory=(経営学における)普遍一般理論でなく、経営環境に特化した情況適応理論*、 そして
contingency fee=成功報酬! つまり必然ではないが、努力の成果にかかる報酬、
といった説明があります。
 (*いま「私の履歴書」を執筆しておられる野中郁次郎さんの博論も、この関係だったのですね。今日の『日経』)

 修正主義を語る歴史家の皆さんも、再考してください。

Brexit 取り扱い注意!


 イギリス政府に「黄アオジ作戦」と称する「取り扱い注意」official sensitive の行政内部文書があることは8月に部分的なリークによりわかっていたのですが、きのう議会の議決により公開されました。EUから強行離脱した場合にはどうなるか、8月2日付けで各省庁が想定したことを集計した文書です。Reasonable Worst Case というのですが、「合理的に想定できる最悪のケース」です。Operation Yellowhammer というキーワードで検索すれば、どこからでもダウンロードできます。印刷設定によりますが、A4で5ぺージ。

 驚くべき事態が想定されています。
 EU 離脱の日に「UKは完全に「第三国」の地位に陥り」、2国間協定は加盟国のいずれとも結ばれていない。いま公衆も企業も、準備は低水準で、大企業は多少の contingency plans を準備してきたが、中小の企業は相対的に不十分。とりわけ離脱が秋冬なので、(従来もあったように)厳冬、洪水、インフルエンザなどがあると、事態はさらに悪化。
 あまり報道されてこなかったことだと思われますが、国境を越える(cross-border)金融サーヴィスに支障が出るだけでなく、オンラインの個人データの流れも、治安情報のデータの流れも支障をきたすだろう(may ではなく will という単純未来の助動詞を使っています)。イギリス人が EU市民権を失うことにともない、現在享受している権益について、個別に交渉し保持する必要があるが、事態の認識は遅い。
 アイルランドとの間の関税問題は報道されていますが、ジブラルタルについても、近海の漁業権についても問題がある。非合法の(ヤミ)経済の増大、被害をうける人々の「憤りとフラストレーション」が生じるだろう。抗議行動、対抗抗議行動が全国で生じ、かなりの警察力が費やされるかもしれない。秩序の紊乱やコミュニティの緊迫(public disorder and community tensions)もあるかもしれない(こちらの助動詞は may)。
 低所得者は、食料と燃料の価格上昇により特段の悪影響を受ける(disproportionately affected)だろう。大人の社会保障については大きな変化はないだろう。大人の社会保障市場はすでに脆弱だから。‥‥

 驚くべきは、ジョンスン政権が、こうした行政当局から上がってきた「取り扱い注意 行政文書」を読み理解しておりながら、なんの妙案もないまま、強行突破しようとしていることです。EUから抜ける、ということだけが自己目的で、国民生活も、近隣との良き関係も、歴史と未来への展望も考えていないようです。主権(sovereignty)の亡者? あるいは正気を失っている? ナチスが諸悪の根源をユダヤ人としたのと同じように、ジョンスン政権は諸悪の根源をEUだとして、国民とヨーロッパを奈落に落とし込めようとしている。
 【ヒトラー首相が最後に愛人と愛犬とともに自殺したとおり、ジョンスン首相も最後に愛人と愛犬とともに同じ運命をたどるのでしょうか?】

2019年9月5日木曜日

迷走する英国に将来はあるのか


8月末に書きましたとおり、ひたすら引き籠もりの夏ですが、イギリス議会のことは危機感とともに見ています。ジョンスン首相の議会 suspension (延期・一時権限停止)案というのは17世紀のチャールズ1世以来の暴挙、すわ革命か、といった策です。
9月3日の官邸前記者会見で訴えたのは、1. Police, 2. Hospital, 3. Schoolへの予算配分だけ、これであとは‘no IFs, no BUTs’の Brexit へ突入するというのですから、無手勝流もいいところです。内政というより保守党支持者を繋ぎ止めるための政策だけで、あとはどうしようというのでしょうか。これが英国首相の演説とはにわかに信じられません。

現地4日(水)の庶民院では
1) 野党提案の「No-deal Brexit を阻止する法案」可決。
2) これに対抗して首相から解散・総選挙提案、これは圧倒的に否決。
与党保守党から党議違反の21議員が造反し、除名。
ソースは https://www.bbc.com/news/uk-politics-49580180
     https://www.bbc.com/news/uk-politics-49584907

では、これで野党筆頭の労働党が優位に立ったかというと、残念ながら党首ジェレミ・コービンはただの旧左翼です。1980・90年代にサッチャ・メイジャ政権が長く続いた根拠にはときの労働党の無為無策がありました。今回も - 2010年以来の長期保守党連立政権です - 似ていると思います。ブレア・ブラウンの新労働党政権(1997-2010)が去ってから、労働党は New Labour でなく Old Labour に戻っちゃったのですね。
たしかに2016年以来のキャメロン・メイ・ジョンスンのリーダーシップには愚かで党利党略に走ったところがありました。でも、その愚策のままに許したのは野党第一党の労働党です。
英国(美しくひいでた国)と表記されて、明治以来の日本人の多くから一目置かれてきたイギリス、連合王国。
歴史と金融と高等教育で生きながらえてきた老大国は、2016年のレファレンダムから以降の混乱を抜け出さないかぎり、人材もカネも流出して、尊敬も注目もされない、ただ歴史をほこるだけの老国になってしまうでしょう。
歴史的な老国といっても、イタリアの場合は、風光明媚で、北から南まで魅力が尽きない、男女とも魅力的、なんといっても(どこへ行っても)食べたり飲んだりに楽しみがある。
イギリスは、太陽が不足して、なにしろ食べたり飲んだりに楽しみがない! 

2019年8月31日土曜日

書いて考える/考えて書く

久方ぶりですね。
8月はひたすら内省と執筆の月でした。

去年の学生たちと読んだ Gordon Taylor, A Student's Writing Guide: How to plan & write successful essays (Cambridge U. P., 5th printing, 2014) ですが、気の利いた引用が多くて、読み進むのが楽しくなったものです。ときに再読しますが、ここには註の付け方とか巻末の参考文献表のスタイルをどうするか、といった退屈で、また大学や学会・出版社により少しづつ異なるルールには踏み込みません。そんなことは各々のルールに黙って従えばよいので、論文(原稿)が書けるかどうかで必死になってる人には副次的な問題です。
I have always preferred to reflect upon a problem before reading on it. Jean Piaget
関係文献を読むより、まずは何が問題なのか考えをめぐらす(瞑想する)ことが大事だというのですね。
さらには
How do I know what I think till I see what I say.  E. M. Forster
書いて文字になったものを見て、はじめて自分が考えていることがわかる!

よーく考えて、まずは書き付ける(引用はまずは記憶に頼ってよい)。どんな点で至らないのか、何をさらに調べなくてはいけないのか、目に見えるようにする。関係文献を探すのはそれからで良いし、何をどう読みなおすべきかもわかってくる。
とにかく頭の中にあることを文字にしないまま考えを進めたり、論文を書き進める/議論を展開するとかは(天才でもないかぎり)不可能だ、ということですね。
E. H. カーが『歴史とは何か』で言っていた(あまり引用されない)本質的なポイントは、
「素人の皆さんは‥‥歴史家は関係史料をしっかり読み込んで、ノートもファイルしたうえで、機が熟すと、おもむろに著書の最初から順に終わりまで書き下ろす、とでもお思いでしょうが、そうは問屋は下ろしてくれない。少なくともわたしの場合は、二三の決定的な史料(証言)と思われるものに出会ったら、むずむずしてきて(the itch becomes too strong)書き始めちゃう。それは最初か、どの部分か、どこでもいいんです。で、それからは読むのと書くのとが同時に進むんです。読み進むにつれて、書いた文は追加されたり削られたり、修文されたり棒引きされたり。書いた文章によって[史料・文献の]読みの方向が定まり、実を結びます。書き進むにつれて、わたしが探しているものが分かってくるし、わたしの所見の意味と関連性が理解できるようになるのです。‥‥」Taylor, p.6.
この引用があるだけでも、著者 Taylor先生の聡明さが想像できるというものです!

昔(まだ100%手書きの時代に)、ぼくの近辺に「メモやノートは必要ない、読んだことは頭に入っている。ひたすら原稿用紙に向かって書いて行けばいいのだ。めったに書き損じはない」とうそぶく男が2人いました。はたして天才だったのでしょうか? 1人は(すでに故人です)一生の間に論文(らしきもの)を2本だけ書きました。もう1人は(定年で退職しました)一生の間に書いたのはすべて学内紀要で、全国誌にはひとつもありません。もちろん欧文はゼロ。2人のどちらも今からみて研究史的に意義あるものは残していませんし、その名前さえ、近くにいた人以外は知らないのではないでしょうか。つまり書くこと、推敲することを疎んじて、書いて考える(自分の文章を導きに、批判し、考えを深め展開する)といったことをしない人は、学者研究者としては成長しないということかな。

2019年7月24日水曜日

ジョンソン政権 !?


ボリス・ジョンソンおよび選挙の顔として彼を立てる保守党議員たちは、戦後スエズ危機(1956)にいたる保守党チャーチル、イーデンに似て、ほとんど天動説に近い自己満足の世界観・歴史観にもとづいて、EUの軛(くびき)から解放されてイギリスの主権を回復すれば、あとはなんとかなる(We will do it!)と公言しています。'can do' の精神だそうです。

その驕慢は、石原慎太郎に似ていなくもない。慎太郎は東京都知事に終わって今は存在感がないけれど、慎太郎よりはるかに若いボリスの場合は、ハッタリと右翼的(かつ本音の)発言によって、反知性的な有権者の心をつかみ、ロンドン市長 → 外務大臣 → 保守党党首といった階梯を上ってきました。

イギリスの産業もインフラも(日本やドイツに比べて)驚くべく劣悪なのに、イギリスの経済社会がなんとかやってきたのは、金融・情報・学問(高等教育)が様になっているおかげ。しかし、それはEUメンバーであり、ヨーロッパの中心の一つだから成り立っていたわけです。
予測される hard Brexit では、まもなくヨーロッパ人材も消え、ヨーロッパの情報ネットワークも失い、関税障壁ですべてが滞ってしまい、(人文主義、ユダヤ・ユグノー=ディアスポラ以来の)ヨーロッパ枢軸=青いバナナのすべてのメリットを自ら切って捨てるのです。こんな愚かなことはサッチャ首相さえしなかった/できなかった。
cf.『イギリス史10講』p.75; 『近世ヨーロッパ』p.30

アメリカ合衆国との特別のつながりがあるさ、と(チャーチルとともに)うそぶくかもしれない。アメリカの舎弟としてかしづく覚悟なんだろうか。あたかも安倍政権における「日米同盟」と似て、取り戻すとされていた、いわゆる「主権」はどうなるんでしょう? 

こうしたボリス・ジョンソンの政権は、実行力も交渉力もないので、じつは短命だとしても、彼を選んだ保守党、そしてイングランドの自己満足有権者 ⇔ 左翼主義の労働党(ブレア・ブラウン時代とは決別)の対立構図からなるイギリス(連合王国)の政治文化の先行きは暗い。

2019年7月23日火曜日

英国の混迷

ついにイギリス保守党はボリス・ジョンソンを党首に選びました。
BBCによれば、勝利宣言につづいて、
He vows to "deliver Brexit, unite the country and defeat Jeremy Corbyn"
ということで、
Several senior Conservative figures have already refused to serve under him.

こんなにも下品で分断的で顕示欲=権力欲むきだしのポピュリスト政治家が一時的にでもイギリス首相の座につくなんて! すでに現メイ政権の大臣たちの(期日前の)辞任声明がつづいていますが、一種の政治危機に陥るのだろうか。

BBCの伝えるSNP(スコットランド国民党)のブラックフォードの発言によれば:
He [Blackford] says he is "much more confident than I've ever been" to stop a no-deal Brexit. He urges Parliamentarians "across the chamber to recognise the damage" that a no deal can do. "We are at an impasse. Boris is not going to be able to fix this," he warns.

保守党のこうした「戯れ」を許している一つの根拠として、野党労働党首コービンの左翼主義が無力だ、という事実があります。サッチャ政権(1979-1990)があれほど長かった一つの根拠にも、当時の労働党の無為無力がありました。ブレアの New Labour はいずこへ? このようにイラク戦争におけるブッシュ政権とブレア首相の「心中」は、今にいたるまで深い傷を残しています。

2019年7月17日水曜日

折原先生とヴェーバー


レイシストではないかと抗議する記者に向かって、例のトランプ大統領が "Silence!" と繰りかえす場面がNHKテレビでも放映されました。
"Shut up!" ほど下品ではない(!)とはいえ、公人が公共の場で使う言葉ではありません。せいぜい "Please be quiet." かあるいは "No. I'm not following you./I don't agree with you." までが許容範囲かな。

ぼくがしばらく沈黙していたのは、トランプに威嚇されたからではなく、この数週間、公私のさまざまなことが続いて、その対応に追われていただけのことです。

さて、13日(土)には東洋大学にて折原先生を囲む会合があり、三部編成でたっぷり4時間話し合い、その後も懇親会が続きましたが、半ば同窓会に近い感じもありました。残念ながらもうこの世にいない人も。
なお、出席者・発言者の年次というか世代の違いが第一部と第二部という形で顕在化するような気配がちょっとみえたので、第三部のおわりに挙手して、次のようなことを言おうとしました(即興でうまく言えなかったので、ここで補います)。

折原先生はヴェーバー『宗教社会学論集』第I巻(1920)の序言、最初の段落、とりわけその
der Sohn der modernen europäischen Kulturwelt
という表現の意味について、1968-9年以後でなく以前から慎重に解読してくださっていました。ぼくの仮訳ですと、
「近代ヨーロッパの文化世界の子が、普遍史[世界史]的な諸問題をあつかうにあたって、次のように問いかけるのは不可避にしてまた正当であろう:すなわち、いかなる事情の連鎖によってまさしく西洋という地において、ここにおいてのみ - 少なくともわたしたちがそう表象したがるように wie wenigstens wir uns gern vorstellen - 普遍的な意味と有効性をもつ方向に発展する文化現象が出現することになったのか、という問いかけである。」GAzRS, I, S.1.

1段落1センテンス、息の長い緊密なヴェーバーの文体です。これはときにヴェーバーによる近代ヨーロッパ、その普遍性の全面的な正当視、むしろその信仰告白と受けとめられることもありました。しかし、
「近代ヨーロッパの文化世界の子(der Sohn)」というからには、父と息子の単純でない関係(継承・反抗・独立)が暗示されています(ここまでは13日第二部の三苫さんも指摘)。さらに「少なくともわたしたちがそう表象したがるように」といった挿入句には、はるかに自己意識的なニュアンスに富む比較文明史的なマニフェストが込められている、と読みとれます。第一次世界大戦が終わり、(インフルエンザで急死する前の)56歳、脂の乗りきった著者が大冊論集3巻本の劈頭にかかげる序言の、最初の段落です。
この挿入句は、ヴェーバーが近代ヨーロッパ文化世界の普遍性を自明の前提とはしていないばかりか、その(中近世からの)歴史的形成をみようとしている証、と理解することができるのではないか。ヴェーバーをみる際にも、折原先生をみる際にも、第一部と第二部に通じる、連続性にこそ注目したい、と考えて、発言しました。
(早くは『岩波講座 世界歴史』第16巻(1999)の「近世ヨーロッパ」pp.3-4 でわずかながら論じました。)

会合を準備してくださったみなさんにお礼を込めて。

2019年6月30日日曜日

'Moral economy' and E P Thompson


よく分かっている人たちから、こんな反応をいただき、素直に喜んでいます。
'Moral economy' retried in digital archives.
自負と不安との相半ばするぺーパーだったものですから。
みなさんが EPT と呼んでいるのは、もちろん Edward P. Thompson (1924-1993)のことです。

MJB
It was very good to hear from you, and many thanks for sending me your essay on Thompson. Its doubly-interesting to me: I am trying to get funding for a research project on the politics of bread from 1300-1815, part of which is about linguistic shifts, and your material is really helpful; and I am also beginning work on a biography of Christopher Hill, so your thoughts about this intellectual milieu are also very stimulating. I didn’t think it was disrespectful or damaging to EPT at all - I am sure he would have been interested in this material, and keen to use it to think about his case.


PJC
Thank you for your splendid bibliometric investigation into the concept of Moral Economy, which has just reached me. It's a very useful as well as insightful study. I am sure that the late EPT would himself have welcomed it. His conclusions might have differed from yours. (As we all know, he quite enjoyed differing from everybody at some stage or other in his intellectual career).

But I am sure that EPT would be delighted that you have found some key eighteenth-century examples ('I told you so', he would have triumphed) and he would appreciate the care with which you have dissected shades of meaning in the term's application. Well done.

I am currently writing something on styles of digi-research and I intend to quote this essay as a good example of a productive outcome.


JSM
So good to hear from you and to receive the offprint of your essay on EPT and moral economy. As you know I have made fruitful use of word search on EEBO and BBIH to help me understand the emerging historiography of the seventeenth century and I was very excited by Phil Withington's work on the term 'early modern' and keywords within the early modern.

So I needed no persuading that you had a sound idea and I think you used the technique with real flair to get a real deepening of the great breakthrough that 'Making' represented. I like the way you demonstrate the tensions within the 18th/early C19th usage and suspect EPT would have relieved by what you have found! It helps me because I use Scott's sense of moral economy in my own work on the Irish depositions of 1641, seeking to distinguish the moral economy of the eye-witness testimony with the moral economy of the hearsay. I will be better informed in how I use the terms going forward.


2019年6月25日火曜日

ゼラニウムとペラルゴニウム


 ベランダで気になるもう一つの花がこれで、どうも日本語のサイトでは分かりにくい。
RHS 【Royal Horticultural Society[英国園芸学会], なんとこちらのほうが Royal Historical Society より創立は早く、したがって後者は略称を R. Hist. S. としなければならないのでした!】のサイトで探してみると、
https://www.rhsplants.co.uk/search/_/search.pelargonium/sort.0/
このとおり、下と同じく Pelargonium (ペラゴーニアム)なのでした。なんとヴァラエティのある花なんだ! 南アフリカ原産。
【学会サイトなのに通販価格も明記されているのが、イギリス的です!】

 きれいで育てやすい5弁の花としての共通性もあり、英語の世界でもいわゆるゼラニウム(ジレイニアム
https://www.rhsplants.co.uk/search/_/search.geranium/sort.0/
とよく混同されているとのことで、素人向けに ↓ のような区別がしたためられています。
https://www.rhs.org.uk/plants/popular/pelargonium
Did you know?  Common names can cause mix ups. ‘Geranium’ is the name most people use when talking about Pelargonium. But Geranium is actually a different plant genus, so to help avoid confusion some refer to Geranium as ‘hardy geraniums’, and Pelargonium as ‘tender geraniums’.

 さらに詳しい説明は ↓ 別の団体サイトですが、
https://geraniumguide.com/difference-between-geraniums-and-pelargoniums/
 なんと18世紀、リンネの命名からまもなく論議は始まったとのこと!

2019年6月8日土曜日

可憐な花


 ベランダが南と北にありますが、わが書斎は北向きで、夏の朝以外は日の当たらないベランダ(ポーチ)で、手入れらしいことをしなかった鉢の植物から、細い茎がまっすぐ伸びて、先にツボミを付け、開花しました、いくつも。 
 可憐なピンクの花房が日に日に増えて、今は花房が10も。日持ちします。しらべると、geranium (フクロソウ)のうちの pelargonium(テンジクアオイ)属ということで、ふつう花屋さんで「ゼラニウム」と呼んでいる、あれですね。
 何年も(十年以上も?)前に頂いた鉢を海外に出ている間にダメにしたのに、捨てずに水をやっていたら、快復して元気に花を咲かせるようになったわけです。目をかけて、ほんのちょっと土を耕し、枯葉やゴミを取り除き、といったことをしていると、植物も意気を感じて(炭酸ガスを吸収して)生育するのだろうか。人と同じかな?

2019年6月4日火曜日

ジャコバン・シンポジウム反芻


 5月19日西洋史学会大会小シンポジウム〈向う岸のジャコバン〉と、26日歴研大会の合同部会〈主権国家 Part 2〉における討論は、人的にも内容的にも連続し重なるところが多いものでした。文章化するまですこし余裕があるので、メール交信にも刺激されながら、反芻し考えています。とりあえず3点くらいに整理すると:

1.Res publica/republic/commonwealth にあたる日本語の問題
 これは古代由来の「公共善を実現すべき政体」ですが、politeia でもあり、「政治共同体」「政治社会」とも訳せますね。 cf.『長い18世紀のイギリス その政治社会』(山川出版社)pp.7-11 でも初歩的な議論を始めていました。
岩波文庫でアリストテレス『政治学』と訳されている古典は、ギリシア語で Ta Politika, ラテン語版タイトルは De Republica です。その訳者・山本光雄は訳者注1で、本書のタイトルにつき「もともと「国に関することども」というぐらいの意味で‥‥むしろ『国家学』とする方が当っているかも知れない」(岩波文庫、p.383)としたためています。また巻末の「解説」では同じ趣意ながら、「字義通りにとれば、「ポリスに関することども」という意味になるかと思う」(p.443)と言いなおしている。
 宗教戦争中に刊行されたボダンの De République は『国家論』と訳され、共和政下に刊行されたホッブズ『リヴァイアサン』の副題は「聖俗の Commonwealth の素材・形態・力」でした。それぞれ「あるべき国のかたち」を求めての秩序論でした。
これが、しかし、ジャコバン言説(を結果的に生んだ18世紀第4四半期)あたりから「君主政を否定した政治共同体」=「王のいない共和政」を主張する republicanism の登場により、19世紀にはこちらが優勢となり、福澤諭吉の『西洋事情』(1867)では、「レポブリック」が即(モナルキアリストカラシと並び区別された)デモクラシの意味で紹介されるに至るわけです。
 とはいえ、共和政・共和国という表現は、今にいたるまで(自称・他称のいずれも)ある種の「理想的な政治共同体」「当為の公共善(へ向かうもの)」を指して、使われるようです。フランス共和国も、朝鮮人民共和国も、主観的には理想郷(をめざす運動体)なのですね! ここで共和主義と祖国 patrie への愛がポジティヴに語られるのが、おもしろい。何故?

 かねてから中澤さんの指摘なさる「王のいる共和政」については、中東欧だけの問題ではなく、イングランドの研究史でも Patrick Collinson (ケインブリッジの近代史欽定講座教授、Q.スキナの前任者) による The monarchical republic of Queen Elizabeth I (1987) という覚醒的な論文があり、さらにその影響を20年後に再評価する論文集
The monarchical republic of early modern England: essays in response to Patrick Collinson, ed. by J. McDiarmid (2007) も出ています。

2.近世 → 近現代
 こうした republic の用語法(の変化)にも、近世(前近代)から近現代への飛躍架橋か、といった問いを立てる意味があるわけですが、これについて、ぼくの立場は折衷的です。まず、もし「近世」なるものと「近現代」なるものの実体化(平坦なピース化)に繋がる議論だとしたら危ういものがあります。ジャコバンについて、(静岡で申しましたように厳密な a であれ、向う岸の b現象であれ)いろんな議論が可能ですが、結局は飛躍と連続の両面があるといった結論に帰着しそうです。
 なおまた次に述べることですが、フランス革命もジャコバンも、社団的編成論(二宮、Palmer)や複合革命論(Lefebvre)といったこれまでの理論的な達成をパスしたまま議論するのは空しい。革命はアリストクラートの反動から始まり、情況によってロベスピエールもサンキュロットたちも変化・成長するのです。

3.国制史の躍動
 2にもかかわることですが、近藤報告は「「大西洋革命」論を冒頭において、その意義を論じようとした‥‥」と受けとめられた方もあったようですので、補います。ぼくの主観的ねらいは違いました。
 第1報告の本論冒頭においたのはロベスピエールの2月5日演説であり、(切迫した情況における)徳、恐怖、革命的人民政府、正義、暴政、République といったキーワードを集中的に呈示し、共同研究のイントロにふさわしいものにしたつもりでした(ブダペシュトでも、静岡でも)。研究史として「大西洋革命」やパーマが出てくる前に、国制史の意義をとき、成瀬治と Verfassungsgeschichte、二宮宏之とコーポラティストやモンテスキュに論及し、そのあとにようやく広義のジャコバン研究&社団的編成論として R.パーマの The age of the democratic revolution(とこれを早くに評価した柴田三千雄)が登場します。これにより一方でロベスピエールないし厳密なジャコバンを相対化する(歴史的コンテクストに置く)と同時に、他方で成瀬、二宮、柴田を再評価する、随伴してスキナたちケインブリッジ思想史の偏りを指摘し、イニスたちの近業の可能性を讃える、といった筋(戦略)で臨んだつもりでした。

 むしろ広汎な各地で、若くして啓蒙の republic of letters に遊んだ人々が、1790年代の高揚した情況のなかで élan vital を共有し、当為の宇宙に夢を見た(それを E.バークたちは冷笑した)、それぞれの運命をもっともっと知りたい、と思いました。

2019年5月25日土曜日

歴研

5月26日(日)は歴史学研究会大会の合同部会@立教大学。9:30から17:30まで、全日シンポジウムです。
去年の合同部会からの続きですが、「主権国家」再考 Part 2 という設営で、
皆川 卓 さん「近世イタリア諸国の主権を脱構築する:神聖ローマ皇帝とジェノヴァ共和国」
岡本隆司さん「近代東アジアの主権を再検討する:藩属と中国」
という2つの報告があります。これにコメンテータとして、大河原知樹さんと近藤が加わります。
フェアバンクによる華夷秩序・朝貢条約システム・主権国家体制
という定式は、アヘン戦争前後の清 ⇔ 列強関係を説明するには「分かりやすい」が、この定式化にはいろんな問題が内包されています。オリエンタリズムの歴史学版でもあるけれど、なにより - 西洋史の観点から言うと -「条約システム」や「主権国家体制」が(政治学や国際関係論の授業のように)議論の大前提になっている点が問題の始まりだろうと思われます。
西洋列強の覇権、国際法もまた歴史的な産物で、それこそ中世末から、とくに16世紀からのヨーロッパ内の事情、対外交渉によりゆっくり形成されます。ウェストファリア条約(1648)でバッチリ確立するわけではない(しかし17世紀はたしかな変化の世紀ではある)。16世紀~18世紀の戦争と交渉のノウハウ、啓蒙と産業革命を手にした西洋列強は、1790年代には、かつての豊かなアジアへの野蛮な遅参者ではなく、自信満々の近代人としてアジアの秩序に挑戦します。「その先頭にはイギリス人が立っていた」のです。『近世ヨーロッパ』(山川出版社、2018)pp.6, 14, 86, 88. この事実の歴史性を忘れてはならない。
なおまた、このときアヘン戦争前の清朝は、東アジア朝貢秩序の最盛期にあった、というのがフェアバンクの早い時点からの問題意識でもあったらしく、このへんは専門家に尋ねたいところです。

24日、メイ首相の辞任表明とか、いろいろ事態は動いていますね。26日、トランプ大統領の大相撲桟敷席観戦は、無理しすぎと思います。これらについては、また。

2019年5月20日月曜日

ジャコバン シンポジウム

 19日(日)午後、静岡大学においける小シンポジウム「革命・自由・共和政を読み替える - 向う岸のジャコバン」は、当日直前までハラハラしていたわりには、「案ずるより産むは易し」でした。有機的に連関して、かつ発展の芽がみえるセッションになったのではないでしょうか。ぼくも第1報告を担当しました。
 終了後にある先生から、チーム内の考え方の不一致というより多様性を指摘されました。それは認めますが、そうした点はネガティヴよりはポジティヴに受けとめてほしいと思いました。なにより
1) シンポジウムとして、各報告間とコメント間にたしかな共振・呼応関係があり、
2) (18世紀やモンテスキュはもちろん)いくつか重要で大きな論点が開示され、それを我々も出席者も持ち帰っていま再考=熟慮中という事実に、発展的な可能性をみるべきではないでしょうか。

 たとえばですが[古代からの継続・近世史のイシューについては、すでにいろんな方々が問うておられますので、近代以降を展望しますと]、
・厳密な「ジャコバン主義」は歴史家の概念として、(1793-4年の)山岳派・ロベスピエール(そしてバブーフも?)の言説・思想から抽出した理念型として、考え用いるべきでしょう。
・理念型としての「ジャコバン主義」においては18世紀から革命へと(近代的)断絶がみられますが、広汎な向う岸の「ジャコバン現象」においては res publica も君主政も19世紀へと連続しえた。しかも、こうした異質の両者が1790年代には共振する情況・関係がありました。
・19世紀にはイギリスが、ジャコバン主義的近代もウィーン体制も拒絶しつつ、経験主義的な改良を重ねて Pax Britannica の世界秩序を築きあげる。その国のかたちは君主政・貴族政・民主政の混合政体で、しかも自由放任です。
・こうしたイギリス型近代に対抗すべきフランス型近代は、清明な合理主義による統制をめざすとみえてもストレートには行きません。体制転換(革命やクー)を繰りかえしつつ、パリコミューンを鎮圧した第三共和政で、ようやく1789年/93年的なフランス革命が国是とされます。フランス史における contemporain=近現代=革命体制の遡及的措定ですね。
・上海租界地などで今も19世紀半ば以降のイギリス型近代とフランス型近代の競争的な共存を目撃し再確認できますが、共通の敵/市場に対峙する列強=英仏の協力関係、それを補完するようにナショナルな様式を顕示した建築やデザイン -

 こうした議論もいくらでも展開できるでしょう。
 ぼく個人としては
長い18世紀のイギリス その政治社会』に結実したシンポジウム(2001年@都立大)、
礫岩のようなヨーロッパ』に結実したシンポジウム(2013年@京都大)
を想い出しつつ、前を向いています。

2019年5月16日木曜日

近代社会史研究会(1985-2018)

 ミネルヴァ書房より『越境する歴史家たちへ:近代社会史研究会(1985-2018)からのオマージュ』到着。谷川稔・川島昭夫・南直人・金澤周作の四方による編著ですが、「近社研」という京都の集いの生誕から消滅まで、[序章]谷川稔の語り、[第一部]何十人もの関係者の語り、[第二部]記録篇、という3つのレヴェルを異にした証言が編まれて、独特の世界=小宇宙が再表象されています。
 ぼく自身も書いていて「1986~98年の近社研」との個人的かかわりをしたためていますが(pp.172-175)、別に何人かの方々の証言のなかで一寸言及されていたり、また(川北・谷川論争の翌月なのに、何もなかったかのごとき)ぼく自身の「報告要旨:民衆文化とヘゲモニー」(pp.330-331)が採録されていたり、‥‥そうだったなぁ、という感懐をもよおす出版です。
 近社研の運営にはいっさいかかわることなく、ゲスト・一出席者としてのみ関係したわたくしめなので、漏れ聞いていた諸々と、今回の編集出版のご苦労には頭が下がります。
 歴史学方法論ということでは、記憶と記録の交錯、ひとの記憶や記録と出会い、それが繰りかえされることによる「上書き」、そして「フェイク・ヒストリー」の可能性にまで谷川さんの「あとがき」は言及しています。金澤「あとがき」では「史料編纂‥‥、非常に貴重な体験」と表現されています。たとえば1987年初夏に名古屋で、福井憲彦さんの『新しい歴史学とは何か』の書評会をやって、若原憲和さんとヤリトリがあった事実などは、ぼくは完全に忘れていました!
 この出版の企画を最初に聞いて執筆を依頼されたときには、「いまさら」という気もないではなかったのですが、一書として公刊されてみると、やはり出てよかった、と思います。谷川稔という人、そして色々あっても彼を盛り立ててきた良き友人たちのこと(そして、そうした時代)を理解するよすがにもなります。関係者の皆さん、ありがとう!

2019年5月15日水曜日

わが家にも詐欺師の魔手が

本日、朝日生命大手町ビルの「一般社団法人全国銀行協会」から封書が家人あてに届きました。
[重要]という赤字の印、「宛名をご確認の上開封してください」という注意書き、そして正確な住所・宛名。「元号の改元による銀行法改正のお知らせ」に始まる丁寧な文章‥‥。これは真正の通知文なのかとおもわせる雰囲気。
ただし、持って回った文体で、一読しても何を言ってるのかよく分からない。「全国銀行協会加盟銀行にて口座開設をされているお客様」あてなのに、家人あてに来て、ぼくあてには来ないのはなぜ?。
そもそも「改元に伴い、セキュリティ強化の観点から新システムへの変更を行っております」というあたりから、マユツバ。「当銀行協会にて口座開設時の登録情報のご確認、キャッシュカードの暗証番号変更手続きをおこなって頂く様[ママ]お願い申し上げます。」というので、これは詐欺だと分かった。漢字変換も乱れて、本当の「全国銀行協会」にしては品格がない。

「尚2019年5月17日までに登録情報のご確認、暗証番号の変更手続きがお済みでないお客様に関しましては‥‥お口座のご利用を停止させて頂く場合がございます。」
今日は何日だと思ってるの? こうやって急がせて、子や信頼できる人に相談する暇を与えない、というテクニックなのでしょう。
ご丁寧にも
「当銀行協会加盟銀行におきましては、お客様にお電話口で暗証番号等をお聞きすることや、キャッシュカードを郵送にてお送りいただくような[ママ]ことは決して御座いません。」とそれらしく朱書してあります。ということは、三菱やみずほや三井ではそんなことはしないが、フェイクの「全国銀行協会」ではIDを聞き出したり、郵送を依頼したり、受け子を遣わすことがございますよ、という意味ですね!
とにかく慌てた消費者が 03-572*-920* という番号に電話してくれば、トンデ火に入る夏の虫、あとはノラリクラリと個人情報を引き出すのでしょう。
念のため検索してみると、この電話番号についての問い合わせが今日15日から突然に急増しています。

すでに真正の一般社団法人全国銀行協会(↓)には、注意喚起の記事が出ています。
https://www.zenginkyo.or.jp/topic/detail/nid/3564/
また本当の全国銀行協会の相談室の電話番号は、上のものとは全然違います。

みなさま、そしてみなさまの親御さんには、どうぞご留意のほどを。
詐欺師も生活がかかっているので(!)あの手この手でアプローチしてきますね。
そもそもわが家の住人・住所が正確に掌握されているということからして、許しがたい。

2019年5月11日土曜日

Brexit → Brexodus を歴史的にみる


 昨日はある集まりで「イギリスとEU: Brexit を歴史的にみる」というお話をしました。参列者は、みなさん情報・通信のプロ、またヨーロッパ駐在の長い方々もいらして、講師としてはやや冷や汗ものでした。こちらは例のとおり先史(氷期)の大ヨーロッパ大陸から説きおこし、『イギリス史10講』や『近世ヨーロッパ』でも使った図版に加えて、ナポレオン大陸封鎖の図、ドゴール、イギリスEEC加盟申請に拒否権行使といった経緯、そして現EUの二重構造、英連邦(Commonwealth)の三重構造なども見ていただきました。
 質疑応答の質も高く、お話ししているうちに、権力政治に振り回された EU離脱、連合王国解体、といった暗い将来も British diaspora という観点から考えると、案外、人類史にとっては明るい要因なのかも、と思えてきました。要するに現イギリスに集積している金融および高等教育における人材が流出してしまうこと(Brexodus)による、主権国家=英国の枯渇・衰微はしかたないとして、かつてのユダヤ・ディアスポラやユグノー・ディアスポラ、アイリシュ・ディアスポラ・また20世紀のインド人やチャイニーズのディアスポラのように、不運な祖国からの離散が続いたとしても、新しい新天地で広い可能性が花開くかもしれないのです。その新天地はフランクフルト? オランダ? シンガポル? コスモポリタンで、新次元の文明の地。
 お雇い教師がやってきた明治初期の日本も一つの成功例でした。21世紀の日本列島が British diaspora の新天地となるか? 今のところ中国に比べてもその可能性は低いとみえますが‥‥

2019年5月9日木曜日

Queen Elizabeth と三内丸山遺跡

連休の最後に青森に参りました。
遅い桜花を見るためにではなく、旧友に会うためでした。諸々の話をすることができて良かった。
初日は雨模様でしたが、2日目はなにより天気にも恵まれ、ちょうど Queen Elizabeth 号が青森に初めて寄港するという特別の日だったようで、港では「メルバン」から来てヴァンクーヴァに向かうという老夫婦とお話をし、また波止場の展望台の上から俯瞰しました。反対側に雪の八甲田連峰および岩木山も遠望できました。
午後は三内丸山遺跡に同行して(これは1994年『中学歴史』[東京書籍]の編集執筆をして以来の宿題!)ボランティア説明者とのやりとりが有益でした。栗の大木6本の建築物の下方から、はるか八甲田山を遠望できます。
なおまた隣接する青森県立美術館では、棟方志功の若き無名時代のエピソードも聞くことができて、楽しかった。

2019年4月30日火曜日

5月の予定


日本西洋史学会大会(5月19日@静岡大学)では「ジャコバン研究史から見えてくるもの」という題目で、中澤科研の議論およびブダペシュトの研究集会で学んだことを還元したいと考えています。
日曜の午後2:15~5:30の小シンポジウム「革命・自由・共和政を読み替える-向こう岸のジャコバン」での報告です。

また歴史学研究会大会(5月26日@立教大学)では、去年の合同部会から続きですが、「主権国家」再考 Part 2 という設営で、
皆川卓さん「近世イタリア諸国の主権を脱構築する:神聖ローマ皇帝とジェノヴァ共和国」
岡本隆司さん「近代東アジアの主権を再検討する:藩属と中国」
という二つの報告があります。これにコメンテータとして、大河原知樹さんと近藤が加わります。
日曜朝の9:30から17:30まで、全日シンポジウムとなります。

これとは別にさる催しで「イギリスとEU:歴史的に見ると」といったお話もしますので、いささか過度に充実した5月となります‥‥。

2019年4月18日木曜日

寺院? 大聖堂!


 パリのノートルダムの大火災は驚くばかりで、痛ましい事件です。
ただし、CNNによれば、精緻な計測とディジタル記録が残っているとのことで、再建の望みはそれなりにあるわけですね。
https://www.cnn.co.jp/world/35135896.html

 日本の報道では、あいかわらず「ノートルダム寺院」という呼び方で、いかに仏蘭西(!)とはいえ、仏の教えの痕跡はどこにもないでしょう。法隆寺や本願寺ではないのだから、そしてカテドラルには「大聖堂」または「司教座聖堂/大司教座聖堂」という定訳があるのだから、こちらを使ってください!
 ロンドンの場合ですと、Cathedral Church of St Paul's が「セントポール寺院」、Collegiate Church of St Peter at Westminster が「ウェストミンスタ寺院」と呼び習わされているのも、イージーというか、混濁的ですね。

2019年4月11日木曜日

向う岸のジャコバン

 日本西洋史学会・静岡大会における小シンポジウム(きたる5月19日)ですが、
そのウェブサイトのどこを探しても、各小シンポジウムの趣旨説明と「目次」は見えますが、各報告の要旨は載っていません。昨12月末〆切で、準備委員会の定める厳密な書式設定で提出しました物はどうなっちゃったのでしょう? 例年の大会サイトでは各報告の要旨も掲載されて、どんなシンポジウムになるか、事前からよく想像できるようになっていました。

 中澤達哉さんの組織した小シンポジウム6「革命・自由・共和政を読み替える-向こう岸のジャコバン」は、このとおりです。

革命・自由・共和政を読み替える ― 向う岸のジャコバン ― 」

近藤 和彦 ジャコバン研究史から見えてくるもの
古谷 大輔 混合政体の更新と「ジャコバンの王国」― スウェーデン王国における「革命」の経験 ―
小山 哲  ポーランドでひとはどのようにしてジャコバンになるのか ― ユゼフ・パヴリコフスキの場合 ―
中澤 達哉 ハンガリー・ジャコバンの「王のいる共和政」思想の生成と展開 ―「中東欧圏」という共和主義のもうひとつの水脈 ―
池田 嘉郎 革命ロシアからジャコバンと共和政を振り返る

コメント 高澤紀恵・正木慶介・小原 淳
(企画:中澤達哉)

 このうち近藤の発表要旨について、右上の Features で紹介します。

2019年4月7日日曜日

SPQR


「文明」を代表具現した(と自称した)ローマの SPQR の印は、神聖ローマ帝国の印でもあった。『近世ヨーロッパ』のカバー写真でも、それは当てはまります。

アルプスないし黒森に淵源をもつドナウ川が東に向かい、ハンガリーの大平原に出る直前に地峡部を縫って、流れを南に90度かえる、そのあたりが古代から軍事的な要点になっていたようです。ローマ帝国の後継を僭称した神聖ローマ帝国に異議を申し立てる、もう一つの普遍主義オスマン帝国によるモハーチ戦(1526)、ブダペシュト陥落にともなうハンガリー王国のブラティスラヴァへの遷都(1541-1784)‥‥そしてバルカンの東西関係を変える1699年のカルロヴィツ条約。
このようにドナウ沿岸のブラティスラヴァ≒ウィーンあたりからカルロヴィツ≒ベオグラードあたりまでがボーダー(境界地帯)をなしていて、ブダペシュトがほぼその真ん中だったのか。アウステルリツ戦のあとの条約(1805)もプレスブルク(ブラティスラヴァ)の大司教館で締結されたのですね。

2019年4月6日土曜日

境界 すなわち交流圏


ブダペシュト、そしてブラティスラヴァを訪れたのは科研(向こう岸のジャコバン)の企画ででした。帰国して直ちに対馬に赴いたのは科研(主権概念の再構築)の一環です。

対馬については、また後日ふれるとして、Border すなわち国境()ではなく境界(地帯)であり、交流のあらわになる圏域だなという認識を強くしたのは、ドナウ川、ローマ帝国の辺境、そしてオスマン帝国と神聖ローマ帝国のせめぎあい(また20世紀には東西冷戦)の現場に立ってのことです。
ドナウ川を南に見下ろすブラティスラヴァ城(現スロヴァキア)で撮った写真2葉をご覧に入れます。快晴ですが、遠くはすこし霞がかっています。
左手=東にはハンガリーの工場の煙突群が遠望され(ブダペシュトまで200キロ)、
右手=西にはオーストリアの風力発電群が遠望されます(50キロ余り先はウィーン)。
手前・川向こうの中高層は労働者の集合住宅です。国境の最前線に労働者街のコンクリート建築というのは、かつて東ベルリンでも見た風景ですね。
ドナウ川は西から東にかなりの水量≒速さで流れています。1838年3月の(雪解け)大洪水の水没線が、ブラティスラヴァでもブダペシュトでも記録・表示されているのが印象的でした。

2019年4月5日金曜日

ブダペシュトの市場にて

建築学的にブダペシュトはおもしろいと言い始めたら、都市史学会の面々は黙っちゃいないでしょう。

社会史的におもしろいのは、この中央市場です。タイル張りで1897年竣工。なかは2階建て。その活況が楽しい。それから隣接の Corvinus University (経済大学)はかつてポランニ先生がイギリスへ移る前にいた所と知ると、親しみが沸いてくる。すぐ脇が「自由橋」です。

ところで撮ってきた写真を眺めていて、ランチを摂った中央市場のテーブルに、白いビニールの掛けものがありました。
なんとこれを拡大してみると(真ん中やや上の部分)、こんなことが記してある。
サッチャ首相、ブッシュ大統領、ダイアナ妃は、さもありなんという方々だが、Emperor of Japan って今上陛下のこと? 
美智子皇后もこの活気ある空間に立たれたのか! グーラシュを召し上がったのだろうか?
そこで検索してみると、宮内庁のサイトに「平成14年7月16日(火)」ハンガリー大統領主催の晩餐会@国会議事堂(!)で述べられた「お言葉」が載っています。つまり2002年。そこでは、
1770年に来日し,長崎のオランダ商館に滞在したイェルキ・アンドラーシュから、
翌年,ハンガリー生まれの冒険家であったベニョフスキー・モーリツの来航に言及したうえで、
「オーストリア・ハンガリー帝国が成立した1867年は,私の曾祖父明治天皇がその父孝明天皇を継いだ年であり,二百年以上続いた徳川将軍を長とする幕府が廃された年でもあります。我が国が,諸外国との交流を深め,国の独立を守り,近代化を進めるための非常な努力を始めた時でありました。オーストリア・ハンガリー帝国と我が国との間に国交が開かれたのは,その翌々年になります。‥‥」そして
「ハンガリー語と日本語が共にウラル・アルタイ語族に属しているということから,20世紀初頭,語学研究のため,ハンガリーに滞在した白鳥庫吉のような東洋史学者‥‥」といったことまでディナースピーチは及んだのでした。引用は、http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h14e-easterneurope.html#HUNGARY より。わが不明を恥じます。

ブダペシュト議会

ヨーロッパ滞在中は花粉症の気はなかったのですが、調子に乗って、帰国翌日に早稲田あたりでウロウロしたあげく、対馬で3日間外歩き。その結果がこの数年に経験しないほどの苦しい症状となってしまいました。
その後はもっぱら休養と必要最低限の外出にとどめて、なんとかなっています。

想い起こすに、中欧の経験はやはり強烈です。
19世紀ブダペシュトの繁栄は建築史的にもおもしろい証を残していて、それは19世紀前半までのダブリンの繁栄と比較できるくらい。人口的にはブダペシュトのほうがずっと大きく、アイルランド島よりも広いハンガリー王国の人口も大きい。なんといってもドナウ流域圏の「女王」です。19世紀にアイルランドがブリテンと連合王国(UK)をなしていたのと似て、ハンガリーはオーストリアとアウスグライヒ(二重帝国)をなして、従属的とはいえ、どんどん成長しました。
隣接する大国の普遍言語(英語、ドイツ語)が浸透しつつもゲール語、マジャール語に集約される豊かな民俗文化が強烈に残っているという共通性も指摘できます。
この場合、アイルランドとハンガリーの違いは、地理的に内陸か臨海かといった相違点に加えて、1) アイルランドの人口流出が人口減少にいたったのにたいし、ハンガリーは人口減少にはいたらなかった。2) アイルランドは歴史的な議会を失い、ハンガリーは歴史的な議会を維持した。3) ハンガリー(ブダペシュト)におけるユダヤ人口の大きさ。といった差異は決定的かもしれない。
Annabel Barber, Blue Guide Budapest (3rd ed., 2018) によると、
18世紀までハンガリー議会は開催地を固定せず、時に応じて召集されていたが、19世紀に入るとプレスブルク(ブラティスラヴァ)からペシュトに召集されるようになり、1880年に上下両院を一つ屋根のもとに収容できる立派な建物、「他のすべての建物を下に見、ハンガリー国民の力を表現し、ハンガリー人の全体を代表具現するような象徴的建造物をドナウ川岸に」たてる計画が始まり、1902年に竣工した。両翼の端から端まで265m、真ん中のドームの高さ96m.大きさと威容だけでなく、ドナウ川に面したゴシック・リヴァイヴァル様式の美しさは、テムズ河畔のウェストミンスタ議会(1852竣工)にも比すべきものです。
ところで、両議事堂はそれぞれ大きな川に面していますが、ブダペシュトでこれは西に面し、ウェストミンスタでは東に面し、そのため千数百キロを隔てつつも、両議事堂は対面している、という関係です!

2019年3月31日日曜日

対馬の厳原(いづはら)


3月14日から以降、ブダペシュト(ブラティスラヴァ) → ロンドン → 早稲田 → 対馬
と順序よくご報告すべきですが、(しばらく忘れていた花粉症の辛さに翻弄されつつ)対馬の歴史には圧倒されました。
近世日本列島の「4つの窓」とよく言いますが、それが幕府にも十分に重視されていたこと、また古代から中世、近世、そして近現代の(小中学生でも知っている)画期ごとに顕著な痕跡=史跡を残していることが知れて、たいへんな勉強になりました。チームの皆さん、ありがとうございます。
なおまた『つしまっ子郷土読本』(対馬市教育委員会,2016)というすばらしい、小学6年生むけの副読本があると知って、厳原唯一の大西書店でさっそく購入しました。

2019年3月30日土曜日

厳戒の首相官邸


ブダペシュトからロンドン、そして対馬(!)と刺激的な3月でした。
写真はロンドン・ダウニング街の入り口。鉄の柵のなかに4人も武装警官で、写真も気安くは撮らせないといった雰囲気でした。


スーツケース破損問題もあり、今回の旅行の収穫と写真については、おいおいに。

2019年3月23日土曜日

Brexit ロンドンは disaster かと思いきや

ブダペシュトからロンドンへ移動しました。

かねて定宿としていたのはユーストン駅の脇、便利で明るくて、なんといっても朝食がよく、バスタブがある Ibis Euston London.裏手にはインド人コミュニティと飲食街もある。ロンドンに Ibis Hotel はいくつもありますが、何年もかけて実際に比較してみたあげく、ここだけが、立地も施設も人もお気に入りでした。
ところが、昨秋にはなぜかオンラインでアクセスできず、別の宿に予約するほかなかったのですが(4泊でなんと610ポンド≒85千円を超える!)、案の定、たいしたことない、というより客の質も(体型も!)、これじゃぁな、という所。東京都心で一泊2万円なら相当のビジネスホテルに泊まれるでしょう。いくらポンドが(円に対して)威張っているからといって、これはあんまりだ。対応する人も威張ってみえる。

忘れかけていた、ユーストン・ロードの排気ガス、汚い路面、そして歩行者に優しくない交通信号。身の危険さえ覚えます、まるで中国の大都市みたい! スーツケースも一部damageがあり、イギリスおよびイギリス人を嫌いになりそう、と思ってしまった。
とはいえ、さっそく会った友人は変わらずやさしいし、翌朝、大学に行ってゴードン・スクエアに寄ったら、春の花が咲き始め、鳥(blackbird)はさえずり、人々はおだやかに談笑したり、原稿を書いたり。ブルームズべり・グループの中庭は、いまやロンドン大学の中庭のような趣きですが、このように静かに春の訪れを味わわさせてくれます。(昔、ぼくがUCLに居た94-95年ころはなかったと思いますが)インドのタゴール像、フランス・レジスタンスの Noor Khan像があって、大学の姿勢も現れています。
ランチ時の Gordon Square Gardens

テレビではブレクシットの権謀術数で大わらわですが、案外、48%のイギリス人は、そして67%のロンドン人は、多様性こそイギリスの本質・生命線と考えて落ち着いているのでしょうか? 21日、メイ首相の演説、EU27会議にともない、IHR における「Brexit を歴史家はどう見るか」というセミナー報告は急遽中止。しばらく観察するほかなさそう。

なおぼくのスーツケースについては、電話はうまくゆかず、メール添付で写真もやりとりし、ようやくBAが damage replacement に対応してくれて、最悪状態は脱します。
こんな具合でした。
【写真については、使用中のカメラからSD移転できないので、ウルトラCを使いました!】

2019年3月19日火曜日

ブダペシュト

ただいま、ブダペシュトに滞在中。初めての地です。
ヨーロッパのど真ん中ゆえにCEU(Central European University)があって、そこでこんな話をしています。
https://pasts.ceu.edu/events/2019-03-18/european-jacobins-and-republicanism
本日までは、(原稿未完のまま飛来したので)寝ても覚めてもナーヴァスな日夜でした。報告・討論を終えて、ようやくホッとしています。

リスト、ルカーチ、ポランニ、バルトーク、セル、といった人材を輩出したハンガリー。
ブダ+ペシュトは、ドナウ川が流路を90度変えたあと、ハンガリーの大草原に出てくる所にある、というわけで西と東、ヨーロッパ・カトリック教圏と正教圏、あるいは近世ですと神聖ローマ帝国とオスマン帝国との境目にあたります。ユダヤ人街がこんなにも広く展開しているとは、想像もしていませんでした。
CEUもここになくてはならぬわけではない . . .
昨日はたいへん暖かい快晴日、ドナウ川をさかのぼる形ですが、ブラティスラヴァまで出かけました。
今日はふたたび曇天、夜は冷えます。
(写真はたくさん撮っているのですが、カードリーダを忘れできたので、こちらに転送することができません。帰国してからゆっくりご覧に入れます。)

2019年3月6日水曜日

『大塚久雄から‥‥』

昨5日(火)は青山学院大学における合評会
大塚久雄から資本主義と共同体を考える』(日本経済評論社)
https://www.freeml.com/kantopeehs/69/latest
に参りました。主催者(政治経済学・経済史学会 関東部会)からはレジュメは30人分とか指示されていましたが、それよりずっと多い人数。団塊の世代以上が半数?

オファをいただいても、率直に言って、あまり気乗りのしない話でしたが、小野塚さんから上手に持ちかけられて
言うべきことを言えばよいか、と参加いたしました。

大塚久雄は(丸山眞男も)両大戦間期に自己形成した、憂国の知識人として並みいる戦間期の学問のうち最高級のものをプロデュースした。【念のため、当日の一人の発言について申します。ナチズムや太平洋戦争に言及したからといって、その賛同者ということにはなりません。たとえば、近藤がアクチュアルな問題としてトランプや習近平に立ち入って言及したら、70年後の一知半解の「若い研究者」が、近藤は心底はその信奉者だったのだ、と解釈するのでしょうか? AIレベルのアホです。】
問題はむしろ、大塚・丸山とは全然ちがう条件を与えられた情況に生きるわれわれとして、どう向きあうか、という問題だろうと思います。

「資本主義と共同体を考える」というより、大塚の資本主義論(過程と型)と共同体論(ゲルマン共同体・ローカル市場圏・民富)の有効性を理解したうえで批判する;要するに20世紀前半の歴史学から学び反芻しつつ、現在の研究水準で超えてゆく、ということではないでしょうか。
よく知らなかった論点を指摘してくださる方もいらしたし、逆に歴史学がいま動いている、ということをあまり意識せずに、ご自分の学生時代の理解のままの枠組で「老人の繰り言」をリフレインする方もいらっしゃるようです。
敬意を失わないよう自戒しつつ参加したつもりですが、いかがでしたでしょうか。
個人的には、これまであまりご縁がなくて十分親しくできていなかった方々のお考えがよく分かり、それは収穫でした。

ぼくの場合は、大塚史学に限定することなく、歴史学の問題として
1) commonweal・respublica にかかわる中世末から(古代から!)の議論、そして革命独裁や帝国秩序へと議論が絞り上げられていった近現代史が問い直されるし - 早くは『深層のヨーロッパ』(山川、1990)における二宮・近藤対談がありました -
2) いささか観念的に(?)称賛されてきた association については、charity や公益法人といった制度的・財政的保証のある社団へと議論をフォーカスしてみてはいかが? - 「チャリティとは慈善か」(年報都市史研究、2007)そして北原敦ほか「フランス革命からファシズムまで」(クリオ、2016)があります -
と思います。
編者の方々、『大塚久雄から‥‥』というタイトルは、もしや大塚の祖述に甘んじるのでなく、大塚を卒業してその先へ、という含意でしたか? 

今後ともよろしく!

2019年3月1日金曜日

折原浩先生と大庭健さん


 折原浩先生は、亥年でぼくの一回り上ですが、これまで特定の若い人の名を挙げてどんなに交友を楽しんだかを公言することは控えておられたと思われます。
 今回、個人ホームぺージで、
「1967-68年当時、東大教養学部の一般教育ゼミ「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」に参加していた駒場生で、拙著155ページで触れた五人」
のうち、亡くなった八林秀一舩橋晴俊、そしてとりわけ大庭健を悼む文章が公開されました。
→ http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/tenkai2.htm
「5人のゼミ生のうち、残るは2人となってしまいました」と言われるその2人とは、八木紀一郎とぼくのことですが、彼とぼくが暮から新年にかけて期せずして折原先生に長い私信を送って、それをきっかけに、この長い、細部まで分析的な文章(A4に印刷して6枚!)をしたためてくださったのです。5人についてそれぞれ温かい思いが刻印されていますが、なかでも「大庭節」への懐かしさと哀悼は感動的です。
 11歳年長の折原先生に愛され信頼された大庭さん。当然ながら、1年下のぼくに対する影響も決定的で、- こんなことを言うと生意気そのものですが - 駒場の折原ゼミで鍛えられ、大庭(→ 倫理学)、八木(→ 社会学)と同じ空気を呼吸したぼくは、本郷の西洋史に進学して「不安」は全然感じなかった。本郷の先生方や先輩たちを侮っていたのではありません。むしろその学知を100%学習し吸収する用意(基盤)が既にできていると自覚できたのです。
 昨年にもしたためましたとおり、大庭さんを慕う後輩は多く、(そのケツをまくった口吻にもかかわらず)たしかな学識と誠実さはただちに感得されました。編集者たちにも、そのことはすぐに分かったでしょう。
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/10/19462018.html
→ http://kondohistorian.blogspot.com/2018/11/blog-post_24.html

 なおぼくの場合、折原先生と同じ猪鼻台の千葉大教育学部付属中学に通った(校長は同じ飯田朝先生=憲法学)というのは、かなり恵まれた「初期条件」でした。ぼくの親は地域ブルジョワでも教育界でも転勤族でもなく、また受験界にも無知で、ただ小学校6年の後半(初冬?)に担任に勧められて、子どもの受験手続きをしてみたに過ぎませんが。

2019年2月27日水曜日

富永健一さん、1931-2019


 富永さんが亡くなったと新聞で知りました。
 学問的にはあまり重なることのなかった社会学者ですが、ぼくのまだ若いころ、「学問的に考える(論じる)ということは specific に、ということだ。(最近の若者のように)整理もできないまま、漠然たる diffuse な文を書いていては学問とは言えない」といった趣旨を『思想』に書いておられたのが、たいへん印象的でした。折原先生が1960年代前半にバークリから来日した Reinhard Bendix(『マックス・ヴェーバー』の著者)に面会するとき(英語の助力のため)富永さんが同行したというのも、意外なエピソードだったので記憶に残ります。

 その富永さんとぼくは1988年から東大文学部の同僚となりました。ただの「同僚」でなく、法文一号館の4階【富永さんは南向き銀杏並木側、ぼくは西向きの部屋】で消灯・閉館まで、たいてい二人で頑張ってるという、ほとんど戦友のような経験を共にしています。じつはようやく1988年から東大文学部の建物は夕刻19:00まで使えるようになったのです。その10分前に構内放送で閉館(施錠)が予告されるのですが、やりかけた仕事があれば、キリをつけるまで居るしかないので、どうしてもギリギリになる。
 当時はまだエレヴェータがなく【エレヴェータを設置させたのは、富永さんの後任、上野千鶴子先生です】、非常階段みたいな唯一の階段で4階は繋がっていました。今でも3階までとは異なる仕様ですね。18:55を過ぎたころ、富永さんのドタバタという革靴の音がこの階段に響き、(静かな時間帯なので)1階に着いて最後に鉄の小扉をバタンと閉めるところまで聞こえて、ぼくも覚悟を決めて帰り支度にかかるわけです。ときには順番が変わって、ぼくが階段室まで行ってもまだ富永研究室に灯が点っていることもあり、二人で並んで階段を降り始めることもあり。
 ときには、警備員が厳格に19:00に閉鎖してしまって、扉はウンともスンとも言わず、しかたない、非常灯を頼りに4階まで戻って、内線電話で警備員室を呼び出して、「済みません」と開扉をお願いすることもありました。

 やがて閉館時刻は21:00に延長されましたが、結局は同じパターンを2時間後にくりかえすこととあいなり、そういった一種の戦友(?)同志愛(?)のような経験が1992年3月のご定年まで4年間続いたからでしょうか、論文抜刷やご著書をいただくこともあり、退職後のパーティでも声をかけていただきました。
 1992-94年あたりから大学院重点化という名の改編(のための準備)が東大を席巻することになりますが、その直前、自分流に学問一筋でやっていればだれも文句を言わない、いわばアンシァン・レジームの東大本郷でした。

2019年2月18日月曜日

資本主義と共同体を考える

 合評会のお知らせです:

大塚久雄から資本主義と共同体を考える』(日本経済評論社)
https://www.freeml.com/kantopeehs/69/latest
・日時:2019年3月5日(火) 13:00~17:00

・場所:青山学院大学青山キャンパス17号館 3階 17307教室
    最寄り駅 渋谷(JR・私鉄・地下鉄)または表参道(地下鉄)
   
・進行次第
1. 趣旨説明:梅津順一
2. 書評報告 
 ・恒木健太郎「歴史のなかの大塚久雄:文献学的観点から (仮題)」
 ・長谷川貴彦「コモンウェルス論再考:資本主義と共同体 (仮題)」
 ・近藤 和彦 「講座派ピューリタン、大塚久雄 (仮題)」
休憩
3. 編者の応答:小野塚知二・梅津順一
4. 討論
司会:道重一郎

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 ここでいう peehsとは「政治経済学・経済史学会」、かつての土地制度史学会を改組改称した学会です。
ぼくにとっては、1976年秋、高知大学で催された土地制度史学会の大会以来かもしれない。このときは「民衆運動・生活・意識」『思想』630号の原稿を提出し、校正も終わり、12月号の刊行を待つばかり、という状態で、29歳のぼくは生まれて初めて飛行機に乗って高知に行き、共通論題で「産業革命期の民衆運動」の話をしました! 吉岡昭彦さんにパワハラ(!)されました。
もちろん土地制度史学会と社会経済史学会とは(志向する方向は異なったけれど)メンバーはかなり重なったので、人的には今でも違和感はありませんが。
なおまた編者・趣旨説明の梅津順一くんは、1971年、大学院1年生、高橋幸八郎ゼミで一緒になりました。例の「生きてる化石」ゼミで。

 とはいえ、大塚史学を現時点で「資本主義と共同体を考える」という観点から再評価するというのは、なかなか problematic ですよね。3月5日には、ぼくも批判的な立場からコメントします。

2019年2月16日土曜日

朕ハ国家ナリ


 沖縄・琉球のような所にこそ歴史のエッセンスが現れる。
 明治天皇のこのような銅像が、琉球処分後の沖縄県「波上宮」には置かれています。波上宮(なみのうえぐう)は官幣小社として格付けされたのでした。
国家」と大書した左に、やや小さく「睦仁」とみえます。
 L'État, c'est moi. 「国家トハ、朕ノコトナリ」と訳すのが、もっとも原意にかなっていると思われます。cf.『近世ヨーロッパ』p.61.

 大日本帝国憲法 第4条では「天皇は国の元首にして統治権を総覧し この憲法の条規により これを行う」[現代表記]として、元首であり統治権のトップである天皇が、「憲法の条規により」その権限を行使するわけだから、国のかたちとしては独裁ではなく 立憲君主制ですね。かつて「天皇制絶対主義」というコミンテルンの表現もありましたが、これは絶対主義の近年の研究を予知した(絶対主義の非絶対性!)先見の明ある表現だったの?
 法に拘束される君主制、これこそモンテスキュ(法の精神)の考えた君主政体(monarchie)です。睦仁陛下の考えた「国家」もまた、法と結合し、名誉というバネをもつ政体だったのですかね? 『法の精神』を再読しつつ、考え込みます。

2019年2月13日水曜日

琉球王国

 じつは4日間、沖縄に行き、明代の琉球王国から以降の交易ハブ、1609年の薩摩侵攻、1879年、明治政府による琉球処分、「国民統合」、そして沖縄戦、戦後国際政治に翻弄されたあげくの佐藤内閣による「本土復帰」という名の再沖縄処分、といった歴史に圧倒されて、まだ余韻にひたっています。きれいな首里城の夜景も撮りました。

 沖縄は2度目です。1度目は沖縄戦と戦後政治といったことしか考えていなかった。今回は中世末からとくに近世の「礫岩のような政体」のありかたに心揺さぶられました。 琉球の中でも、グスク[城]のあいだの覇権争いのようなことも伺われて興味深かったです。写真は、もっとも保存状態のよい(つまり戦災の少なかった)中城[ナカグスク]の城址。
 年来の友人夫妻が33年の在琉を経て、イギリスに帰国するから最後にというので、呼ばれて行ったのですが、彼らの案内による historic places 巡り、そして、英語の琉球史研究文献がどんどん出ているのが印象的でした。
 ペリーが1853年6月6日に宮廷で dinner speech をしたこと、その前にすでにフランスの宣教師、イギリスの宣教師が来ていたことを記念する碑も見ました。
アジア太平洋戦争は愚劣な戦争で、しかも終わり方は最悪でしたが、平和祈念公園の海を望み、敵・味方(沖縄んちゅ、大和んちゅ)・朝鮮・台湾籍の人々の墓(記銘碑)が一緒に一面に広がっているのは、ほんの少し慰めになります。

2019年2月6日水曜日

パブリック(デジタル)ヒストリ

セミナー案内を転載します。

3月上旬に、ジェーン・オーマイヤ氏(Prof. Jane Ohlmeyer, Trinity College Dublin)、
アン・ヒューズ氏(Prof. Ann Hughes, Keele University) のお二人が
アイルランド、イギリスから同時来日し、3回のセミナーが京都大学と東洋大学で開催されます。

東洋大学では、両氏をお迎えし、
・3/9(土)に、社会史再考(パブリック/デジタル・ヒストリ、およびジェンダー・ヒストリ)

・3/10(日)に、革命史再考(五王国戦争および大衆出版と公共圏)

をテーマとした公開セミナーを開催いたします。
9日には、日本近代史の三谷博先生にもご登壇いただき、近藤和彦先生に司会をお願いします。
詳しくはポスターをご覧ください。

セミナーは事前登録不要ですが、3/9の懇親会参加をご希望の方は、
会場手配の都合上、<3/4までに>下記までご一報ください。
 東洋大学 人間科学総合研究所 渡辺・後藤 ihs @ toyo.jp <スペースは詰めてください>

さらに、一足先の3/4(金)には、京都大学でも「関西イギリス史研究会」の
例会にて、上記のセミナー報告の一部をお話しいただきます。

多くのみなさまのご参加を、心よりお待ちしております。
関心のありそうな方が周囲にいらっしゃいましたら、ぜひ本案内をご転送ください。

2019年2月3日日曜日

『みすず』読書アンケート


 2日(土)は大阪にて研究会。会として充実していたけれど、わが頭脳は前夜からの睡眠不足で、条件反射より以上の意味ある発言はなかなか困難。睡眠にはふだん気をつけていますが、前1日に到来したお二方からの信書とメールの内容に励起されて、即答しつつ、時間の経過を忘れてしまいました。
研究会にはお一人の重要メンバーがインフルエンザで欠席。今年は1919年、第一次大戦の終戦にともない「スペイン風邪」と恐れられたインフルエンザが猛威をふった年からちょうど百年。マクス・ヴェーバーも翌1920年、56歳で命を落としました。アラフィフ、アラ還の皆さんはとくにご自愛ください!

 本日落手した『みすず』678号には、例年どおり(140名の)「読書アンケート」が載っています。昨年から 1968-9年ないし東大闘争関連の出版がたくさんあったのに、それらへの言及はほとんどないのに驚きました。執筆者の世代ということなのでしょうか? いまさら言及の価値なしということ?
 ぼくが挙げたのは(pp.69-70)、
小杉亮子『東大闘争の語り』、
和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム』、
折原浩『東大闘争総括』、[ここまで3冊はこのブログでも論及しました]
 そしてイギリスの友人イニスたちが編集した Re-Imagining Democracy in the Age of Revolutions: America, France, Britain, Ireland 1750-1850 (OUP, 2014);
Re-Imagining Democracy in the Mediterranean 1780-1860 (OUP, 2018)
という2巻本の共同研究です。
 5冊に限定されていますから、これ以外は割愛するほかありませんでした。むしろ
山﨑耕一『フランス革命 「共和国」の誕生』(刀水書房、2018)
三浦信孝・福井憲彦(編著)『フランス革命と明治維新』(白水社、2018)
E.メンドサ(立石博高訳)『カタルーニャでいま起きていること』(明石書店、2018)
といった良書を挙げるべきだったでしょうか。

 とりわけ、近年のフランス革命史で一冊だけ挙げるなら山﨑『フランス革命』です。長年の研究教育をふまえ、「正統」か「正当」かといったレベルも含めて、ことばの意味を反芻しながら書き進められる。同じ patriot が1789年の前後で「愛国派」と「革命派」に訳し分けられるといった苦しい方便も、正直に告白なさる。研究史の展開を十分に踏まえておられるのは言うまでもなく、たいへん好感のもてる執筆姿勢です。
 最近のぼくなら、これに R. R. Palmer, Twelve Who Ruled: The Year of Terror in the French Revolution (Princeton U. P., 1941; Princeton Classics paperback, 2017) を加えたい。同じ著者の The Age of the Democratic Revolution がダイナミックな国制史だとすると、こちらはダイナミックな革命家列伝。第一章の題はなんと Twelve terrorists to be: 将来のテロリスト12名! ロベスピエールたち公安委員会の採りえた「狭い道」を描いて、国制的前提/思想的な資産と、革命情況の進展、友情と決断を浮き彫りにする。ご免なさい、ぼくは遅塚『歴史の劇薬』より、ずっとパーマのほうに共感できます。
 『フランス革命と明治維新』は、タイトルからすると、あの高橋幸八郎的な問題意識なのか、と身構えさせるが、大丈夫、日仏会館の催しで P.セルナ三谷博渡辺浩といった論客が、それぞれ言いたいこと/言わねばならぬことをポジティヴに述べたスピーチが収録されています。
 『カタルーニャでいま起きていること』はきれいごとでは済まない、ナショナリズムの現状。立石学長さん、多忙ななかで良い仕事をなさいますね。

2019年1月31日木曜日

パーマ『民主革命の時代』旧版・新版いずれも


〈承前〉 というわけで、新版(2014)に不都合や瑕疵はあるとはいえ、しかし、ヤル気のある学生たちに手に入りやすい形と値段で、この20世紀の古典が再版されたのは、悪いことではない。
 礫岩のような国家とか、躍動する国制史とか、言ってきた者にとっての価値は無限です。このパーマの書物には conglomerate state とか composite monarchy といった用語こそないけれど、なんと
「ウィーンのハプスブルク君主政とは、一種の巨大持ち株会社のようなもの(a kind of vast holding company)で、その下であまたの従属的な社団の構造が生命を維持していた」(旧版 I: 103; 2014版では p.78)
といった文が次から次に出てきます。いったいアンシァン・レジームの絶対主義とか社団的編成とか唱えていた論者は、これを見過ごしていたのでしょうか? それとも、そもそも NATO 史観のアメリカ人の本など相手にしない、という姿勢だったのでしょうか? こういった「方法的ナショナリズム」こそ、パーマが反対したものでした。「比較国制史の試み」(p.3)なのだけれど、各国史を束ねて終わりではなく、
 The book attempts to deal with Western Civilization as a whole, at a critical moment in its history(p.6)
と宣言します。さらに第2巻の序では
 I have tried to avoid a country-to-country treatment, and to set forth . . . on the wider stage of Western Civilization (2014版では p.376)
と念を入れています。
 ヨーロッパおよびアメリカの monarchy and republicanism, aristocracy and an emerging democracy が本書のテーマだと言うんですから、「主権概念の批判的再構築」のグループにも、「向こう岸のジャコバン」のグループにも、およそ歴史学的に政治社会と取り組もうという方々には例外なく必読文献(再読文献)ではないでしょうか。国制史は躍動するとか、well-ordered state とか、ホッブズ的秩序問題とか語っていた人、そして18世紀「啓蒙」に取り組んできた識者にむかっては、あらためて言うも愚か、かな。

2019年1月30日水曜日

R. R. パーマ『民主革命の時代』第2版(2014)


〈承前〉 というわけで、今回、書き込みの一杯ある手元の Princeton U.P., 1959-64 のぺーパーバック2巻本と対照しつつ、アーミテジのお弟子さんであるWくんの進言にすなおに従い、Princeton Classics edition, 2014 の1巻本を購入して再読することにしました。旧2巻本には40年以上も自分のカバーをかけて大事に扱ってはきましたが、汗とほこりと経年変化で、いささか脆くなっています。新1巻本はソフトカバーだけれど材質(acid-free paper)に工夫があり、丈夫で触感も悪くない。
 R. R. Palmer (1909-2002) ご本人は亡くなって久しいので、この第2版の出版全体について学識ある責任者はだれだったのでしょう。アーミテジは「前言」を執筆して彼の仕事を歴史のなかに位置づけていますし、また息子 Stanley Palmer もテキサス大学の歴史学教授だとのことですが、はたして、内実的な編集を supervise したのはだれか、ということは明確ではありません。扉のうら、(c) 2014 の奥付ぺージに This book includes the complete text of the work originally published in two volumes .... と記されていますが、じつは以下のような特徴ないし問題があります。

 まずは物理的な特徴から。
① 旧版は I(The Challenge) 9 + 534 pp.

     II(The Struggle) 9 + 584 pp.

 新版はこれを1巻に合体して 22 + 853 pp. に収めています。
  
単純に比較してぺージ数で 1,136ぺージ → 875ぺージ、つまり77%に減量。
本文・註ともに省略せず100%生かすために、その分、各ぺージの版面は圧縮されていて、
  旧版は1ぺージに40行、概算で約428 words,
  新版は1ぺージに45行、概算で約652 words.
旧版でも1ぺージにほぼA4・1枚分より詰めた感じの(充実した!)仕上がりだったのに、その1.5倍以上に詰まった版面で、字のポイントも小さい。
しかも旧版では各章の始まりは改丁して贅沢に1枚の紙の表裏をつかい、余白の美が読者をほっとさせてくれていたのに、新版はさすが章の始まりこそ「改頁」としていますが(改丁ではない)、余白はできるだけ詰めようという方針らしく、中高年の読者にはつらい仕上がりです。一巻本で900ぺージ未満に、という出版社側のコスト圧縮への強い意志のようなものを感じます。

 さらには、(旧版と対照しつつ)読み始めてから気付くことですが、
② 旧版にあった段落の区切りを無視して、2つの段落を合体して1つにするといったこと(これは暴挙!)が無断でおこなわれています。cf.新版の pp.14, 19, 26, etc.
古典的なテクストがたいへん長い場合、モダンな版では段落を分けるといったことがしばしば慣行としておこなわれているのは承知していますし、それは意味の無いことではないと思います。が、この Princeton Classics でおこなわれているのは、その逆です。

③ 旧版ではフランス語のアクサン、ドイツ語のウムラウトをはじめとする語の修飾が丁寧になされていたのに、新版ではこれらを、ときに(!)無視する、という中途半端な方針。しかも、OCRで読み込んだ結果でしょうか(?)、like a girl, ... like a child とすべきところが life a girl, ... life a child となっちゃって意味不明(p.42)といった瑕疵もあります。こうしたことは、いかに globalization=Americanization=digitization の時代とはいえ、立派な出版社ならやっちゃいけないことですよね。

④ 索引について。新版は2つの巻の合体により、索引も合体されて便利になったばかりでなく、じつは旧版になかったいくつかの項目 absolutism, British Parliament, などが独立して、使いやすさが改善したと思われます。
 ただし constituted bodies, corporatist school, intermediate bodies, patriot, patria (patrie), prescription (自然権の反対), virtue, well-ordered state といったパーマのキーワードは、残念ながら索引として立項されていない。また sovereign/sovereignty という項目はあるけれど、人民主権でない意味で使われた箇所については採用しない、といった瑕疵があります。
 旧版において原著者が立項しなかったのだから‥‥という言い訳はあるかもしれないし、索引は読者が自分で必要に応じて補えばよろしい、といった考え方もないではないけれど、20世紀の「古典」を今のアカデミズムのなかで生かすためには、やはり著者のキーワードについては立項したい。
 それから、新版の索引には信じがたい過ちも新たに生じています。たとえば、プロイセン王国のフリードリヒ2世(大王)は当然ながら立項されて、英語表記で Frederick the Great なのですが、これがなんと、Frederick William II [king of Prussia] と合体されてしまった。編集者さん(あるいはアルバイトの院生さん)、Frederick II [king of Prussia] という項目が必要なのですよ! 旧版の索引ではそこは間違いなく独立していましたから、一知半解の索引アルバイターがやっちゃったのかな?

2019年1月29日火曜日

R. R. パーマ『民主革命の時代』


 The Age of the Democratic Revolution, 1959-64年の2巻本(Princeton U. P.)で、アメリカ独立およびフランス革命をそれぞれの「祖国愛の史観」から一歩はなれて、1760~1800年くらいの「大西洋史」のダイナミックな動きのなかで捉えなおした「古典」ですが、皆さん、(その本があることは知っていますよ、といった具合に)言及するだけで、しっかり読んでないんじゃないかと思われます。
 かくいうぼくは、名古屋大学に赴任して2年目、1978年、- 隣の南山大学に青木くんが赴任してきたし、ちょうどフランス革命の天野さんが大学院に進学した、イギリス急進主義の松塚くん、アメリカ(Oberlin)留学から帰ってきた高木くんも院に在籍している - といった環境で、輪読にふさわしいテクストとして選定し、この2巻本を相手に奮闘しました。アメリカ史のさかんな名古屋という土地柄、院生たちの勉強と知恵にも支えられて、1980年夏にイギリスへ飛び立つ直前の鳥羽合宿まで続きました。アメリカの「自由の息子たち」や、ポーランド人コシチューシコについて基本的な知識をえたのも、パーマのこの本のお陰です。
 1970年代の日本では、パーマも大西洋革命もいささか不評で、理由を憶測してみますと、
1) 冷戦体制のなかで「右寄り」かリベラル(当時は「反共」という意味)の歴史家とみなされ、フランス革命の人類史におけるユニークな意義をパスして、18世紀末の国制史に議論をフォーカスしてゆく、「反動」ではないが主流でもない歴史家、相対主義者という位置づけだったのではないでしょうか。日本学界でも、ましてやフランス学界でも不人気だったようです。日本のフランス革命研究者では、柴田三千雄さんが注目していましたが、これはかなりレアで、今思えば勇気ある立場でした。
 ぼくはフランス革命では、その前に(75~76年) Richar Cobb, The Police and the People を読んで、おもしろい本だけれど、(ちょっと E. P. トムスンに似て)細部にこだわりすぎ;コッブの議論はこの10分の1くらいの量でも証明できそう、なんて思っていました。だからパーマの、経験的な叙述でありつつ「構造」を鮮明に打ち出す論理に、一種の爽快感を覚えました。成瀬先生の授業で「身分制議会史国際委員会」というのがあるのだと聞き知っていたし、それが新版のp.23の註1と2に挙がっているのをみると、それだけでも「えっ」という興味関心を励起されますよね。そういった感想を申しましたら、柴田先生もなにか曖昧な共感めいたことを言ってくれた覚えがあります(考えてみれば、早くも星雲状態ながら『近代世界と民衆運動』を構想されていた時期ですね)。遅塚さん、二宮さんの場合は、ほとんど反応ゼロでした!
 1989年に来日したリン・ハントとフランス革命関連で読んだ本という話題となり、まず Palmer, Age of Democratic Revolution と申しましたら、反応はネガティヴで、パーマでおもしろいのは Twelve Who Ruled だ、Age of Democratic Revolution は広い学識は示されているが、いささか退屈、ということでした。ジャコバン史家の面目躍如でした。
2) また、アメリカ史学界では「古いヨーロッパ」から自己を解放したはずの独立革命について、ヨーロッパ史と同一の動きと構造を指摘するパーマ教授は、やはりアメリカ史の世界史的なユニークさを捉えきれない学者という評価でしょうか。1960年代から以降の「新しい歴史学」になると、なおさら中途半端で退屈な仕事という受け止めかな。

 この二つの理由で、第2版の前言(2014)を書いているアーミテジの表現では「その後ほとんど40年ほど、古典であって、崇拝はされても読まれることのない本」に落とし込まれたと言います。1955年の 国際歴史学会議@ローマ におけるパーマとゴドショによる「大西洋革命」論の提唱と、それはNATO(北大西洋条約機構)擁護論だ、といった強い批判をよくは知らなかったぼくが、「ホッブズ的秩序問題」「躍動する国制史」といった問題を意識するよりはるか前に、なんとルースをはじめとする「社団的な社会編成」をキーワードとするコーポラティストを理論的な指針としたパーマ先生の主著に取り組んでいた。これは「偶然」というよりは、幸せな contingency (複数の契機からなる時代情況)の賜物、というしかありません。