2018年8月28日火曜日
ことばの歴史性
話はあちこち逸れましたが、16・17世紀にもどって、もし大航海時代の冒険商人たちが(日本列島でなく)現代のアメリカ合衆国に遭遇したなら、軍の最高司令官=大統領のことは emperorと呼び、合衆国の国のかたちについては邦 state を50個も束ねる empire だと形容したでしょう。だからといって、今日の政治学者も歴史学者も、大統領は「皇帝」だ、合衆国は「帝国」だと呼ぶわけにはゆきません(そう言いたくなる折々はあっても!)。
むしろ現代のアメリカ合衆国は連邦制の imperium「主権国家」で、大統領は imposterならぬ imperator「国家元首」で、議会や司法の掣肘をうける存在でしょう。上記の平川『戦国日本と大航海時代』の引用部分について確認するなら、大航海時代のポルトガル人やイエズス会士は、日本列島を統一途上の imperium「主権国家」、秀吉や家康を(フェリーペ2世やジェイムズ1世のような)imperator「強大な君主」「主権者」と認めた、というのに他なりません。
16世紀末と19世紀末は異なる時代です。300年の歴史をはさんで、近世・近代のヨーロッパの政治用語は 1648年のウェストファリア体制、1815年のウィーン体制の〈諸国家システム〉を前提にしたものに転じ、用法が異なります。同時に単語としての継続性も残る。歴史研究者なら、言葉の継承と、その意味の転変とのデリケートなバランスを捉えないとなりませんね。
ユーラシア史の大きな展開。これを十分に把握するためには、アジアだけでなくヨーロッパ史の新しい展開も看過できない、ということです。西洋史も、2・30年前に高校世界史で習ったのとは違うのですよ!
2018年8月27日月曜日
<帝国>と世界史
(ちょっと日にちが空きましたが)『日経』郷原記者の「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」の続きです。第1の論点について異論はありません。特別に新規の説ではなく、多くの読者に読まれる新聞の文化欄8段組記事ということに意味があります。
第2の論点、帝国となると、そう簡単ではありません。郷原記者は平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)を引用しつつ、16~17世紀に「日本は西欧から帝国とみなされるようになった」「太閤秀吉や大御所家康は西欧人の書簡で「皇帝」、諸大名は「王」とされた」と紹介します。
それぞれ empire, emperor, king にあたる西洋語が使われていたのは事実ですが、そもそも中近世の empire を帝国、emperor を皇帝と訳して済むのか、という問題があります。近藤(編)の『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)pp.93-105 でも言っていることですが、emperor はローマの imperator 以来の軍の最高司令官のことで、近世日本では征夷大将軍や大君(ないし政治・軍事の最高支配者)を指します。京のミカドというのはありえない。
また empire はラテン語 imperium に由来する、最高司令官の指令のおよぶ範囲(版図)、あるいはその威光(主権)を指していました。だから吉村忠典も早くから指摘していたとおり、帝政以前の共和政ローマにも imperium (Roman empire の広大な版図)は存在したのです。『古代ローマ帝国の研究』(岩波書店、2003)および『古代ローマ帝国』(岩波新書、1997)。
たしかに近現代史では emperor は皇帝、 empire は帝国と訳すことになっていますが、その場合でも emperor は武威で権力を手にした人、というニュアンスは消えないので、神か教会のような超越的な存在による正当化が必要です。中国の皇帝が天命により「徳」の政治をおこなったように。
1868年以後の日本では将軍から大政を奉還されたミカド、戊辰の内戦に勝利した薩長の官軍にかつがれた天皇に Emperor という欧語をあてましたが、これはフランスの帝政をみて、また71年以降はドイツのカイザーをみて「かっこいい」と受けとめたからでしょう。ただし、武威で権力(統帥権)を手にしただけでは御一新のレジームを正当化するには不十分なので、神国の天子様という「祭天の古俗」に拠り所をもとめ、89年の憲法でも神聖不可侵としました。そうした神道の本質をザハリッヒに指摘した久米邦武を許さないほど、明治のレジームは危うく、合理的・分析的な学問をハリネズミのように恐れたのですね。
2018年8月22日水曜日
世界史と帝国
このところ『日経』の記事にあらわれた現代史および今日的な情況について発言を繰り返していますが、じつはその動機/促進要因は、8月11日(土)の文化欄、
「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」にありました。
これは郷原信之さんの久しぶりの署名記事で、2つほど大事な論点(の混乱)があって、そのことを明らかにするのは簡単ではない、一つの論文が必要なくらい、と思ったのです。しばらく対応できないでいるうちに、次々に周辺的な、簡単にコメントできる問題が続いたので、そちらに対応してうち過ごしていた、というわけです。
帝国や世界史といったテーマで、長い研究史をふまえた話題の出版物が続いていますが、これはじつは郷原さんの東大大学院における研究関心でもあった。彼が修士を終える2001年春までに『岩波講座 世界歴史』は完結し、イスラーム圏をはじめとする「東洋史」の勢いもあたりを払うほどのものとなり、加えてイギリス史における「帝国史」研究グループもミネルヴァ書房の5巻本の企画を進めていたころでしょう。
【それまで関西の人たちの愛用していた「大英帝国」という語が - 木畑さんの語「英帝国」を経て - 中立的な「ブリテン帝国」ないし「イギリス帝国」に替わるのも、これ以後です。まだまだ大英帝国が大日本帝国と同様に右翼の用語だということを知らないナイーヴな人たちばかりでした。スポーツ大会の開会式で、右腕をまっすぐ伸ばして宣誓するスタイルがヒトラー・ユーゲントの作法だと知らないまま、指摘されて「別にそんな邪悪な意図があったわけじゃありません」と釈明するのと同じ。歴史的に無知な公共の言動は罪です。】
郷原さんの論点の第1は、西欧中心史観ではない世界史、ということで、岡本隆司、羽田正といった方々の著作によりながら、いまや学界のコンセンサスと思われることが確認されます。西ヨーロッパがグローバルな勢いをもつのは、15・16世紀の貧弱なヨーロッパの冒険商人が、豊かなアジア(インド)の通商に交ぜてもらうことを求めて大航海に乗り出してから、かつ(偶然が重なって)アステカおよびインカの文明(帝国?)を簡単に滅ぼしてしまってからです。アジアに対して傍若無人・蛮行は通用せず、その豊かな経済と文化に遅参者として交ぜてもらうしかなかった。その結果は、対アジア貿易の赤字の累積です。なんとかせねばならない。
18世紀からいろんなことが重なって、ユーラシアの東西関係は激変し、なぜかオスマンもムガルも清も、ヨーロッパ人に対する関係が弱腰になる。イギリス・フランスの植民地戦争がグローバルに展開するのも同じ18世紀です。戦争と啓蒙と産業革命の18世紀の結果として、近代西欧はわたしたちの知る近代ヨーロッパとなった。1800年の前と後とで世界史の姿はまるで違います。そして、これは今日の歴史学のコモンセンスで、『日経』の記事がその点を、別の筋から確認したことには意味があります。
【念のため、古代ギリシアをオリエント文明の辺境として捉えるのは今に始まったことではなく、『西洋世界の歴史』(山川出版社、1999)pp.4, 8 などにもすでに明記されています。大航海の動機や産業革命の始まりを合理的に説明するには、西欧中心史観では不可能、ということは、拙著『イギリス史10講』(岩波新書、2013)でも、今秋に出る『近世ヨーロッパ史』(山川リブレット、2018)でも繰り返しています。】
ただし、第2の論点、帝国となると、そう簡単ではない。そもそも empire を帝国と訳してよいのか、という問題から始まります。
教養主義とデモクラシー
教養主義といえば、講談社現代新書(今年2月刊)の『京都学派』pp.224-226 には、教養主義について(も)恐るべく、ええかげんなことが記されています。著者、菅原某とはぼくの知らない人。
そもそもこの新書には、近代日本の重要な思想家の氏名と生没年、経歴は列挙されているが、著者自身の表現によれば「言うなれば「師」を外側から観察して「師」の教えをつまみ食いして満足する手合いのもの」p.225、と。そこまで自分のことを認識して書いていたんですか!?
この菅原某さんは哲学はかじっていても、そもそも歴史的に考えるということができない人のようで、せっかく『世界史的立場と日本』および『近代の超克』における高山岩男と鈴木成高と河上徹太郎の間の「二つの近代」あるいは「近世」と「近代」をめぐるズレ・対立に言及しながらも、なにか意味ある論理が構築されてゆくわけではない(pp.124-137)。長い引用が続くだけです。
教養主義/教養を語るより前に、自分で観察して調べ、自分の頭で考える、といった習性が、まったく身についてない人、あるいは、そんなことに意味があるの? といった時代・世の中に、ぼくたちはいま包囲されているのだろうか。トランプ現象/フェイクニュース現象は、合衆国だけの問題ではありません。というより(教養市民の核なき)デモクラシーの危うさは、トクヴィル以来、早くから予言されていました。
2018年8月21日火曜日
教養と新聞記者
このところちょっと『日経』をほめすぎたようですから、今日は苦言を。
「歴史や哲学 手軽な教養書ヒット」という『日経』8月13日(月)夕刊の記事。
「教養書ブームの歴史」という横組の年表(?)も添えられていますが、1954年のカッパブックスに次いで1968年の吉本隆明『共同幻想論』、その次は1976年、渡辺昇一『知的生活の方法』、そして1983年浅田彰『構造と力』‥‥、といった選択の基準がわからない。テキトーに10年に一つを選んだということかもしれないが、それにしても戦後の高度成長期に「世界文学全集」のたぐいが各社から出て、戦前からの岩波新書の好調に続き(この記事にも言及された光文社「カッパブックス」の後には)、中公新書、講談社現代新書の創刊が続いたこと、そして60年代半ばから90年代まで『岩波講座』が大学生市場を席巻したという事実をうかがわせる兆候は示してほしい。
本文では、野本某の言「いずれ古びるハウツー本を読むより、古典的な教養に触れた方が自分が高まると感じる人が多いのではないか」という引用。その2段下には、歴史学者(?)與那覇某の言として「教養を通じて、無限に広がる世界へアクセスしたいと思っている読者は、そう多くない。‥‥昔から伝わってきたものに宿る本物らしさに、安心を求めているのでは」と引用されている。
これでは、できの悪い大学生のレポートみたいなもので、「教養」というものに触れたい人が多いのか少ないのか、いったいどっちなんだ、と詰め寄りたくなる。両者の意味する「教養」の内実が違うと示唆しているわけでもなさそう。だれがどう言っていますという引用センテンスを並べるだけなら、キッザニアで「記者ごっこ」をして遊ぶ孫たちにもできる。
さらにいえば、戦後の高度経済成長にともない、大学進学率が(1950年代の)8%くらいから(70年代に)20%を越え、(2000年代には)40%を越えました(男女計)。2010年以後進学率は50%を越えたとはいえ、停滞しています(当然でしょう!)。そもそも若年人口も総人口も大卒人口も「団塊の世代」の250万人/年が押し上がるとともに増えてきたわけで、教養主義の盛衰は、大学生( → 大卒者)の絶対数および総人口比とあきらかに相関しているでしょう。
→ 文科省の発表数値を西暦に書き直した表(4大について)
→ 大学への進学率グラフ(第6図が4大について)
→ 年次統計.com(短大を含む進学率)
そうしただれでも思いつく事実の示唆さえないのは、担当記者(2人)の取り組みのええかげんさを示しています。つまり、これは「盆休みの[スペースを埋めるためだけの]消化記事」だった、ということなのかとさえ疑われる。
デスクにも責任があります。「しっかり事態を観察して、背景を調べ分析し、立体的な論理をたて、こうだという説得性のある文章にして、初めて大卒の書いた記事になるのだ」とかいって原稿を突っ返す、デスクはいなかったのか。
2018年8月18日土曜日
堪え/がたきを堪え 忍びがたきを忍び
「平成最後の夏(上)」のつづきです。『日経』の同じぺージに「終戦の詔書」の原本の写真があります。記者は詔書の日付が8月14日だということの確認のつもりで添えたのかもしれませんが、この写真はそれ以上に雄弁で、「玉音放送」を朗読した昭和天皇の「間」の悪さというか、演説の下手さかげんの根拠のようなことがようやく見えてきました。
大きな字で清書してあるのはよいけれど、(昔の正しい国語らしく)句読点がまったくないばかりか、なにより行の切れ目と意味の切れ目が一致しない。
【以下、写真のとおり詔書を転写するにあたって、行の切れ目に/を補います。それから文の終わりに、原文にはないが「。」を補います。カナに濁点もありません。こんな原稿を手にして、なめらかに、リズミカルに朗読せよ、というのが無理というもの。】
【前略】 ‥‥爾臣民ノ衷情モ朕 善/
ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ/
難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ/
太平ヲ開カムト欲ス。/
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣/
民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。/ 【後略】
(わたしたちの感覚では)まるで清書した役人が意地悪だったのかとさえ憶測されるほど、パンクチュエーションもブレスも無視した原稿です。
玉音放送のあの有名な「然レトモ 朕ハ時運ノおもむク所 堪へ[ここに1秒弱の空白]
がたキヲ堪へ 忍ヒがたキヲ忍ヒ‥‥[このあたりは順調に朗読]」
の読み上げで、音楽的にも文学的にもナンセンスな「間」が入ったのは、ご本人のせいではなく、じつは大書された原稿の行末から次の行頭へと縦に眼が移動する(Gに反する動きゆえの)物理的な「間」なのでした!
詔書はマス目の原稿用紙ではないのだから、気の利く臣下だったら、(句読点の代わりに)数ミリの空白や文字の大小を上手に巧みにまじえて、行末で重要語のハラキリ、クビキリが生じないように清書できたでしょうに。【今日の NHKのアナウンサー原稿も大きな縦書きですが、句読点は明示し、なるべくハラキリ、クビキリの生じないように工夫しているでしょう。】
陛下、まことにご苦労なさったのですね!
それにしても「爾(なんじ)臣民」のくりかえしが多い。上の6行だけで3回も!
ポツダム3国(連合軍)の意向ににじり寄りつつ、「‥‥國體(こくたい)ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾 臣民ノ赤誠ニ信倚シ」、天皇制を維持してよいというかすかな保証をなんらかの筋からえて嬉しい。なんじ人民も蜂起や軍事クーデタを企てることなく、「赤誠」の志を示してくれるなら、共にやってゆこうと祈念していたわけですね。
8月15日ということ
『日経』14日夕刊の「8月15日 ニュースなこの日」という記事は、簡潔でザハリッヒでした。1995年、村山首相の「終戦記念日にあたって」という談話。これは特に日本遺族会会長、橋本龍太郎の合意をとったうえで閣議決定、発表にもちこんだのでした。
記事の最後、「‥‥戦後70年談話でも安倍晋三首相は、過去の談話でキーワードとなった「植民地支配」「侵略」「反省」「おわび」の文言を全て盛り込んだ。いずれの談話も閣議決定し、政府の公式見解となった」と締めているのが良い。
ここから昭和天皇を怒らせた靖国神社のA級戦犯合祀(1978年)を撤回する決断までは、あと一歩かと思われますが、しかし、日本政治の決定的局面で、今なお「右翼バネ」が効いているわけです。
同じ『日経』、14日(火)の社会面で「平成最後の夏(上)」という連載が始まりました。この日は、全国戦没者追悼式の変遷をたどり、これが最初に開催されたのは1952年5月2日、新宿御苑で、その後、空白がつづいたこと。1963年8月15日に日比谷公会堂で再開され、翌64年に靖国神社で、65年に日本武道館で開催、以後これを踏襲、という事実が確認されます。
そのうえで、シンボリックな日付8月15日の根拠をあらためて問うているのが良い。「終戦の詔書」は8月14日(ポツダム宣言受諾日)付、降伏文書に調印して国際法的に戦争が終わった日は9月2日。では、なぜ8月15日が終戦=敗戦の日とされてきたのか? 一に「玉音放送」と「お盆」との重なりゆえで、なんとも内向きでガラパゴス的な invention of tradition なのでした!
靖国の関連で、念のため、右翼であることと、保守であることは、同じではありません。保守(反革命)はバークやピールのように、ある普遍的な世界観に結びつきうる。それにたいして右翼(ナショナリズム)は、アメリカのKKKも、日本の軍部も遺族会も、普遍性への指向はなく、縦に連なるとされる(本質!?の)系譜にこだわり、これを相対化するような批判にはハリネズミのように身構える。井の中の蛙ですが、武力をもつと、こわい!
2018年8月17日金曜日
ピンチはチャンス → 東ロボくん
海辺の砂浜になにかを描く黒田玲子さんの大きな写真を日曜の『日経』でみました。なんと両面見開きの記事には、「右がダメなら左へ」とタイトルがついています。国文学のお父様、本に囲まれた仙台のお宅のことは何度か聞いていますが、70年代後半、ロンドン大学でのトンデモナイ初日の試練については初めてかも。
→ https://www.rs.tus.ac.jp/kurodalab/jp/Member.html
「ピンチはチャンスなんです」とか、「理不尽なことがあって不平を言うのはいい。でもそれきり行動しないのであれば同情しか(さえ?)買わない。あなたに本当にやりたいことがあるなら、まず自分で考え抜き、人のアドバイスも聞きなさい。必ず扉は開かれる。」という力強い助言で、この長いインタヴューは締められる。黒田さんはぼくと同じ年に東大教授を退職した方ですが、はるかに活動的な現役の先生です。
国文学と無縁ではないが、国語力、読解力ということで、国立情報学研究所(NII)の新井紀子さん(AIロボットに東大入試を解かせて合格させる「東ロボくん」プロジェクトのリーダー)の前半生が、8月6日から『日経』の夕刊に連載で語られていました。
なんで一橋大学卒の数学者がAIを? という前々からのナイーヴな疑問は、どういった小中高の生活を送った人なのか、ということから氷解しました。(部分的には)上の黒田玲子さんと同じような行動力、動員力のある方なのですね。
それから、一橋の授業では、新井さんもまた、数学の先生とともに、阿部謹也さんの授業に魅了された一人だったとのこと! アベキンの魔術的な魅力を語る人は、盗聴者もふくめて、多いですね。1980年代のことですが、阿部先生に名古屋大学の集中講義に来ていただきましたら、そのまま後を追って東京に行っちゃった院生がいました。
2018年8月16日木曜日
「花へんろ」ぞなもし
猛暑と大雨ばかりでなく、驚くような事件も続きます。みなさんは、いかがお過ごしでしょう。
7月末からほとんど10日間ちかく、「ウイルス性喉カゼ」というのにやられ、年齢のせいかもしれませんが、猛暑も加わり、かなり苦しみました。「喉が痛いな」という感覚から始まり、翌日からセキ、痰が出始め、(ウイルス性で投薬は効かないということなので)栄養と十二分の安眠で自力治癒を目指しましたが、そう簡単には回復しませんでした。
その間、知的活動はあきらめ、BSの再放送をはじめ、いくつかの古いドラマや映画を見たりして過ごしました。とりわけ「花へんろ」と「新花へんろ」は愛媛県松山市の郊外「風早町」の「勧商場」とその近隣の人間模様を、関東大震災(1923)から敗戦(1945)、そして戦後のカオスにいたるまで定点観測した作品。そういえば、1985-88年、そして1997年に見たことを想い出しましたが、細部はずいぶん忘れています。早坂暁のライフワークでもあり、桃井かおりの「成長」を目撃する作品にもなりました。
「昭和とは どんな眺めぞ 花へんろ」という早坂暁の句が毎回、最初と最後に詠まれ、時代を描きつつ、高度経済成長以前の地方の商家と、それぞれの理由で四国遍路に出かける人々の悲哀が語られます。
じつは松山市中に生まれたとはいえ5歳までに四国を出たぼくにとって、お遍路さんはまったく馴染みのない存在ですし、また「‥‥ぞなもし」という言い回しも親類縁者の間で聞いたことがなく、大人になってからむしろ余所者感覚で認識することになります。
むしろ昭和の後半の松山の人々にとって、お遍路さんよりも瀬戸内、そして大阪とのつながりの方が大きかったと思われます。戦争を生き延びた父も叔父も、そして(尾道の)ぼくの母の父も人生の前半の重要局面で、大阪の学校や企業(日立製作所、大阪商船、東洋レーヨン)に関係していました。「新花へんろ」では東京のエノケンの偽物、大阪の「土ノケン」が登場して笑わせますね。
登録:
投稿 (Atom)