2012年12月27日木曜日

いったい何やってんだ

Oさん、
今いったい何やってんだ!? と不審に思われているかもしれません。

1) 日英歴史家会議(AJC)の事後処理と proceedings 編集刊行、

2) 70年代現象としての社会運動史(『社会運動史』と戦後歴史学)、

3) 本国サラサはどこから来たか(本国更紗とイギリス資本主義)
  → 1月の科研合宿報告 → 『立正史学』)、

4) 礫岩国家と普遍君主(the world is not enough)
  → 日本西洋史学会大会の小シンポジウム(2013年5月12日@京都大学)、

5) その他、校務のたぐい、

というわけで、まるで schizo、同一性障害そのものではないか、と。

いえ、じつは、立正の講義もふくめて すべて 『イギリス史10講』(岩波新書)と関連し、その裏付けだったり、その執筆中に自己展開し始めたテーマだったり。

『10講』とは、即、柴田・二宮・遅塚史学から学びつつ、そこから脱皮する過程でもありました。一方の「従属論」(世界システム論)、他方の「修正主義」(contingency論) から学び、自分の道を探しあてる長い道のりでした。

1997年夏の企画会議から16年くらいかかっても、しごく当然と言いたいところ。なぜって、「最高のワイン」論ですので‥‥

2012年12月24日月曜日

「水田賞」公募、延長



 世の中で小さいお子さんやお孫さんをお持ちの家庭では、今晩から明朝にかけて、「秘密保持」に気をつかうことでしょう。ぼくは39歳の娘から、「保育園でサンタのおじさんの目がパパだった」ときの幻滅を、すでに大人になってから何度も何度も語られました。ぼくとしては西新井保育園の園長さんに頼まれて、それでは、と善意でかって出たんですがね。

さらにケインブリッジで生活していた小1から小3のころには、市内のあるお店の包装紙が、25日朝のサンタの贈物の包装に使われているので、「これはおかしい」と考えたとのこと。なるほど配慮不足でした。

ところで、サンタならぬ水田洋さんから、顔を見せてのギフトです。

第1回「名古屋大学水田賞」授賞候補者の募集について
→ http://www.respo.provost.nagoya-u.ac.jp/jyuuyou/2012-10-17-01-29-46_ja.html

1.趣旨
 水田洋 名古屋大学名誉教授からのご寄附の意志に基づき、人文・社会科学(思想史)の分野で将来の発展が期待できる優れた研究能力を有する若手研究者を顕彰し、その研究意欲を高め、研究の発展を支援します。

2.対象分野
 人文・社会科学(思想史)の分野

3.授賞
 授賞数は1件とし、受賞者には賞状及び副賞として50万円を贈呈します。

4.対象者
 日本国内の若手研究者で人文・社会科学(思想史)の分野において、一定の成果を上げた研究者のうち、平成24年4月1日現在以下の条件を満たす者とします。
 1) 40歳以下であること [以下略]

→ [応募者が十分には多くないのでしょうか、] 〆切を延長して、1月18日必着と改めたようです。30代の皆さん、どうぞ運試しを!
別に名古屋大学関係者である必要はなさそう。
でも明らかに、西洋思想史、とくにホッブズからスミスからミルの前後左右、そして啓蒙あたりをやっている人が有利でしょうね‥‥。ぼくが若かったら、断然、応募して有力候補になるな。いまや Hobbesian problem of order を柱に執筆中だから!

2012年12月21日金曜日

桜井由躬雄さん


 今夕、本郷の集まりに参加して、飛びこんできたのは桜井さんが急死なさった報。驚きました。つい11月1日(木)には、「文化交流研究懇談会」で並んですわっていたのですから。「一時調子悪かったんだが、いや今は元気だ、飛び回っている」とのこと。全然変わらない、という印象を受けたばかりだったので。

 由躬雄さんの記憶の最初は、1968-9年のある夜です。こちらは法文2号館1階、西洋史の研究室に寝泊まりしていたのだが、廊下の向こうの東洋史からずいぶん距離があるのに一人の声が大きくて、いつまでもうるさい、眠れない。翌日聞くと、院生(人文闘争委)の桜井という人の声だというので、認識しました。昼間も声が大きかった。西洋史では岡本さんと同学年でしょうか。いやその一つ上か。白にオレンジのテープを貼ったヘルメットをかぶっておられました。
 ぼくは3学年下で、学部の3年生でした。

 ずうっと後になって、桜井さんが京都の東南アジア研究センターで活躍しておられると耳にしました。さらに後になって東大文学部の助教授に迎えられましたが、ある夜、図書館の脇でたいへんな美女と腕を組んで歩いておられるのを目撃してしまったときは、困りました。しかも悪びれることなく、近づいてこられて「女房です」とおっしゃったので、驚愕しました(ご免なさい)。

 そのころ丸ノ内線の電車内で、ぼくは遅塚さんと一緒にいたのだが、桜井さんが近づいてきて、「先生とぼくの名前、躬の字が同じです」と。遅塚さんも上機嫌で「そうですなぁ」と、楽しそうな話が始まった。ひとと知り合うきっかけを作るのがお上手だと思いました。

 さらにいろんなことがありましたが、それは全部飛ばして‥‥、何年もたった春の夜、赤門脇・経済学部棟の一番上の階に確保なさった広い桜井「主任教授室」で、岸本さん、石井さん、吉澤さんと一緒に「東大最後の夜」を遅くまで過ごしました。結局、その夜は、みんな帰りの電車は無くなって、徒歩で帰れる方々はいいけれど、遠い人は本郷の各部屋に泊まったり、ぼくの場合は大枚をはたいてタクシーで帰宅しましたね。
 すでに5年半前の3月末でしたか。なんと速く時はすぎるのか!

 ご冥福を祈ります。

2012年12月17日月曜日

安倍政権という展開!


 総選挙の結果ですが、民主党の失政、小選挙区制、小党乱立、東アジア情勢、いつまでも続く不景気、などなどの複合的な結果(contingency)だろうと思います。投票率が低かった、ということも自民・公明には有利に働いた。一言でいうと「自民党と公明党の地滑り的な勝利」ですが、鳩山由紀夫以来の民主党政権のあまりの無責任さ・稚拙さが、こういう形で懲罰された、といえます。
 ぼく個人としては、現在の日本政治は政界再編の途上(移行期)と考えていますので、その芽が育っているのかどうか、に注目したい。そうした点から憂慮すべきことが3点あります。

a. なにより安倍晋三政権の内向き右翼の言動は、もし今回の「圧勝」で増長するなら、日本国を奈落の底に突き落とすでしょう。
 父・安倍晋太郎(もと外相)の御曹司とはにわかに信じられないほど、国際センスも政治センスもない。政治的無能(とマスコミの甘さ)という点では、左右正反対だけれど、民主党圧勝後の鳩山政権と似ている。
 首相の靖国参拝によって‥‥途中は省略しますが‥‥日本経済は大きく傷つき、これまで誠意ある日本人が築きあげてきた国際的信頼は失墜します。新政権は景気浮揚・公共投資といった言を弄していますが、それらもすべて靖国によって国際的には無に帰するでしょう。

【ぼくは、二世議員だからダメなどと、ナイーヴなことは言いません。ほんの数年前には福田康夫、麻生太郎と、二世ではるかにましな首相がいましたが、日本のマスコミは、こういった知的な政治家を嫌う傾向があります。ピットもピールもグラッドストンも二世議員でした。】

b. 石原慎太郎。こちらもゴーマンで品格のない言辞で「庶民」・おじさん・おばさんを引きつけてきました。ハッタリで大衆を掌握する二流文筆家=政治家という点では、ほとんど19世紀のディズレーリに似ています。【ちなみにディズレーリも二世議員!】

【安倍、石原のご両人とも、日本国民なら御霊を祀る靖国に参拝するのは当然しごく、という立場らしい。「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」を祀る所なのだから、というでしょう。
しかし、カマトトでなければご存じでしょうが、靖国神社とは東条英機を祀り、西郷隆盛を打ち棄てる神社です。1978年の東郷合祀以来、昭和天皇も今上天皇も参拝していないことは、みなさんご存じのとおり。 両陛下のほうが、安倍・石原よりはるかに聡明で、筋を通しておられます。】

c. 低投票率。想定外の好天ゆえに、投票率が低く、マスコミが(おもしろ半分に)期待した第3極は伸びず、堅実に票固めをしていた自民・公明が漁夫の利を得た。
 これは有権者大衆の責任です。国民がもし目先のことに(ニワトリの条件反射のように)反応するだけで、自分と社会の来し方行く末を考え、政治的な意思表示をしないとしたら、将来は身から出たサビ。ぶつぶつ不平不満を述べる資格さえないでしょう。愚かな国民には愚かな政治がふさわしい。

 ポピュリズムとは別のところで、真剣に、立ち入って議論すべきは、長期的な社会経済政策であり、この国のかたちだと思います。歴史学の出番かもしれない。

2012年12月9日日曜日

真珠湾攻撃


8日朝の『日本経済新聞』で、西洋史出身の郷原記者と、文書館担当の松岡編集委員の共同記事を見ました。
「大使館怠り説 覆す? 新事実」↓
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO49302190X01C12A2BC8001/

これは時宜をえた記事です。郷原くんの健在もうれしい。専門家の間では特筆すべきほどの発見じゃないのかも知れないが、国民周知の事実ではないのだから、この愚劣の歴史を、マスコミはもっと繰りかえし報じるべきです。
最後に渡辺昭夫・東大名誉教授が述べるように、この発見があってもなくても、12月8日(US時間で7日)のパールハーバが宣戦布告なき奇襲攻撃であることは、紛れもない事実。

それにしても、軍部だけでなく外務省も共謀して、攻撃を開始する時刻よりあとに通告するように計ったという。無能な役人が暗号解読・翻訳に時間がかかって、あるいは不在で遅れてしまった、というのではない、故意の遅滞のために、わたしたち子々孫々にいたるまで、事あるたびに恥じなければならない。「それ以外に勝つ手段がなかったから‥‥」?

とんでもない。
戦争とは国際的な力のゲームなのだ。「はっけよい」と手をつく前に突っかかっては相撲にならないのと同じ。国際法のルールを、はたして将兵は周知していたのだろうか。一方の「生きて虜囚の辱めを受けず」と同様に、ガラパゴス列島の中だけで通用する発想と倫理でやっていたわけだ‥‥。

しかも、じつはすべての交信がアメリカに傍受され、解読され、文書館に保存されていたのだから、(日本の外務省は発信記録をなぜか紛失した - 東京裁判のため?)なんと虚しい‥‥。

戦後はその反動で、全国民が戦争を呪い忘れれば、即、平和主義であるかのようなフィクション、じつはアメリカの核の傘の下に守られてこそ通用する、ほとんどママゴト民主主義でやってきた。
のろわしい記録の紛失 ⇔ 記憶の喪失。

がっかりしてしまう。

2012年12月8日土曜日

夕闇の地震


>授業後、地震があったようです。
>11F にいらして、大事ありませんでしたでしょうか。

という問い合わせをいただきました。ありがとう。いやはや高層の研究棟は大変に揺れて、書棚にしっかり置いてなかった雑誌は何冊も落下しました。

揺れはきわめて長くつづき、卒論面談中でしたが、ドアを開けて、廊下をはさんで向かいの部屋で演習中の Nゼミと一緒に 恐怖を共有しました。ただし、「311の揺れはこんなもんじゃなかった」という発言と、急遽、だれかがワンセグで見聞きしたNHKニュースで「宮城で震度5弱」、「東海道新幹線は運転見合わせ」(在来線は通常どおり)というので、安心した次第です。

と、呑気なことを記していますが、宮城など震源近くの方々は夕闇の中でおちおちできなかったでしょう。お見舞い申しあげます。

2012年11月28日水曜日

近世都市 金沢



あいかわらずアタフタしていますが、週末から3日間フルに文化都市金沢を堪能することができました。お城や兼六園にも行きましたし、武家屋敷跡、東西の茶屋街、そしてタテマチも歩きましたが、次の研究の見通しとして、最初に宮腰の港と銭屋五兵衛の記念館と醤油の大野を見学。積極的ブルジョワ「銭五」のこと、みなさん、ご存じでした?

近世都市は水運がなければ成り立たないだろう、と考えていますので、それを確かめるという意図もありました。観光案内が充実していると思いました。

金沢は地域の大学都市でもあるようですが、四高と県庁の跡が、よい具合に大学コンソーシアムの共同施設になっていました。

晴と雨の金沢を、短期日ですが効率的に楽しめたのは、もちろん御案内と御指南が良かったから。

観光客で一杯の「野村家」のほうは、じつは所有者の交替が重なり、すばらしい庭のほかは性格が変わってしまったようですが、「寺島邸」のほうは近世の武家の空気を一家で代々守っていらっしゃるのですね。   おいしい海の幸、山の幸も賞味しました。
  ありがとうございました。

2012年11月5日月曜日

70年代の現象としての社会運動史



去年の12月、今年の6月に東洋大学で『社会運動史』という雑誌、あるいは社会運動史研究会という集まりについてのコローキアムがありました。

→ http://kondohistorian.blogspot.com/2011/12/70.html

→ http://kondohistorian.blogspot.jp/2012/06/blog-post.html

それにもとづいて一冊の共著を、ということで、いま編集が進行しています。

一番若いのがすでに60代半ばだというタイミングで、東西の旧メンバーが再会し、年譜も配布されたので、ほとんど忘れていた事実を想起させられて、その意味を再考するといったこともあり、正直、懐かしかったり、反省のよすがになったり。

なので、記録と記憶のために一冊の本を編むことに反対はしません。とはいえ、いまの時点で個人的懐旧(と弁明?)をしたためるのは本意ではない。‥‥というわけで、用意は不十分なままですが、1970年代という情況における「社会運動史研究会」現象について、覚書的なことを書き付けておくことにしました。
最後は <歴史のフロンティア>(1990年に企画開始、93年に刊行開始)のことで結びます。↓
http://www.yamakawa.co.jp/product/common/&cat_207?cat_207=207&sw=
このシリーズの企画委員4名のことは、いまでは案外、知られてないですね。学界・出版界の「健忘症」というより「認知障害」ということかな?

ザハリッヒで率直な原稿をしたためて、すでに編者に送りました。

2012年11月4日日曜日

at u-tokyo.ac.jp !?

こんな阿呆なメールが来た。いま話題のなりすましメールで、
一瞬 @u-tokyo.ac.jp (東大)から来たかのように見える。
IPアドレスも [133.11.‥‥]と本郷的。
わが警察庁だったら、ただちにこれを東大本郷発とみなすのだろうか。
だが、そもそも

1) 東大のサーヴァは必ず @ と u-tokyo.ac.jp の間に l.とか waka.とか部局名が入る。

2) 日本人宛に下手な英文でメールを出したりしない。

3) けっしてメール返信で E-MAIL ADDRESS: USERNAME: PASSWORD:
といった入力を求めたりしない。

4) ヘッダを見れば明白だが、bilkent.edu.tr(ってどこ?)を中継しているし、

5) 万が一にも返信すると Reply-To: hku_techie@msn.com へ繋がる。

といったわけで、少しでも東大に関係ある皆さん、返信しちゃダメですよ!

〈以下に引用しますが、個人情報的なポイントだけ‥‥に替えます。〉
Return-Path : acct.auth@u-tokyo.ac.jp        ← 作為のアカウント
Received : from l.u-tokyo.ac.jp (bun-fw.l.u-tokyo.ac.jp [133.11.‥‥])
by lsw7.l.u-tokyo.ac.jp (Postfix) with ESMTP id 0360B6C2D3
for ‥‥ ; Sun, 4 Nov 2012 03:11:40 +0900 (JST)
Received : by ispinoz.bcc.bilkent.edu.tr (Postfix, from userid 12346)
id 6631633A2276; Sat, 3 Nov 2012 20:09:32 +0200 (EET) ← どこでしょう?
Received : from newmail.bilkent.edu.tr (unknown [192.168.10.218])
by ispinoz.bcc.bilkent.edu.tr (Postfix) with ESMTP id 4734233A2272;
Sat, 3 Nov 2012 20:09:32 +0200 (EET)
Received : from 210.187.178.44(SquirrelMail authenticated user gulsahd@bilkent.edu.tr)by newmail.bilkent.edu.tr with HTTP; Sat, 3 Nov 2012 20:09:32 +0200
Date : Sat, 3 Nov 2012 20:09:32 +0200
Subject : Notification: Re-validate your email
From : "u-tokyo.ac.jp E-mail Services"
Reply-To : hku_techie@msn.com      ← 作為のアカウント

User-Agent : SquirrelMail/1.4.22

Dear u-tokyo.ac.jp User,

To increase your storage capacity and the functions, you are required to
reply to this mail and enter your Login ID and Password in the space
provided below due to the fact that we are about to carry out maintenance
and increment of storage capacity on our web-mail services/account within
the next 72 hours.

Failure to do this within 72hours will immediately render your email
account deactivated from our database.    どうぞそうしてね!

FULL NAME:
E-MAIL ADDRESS:
USERNAME:
PASSWORD:
CONFIRM PASSWORD:

Your Account can also be verified via our Web-mail Link before the
information are sent.

Thank you for using u-tokyo.ac.jp Email Services.

Yours in Service,
© u-tokyo.ac.jp E-mail Services

2012年10月19日金曜日

Offshore !?


 ぼくが不在中の自宅に「ロンドンの銀行、 HSBC とかいう所から電話がかかってきて早口でまくしたてるので困った。話し手の電話番号だけはなんとか聞き出したから、なんとかして」、との家族からの電話。

 うーん、たしかにぼくの銀行口座は(むかし British Council に指定された Midland Bank)いまは合併後の HSBC にある。でも必要な通知はいつも郵便でくるのに、なぜ電話なんだ?緊急のことといえば AJC ? でも、ちょっと怪しい。

 で、念のために、言われた電話番号を Google で検索。

 すると、いくつかのblogでの言及とともに、HSBC Africa のページが上位にある。慎重にそのページにアクセスすると、

OFFSHORE: Welcome to offshore banking with HSBC Bank International . . . .

これはうそのページではなさそうだ。トップにロンドンの電話番号が記されていて、Get in touch . . . とある。あらゆる可能性がまだ否定できないが、結局、こっちがあまり英語のできない日本人だということをよく分かってない若手職員による、ごく普通の「営業トーク」だったのかもしれない。お疲れさま。

 ちなみに offshore とは、大陸から海を隔てた「ブリテン諸島」とか「日本列島」とかいう意味じゃなくて、海外居住者向けの金融ビジネスで、税制・法制上の有利をはかるもの;日本でタックス・ヘイヴンと呼ばれるものと関係する場合も関係しない場合もふくむ概念のようだ。

 英国の銀行口座を持ってるといっても、それは32年前の留学生として開いた口座を維持しておいたほうが細々としたことで便利だ、というだけで、残額も微々たるもの。有利な運用もなにも無縁なのだが。円とポンドで桁を間違えたんじゃないでしょうね。--とはいえ、ガラパゴス日本の平和で安全な日夜にぼんやりしているうちに、「上客」と見まがわれたか。気をつけましょう。

2012年10月1日月曜日

Hobsbawm, 95 years old

こんなメールが飛びこんできた。
ケインブリッジのAJCでは、ホブズボームは元気、ロシア革命と同い年、と話題にしていたのだが。
Dear Kazu

Sad to say, Eric Hobsbawm died today - we were talking about him at the AJC.
See http://www.bbc.co.uk/news/uk-19786929

〈以下は一晩あけて、10月2日に加筆〉
 1974年に初来日、東大社研の研究会で労働者文化とコミュニティについて質問。社会学にたいして厳しい見方をしていることに、意外な印象をえました。70年代の日本では歴史学と社会学が近づいていたので。【今から振り返ると、ただ柴田三千雄と高橋徹、二宮宏之と宮島喬が仲良かっただけのことかな?ぼくじしんも学部時代は社会学か西洋史かと悩んだんですよ。】
 1980年に留学して、ただちにロンドンのホブズボーム・ゼミに出ましたよ。いつも椅子の数よりたくさんの出席者であふれる盛況。床や窓や机に腰かける者もいて、活気がありました。その年のクリスマス前にゼミのあと、ジョン・レノンが殺された、と耳にして、ケインブリッジに帰る列車が激しく揺れるのを、恐ろしく感じました。
 ホブズボームの仕事について、ぼくは何度か書きました。たとえば樺山紘一(編)『現代歴史学の名著』(中公新書、1989);「同時代史としての20世紀論」『週刊読書人』(1997年5月16日), etc. それから、こんな小文をウェブに載せていたのを忘れかけていました。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/HobsIoT.htm
ホブズボームの仕事は立派だけれど、その質と広がりに見合う日本語訳書はきわめて少ない、というのが残念ながら事実です。
彼のインタヴューは『歴史家たち Visions of History』(名古屋大学出版会、1990)のトップに収められています。

2012年9月28日金曜日

『民のモラル』 並製版


〈歴史のフロンティア〉の初版は1993年11月でした。それからじつは2刷、3刷と 微細ながらも数々の訂正改良を重ねてきていますが、近年は版元品切れ。欲しい人は古書市場でどうぞ、という情況でした。

 しかし、今回立正大学で後期の教科書として指定するにあたり、せいぜい数部(10冊以内)しか間に合わないのでは授業にならないので、山川出版社と相談して、オンデマンドの「並製版」を作っていただきました。9月20日付。

初版第3刷と同じ形態・版面。ただしカバーに表示する定価について、消費税制の変遷にともない、内税でなく外税で
「本体2600円+税」
という表示に変わりました。

しっかりした厚紙の表紙から並製=ペーパーバックに変わったのですが、表紙の図柄(ホーガースの油絵と銅版画)は元のまま。内部も元のまま(ただし、ほんの少し色濃く=しっかり印字されている?)。 230-231ページ、ブリューゲルの版下のみ、ひそかに取り替えました。白黒でも見やすいようにという配慮です。本全体の厚みが減って、また表紙が bendable なので使いやすいという声も。

2012年9月25日火曜日

蔵書 処分

 暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、ほんとに涼しくなりました。


 本郷に文生書院という取次店があって、今ではメールマガジン『文生だより』を月に2回発行しておられます。Parliamentary Papers など大型コレクション/データベースの売り込みでも活躍されています。
今週の号(No.21)には、下記のような記事あり。身につまされる点もあり、事前承諾なしに一部を引用します。 ← http://www.bunsei.co.jp/
 ─────────────────────────────────────

『本を売って下さい。』と言ううたい文句を目にされたり、耳にされる方も多いか
と思います。もちろん弊社でも、古書の買い取りを致しています。

ご処分の方法がお判りになられない方は先ずはご連絡下さい。 <中略>
弊社では常時ご連絡をお待ちしています。 <中略>

~~~~~~担当の声~~~~~~

お陰さまで買い取りのご相談をいただき、現地へ出向くことが多くなりました。最
近では、茨城県水戸市、埼玉県本庄市、秩父市、千葉県市川市、南房総市、東京都
町田市、足立区、新宿区、横浜市旭区、神奈川県平塚市、小田原市、静岡県静岡市
、浜松市へ。また、機関様・法人企業様の図書室、大学様の御研究室、法律事務所
様のご蔵書を引き取りにお伺いさせていただきました。
その中でも想い出深い買い取りを二件ご紹介します。一軒目は、広い間取りの戸建
て。寝室、応接間、書斎、居間、廊下、階段、ベッド、ソファー、机上と至るとこ
ろにご蔵書がございました。あまりの多さに、数日をかけて引き取りに出向きまし
た。蔵書を結わいても結わいても終わりが見えず精神的にしんどかったことを思い
出します。

二軒目は郊外の団地です。2トン車2台分の量、分野は郷土史でした。重い郷土史
をジメジメした梅雨空の下、エレベーターがない団地、最上階の5階から搬出しま
した。一度は経験してみたかった団地の5階、非常に肉体的にきつかった買い取り
でした。

精神的に肉体的にきつくても、楽しみがあります。それは食事です。普通の食事で
はつまらないので、その地域にある流行のお店、地方の名物・ご当地グルメをググ
り、買い取り先へ伺っています。
棚に収まりきらず、読み終わった書物はございませんか?ご整理にお困りでしたら
ぜひ本を売ってください。地方の方、大歓迎です。もちろんエレベーターがない団
地の5階にお住まいの方も大歓迎です。 <以下略>

 ─────────────────────────────────────

今ではわが自宅もオフィスもエレベータがあるので、その点はよいとして、しかし
「寝室、応接間、書斎、居間、廊下、階段、ベッド、ソファー、机上と至るところにご蔵書がございました。あまりの多さに、数日をかけて引き取りに出向きました。蔵書を結わいても結わいても終わりが見えず‥‥」
というのは、学者ご本人が亡くなって遺族の希望で処理したケースでしょうか。他人事ではない、という実感。仕事とはいえ、なにか美味しい物を食べないとやっていらんない、というのも共感します。

2012年9月17日月曜日

オクスブリッジの学寮

日本に戻りました。

11時間の飛行のあと、今回は羽田着陸で、夜明け前の 4:40。手続き、荷物を受け取り、日の出たばかりの湾岸をモノレールから眺めながら帰宅しましたが、6:35着。公共交通機関で2時間かからず。これは快適ですね。おまけにすべてが空いている。
ただし、雨の後の早朝なのに暑くて、閉口。晴れても風の寒いイギリスのまま、ジャケットを着ているぼくが愚鈍にみえた。

とにかく、困難はなかったわけではないけれど、第7回日英歴史家会議(AJC)は、とりわけ将来のことを考えると、明るい希望のもてる国際研究集会となりました(写真の左下、矢印のあたりを拡大してみてね)。

それから副産物ですが、ケインブリッジの学寮(の学生の部屋)に合宿して Porter's Lodge や Master's Lodge、そして「ホール」でのディナーを皆さんで経験してもらったのは、なによりのことでした。Master Daunton の計らいあればこそ、でした。とにかく 『イギリス史研究入門』 pp.10, 12 などには控えめに記しましたが、オクスブリッジは他とははっきり違うのです。
「‥‥ともに素晴らしい人員と環境、‥‥」p.12 と書いた原稿を、共著者にはあらかじめ読んでもらいました。その一人が「どういうことですか?」と、あきらかに不審・不満を表されたのですが【私の留学した大学だって素晴らしい人員と環境がある‥‥】、これを口や文章で説明するには1年かかると考えて、やめました。観光旅行で行ってみてもよく分からないが、生活してみれば、ただちに分かる。
今回のディナーの「末席をけがした」院生が、いみじくも言いましたが(protocol を知っている人たちの所作を参加観察する)「鳥肌の立つような経験」。
じつに 『イギリスはおいしい』とは、『オクスブリッジはおいしい』という謂いでした。

2012年9月13日木曜日

日英歴史家会議(AJC) at Trinity Hall

ただいま、上の写真の空間、little gem of Cambridge にて日英歴史家会議(AJC)が進行中です。
連日30度をこえていた東京から来ると、17度± といった気温にほっとします。
インターネットのトラブルもないではなかったけれど、いまは解決。3年毎の有意義な研究集会 & 旧交を温める好機です。Toshio はどうした? Shigeru はどうした? と尋ねられます。(学生たちにとっては絶好の、観光兼学習の場ですね。)
Trinity Hall の創立は1350年だけれど、建物の実質的な部分は16~17世紀由来のものがほとんど。近世という時代の意味を考えます。

2012年9月1日土曜日

AJC at Trinity Hall, Cambridge



 1994年から始まった日英歴史家会議(AJC)ですが、3年ごとに英日交替で開催され、今年は7回目を数えます。9月11日~14日に、美しいケインブリッジのなかでも gem とあだ名のついている Trinity Hall 学寮で催されます。

くれぐれも、「トリニティ・コレッジ」ではありませんので、ご注意を。
トリニティ・コレッジはヘンリ八世、すなわち近世の産物。
トリニティ・ホールは1350年、中世(黒死病直後)の創立です。

プログラムはこちらに更新版がのっています。
→ http://www.history.ac.uk/events/event/4290

 青色の行をクリックしてください。
 プログラムに名のない方々も、学寮内に宿泊し参加してディナーもともにすることができます(有料)。学寮の予約受付も、上記のページからおこなってください。予約〆切は9月4日と記されています。 また
http://www.trinhall.cam.ac.uk/conferences にも関連ページがあります。

 なお、学寮外に宿泊して「通勤」することも OK です。

 こんな具合のディナーとなるでしょうか。
→ http://kondo.board.coocan.jp/?m=image&image=583_0.jpg

 それでは美しいケインブリッジでお会いしましょう。日本に比べると寒いかもしれませんね。

2012年8月28日火曜日

出典は『資本論』だけ?


 『イギリス史10講』の企画会議の最初は1997年夏でしたから、この銘品はすでに15年物。陰の伏線として古代から20世紀までのワイン(クラレット)の筋が要所要所で顔を出しますが、それにしても、この本はすごい銘酒か、開けてみたら(いじくり返しているうちに)酸化して酸っぱいだけの古酒か。

 通史・概説ではない。しかし通史的に大事なことはきちんと記し、しかもストーリと構造を印象的に、具体的なイメージが浮かぶような読み物としたい。どうしても長くなる。だが分量は限られている‥‥ということで、なかなかの力業<ちからわざ>となります。
 そうしたなかで、今日は、3行も(!)減らせる結果になった1論点のてんまつを。

 イギリス産業革命の結果、インドの綿業が壊滅する、そのことの世界資本主義システム的な意味みたいなことは、当然述べるつもりで、すでに『文明の表象 英国』p.154 や『近現代ヨーロッパ史』p.47 にも書いたことを数行くりかえしていました。

「‥‥こうして一八三四~五年、イギリス議会でインド総督は「[インドの織布工の]窮状は歴史的に比類のないものであり、木綿織布工の骸骨がインドの平原を真っ白にしております」と証言するほどの情況となった。」*(漢数字なのはタテ書きなので)
 これがしかし、読み返していてどうも落ち着かないのです。

 マルクス『資本論』ディーツ版、第一巻 S.454 からの引用(つまり孫引き)のままじゃおもしろくないし、せっかくアヘン戦争では『ハンサード』のグラッドストン演説を引用したんだから、インドでも同じ程度の敬意を表したい、というので『ハンサード』を検索してすでに長いのですが、なぜかヒットしないのですよ。

 そもそもマルクスは比較的多く固有名詞を出す人なのに、なぜここで「インド総督」といって時のベンティンク卿という氏名を出さなかったのだろう。それから、『資本論』における議会文書からの引用は英語のままがかなり多いのに(必ずというわけではない)、なぜかこの部分の原文はドイツ語です。. . . bleichen die Ebenen von Indien.

 なにかありそう。

 もしや1834-5年というのは書き違いかもしれない(したがってベンティンクに限定せずに検索した方が賢明)。で、驚くべきことを知りました!(聡明なる読者には、すでに周知のことだったでしょうか?)
 インタネットに載っている日本語の引用文は、*の異版で、すべて『資本論』か(そうと知らずに)受験界で出回っているそのコピー。恥ずかしくなるほど、例外無し。

 英語の場合は、引用例が減るけれども、でも結局は『資本論』の英訳から。

 The misery hardly finds a parallel in the history of commerce.
 The bones of the cotton-weavers are bleaching the plains of India.

しかし、Clingingsmith & Williamson の共著論文 (2005)に遭遇。このPDFにいくつかの異版があるというのも、おかしいが、そのp.13, n.12 には、なんとマルクスの典拠は疑わしい/存在しない、とある。これから芋づる式にいくつかウェブ上の文献をたどるうちに、ぼく自身が35年も前に購入して所有していた Sandberg, Lancashire in decline (1974), p.166 もあった。すべての本の背表紙が見えるようになったわが仕事場にて、瞬時に探し出してみると、そこにすでに Morris の先行研究に言及しつつ、a perplexing feature of this [Marx's] quotation を指摘しているではないか!

 ぼくの目は節穴だったのか。

 今のところ、どの文献もハンサードや Parliamentary Papers を悉皆調査したとは述べてない(まだディジタル検索の時代ではなかったから)。それにしても、原著者のパトスと思い込みの名文を、そのパトスに参っちゃった後続の人びとが、何世代にもわたって無批判に再生産しつづけて、その回数だけで「古典的」になっちゃった例、と判断してよさそうです。

 E・P・トムスンの moral oeconomy についても、同類の現象ですよ。
 結局、疑わしきは用いず。かくして、かなりの日時を費やして、岩波新書では上の文は削除し、3行ほど減らすことができました‥‥というご報告です、大山さん。

 以上はしかし、学術性のある論点なので、いずれ秋に時間ができたら、一つ一つ確定しつつ、研究ノートにでもしましょう。

2012年8月16日木曜日

連合渡御


このところ多忙ということもありますが、なぜかこのblogger が写真投稿を受け付けなくなって、困った、というより気をそがれて、書きこみが減りました。

前回8月11日は深川・富岡八幡の例大祭(3年に一度)について言及しました。
11日に日本一の鳳凰神輿が深川から日本橋、お台場までプロセッションで巡回。
12日は55の町内の神輿が連合渡御、という大イヴェントです。
なんと今年は初めて天皇皇后両陛下が八幡宮に行幸される、とは聞かされていなかったので、妻だけが「美智子さんに会ってきた」などと自慢しています。

ぼくはそこから数百メートル離れた路上で、このような写真を撮っていました。
なにしろ各町内の神輿の列は前後にパフォーマンスの男女を控えていますから、かりに各100メートルとすると、100×55=5500m、すなわち5.5キロの長さになります。これが左右計7車線の永代通りを埋めて、はるか見渡すかぎり続くのだから、すごい迫力。

遠くに白い水煙が上がっていますが、これは神輿をかつぐ人びとのための水掛け所。近くで見ると、こんな迫力です。

2012年8月11日土曜日

富岡八幡の例大祭


http://www.tomiokahachimangu.or.jp/reisai/h24/html/reisai.html
関連して渡御経路・時刻などの一覧ページもあります。↑

11日(土)は日本一の神輿=鳳車渡御。午前には富岡からなんとお台場まで行って帰ってきて、午後には深川一帯と清洲橋・永代橋方面への渡御。朝は8:00出発、車列からなる神社のプロセッション。
3年に一遍だし、夏に居ないことも少なくなかったから、ケヤキ並木の越中島通りを直進とは、これまで知らなんだ‥‥

12日(日)は55の町内の神輿の連合渡御。朝は7:30出発。

 こちらこそ町人のパフォーマンス文化。よい写真もあります。
http://kondohistorian.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html 【写真登載トラブルが解決しました!】
 これに朝イチから付き合ったのは、なんと Contini さん、亀長さんとご一緒した10年前(2002)のたった一回切りでした。ちょうど一昔前。

2012年7月14日土曜日

けやき並木




 暑い日射しのもと、気持を爽やかにしてくれるのは、緑陰です。

 本郷のケヤキの大木群は、文京区の台地が武蔵野の東端だったことをあらためて認識させてくれますし、ゴシック大聖堂のネイヴを見上げるごとき感があります。その森林を思わせる大樹に敵うところは他になかなかない。

 わが家の近くのケヤキ並木は、はるかに若くて背も低いけれど、それにしてもご覧のとおり、暑さも爽やかだと感じさせます。あと20年、30年もすると、貫禄が出てくるかな。

2012年6月23日土曜日

9月11日~14日

AJC(日英歴史家会議)について進展がありましたのでお知らせします。

 予定どおり、9月11日から14日までケインブリッジ大学のトリニティホール学寮にて開催されます。共通論題は〈History in British History〉.
 まもなく(来週から?)Trinity Hall にて宿泊予約サイトが開きますが、委員はもちろん、プログラムに名のある方々は特別の事情がないかぎり、こうした手続きをとる必要はありません。

 ロンドン大学の IHR のサイトにも、下のとおりプログラムが登載されていますので、ご覧ください。ジュニアのセッションも含めて、請うご期待。
http://www.history.ac.uk/events/event/4290
美しいケインブリッジのなかでも gem と呼ばれる Trinity Hall でお会いしましょう。



2012年6月19日火曜日

吉田秀和さん



 なんと98歳! この人のハスキーな声は土曜のラジオ NHK FM「名曲のたのしみ」でごく最近まで聴いていました。ラフマニノフのアメリカ経験でした。5月末に亡くなっても、録音済のものをまだ放送するとのこと。

 しかし、吉田秀和といえば、なんといってもその文章です。1975年から刊行された『吉田秀和全集』(白水社)、そして『朝日新聞』の音楽時評は愛読しました。「British Museum ではどこの馬の骨かわからぬ訪問者にもベートーヴェンの自筆楽譜を触って調べることを許す、その大国の器量」といった文明論。そして、あまりにも平明な楽譜の解釈、あまりにも平明な演奏の批評(コンサート会場で演奏時間を計測している!)には、感銘するというより、こんなに分かって「いいのかしら」と思ったりした。【いま『吉田秀和全集』は段ボール箱に入ったまま出てこないので、記憶だけで認めています。ご容赦。】

 学生時代に初めて読んでから、忘れがたい文がいっぱいあるけれど、一つは戦後の日比谷公会堂で、当時の吉田青年がだれかに投げつけるつもりで礫を握りしめてコンサートに行き、演奏を聴いて、もうそんなことはどうでもよくなったという箇所。【このだれか、というのは小林秀雄だろうか? 】

 もう一つは1983年、ぼくは帰国して名古屋にいましたが、すでに『全集』を出して圧倒的な影響力をもつこの人が、来日したホロヴィッツの演奏について、「なるほどこの芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は ─ 最も控えめにいっても ─ ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」という名言を吐いた。‥‥

 そうです。ただの骨董品かフェイクを世間が有り難がり続けているなら、(根拠を明らかにしつつ)よく分かるように明言したい。

 率直で事にそくした批判を、なぜ人は避けてきたのだろう。そして曖昧な「権威」にたいしても「風評」にたいしても、こんなに脆弱な「国民」。右であれ左であれ、変わらない。

 結局、吉田さんはただの音楽評論家やエッセイストだったのではなく、20世紀日本の産んだブルジョワ文明論者の代表の一人、そしてコスモポリタンだった。たとえばショパンの**を好きで堪まらない人が、彼のコンサート批評に不満で「吉田秀和ってそんなに偉いのか」と反発したりすることは一杯あっただろう。それは、文明論者と蓼喰う虫(オタク)の文化衝突だったにすぎない。

2012年6月16日土曜日

雨にけぶる超高層

大雨の災害に見舞われている地域の皆さんには、悠長な話で申し訳ありません。
 この近隣では、雨天は景観を変えて、好天なら見える超高層の建物を覆い隠してしまいます。今日のような天気だと、スカイツリーは何キロも先なので当然のように白い雲に覆われて、全く見えません。しかしかなり遠方の橋や構築物は、低い位置にあるかぎり見える。

 雨雲の高さが問題で、このオフィスから約500メートル離れている超高層マンションは上層部が見えません。10階で高さ約30メートルと概算すると、約33階以上≒約100メートル以上の部屋では、きっと窓外が真っ白で、なにも見えないのでしょう。じつはオフィスビルも含めると、100メートル以上の建物は全部で6棟見えるはずで、見えかた、すなわち雨雲の模様にムラがあることもこの写真から分かります。
 そもそもカラー写真なのに色彩が乏しくて、産業革命期の煤煙を示す歴史写真のごとき雰囲気です。

2012年6月5日火曜日

「‥‥歴史学」と「‥‥時代」

2日(外語大)、3日(東洋大)と続けて、研究会というべきかコローキアムというべきか、意義深い催しがありました。すなわち、「二宮宏之と歴史学」と「『社会運動史』の時代」。発言者の半分以上が重なっていた。
 2日のぼくの発言については、事後に賛成の意を表してくれた方もありましたが、二人から「話が長い」とか「ポイントは何だったんだ」とか難じられました。そもそも司会を困らせてしまいました。たしかに口頭でレジメ無しで語るときには、聞き手のことも考えて simple & clear でなくちゃいけません。反省します。
 で、要点は2つ。第1は、二宮宏之は一人だったのではない、同時代の交友のなかで考え発言していたということ。
 第2は、当日も引用しましたが、ジョルジュ・ルフェーヴルの言。
「‥‥[みずから探求することなく]他の研究者の成果を借用して仮説をたてる。それじたいが悪いわけではない。だが、歴史家はそれだけで終わるわけにはゆかない。‥‥歴史家は質問表をつくり、史料調査から始めて、史料の指し示すところを組み立てる。ドッブとスウィージは問題を定式化した。さあ、いまや歴史家の領域で仕事をしよう。」
 この文を朗読して着席すれば、必要十分だったのかな。もちろん史料なるものの問題性も論じないとしたら阿呆です。

 反省して翌3日の会合は、5分未満の発言で済ませましたよ。

2012年5月30日水曜日

AJC 2012: provisional programme


右肩の FEATURES の一番上をクリックしてご覧ください。
今朝きまった仮プログラムを登載しました(会場は、上の写真の Trinity Hall です)。

予約などなどについては、また後日。

2012年5月21日月曜日

クールビズ

今日という日に、日食の話題ではなく、済みません。
 今朝は公務のため、いつもより早く出て有楽町線で都心部へ(永田町乗り換え 9:14)。東西線と大違いで、立っている人は少ない。車中で気付いたのですが、こちらと対面の客の男女比は1:1。男性小計7名のうちぼくも含めて計6名がダークスーツ。しかしネクタイをしているのはぼく一人! なんとこちらとあちらの計14名中、スーツ姿は多数派なのだが、タイを締めているのはたった一人。それほどに世の中にクールビズなるものは普及していたんですね。朝の都心にむかう通勤電車に乗車して初めて自覚したことでした。
 とはいえ、目的地の会議に出席してみたら、真ん中の机を囲んだ計9名のうち男性は7名、うち6名がタイを装着していました。ノータイの方は霞ヶ関の方でした!
 電車の中での観察とあわせ考察すると、つまり定刻出勤の行政や企業の上級職の皆さんはノータイで、大学関係者の場合は「公務」でふだんと違う所に出るときはスーツにタイと「気合いを入れて」臨む、ということかな。会議の設営者は、大学教授たちがそうするだろうと想定して、やはりタイ着用と決めたんだろうか。
 じつはぼくもふだんの授業や大学の会議にはノータイです。結局、ダブルスタンダードです。
 今朝のようなスーツにタイ、というのは非日常の催しに参与し、粗相のないように、慎重にしっかり討論して方針を決めよう、しかも定刻に終わるように議長に協力します、という決意表明でもある。定刻の10分以上前に着席して前回の議事録を読みながら待機する、なんて、教授会でもありえないことです!

2012年5月15日火曜日

教室変更

2012-05-17 木曜日 立正大学の2時限 西洋史料講読 ですが、 433 から → 9B15 へ変更します。
433では黒板消しが安定せず落下するということもありますが、 なんといっても、この部屋ではスライドを見てもらうのに手間がかかりすぎるという問題です。
山手線の胴体広告(英国政府観光庁)から始まった史料講読ですが、 スライド写真なしには授業が進みませんので、 やや広すぎる部屋ですが、今週から以後、通年でこちらに移動します。

https://portal.ris.ac.jp/ActiveCampus/index_after.html にも掲示されているとおり相違ありません。

2012年5月7日月曜日

窓外の陽光

雨天もつづきましたが、それにしても4月の大学精勤は5月の連休で一息つき、オフィスもこんな感じに整頓の途上です。カメラの後方には、まだ段ボール箱がたくさん積み上がっていますが。
 目的は美しく贅沢な部屋を造ることではなく、効率的に仕事をするためのオフィスです。装飾なし、機能性、そしてほんの少し空間的な余裕を、という趣旨で構築しつつ、とにかく仕事の再開を優先していますよ、大山さん。(写真はやや鮮明さに欠けますが、窓外の陽光を強調したくて‥‥)

2012年4月28日土曜日

『フランス革命はなぜおこったか』(山川出版社)

柴田三千雄先生の遺著、〈フランス革命史再考〉の三巻本のうち第一巻だけですが公刊されました。 cf. 『史学雑誌』120-7(2011年7月).
予告されていた『革命はなぜおこったか - フランス革命史再考』というタイトルは、最終的に上のように変更されました。
 練りに練ったクールな文章で、著者がなにを考え、なにを伝えたかったかがよく分かる。 弟子の福井さんとぼくの協力による共編ですが、若いアンシァン・レジーム研究者の支援により、細部にも気の配られた本となりました。ご覧ください。

2012年4月22日日曜日

オフィス ***

ご心配してくださる方がありましたので、昨日の一景をご覧に入れます。

 まだ段ボール箱を積み上げてるばかりでなく、左手に緑色の養生テープがだらりと垂れていたりして、いかにも構築途中です。じつは今日、写真の状態よりもすこし模様替えして--PC本体やプリンタ、Scansnap などを机上に置いては、本郷の二の舞になりそうなので--ちょっと工夫しました。使い勝手も改善されています。
 それにしても本郷の426室ではフロアさえほとんど見えなかった。そもそも何色だったのだろう? 今度のオフィスでは、このように床が見えます! 27平米の2倍以上を使用するわけだから当然といえば当然。
 ここを、3日には「鴎庵」と名づけましたが、OSによって鴎外のカモメの正字が出ないし、なんと読むのか、即時には分かりにくいというので、撤回します。 数年前まで K-Office を名のっておられた*先生が、水道橋・専大前の個人オフィスを「*研究室」と改名なさったので、わたくしメは「 オフィス *** 」を名乗らせていただくことにします。特定の数字 *** については、ウェブでなく個人的なおつきあいで、お知らせします。

2012年4月15日日曜日

立正大学 史学科

こんなところです。
 場所:JR「大崎」あるいはJR「五反田」下車です。↓
http://www.ris.ac.jp/guidance/cam_guide/osaki.html立正大学HPには「JR大崎駅と五反田駅から徒歩5分」と記されていますが、それは慣れた人が速歩で無駄なく歩いた場合。たしかに交通至便ですが、初めての人なら10分近くは見ておいたほうがよいでしょう。山手通り(長らく工事中)の西側の斜面に位置します。

 同僚はこんな皆さんです。お写真もどうぞ ↓
http://risweb2.ris.ac.jp/faculty/letters/sigakuka/kyoin.html

2012年4月10日火曜日

3月20日

年度替わりに加えて引越、そして新任校での勤務開始‥‥でしたので、あれから3週間しか経過していませんが、「いまは昔‥‥」と言いたくなるほど、色々なことが続きました。まだ終わっていません。
 そうした季節、あの3月20日(祝)にご都合をつけて参集してくださった皆さま、ありがとうございました。
 参加してくださった全員の合力で、楽しく、またしみじみと感じ入る集いとなりました。
 とはいえ、一番の功績は、発起人の4人による準備と演出でした。この最後の点について、当日皆さまの前では明言することを忘れていました。あらためて、ありがとうございます。
 おみやげもたくさん頂きましたが、なによりこうした「とき」を共有できたのが幸せでした。

2012年4月9日月曜日

山手線・車体広告

「英国政府観光庁」による山手線の車体広告と駅の壁面広告、気付きましたか?
 いつもながら即応性に欠けるところがあって、カメラを抱えて出かけたころには、有楽町駅の壁面広告は剥がされてステンレスがむき出しになっていました。
あきらめてプラットフォームに出たら、なんとその電車が来ました! ボディ外面だけなので、乗車すると見ることも写真を撮ることもできない。大崎駅に着いて、大急ぎでシャッタを切りましたが、せいぜい 2 shots くらい。次の電車を待ちましたが(反対方向の電車も見ましたが)いざ構えていると当該電車は来ない。
 じつは「ジェイアール東日本企画」というウェブページに解説があるのを、今夜、探しあてました。2月19日~3月31日、2編成のみだったんですね。
http://www.jeki.co.jp/transit/train/body/number.html 
つまり、もう3月末に終わっているはずのところ、きのうは間違えて1編成が走っていたということなのでしょうか。それとも「うどんこの定理」のための施し?

 なんでこんなことにこだわるかというと、中学校で鉄道少年だったから、ではなく、この4月からの「史料講読」の授業で使いたいからなのです。史料といっても図像も景観も含むので、「英国政府観光庁」の表象は、じつに良いイントロになるのです。

2012年4月8日日曜日

立正大学 文学部 教授

 4月1日に辞令をいただき、上記のような身分となりました。どうぞよろしく。
 IT環境について変化はありますが、従来のメールアドレス( @nifty および @l.u-tokyo )を使用していますので、3月までと同様にお願いします。また、ris.ac.jp の kondo というのも使えます。
 3月30日にガイダンスのガイダンスというのを受け、4月1日からは本日まで一日も休まず精勤しております(すでに授業は4コマ済ませました)。

 今夕、ある老先生から東大西洋史の大事な行事に遅刻してはいけませんと叱られましたが、何をおっしゃる、本務校優先ですよ。5:40 pmまで立正大学の院生ガイダンスとTA手続きをしていて、本郷のファカルティ・クラブに駆けつけたのが 6:30 pm(しかも澤田先生をアシストしながら)なのですから、むしろ誉めていただきたいところです。
 それにしても、こちらは若い人がたくさん集ってよかったね。

2012年4月3日火曜日

鴎庵の設営

(承前)
 移転先のオフィスは、西窓ならぬ南の水面を見おろし、潮の干満も、水に映る季節感も直接感じることのできるところです。カモメや鵜なども見るので「鴎庵」かな。海面をはるかに望むのでなく、まぢかに臨むので、鴎外の「望潮楼」は、ちょっと当たらない。
 60平米あまりということで楽観していたら、じつは西窓亭(27平米)にはなかった風呂・手洗い・台所には本や書類は置けないわけだし、天井もやや低い。
 白木の書棚をあつらえて、床の見える、余裕のある知的空間としたい、という願望は、そう容易に実現するものではない、と気付くまで、しばらくかかりました。
 まず29日夕、引越業者が帰ったあとはこんな具合:

 31日(土)には、荒天にもめげず5人の若者が結集して、かなり段取りよく開箱・排架作業をしてくれました。書斎作りは人任せにできないというのは自明の理として、それにしても大きなアウトラインは機動的にやってもらったほうが、はかどる。意味ある細部は、これから時間をかけてたっぷり詰めます。
 壁の書棚は高さ25cm×奥行き20cmで統一しましたが、可動スチール書架の組み合わせで、合理的・機能的な空間とします。
 鴎外先生が机を二つ用意して、それを仕事によって替えた、といったことを聞いて/読んで、羨ましいと思ったのは何十年前。これからのぼくは、そうしたいものです。

西窓 より撤去

 西窓の小部屋といっても27平米あまりのオフィスは、1月にはこんな具合で、「穴蔵みたい」「古めかしい英国の臭いがする」と評する方がいました。なにしろ在外をはさんで24年間使い続けた部屋ですので。その方はむしろ「老人臭」とでも言いたかったのか。とにかく物持ちのよい人ですので、工夫に工夫を重ねて、隙間なく(床も見えないくらいに)本や書類を詰め込んで/積み上げていました。
 2月に**商事の人が来て、おおざっぱに見積もって、「段ボール200箱くらいですかね」と。
「よく見てください、棚は二重に入っていますよ;こんな部屋でも奥は深い、電話がかかってきても5回鳴るくらいでは行きつかないほど、細く曲がりくねった経路になっているのです。」
 3月21日に7人の侍の力仕事が始まってから、2度3度にわたって箱を追加してもらい、結局、合計320箱が届きました。うち10個くらいは余りましたが、しかし、古い(名古屋時代の!?鈴木書店の)段ボールも生かしている場合もあるので、結局320と考えてよいでしょう。なにしろ1号館4階の部屋と廊下(あっちとこっち)だけでなく、2号館1階別室にも36個仮置きさせてもらいました。

 これに18連の組立スチール書棚/ラック、割れ物、PC・電器系の養生機器が加わります。
 あいだに母の卒寿の祝いとか、26・27日の History of Consumer Culture とか重要な催しも挟まりましたが、とにかく28日で荷造り作業は終了。
29日朝9時過ぎに**商事と引越業者が来て、トラック2台に搬入。小休止をはさみ、きれいさっぱりとなったのは11時でした。
 キーを助教さんに託し、昼食をはさんで、午後は新オフィスへ。こちらについては to be continued.

2012年3月24日土曜日

あとの祭り

3月20日には発起人のみなさんの奮闘努力のお陰で、すばらしい集いが実現しました。
ありがとうございます。
このブログの匿名 watcher さんまで来てくださったとは、感激です。
とはいえ、第一部にまさる第二部の充実たるやすばらしく、福岡から飛んできた松塚さん、障害にもめげず沖縄から駆けつけた Tony, メッセージをケインブリッジから寄せてくれた Martin(新さんが代読), さらには40年の付き合いの青木さんのお話に、中高年男性がウルウル、しみじみ、感動的な rare occasion となりました。

もっとも、1979年に卒論でせっかく Strafford伯と複合国家に注目した磯谷さんの先見の明に、しっかり対応できなかった点は、33年ぶりに皆さんの前で謝ることができました。でも優しく great outline and significant detail の格言を引用して、第一部と第二部の対応関係を保証してくださり、嬉しかった。
せっかく参集してくださった皆さん全員と語りあうことはできず、残念でした。2時間半、ほとんど食べることなく(しかし飲みながら)できるだけ多くの人と語ろうとしたのですが。高田さん、中村さん、那須さん、松園さん、‥‥申し訳ありませんでした。

最後の現役院生のあいさつも、人柄がでて良かったよ。

なおフランス在住および一時滞在の6名から、そしてロンドン在の3名からもすばらしい品をいただきました。
(なにしろ中学の張能先生によれば、近藤くんはフランス文学をやってるの!?)
美しい花も。
なにより年度末、しかもお彼岸という繁忙期に、百人近くの方々が参集してくださり、元気なお姿を見せてくださっただけで十分に嬉しいのですが。
(一部の方とは、あらためて6月2日に対決・決闘いたしましょう。)

お配りした『いまは昔‥‥』、一寸だけでもお役に立てば、幸いです。
【ただいま年度末の行事と並行して、リフォーム、引越のため、てんてこ舞いです。欠礼のだん、ご海容を。書きこみもようやく今になりました。】

2012年3月17日土曜日

Brewer 再訪

今回はぼくは主催者でなく、ただの参加者ですが、次のような催しが続きます。

18日(日)午後2時~5時
  青山学院大学5号館517にてイギリス史研究会
  John Brewer の講演:Sex scandal & British politics

26日(月)~28日(水)には学習院大学で History of consumer culture のコンファレンス↓
  http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~20070019/HCCwelcome.html
  こちらは Brewer, Offer, Styles, そして草光さん, etc. がペーパーを読みます。
  ぼくは司会だけ。

2012年3月15日木曜日

『いまは昔 - 年譜・著作ノート』

あまり時間的余裕のないまま、いそぎ制作した表記の出版物ですが、1947年生まれの一人の軌跡というだけでなく、時代の証言としての意味もあるかな、と思います。山川出版社と『週刊読書人』の全面的な協力により、スクラップブック、アルバムも含みます。
 B5で96ページ。イメージとしては『丸山真男ノート』や、『内田義彦著作集』第10巻の「年譜・著作目録」。ただし、視覚的な楽しさも加えて作りました。

 3月20日(祝)の集いに来てくださる方々に、お土産として進呈いたします(非売品です)。

2012年3月13日火曜日

『革命はなぜおこったか - フランス革命史 再考』

間遠になっているのは、例年どおりの年度末の繁忙によりますが、plus これが最後というので、なすべき「御用」がたんとある、という事情です。 Tantae molis erat.
 「御用」のうちには、公共的に意義ある仕事もあって、昨夏以来、ついに柴田三千雄先生の最後の著作が責了。4月には本になります。
 先生の希望で、山川出版社。いつもながら瀟洒な本です。

 このブログで述べるべきことは他にもいくつもありますので、これからおいおい‥‥

2012年3月3日土曜日

伊藤センター

2月は逃げる月というけれど、まことにその通りで、公務と校務の交錯するうちに、あっと言う間に3月となってしまった。そもそも、東大最後の年度末です!!

 その3月1日からケインブリッジの St Cat に似た「伊藤国際なんとかセンター」の1階レストラン(椿山荘カメリア)が開業。さっそく行ってみました。中野重治『甲乙丙丁』でも言及された、1923年関東大震災より前の帝大唯一の建物、暗赤色れんがの3階建ての倉庫、を生かして renovate したらこうなるという例です。外観は前にも写真を紹介しました。
kondohistorian.blogspot.com/2011/11/blog-post_13.html
 ファカルティクラブは、4月1日から開館とのこと。
www.u-tokyo.ac.jp/ext01/iirc/ 4月の土曜にひらかれる西洋史懇親会は、こちらです。

2012年2月11日土曜日

『みすず』読書アンケート

もはや先週のことです。『みすず』1・2月合併号(no. 601)を手にしました。恒例の読書アンケートですが、それでも楽しい。

 執筆の順は、すなわち原稿到着順です。つまりぼくは、宮下志朗さん、鈴木博之さん、苅部直さん、三島憲一さんよりは遅く、斉藤修さん、Carol Gluck さん、沼野充義さん、成田龍一さんよりは早かった、ということ。

 これまでいささか分散的(遠心的)で、148名も執筆していながら同一の本がごくわずか、といった観・感がありましたが、今回(2011年)は歴史関係でも『二宮宏之著作集』、長谷川まゆ帆『さしのべる手』といった3人以上が言及する出版があって、なにか収斂する動きがあるのかとも感じさせます。一概にまとまれば良いということでもありませんから、どういう意味があるのか、しばらく経ってみないと分かりませんね。

 ちなみに、今回ぼくが言及したのは、
1. E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書、1962)と Evans の第3版。
2. C・P・スノー『二つの文化と科学革命』(みすず書房、2011)、「始まりの本」としての復刊を祝して。
3. 『二宮宏之著作集』(岩波書店、2011)
4. ODNB online (OUP)
です。
「イギリス経験主義」の強み、みたいなことで、筋をつけてみました。 

「アングロ・サクソン」への揶揄・偏見・差別的言辞については、やがてしっかり批判しなくてはと考えています。

2012年1月29日日曜日

学会勧誘メール

寒いですね。お変わりありませんか?
年度末だからということもありますが、とにかく積年の課題が片づかないので、ブログへの書きこみは滞ります。

今日到来したのは、すでに3度目くらいの怪しい学会勧誘メール。まちがっても、わが日英歴史家会議(AJC)とは一緒にしないでください。
本文の大部分は無意味なので9割方割愛し、またURLなどは加工/解毒したうえで、引用します。

Quote -
Workshop, Invited Session(s), and Conversational Session: Call for Participation

Extended abstracts (600-1200 words) can be sent to stcsm-sec@...  according to the following deadlines (More details can be found at http://www.2012iii...)

CASE STUDIES AND METHODOLOGIES AND INTEGRATION OF ACADEMIC ACTIVITIES
This workshop will introduce participants to Case Studies and Method by showing the possibilities they generate for the Integration of Academic Activities

If you submit your extended abstract with a short CV of yours, you might be selected as a keynote speaker of your breakout session, in which case you would have more time to present your article, and/or selected as an invited speaker, in which case 1) your presentation and paper will differentiated as a invited one, and 2) you might be invited to present an additional paper with no additional charge.
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Thank you for your time

If you wish to be removed from this mailing list, please send an email to remove@... with REMOVE MLCONFERENCES in the subject line.
- Unquote.

こんなメールを世界中にばらまいている人たち、いったい、どんな意味/利益をもくろんでいるんでしょうね。どんな会合でもいいからとにかく invited speaker になりたい、という飢餓状態の先生方がいらっしゃるのでしょうか。
英語としても質が悪いし、- 悪文の典型みたいなところもある。そもそも、どうしてセンテンスの終わりにピリが付いたり付かなかったりするんでしょう? タイトルと見なされているわけでもなさそうです。
remove@... をクリックすると変なところへ誘導されちゃうんでしょうか。
おたがい、注意しましょう。

2012年1月19日木曜日

細川滋さん

香川大学教授の細川 滋 さん(ロシア中世史)が逝去されたとのことです。
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/outline/announcement120112.html
東大西洋史で、ぼくの1学年下でした(1969~70~71年あたりの卒業年次はやや乱れています)。
堀米先生、城戸先生、樺山先生の教え子と言ってよいでしょうか。まだ若いのに、残念です。
ご冥福をお祈りします。

2012年1月4日水曜日

日英歴史家会議(AJC)

まったくもってお待たせしました。
このウェブページ、右肩に features としてありますとおり、

Call for Junior papers: AJC 2012 (第1報)

Anglo-Japanese Conference of Historians, 2012 (第2報)

を登載しております。どうぞご覧ください。
ほかの皆さんへの周知、宣伝もよろしく!

新 年

新 年 を い か が お 迎 え で し ょ う か。
 2011年度は 東大西洋史における有終の美という心づもりでいましたところ、空前の大災害と政治経済の昏迷には 狼狽し、私的にも快暢とは言いがたくなってしまいました。
 されば、ゆったり歴史学的に構えるほかあるまい、と居直りを決めています。
 恒例の『みすず』2月号アンケートにも書きましたが、授業のうち演習は、まぁ悪くない年かなと思っています。出版にかかわる企画や構想だけは今でも「泉のように」湧いてきますが、どうも実行力がともなわなくて‥‥、皆さんに迷惑のかけっぱなしです。
 これからも よろしくお願いいたします。

 2012年正月     近藤 和彦