2022年11月27日日曜日

Great outline & significant detail

   しばらくご無沙汰していますが、offline ではミニマムの諸々をこなしています。
 『図書』に連載しています列伝「『歴史とは何か』の人びと」の第4回(12月号)は「アイデンティティを渇望したネイミア」というタイトルです。ルイス・ネイミアについては、むかし『英国をみる - 歴史と社会』(リブロポート、1991)で「ネイミアの生涯と歴史学 - デラシネのイギリス史」という小文を書きましたが、今はE・H・カーおよび20世紀前半の知識人の世界でネイミアという人物をとらえなおそうとしています。
 一方では「ユダヤ人でありながらユダヤ教徒でなく、ポーランド生まれでありながらポーランド人でなく、地主でありながら土地を相続せず、結婚しながら妻は不在」とされる不幸なネイミアですが、他方でカーは、かれこそ「第一次世界大戦後の学問の世界に登場した最大のイギリス人歴史家」という賛辞をささげます(『歴史とは何か 新版』p.55)。この不思議な「‥‥粗野で態度が大きく‥‥2時間でも自説を弁じ続け」る男の学問は、カーの緻密な実証主義の手本でもあったわけです - この点は溪内謙さんも十分な理解は及ばなかったかな? またネイミアはアーノルド・トインビーともA・J・P・テイラとも(ひとときは)親しく交わった。そして、むしろ彼の死後に勢いをもつ修正史学の先鞭をつけたようなところがあります。
 学問とはすべて本質的には(アリストテレス以来の定説の)修正であり、長い註だ、という観点に立つと、ネイミアはまさしくそうした revisionism という学問の王道を行った人ということになります。だからこそ(一見正反対にみえる)E・P・トムスンも、あのリンダ・コリも、ネイミアの名言:「歴史学で大事なのは、大きな輪郭と意味ある細部だ」には脱帽するしかないわけですね。
 これは、オクスフォード・ベイリオル学寮で、トインビーとの座談のうちに出てきたセンテンスらしいですが。
 ‥‥ある樹木が何であるか調べるのに、枝が何本あって何メートルあるか計測してみても何にもならない。樹影全体の形を見きわめ、樹皮を見、葉脈の形状を調べるべきなのである。それをしないまま泥沼のようなどうでもいい叙述にはまることだけは、避けなければならない。
 秋の快晴の空を背景に屹立するみごとな欅を見上げつつ、想い出しました。(枝も葉もなんとなく右に傾いているのは、右が南だから‥‥)

2022年11月5日土曜日

大きな問いを取り戻す

 昨夜(金)に「西洋史学の出版の今とこれから」について書いたことで、落ちていた重要な論点は、「大きな問いを取り戻す」という鈴木哲也さん(京都大学学術出版会)の最初の問題提起です。これは2つの理由で、ただちには触れられませんでした。

 第1に、「大きな問いを取り戻す」なんて、当たり前でしょ、ということ。レンガをいくら集めても建物(家屋)にはならない。レンガの集積より以上のことをしなければ家は建たない、というのはE・H・カーもアーノルド・トインビーも言っていたことです。
たとえば、『歴史とは何か 新版』p.18 では「‥‥微に入り細をうがつ専門研究が、ますます小さなことについてますます膨大な知識をもつ歴史家候補生たちによって、巨大な山のように積みあげられ、事実の大海に跡形もなく沈んでいます。」
同じく pp.11, 276 では「大工の棟梁」architect、そのわざ architectonic という語を用いて、学問的構想力の必要を論じていました。
 また、ぼくたちの先生の世代からは、若い院生のゼミ報告のあと、まず最初に「そんな(チャチな)ことをやっていて、どこがおもしろいんだ?」といった対質を受けるケースを、しばしば見てきました。つまり、戦中戦後を知っている学者たちの強い問題意識/意志が若い世代に共有されなくなった1970年前後からの、長い齟齬の時代。その齟齬が、ハードアカデミズムjournal-driven researches という形でバイパスされているとしたら、空虚な時代ですね。

 第2には、そもそも京都大学学術出版会の誕生にかかわる、八木俊樹さんを想い出すからです。京都大学学術出版会の本を手にした人は、なぜこの publisher は「京都大学出版会」でなく、わざわざ「学術」と名乗っているか、ご存知ですか?
 すでに1970年代には京都大学を中心に University Press を立ち上げようという話は動いていて、さまざまの交渉が交錯したようですが、そのなかに(当時まだ社会思想社にいた)八木俊樹さんがいました。そしてこの社会思想社と八木さんは、他ならぬ「社会運動史研究会」にも関与していたので、ぼくたちも東京で、京都で、八木さんの人柄に触れる機会があったわけです。『歴史として、記憶として:「社会運動史」1970~1985』(御茶の水書房、2013)の巻末索引および略年表;そして彼の遺著『逆説の對位法(ディアレクティーク) 八木俊樹全文集』(2003)を参照してください。
 「社会運動史研究会」が1970年代のもろもろの尖鋭性と発達不全の限界を持ちあわせていたことは、『歴史として、記憶として』からも容易にうかがえると思います。そのなかで八木さんは、研究者のチンマリした「小業績」には関心なし、でした。こわい御意見番でした。

2022年11月4日金曜日

西洋史学の出版の今とこれから

 昨3日(木)には、京大の西洋史読書会大会で、シンポジウム「西洋史学の出版の今とこれから」 https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/european_history/eh-dokusyokai-new/ があり、Zoomにて視聴しました。多くの関係する方々の十分な協力があってこそ実現したのだろうと想像されますが、すばらしい企画でした。
 個人的経験として、一著者が幸運にも有能な編集者・出版人と知りあって、一緒に仕事する過程でいろいろな助言を得て、学習し、ゆっくり育つということはあったでしょう。【ヴェテラン編集者の場合は、逆方向のヤリトリで学習をくりかえしつつ、逞しく育つのでしょう。】しかし、今回のように4種の出版について、それぞれ編集者=著者間の良き友情もうかがわせつつ、経験と教訓が公共的に語られたのは稀有なことです。若い研究者には未知の世界を垣間見た思いでしょう。
 感動のあまり、一人の胸に収めることあたわず、以下、順不同で感想を述べます。

・佐藤公美さんは(他の問題とともに)何語で書くかという論点を呈示され、これはまじめな外国史研究者の悩んできた問題です。もうすこし(別の機会にでも?)語り合い、深めるべきかと思いました。
 また専門論文は、著書という形でなくとも、専門誌や論集への寄稿という形での publication があるわけで - そのほうが読まれる機会も相対的に多かったりして -、ガチの専門書出版は、助成金なしには難しいですね。とはいえ、佐藤さんの報告は多岐にわたりましたが、「文体」の指摘も含めて、もっとも深く考えられた感動的なものでした。心ゆさぶるものがありました。

・白水社の糟屋さんが、出版サイドの判断として、厚い本だからといって困るとは限らない、むしろ薄くて苦労することもある、とは眼から鱗でした! コスト計算が合理的に成り立ち、内実のともなう本でさえあれば、良心的な出版社は OK してくれるのですね。内実しだいというのは、心強い。

・金澤周作さんも言われたとおり、一般学生(あるいは積極的な高校生)にとって新書は学問(考えること)への良き道案内です。岩波書店の飯田さんの巧みな表現によれば「観光案内」なのですから、ぜひ実力ある執筆者にはまじめに/本気で取り組んでほしいと思います。じつは一般学生や読者だけでなく、他分野の専門家にとっても、岩波新書は最初に頼れる導師、信頼できる博識な「観光ガイド」なのです。
 ただし、たとえば柴田三千雄は中公新書と岩波新書を書いたけれど、二宮宏之は書かなかったというように、向き不向き/ときどきの巡り合わせはあるでしょう。それにまた、新書ばかり量産している方は、あまり近くに居てほしい人ではありません‥‥。
 ポイントはむしろ新書かどうかよりも、低価格の(今日では2000円未満くらい?)、しかも目に止まりやすい出版が、ひろく知的に飢えた若者向けに必要なのだと思います。小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいウクライナのこと』の場合は、迅速な公刊という点でも、特別な賞賛と推奨に値する出版でした。

・井上浩一さんと江川温さんのやりとりから展開して、討論されたとおり、翻訳および新書の苦労と成果についても、しっかり踏みこんだ、批判的な書評がぜひ必要というのは、大賛成です。

・最後の松本涼さんがアウトリーチ、「協働」について具体例を紹介してくれました。ぼくにはちょっと別世界の感がありますが、それぞれの世代、それぞれの感性にたいするアプローチは必要でしょうね。ただしぼく自身が関われるのは、せいぜいブログまでです!

 感激のあまりの、妄言多謝です!