(承前)
旅行者で、ぼく以外にもそう考えていた人は少なくないと思われます。
ゆったり朝食を摂り、電車を乗り継いで10時過ぎに新大阪駅についてみると - 構内の土産品など売店がキヨスク以外はすべて閉まっていること、改札口からすでに大勢の人が滞留していることを目撃して、これは「もしやヤバイかも」と考えが変わりました。
いつもの25番・26番の二つだけでなく27番も合わせて上りホームを三つ使っていること、職員を多数ホーム上に配置していること、電光掲示にあきらかに急造りの最新情報を伝える英語表記も出ていることなどからは JR東海が本気で取り組んでいるのが伝わりました。
で、災害時なので予約した夜ののぞみ指定席(全便不通)でなく、来た便の自由席のどれにも乗れることを確認してから、戦略的に考えました。
10:20発のぞみ、10:40発のぞみ、いずれの場合も待ち行列は各乗車口ごとに40m、50m以上。広く長いホームは一杯です。要するにだれでものぞみの自由席に乗りたいと考えるでしょうが、のぞみの自由席は1・2・3号車のみ。しかも指定席を臨時に自由席に開放するといった策はとらない。であれば、指定席車両に乗り込んで、立って2時間半揺られるという選択肢も含めて、これ以上、のぞみのために行列するのは愚か。
ひかりを狙おう。ひかりは3時間あまりかかるが、自由席は1・2・3・4・5号車で、すこし余裕があるし、東京までは行かない客も多いはず。
というわけで、10:20発のぞみ4号車のための行列の最後尾に付いて、その次に来る10:43発ひかりを狙いました。10:20発のぞみ、10:40発のぞみのいずれについても積み残しがあり、JR職員は指定席車両に乗車するよう勧誘する、という方針のようでした。こういう時に、機敏に動ける人とそうでない人との差は大きく、見ていても気の毒なほどです。
ぼくの場合は、狙い通り、10:20発のぞみの出たあと、43発ひかりのために残った短い行列の前のほう(10人目くらい?)に位置することができましたが、向かい側では、10:40発のぞみのための行列がさらに蛇行していました。しかも、なんとひかりは、ぼくの乗る10:43発が最終なので、その後はぼくのような戦略を採ることができなくなったわけです!
実際に来たひかり10:43発はそれなりに(一両100人中40人分くらい?)空席はあって、ドタバタせずに座れたのですが、京都から先は、車中のデッキに立つ人たちが溢れることとあいなりました。東京までのあいだに、浜松や静岡で後発ののぞみに抜かれながら、東京駅にはすこし遅れて13:50に到着しました。途中は校正刷りのコピーを見直したり、居眠りしたりできて、個人的には賢明な選択だったと思いますが、それにしても、新幹線はもうすこし後の時間まで、たとえば2時間ほど余分に、運行できなかったのでしょうか。
もちろんJR経営体として、万が一にも新幹線車両が暴風雨で立ち往生したうえ、最悪のケースとしては(むかし山陰線の鉄橋であった事故のように)暴風にあおられて新幹線車両が脱線転覆するといった大事故があったりしてはいけないと、そこは慎重に判断した、ということでしょうか。
東京駅も混雑していましたが、雨風はなく、嵐の前の静けさ? 今晩20時に山手線など首都圏の在来線も運行停止と予告されています。(大阪行きの前に、すでに自宅ベランダに置いていた植木や、洗濯物干しフレームや、ガラクタの類いは室内にしまって置きました。)
これまで読まれたように、ぼくはいろいろと楽観的で、良いほうにしか物事を考えない傾向があります。皆さま、どうぞ楽天家の近藤をよろしくご善導くださいませ!
2018年9月30日日曜日
台風24号 最接近
週末に台風24号最接近! 21号に続き、全国的に警戒状態。
というのは存じていましたが、まぁ、大丈夫、と構えていました。
ですから、土日の大阪・中之島センターでの研究会は土曜のみ、日曜は中止/延期、という主催者の方針を聞いて、ぼくとしては、慎重なのはよいが大事のとりすぎかな、という受け止め方でした。なにしろJR東海で予約した出張パックが「宿も列車の座席も指定で、変更不能」という設定なので、面倒だな、というのが正直なところ。
で、金曜午後のぼくの返信は【 28 Sep 2018 15:41 】
「拝復、心配してくださって、ありがとう。日曜なので、美術館、図書館巡りも良いかな、と考えています。いま、出版社にて再校の交渉に向かう車中です。秋晴れの素晴らしい午後です。」
といった呑気なものでした。
これには主催者も慌てたようで【 28 Sep 2018 15:49 】
「‥‥日曜日の昼間は暴風雨が懸念されます(美術館・図書館の閉館も含めて)。もし外出が厳しいということになれば、‥‥[これこれという代案も考えてくれて‥‥]明日はお気をつけていらしてください。」
さらには続伸で【 28 Sep 2018 18:31 】
「‥‥夕方の関西圏のニュース&天気予報を注視しています。JR西日本などは山陽新幹線を含め30日昼から1日にかけて運休の可能性を発表しました。(東海道新幹線はわかりませんが。)こちらのニュースによれば30日夕〜夜が大阪で最も暴風雨の強まる時間帯となり、鉄道・自動車を含め移動が困難になることが見込まれます。一案として「パックで予約されている分は30日朝の宿泊までとし、帰りの新幹線のチケットは事実上”捨てて”もらう」→「あらためて30日朝の新幹線の「新大阪→東京」の片道チケットを予約してもらう(片道分の旅費は主催校でなんとかできないか聞きます)」ことを提言します。」
とまで提案してくれました。
この段階では、西日本ではそうでしょうが、東海道新幹線は大丈夫。なにしろ九州に上陸して四国・中国と経由するうちに台風の威力は弱まるのだから、と公言さえしていました。この間の自然災害について、東京ないし南関東の被害は比較的少なく、徳川家康の江戸立地センスのすばらしさ、なんてことさえ東京の親しい仲では口にしていました!
実際、土曜に大阪について、雨ではあったけれど、とくに風がどうとかいうわけでもなく、午後の研究会は時間とともに討論も充実しました。「礫岩のような国家」をどう見るか、から「近世ヨーロッパ」をどう見るか、さらに今一度、「ウェストファリア体制を再考する」とかいう問題設定から一歩先へ進んで、
・主権概念の生成プロセスにおける類似用語の併存・重なり;
・主権者の家産領や、特権的な社団の編成を越えて「国家/主権国家っていったい何なんだ」という問題への回帰 -
という所まで確認できました。神聖ローマ帝国(Reich)および皇帝(Kaiser)、ドイツ王、ローマ王のなんとも絶妙な用語法も!
5月27日の早稲田における歴史学研究会大会、合同部会「主権国家 再考」およびその特別号での刊行(晩秋)が、おそらく西洋史研究および世界史研究にとってひとつの画期になりそうな予感も共有して、とても良かったのですが、それだけに2日目が先に延期というのが残念至極。
遠方から来て夜の会食後に大阪に泊まるのはぼく一人(他はみな今晩中に帰途へ)、と分かり、さんざ脅かされ、帰宿して、日曜午前は、新大阪発11:40 → 東京着14:13(のぞみ16号)が最終、という報道とJR新幹線サイトも確認しました。そのあと、書いたのは【 29 Sep 2018 23:14 】
「いろいろとありがとう。‥‥テレビおよびインターネット情報で、午前中の新大阪発上りは大丈夫ということで、早めに帰宅します。今日の研究会は、佳境に入って時間切れというのがもったいなかったね。」
という具合に呑気でした。朝食もゆったり摂って、宿は交通至便なところなので、JRを乗り継いで新大阪に11時前に着けば楽々‥‥と。
というのは存じていましたが、まぁ、大丈夫、と構えていました。
ですから、土日の大阪・中之島センターでの研究会は土曜のみ、日曜は中止/延期、という主催者の方針を聞いて、ぼくとしては、慎重なのはよいが大事のとりすぎかな、という受け止め方でした。なにしろJR東海で予約した出張パックが「宿も列車の座席も指定で、変更不能」という設定なので、面倒だな、というのが正直なところ。
で、金曜午後のぼくの返信は【 28 Sep 2018 15:41 】
「拝復、心配してくださって、ありがとう。日曜なので、美術館、図書館巡りも良いかな、と考えています。いま、出版社にて再校の交渉に向かう車中です。秋晴れの素晴らしい午後です。」
といった呑気なものでした。
これには主催者も慌てたようで【 28 Sep 2018 15:49 】
「‥‥日曜日の昼間は暴風雨が懸念されます(美術館・図書館の閉館も含めて)。もし外出が厳しいということになれば、‥‥[これこれという代案も考えてくれて‥‥]明日はお気をつけていらしてください。」
さらには続伸で【 28 Sep 2018 18:31 】
「‥‥夕方の関西圏のニュース&天気予報を注視しています。JR西日本などは山陽新幹線を含め30日昼から1日にかけて運休の可能性を発表しました。(東海道新幹線はわかりませんが。)こちらのニュースによれば30日夕〜夜が大阪で最も暴風雨の強まる時間帯となり、鉄道・自動車を含め移動が困難になることが見込まれます。一案として「パックで予約されている分は30日朝の宿泊までとし、帰りの新幹線のチケットは事実上”捨てて”もらう」→「あらためて30日朝の新幹線の「新大阪→東京」の片道チケットを予約してもらう(片道分の旅費は主催校でなんとかできないか聞きます)」ことを提言します。」
とまで提案してくれました。
この段階では、西日本ではそうでしょうが、東海道新幹線は大丈夫。なにしろ九州に上陸して四国・中国と経由するうちに台風の威力は弱まるのだから、と公言さえしていました。この間の自然災害について、東京ないし南関東の被害は比較的少なく、徳川家康の江戸立地センスのすばらしさ、なんてことさえ東京の親しい仲では口にしていました!
実際、土曜に大阪について、雨ではあったけれど、とくに風がどうとかいうわけでもなく、午後の研究会は時間とともに討論も充実しました。「礫岩のような国家」をどう見るか、から「近世ヨーロッパ」をどう見るか、さらに今一度、「ウェストファリア体制を再考する」とかいう問題設定から一歩先へ進んで、
・主権概念の生成プロセスにおける類似用語の併存・重なり;
・主権者の家産領や、特権的な社団の編成を越えて「国家/主権国家っていったい何なんだ」という問題への回帰 -
という所まで確認できました。神聖ローマ帝国(Reich)および皇帝(Kaiser)、ドイツ王、ローマ王のなんとも絶妙な用語法も!
5月27日の早稲田における歴史学研究会大会、合同部会「主権国家 再考」およびその特別号での刊行(晩秋)が、おそらく西洋史研究および世界史研究にとってひとつの画期になりそうな予感も共有して、とても良かったのですが、それだけに2日目が先に延期というのが残念至極。
遠方から来て夜の会食後に大阪に泊まるのはぼく一人(他はみな今晩中に帰途へ)、と分かり、さんざ脅かされ、帰宿して、日曜午前は、新大阪発11:40 → 東京着14:13(のぞみ16号)が最終、という報道とJR新幹線サイトも確認しました。そのあと、書いたのは【 29 Sep 2018 23:14 】
「いろいろとありがとう。‥‥テレビおよびインターネット情報で、午前中の新大阪発上りは大丈夫ということで、早めに帰宅します。今日の研究会は、佳境に入って時間切れというのがもったいなかったね。」
という具合に呑気でした。朝食もゆったり摂って、宿は交通至便なところなので、JRを乗り継いで新大阪に11時前に着けば楽々‥‥と。
2018年9月27日木曜日
木谷勤さん、1928-2018
木谷先生が亡くなったと、昨日、知らされました。
1928年4月生まれですから、90歳。
名古屋大学文学部で、北村忠夫教授の後任としていらっしゃり、1988年3月まで同僚でした。そのときの名大西洋史は4人体制(教授二人、助教授二人)で、年齢順に、長谷川博隆、木谷勤、佐藤彰一、近藤、そして助手は土岐正策 → 砂田徹と替わりました。志摩半島や、犬山ちかくの勉強合宿にもご一緒していただきました。
それよりも、名大宿舎が(鏡池のほとり、桜並木の下の)同じ建物の同じ階段、3階と1階の関係とあいなりましたので、その点でもお世話になりました。お宅でモーゼルのすばらしく美味しいワインを頂いたこともあります。福井大学時代の Werner Conze 先生のこととか、いろいろ伺いました。
何度も聞いた、忘れられない逸話は、戦争末期のやんちゃな木谷少年のことで、高等学校に入ったばかりだったのでしょうか。高松の名望家のぼっちゃんで、成績もよく、理系でした。空襲警報が鳴ると、いつもお屋敷の屋根に上って、阪神方面に向かう高空の米軍機を遠望し、「グラマン何機飛来」とか、今日は「B29何機」と大声で下の人に向けて告げるのを常としていた、といいます。
ところがある日、ふだんと違って飛行編隊の高度があまり高くなく、こっちに向かってくるではありませんか。爆撃機が機銃射撃しながら近づいてきたと認識した途端、身体に痛みを感じ、屋根から転落した木谷少年は、その後、数日間意識不明だったといいます。気付いてみるとみんなが心配してのぞき込んでいた、そして左腕は切断されていた。
木谷少年も、こうして高松空襲の犠牲者で、さいわい命はとりとめましたが、両手を使っての実験はできないので理系の道はあきらめ、戦後、文系、しかも西洋史・ドイツ近代史を専攻することになったわけです。(「花へんろ」の早坂暁と1歳違いですね。松山と高松という違いもありますが。)
山川出版社の旧『新世界史』の改訂版、および『世界の歴史』を出すための編集会議(2000年ころ)でご一緒して、そうです、ぼくの原稿が従来の謬見のまま、プロイセンおよびドイツ帝国について権威主義・軍国主義の中央集権国家*、と書いてるのを、そうではなく連邦主義の複合国家だと言ってくださり、誤りの再生産を防いでいただきました。
なおロンドンのベルサイズ(ハムステッドの手前)にはお嬢さん一家が滞在中のところ、ご夫妻で寄寓ということでしたが、ニアミスで残念でした。
ご夫妻と直接お話ししたのは、2008年の松江が最後だったでしょうか。いただいたお年賀状は去年のものが最後となりました。
* 近代ドイツを中央集権国家というイメージで語りたがるのは、いつの誰からでしょう? 伊藤博文・大久保利通以来、明治~昭和のオブセッション? 関連して「30年戦争」以来、ドイツはバラバラで荒廃した、といった定型句もありました。坂井榮八郎さんの『ドイツ史10講』(2003)が徹頭徹尾、こうした中央集権(を目標とする)史観に反対しています。
1928年4月生まれですから、90歳。
名古屋大学文学部で、北村忠夫教授の後任としていらっしゃり、1988年3月まで同僚でした。そのときの名大西洋史は4人体制(教授二人、助教授二人)で、年齢順に、長谷川博隆、木谷勤、佐藤彰一、近藤、そして助手は土岐正策 → 砂田徹と替わりました。志摩半島や、犬山ちかくの勉強合宿にもご一緒していただきました。
それよりも、名大宿舎が(鏡池のほとり、桜並木の下の)同じ建物の同じ階段、3階と1階の関係とあいなりましたので、その点でもお世話になりました。お宅でモーゼルのすばらしく美味しいワインを頂いたこともあります。福井大学時代の Werner Conze 先生のこととか、いろいろ伺いました。
何度も聞いた、忘れられない逸話は、戦争末期のやんちゃな木谷少年のことで、高等学校に入ったばかりだったのでしょうか。高松の名望家のぼっちゃんで、成績もよく、理系でした。空襲警報が鳴ると、いつもお屋敷の屋根に上って、阪神方面に向かう高空の米軍機を遠望し、「グラマン何機飛来」とか、今日は「B29何機」と大声で下の人に向けて告げるのを常としていた、といいます。
ところがある日、ふだんと違って飛行編隊の高度があまり高くなく、こっちに向かってくるではありませんか。爆撃機が機銃射撃しながら近づいてきたと認識した途端、身体に痛みを感じ、屋根から転落した木谷少年は、その後、数日間意識不明だったといいます。気付いてみるとみんなが心配してのぞき込んでいた、そして左腕は切断されていた。
木谷少年も、こうして高松空襲の犠牲者で、さいわい命はとりとめましたが、両手を使っての実験はできないので理系の道はあきらめ、戦後、文系、しかも西洋史・ドイツ近代史を専攻することになったわけです。(「花へんろ」の早坂暁と1歳違いですね。松山と高松という違いもありますが。)
山川出版社の旧『新世界史』の改訂版、および『世界の歴史』を出すための編集会議(2000年ころ)でご一緒して、そうです、ぼくの原稿が従来の謬見のまま、プロイセンおよびドイツ帝国について権威主義・軍国主義の中央集権国家*、と書いてるのを、そうではなく連邦主義の複合国家だと言ってくださり、誤りの再生産を防いでいただきました。
なおロンドンのベルサイズ(ハムステッドの手前)にはお嬢さん一家が滞在中のところ、ご夫妻で寄寓ということでしたが、ニアミスで残念でした。
ご夫妻と直接お話ししたのは、2008年の松江が最後だったでしょうか。いただいたお年賀状は去年のものが最後となりました。
* 近代ドイツを中央集権国家というイメージで語りたがるのは、いつの誰からでしょう? 伊藤博文・大久保利通以来、明治~昭和のオブセッション? 関連して「30年戦争」以来、ドイツはバラバラで荒廃した、といった定型句もありました。坂井榮八郎さんの『ドイツ史10講』(2003)が徹頭徹尾、こうした中央集権(を目標とする)史観に反対しています。
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