2017年9月17日日曜日

記憶/記念の(発信の)場


歴史意識についてexplicit で象徴的なモニュメントは、前にも書いたとおり、ダブリンの場合、他の都市にもまして場所の記憶と結びついて顕著だと思われます。中央郵便局や聖スティーヴン公園に1916年関連のモニュメントが集中し、逆にトリニティ・カレッジ(大学)には18世紀ないし19世紀のリベラリズムが表象されているように。
ドイツ語では記念碑を Denkmal と言いますが(松本彰さんなど)、考えるよすが or 考えることをうながす存在ですね。経験的な感覚と思索をうながされました。

なおまた立像が横溢するロンドンのシンボリズムについては、The Evening Standard 紙に議論が載っているのを坂下史さんから教えられました。↓
https://www.standard.co.uk/comment/comment/simon-jenkins-it-s-time-to-have-the-argument-about-london-s-historic-statues-a3622161.html

 今日のアメリカ合衆国において、南軍 Confederatesはracistだ、として南軍関連の立像を攻撃しているグループの行動は、あたかも「民のモラル」の代執行のようです。The Evening Standard 紙の良識は、あくまで複合文化、競合する価値の併存をとなえる相対主義の立場です。その結論は London is a diverse and sometimes offensive city. I would rather it was both than neither.
ちょっと崩れた破格な英語ですが、でもロンドンには both diverse and sometimes offensive であってほしい。neither(どちらでもない)のは嫌、とはっきりしています。

2017年9月14日木曜日

海港コーヴ

港町コーヴは南西部の中心都市コーク(それ自体が中世からの港市です)から大西洋に出てゆく外航船のための「外港」のような役割で、入江のなか、水深の深い良港です。いまは海軍基地があります。多数の Irish の人々がここからアメリカに移民として渡りました。アメリカで成功した Irish Americanたちが故郷に寄付して、坂道の上の丘に、立派な大聖堂を建てました。
1912年4月、当時は(ヴィクトリア女王の1849年来訪を記念して) Queenstown と改名されていましたが、Titanic 号の最後の寄港地でした。『イギリス史10講』p.255. 沖に停泊した豪華客船の2224名の乗客・乗組員は、先にも登載した Gothic revival の大聖堂を見上げたわけです。

 昔の鉄道は廃線となり、駅舎が観光用に残っています。1912年のタイタニックと1915年のLusitania撃沈を記念する(忘れない)ために、湾を一望する丘の上に小公園ができていました。

南西アイルランド

 帰国してみたら、No sooner had I arrived in Tokyo than . . . というわけで、暑いだ涼しいだと言ってる間もなく、母の看病モードに移行してしまいました。

 それにしても8月のアイルランド紀行で、もう一つ書いておかねばならないのは、南西地方の海港の豊かさでした。
海路でフランスやスペインと往来するのは案外近い。Kinsale の海の料理がおいしいのは、あきらかにその影響でしょう。旧デズモンド家の城は今ではワイン博物館になっていました。コーク市の評判の大聖堂ばかりでなく、コーヴ(Cobh)でも、ヨール(Youghal)でも、立派な教会堂が迎えてくれました。
 18世紀コークがバターの生産と輸出で栄えたとか、Wolfe Tone が手引きしたフランス軍の上陸(の失敗)とか、そういえばどこかで読んだなぁという史実も、その舞台に立って改めてモニュメントとともに見ると、甦ります。
 R. R. Palmer, The Age of the Democratic Revolution, II (Princeton, 1964) pp.271-2 における1796年、バントリ湾の上陸策の不首尾について昔(1979-80年、名古屋でした!)に読んだときには、リアリティのない逸話でした。今回、寒冷前線と虹に迎えられてバントリ湾に降りたち、細身のウルフ・トーン像に挨拶し、また丘を登ってホワイト(Viscount Bantry)の邸宅の庭から旧式の大砲とともに湾を遠望して、
 「強者どもが夢のあと」
という思いを強くしました。パーマによると、トーンはパリで孤独で、バブーフの陰謀については知らされないまま執政政府に全幅の信頼をおいていたのでした。p.250. 

 内陸部と海港との違いは、他でもそうだが、アイルランドの場合にとくに甚だしいということでしょうか? 近世・近代以前にも、トリスタン・イズーの伝説の時代から、このビスケー湾(ブルターニュ)、イギリス海峡(コーンウォル)、聖ジョージ海峡(ウェールズ、アイルランド)の繋がりはきわめて重要でした。中世前半のキリスト教伝来も、ジャコバイトの移動路としても、そしてカトリック避難民が醸造酒・蒸溜酒のノウハウとともに大陸へ逃れる(wild geese ならぬ wine geese の)経路としても、この南西の海の道が決定的でした。キンセールのワイン博物館が雄弁に語っているとおりです。