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2024年1月30日火曜日

イスラエル=パレスティナ問題(3)

ぼくが学生のころですが(1960年代後半~70年代はじめ)、イスラエルにはキブツ(kibbutz)というすばらしい農業集団(今でいう地産地消の共同体)があるというので、社会学の学生でそこへ行ってしまった者もいました。反資本主義・反スターリン主義のユートピアかもしれない、と「キブツ」(労働シオニズム)に身を投じたのです。カストロのキューバと同じようなイメージで語られていました。彼は今どうしているのでしょう。そもそもキブツの理念は、今どこに行ったのだろう。
南アフリカ共和国がイスラエル国家によるジェノサイドを指摘し糾弾し、国際司法裁判所(ICJ)に提訴をした件につき、『朝日新聞』1月26日の記事は、中学生のようにナイーヴでした。https://ml.asahi.com/p/000004c215/23431/body/pc.html
それと対照的に、28日(日)夜9時からのNHKスペシャル「衝突の根源に何が 記者が見たイスラエルとパレスチナ」は良かった。これは、さいわい2月1日(木)深夜0時35分に再放送だそうです。
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/GQZZMQ3VLW/
これに対応して、NHKのサイトに「複雑なパレスチナ問題 元特派員が詳しく解説」というぺージがあることも知りました。2023年10月11日付の鴨志田記者の「取材ノート」ですが、図版も豊富で、よく分かるように書いています(仮にA4で印刷すると約16ぺージ)。 https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic015.html
記者のセンスと冷静な知性がおのずから表現された記事で、一読に値します。
‥‥なんて上から目線みたいなことを申しますが、鴨志田郷くんはじつは東大西洋史の学生でした(1993年卒)。彼は在学中に『史学雑誌』に短い文章も寄せていたのですよ!
【NHKの「元特派員が詳しく解説」という記事は「初心者」むけによくできていますが、唯一、問題ありとすれば、「イスラエル建国までの歴史」という年表が、2000年前までしか遡らないこと。「パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました」という一文から始まっている点です。これではあたかも「ユダヤ人の国家」が大前提で、Amalek(好戦的な遊牧民、イスラエル人=神の選民の敵対者として旧約聖書に描写される)の存在には触れられることなく、その後2000年にわたる歴史的悲劇の民が、数々の難儀をへてようやく1948年に民族=信教国家(!?)イスラエルを建国した、といった語りに寄り添ってしまいます。
旧約聖書にあまた描かれているイスラエルの苦難の物語は、要するにこのあたり(エジプトからメソポタミアの間)にあった4000年、6000年にわたる多くの人びとの移動と戦いの歴史を、ユダヤ教徒の側から筋道をつけて語り伝えた作品 - ホウィグ史観!- なのですから、そのように相対化しておくべきでしょう。アマテラス(Amadeus!?)大御神の伝承で、日本列島の歴史を根拠づけるわけにゆかないのと同じです。付随的に、1948年建国時のイスラエルが多民族の国家だった、今もそうだ、という事実はしっかり報道したいですね!】

2023年10月21日土曜日

巨人の足跡‥‥想像力はふくらむ

9月のアイルランド・ブリテン旅行から帰国してすでに1ヵ月。今日は、木枯らしのような風に落ち葉が舞っています。いつまでも呆けているわけには参りません。
いずれしっかり具体化しますが、印象の強烈度からしても、ベルファストから北上して北端の海岸にある Giant's Causeway (巨人の土手道/踏み固めた道)こそ、圧倒的で、写真で見ていたのとは迫力が違い、それこそ百聞は一見にしかず、でした。
地質学的には、何百万年(何千万年?)前の火山/マグマ活動の結果が今、柱状節理(columnar jointing)として残っている所です。北大西洋の海嶺から東へと地殻が変動するうちに、吹き出したマグマが地表で冷却し、また雨水の浸食を受けて、6角形の柱のようにヒビが入り、それが壮大な絶壁の風景としてアイルランドの北端に連なっているわけです。
NHKの「ぶらタモリ」では紀伊半島南端の大火山跡の柱状節理を訪ねたことがありました。予算さえつけば、タモリさんも本当はここに来てみたいでしょうね。スケールが違います。
先史のアイルランド人(Scots)は、ほんの30kmほどの海峡を渡ってブリテン島の北端に移住したので、今はそちらがスコットランドと呼ばれています。古代人の想像力の世界では、この6角形の節理の連なりこそ、アイルランド島からブリテン島に渡った巨人の通路=足跡、というわけです。
Amphitheatre(半円形の劇場・盆地)という渾名の付いている湾の入口まで歩いて、向こうを見上げると、断崖絶壁の上に豆粒より小さく、上半身裸の男が(あまりのスケールに怖いので!)座り込んで、北の海を眺望しているのが見えました。同じ写真の上右の細部を拡大してご覧に入れます。
『イギリス史10講』p.31  このあたりは中世前半のキリスト教の重要地点でもあり、ヴァイキングの常用航路帯(sea-lane)でもあり、17世紀には逆にスコットランドからプロテスタントのアルスタ移民が渡った海峡です。ウィリアム3世の足跡も。フランス軍の上陸作戦も。またロマン主義の時代には、メンデルスゾーンの「スコットランド旅行」もかくや、と想像力をかき立てられます。18世紀の亜麻産業からグラスゴー、マンチェスタの産業革命へ、そして20世紀にはベルファストの造船・タイタニック‥‥ぼくが若かったら(40歳以前だったら!)この地域/海域に焦点を合わせて壮大な歴史を書けたかも‥‥

2020年11月15日日曜日

天皇像の歴史

 夏から以降はハラハラどきどきの連続でしたが、そうした間にも、あわてず騒がず仕事を処理してくださる方々のおかげで、『史学雑誌』129編の10号(11月刊)ができあがりました。感謝です。

 「特集 天皇像の歴史を考える」 pp.76-84 で、ぼくはコメンテータにすぎませんが、「王の二つのボディ」論、また両大戦間の学問を継承しつつ、   A. 君主制の正当性根拠    B. 日本の君主の欧語訳について の2論点に絞って議論を整理してみました。

 じつは中高生のころから、大学に入ってもなおさら、いったい「日本国」って君主国なの?共和国なの?何なの? という謎に眩惑されましたが、だれもまともに答えてくれませんでした。いったい自分たちの生きる政治社会の編成原理は何なのか、中高でならういくつかの「国制」で定義することを避けたあげく、あたかも「人民共和国」の上に「封建遺制」の天皇が推戴されているかのようなイメージ。「日本国」という語で、タブー/思考停止が隠蔽されています!

 この問題に歴史研究者として、ようやく答えることができるようになりました。E. カントーロヴィツや R. R. パーマや尾高朝雄『国民主権と天皇制』(講談社学術文庫)およびその巻末解説(石川健治)を再読し反芻することによって、ようやく確信に近づいた気がします。

 拙稿の pp.77, 83n で繰りかえしますとおり、イギリス(連合王国)、カナダ連邦、オーストラリア連邦とならんで、日本国は立憲君主制の、議会制民主主義国です。君主制と民主主義は矛盾せず結合しています。ケルゼン先生にいたっては、アメリカ合衆国もまた大統領という選挙君主を推戴する monarchy で立憲君主国となります。君主(王公、皇帝、教皇、大統領)の継承・相続のちがい - a.血統(世襲・種姓)か、b.選挙(群臣のえらみ、推挙)か - は本質的な差異ではなく、相補的であり、実態は a, b 両極の間のスペクトラムのどこかに位置する。継承と承認のルール、儀礼が歴史的に造作され、伝統として受け継がれてきましたが、ときの必要と紛糾により、変容します。

 『史学雑誌』の註(pp.83-84)にあげた諸文献からも、いくつもの研究会合からも、示唆を受けてきました。途中で思案しながらも、 「主権なる概念の歴史性について」『歴史学研究』No.989 (2019) および 「ジャコバン研究史から見えてくるもの」『ジャコバンと王のいる共和政』(共著・近刊) に書いたことが、自分でも促進的な効果があったと思います。研究会合やメールで助言をくださったり、迷走に付き合ってくださった皆さん、ありがとう!

2019年11月8日金曜日

明日のシンポジウム

既報の再録ですが、明日、史学会大会の公開シンポジウムは〈天皇像の歴史を考える〉です。

史学会大会・公開シンポジウム http://www.shigakukai.or.jp/annual_meeting/schedule/
日時: 11月9日(土)13:00~17:00 

会場: 文京区本郷 東京大学・法文2号館 1番大教室

公開シンポジウム 〈天皇像の歴史を考える

<司会・趣旨説明>
  家永 遵嗣(学習院大学)・ 村 和明(東京大学)

<報 告>
  佐藤 雄基(立教大学)「鎌倉時代の天皇像と院政・武家」
  清水 光明(東京大学)「尊王思想と出版統制・編纂事業」
  遠藤 慶太(皇学館大学)「歴史叙述のなかの「継体」」

<コメント>
  近藤 和彦

<討 論>

 日本史の古代・中世・近世の3研究にたいして、西洋史で政治社会・国制・主権などをテーマに勉強している立場から、問いかけと若干の提言をいたします。君主制および天子・天皇・皇帝・Emperor という語についても。
 翌10日(日)午後には日本史部会で〈近代天皇制と皇室制度を考える〉というシンポジウムがあります。これと呼応して、おもしろい議論が出てくるといいですね。

2019年10月15日火曜日

都市史学会大会@青山学院大学

2019年度都市史学会大会のお知らせ

  日時 2019年12月14日(土)、15日(日)
  会場 青山学院大学青山キャンパス14号館12階(もより:渋谷・表参道)
     https://www.aoyama.ac.jp/outline/campus/aoyama.html

◆12月14日(土)
13:00~15:00  研究発表会  司会 小島見和
15:15~16:15  総会(会員のみ)
16:30~18:00  公開基調講演 桜井万里子「ポリスとは何か」
   紹介・司会 樺山紘一
18:30~21:00  懇親会 アイビーホール・フィリア 参加費6000円 学生5000円

◆12月15日(日)
「歴史のなかの現代都市」
  http://suth.jp/event/convention2019/
10:00~10:15  趣旨説明 伊藤毅(建築史)
10:15~11:00  北村優季(日本古代史)
11:10~11:55  河原温(西洋中世史)
12:00~13:00  昼食
13:00~13:45  桜井英治(日本中世史)
13:55~14:40  中野隆生(西洋近現代史)
14:40~15:00  休憩
15:00~15:45  妹尾達彦(東洋史)
15:45~16:00  池田嘉郎(近現代ロシア史)
16:00~16:15  北河大次郎(土木史)
16:30~17:30  討論

2019年6月4日火曜日

ジャコバン・シンポジウム反芻


 5月19日西洋史学会大会小シンポジウム〈向う岸のジャコバン〉と、26日歴研大会の合同部会〈主権国家 Part 2〉における討論は、人的にも内容的にも連続し重なるところが多いものでした。文章化するまですこし余裕があるので、メール交信にも刺激されながら、反芻し考えています。とりあえず3点くらいに整理すると:

1.Res publica/republic/commonwealth にあたる日本語の問題
 これは古代由来の「公共善を実現すべき政体」ですが、politeia でもあり、「政治共同体」「政治社会」とも訳せますね。 cf.『長い18世紀のイギリス その政治社会』(山川出版社)pp.7-11 でも初歩的な議論を始めていました。
岩波文庫でアリストテレス『政治学』と訳されている古典は、ギリシア語で Ta Politika, ラテン語版タイトルは De Republica です。その訳者・山本光雄は訳者注1で、本書のタイトルにつき「もともと「国に関することども」というぐらいの意味で‥‥むしろ『国家学』とする方が当っているかも知れない」(岩波文庫、p.383)としたためています。また巻末の「解説」では同じ趣意ながら、「字義通りにとれば、「ポリスに関することども」という意味になるかと思う」(p.443)と言いなおしている。
 宗教戦争中に刊行されたボダンの De République は『国家論』と訳され、共和政下に刊行されたホッブズ『リヴァイアサン』の副題は「聖俗の Commonwealth の素材・形態・力」でした。それぞれ「あるべき国のかたち」を求めての秩序論でした。
これが、しかし、ジャコバン言説(を結果的に生んだ18世紀第4四半期)あたりから「君主政を否定した政治共同体」=「王のいない共和政」を主張する republicanism の登場により、19世紀にはこちらが優勢となり、福澤諭吉の『西洋事情』(1867)では、「レポブリック」が即(モナルキアリストカラシと並び区別された)デモクラシの意味で紹介されるに至るわけです。
 とはいえ、共和政・共和国という表現は、今にいたるまで(自称・他称のいずれも)ある種の「理想的な政治共同体」「当為の公共善(へ向かうもの)」を指して、使われるようです。フランス共和国も、朝鮮人民共和国も、主観的には理想郷(をめざす運動体)なのですね! ここで共和主義と祖国 patrie への愛がポジティヴに語られるのが、おもしろい。何故?

 かねてから中澤さんの指摘なさる「王のいる共和政」については、中東欧だけの問題ではなく、イングランドの研究史でも Patrick Collinson (ケインブリッジの近代史欽定講座教授、Q.スキナの前任者) による The monarchical republic of Queen Elizabeth I (1987) という覚醒的な論文があり、さらにその影響を20年後に再評価する論文集
The monarchical republic of early modern England: essays in response to Patrick Collinson, ed. by J. McDiarmid (2007) も出ています。

2.近世 → 近現代
 こうした republic の用語法(の変化)にも、近世(前近代)から近現代への飛躍架橋か、といった問いを立てる意味があるわけですが、これについて、ぼくの立場は折衷的です。まず、もし「近世」なるものと「近現代」なるものの実体化(平坦なピース化)に繋がる議論だとしたら危ういものがあります。ジャコバンについて、(静岡で申しましたように厳密な a であれ、向う岸の b現象であれ)いろんな議論が可能ですが、結局は飛躍と連続の両面があるといった結論に帰着しそうです。
 なおまた次に述べることですが、フランス革命もジャコバンも、社団的編成論(二宮、Palmer)や複合革命論(Lefebvre)といったこれまでの理論的な達成をパスしたまま議論するのは空しい。革命はアリストクラートの反動から始まり、情況によってロベスピエールもサンキュロットたちも変化・成長するのです。

3.国制史の躍動
 2にもかかわることですが、近藤報告は「「大西洋革命」論を冒頭において、その意義を論じようとした‥‥」と受けとめられた方もあったようですので、補います。ぼくの主観的ねらいは違いました。
 第1報告の本論冒頭においたのはロベスピエールの2月5日演説であり、(切迫した情況における)徳、恐怖、革命的人民政府、正義、暴政、République といったキーワードを集中的に呈示し、共同研究のイントロにふさわしいものにしたつもりでした(ブダペシュトでも、静岡でも)。研究史として「大西洋革命」やパーマが出てくる前に、国制史の意義をとき、成瀬治と Verfassungsgeschichte、二宮宏之とコーポラティストやモンテスキュに論及し、そのあとにようやく広義のジャコバン研究&社団的編成論として R.パーマの The age of the democratic revolution(とこれを早くに評価した柴田三千雄)が登場します。これにより一方でロベスピエールないし厳密なジャコバンを相対化する(歴史的コンテクストに置く)と同時に、他方で成瀬、二宮、柴田を再評価する、随伴してスキナたちケインブリッジ思想史の偏りを指摘し、イニスたちの近業の可能性を讃える、といった筋(戦略)で臨んだつもりでした。

 むしろ広汎な各地で、若くして啓蒙の republic of letters に遊んだ人々が、1790年代の高揚した情況のなかで élan vital を共有し、当為の宇宙に夢を見た(それを E.バークたちは冷笑した)、それぞれの運命をもっともっと知りたい、と思いました。

2019年5月20日月曜日

ジャコバン シンポジウム

 19日(日)午後、静岡大学においける小シンポジウム「革命・自由・共和政を読み替える - 向う岸のジャコバン」は、当日直前までハラハラしていたわりには、「案ずるより産むは易し」でした。有機的に連関して、かつ発展の芽がみえるセッションになったのではないでしょうか。ぼくも第1報告を担当しました。
 終了後にある先生から、チーム内の考え方の不一致というより多様性を指摘されました。それは認めますが、そうした点はネガティヴよりはポジティヴに受けとめてほしいと思いました。なにより
1) シンポジウムとして、各報告間とコメント間にたしかな共振・呼応関係があり、
2) (18世紀やモンテスキュはもちろん)いくつか重要で大きな論点が開示され、それを我々も出席者も持ち帰っていま再考=熟慮中という事実に、発展的な可能性をみるべきではないでしょうか。

 たとえばですが[古代からの継続・近世史のイシューについては、すでにいろんな方々が問うておられますので、近代以降を展望しますと]、
・厳密な「ジャコバン主義」は歴史家の概念として、(1793-4年の)山岳派・ロベスピエール(そしてバブーフも?)の言説・思想から抽出した理念型として、考え用いるべきでしょう。
・理念型としての「ジャコバン主義」においては18世紀から革命へと(近代的)断絶がみられますが、広汎な向う岸の「ジャコバン現象」においては res publica も君主政も19世紀へと連続しえた。しかも、こうした異質の両者が1790年代には共振する情況・関係がありました。
・19世紀にはイギリスが、ジャコバン主義的近代もウィーン体制も拒絶しつつ、経験主義的な改良を重ねて Pax Britannica の世界秩序を築きあげる。その国のかたちは君主政・貴族政・民主政の混合政体で、しかも自由放任です。
・こうしたイギリス型近代に対抗すべきフランス型近代は、清明な合理主義による統制をめざすとみえてもストレートには行きません。体制転換(革命やクー)を繰りかえしつつ、パリコミューンを鎮圧した第三共和政で、ようやく1789年/93年的なフランス革命が国是とされます。フランス史における contemporain=近現代=革命体制の遡及的措定ですね。
・上海租界地などで今も19世紀半ば以降のイギリス型近代とフランス型近代の競争的な共存を目撃し再確認できますが、共通の敵/市場に対峙する列強=英仏の協力関係、それを補完するようにナショナルな様式を顕示した建築やデザイン -

 こうした議論もいくらでも展開できるでしょう。
 ぼく個人としては
長い18世紀のイギリス その政治社会』に結実したシンポジウム(2001年@都立大)、
礫岩のようなヨーロッパ』に結実したシンポジウム(2013年@京都大)
を想い出しつつ、前を向いています。

2017年8月22日火曜日

風のアイルランド


 アイルランド探訪のなかでも、いくつか重要な側面があり、まずは ancient Ireland とされてきたもの(invented traditionかもしれない)の最たるスポットを訪ねました。順不同です。

¶「タラの丘」は太古の王(high kings)の居所だったと伝えられる丘。古墳から遠からぬ所に、シャムロックを手にもつ聖パトリックの立像も据えられ、シンボリズムは十分ですが、近代史ではオコネルの1843年「百万人集会」の場にもなりました。
『風と共に去りぬ』でもタラはアメリカ南部の Irish American の心の支えで、この映画のライトモチーフになっています。最後の場面ではスカーレットの Tomorrow is another day が「明日は明日の風が吹く」と訳されて、名訳か迷訳か、ひとしきり議論されましたが、現場に立ってみて、そうか、この強風のことなのだ、と妙に納得しました。
緑、緑、緑のただなか、たえまなく吹きつける風に、全身で耐えている4人の写真です。

¶ カシェルの岩山はマンスタ王の居城だったのが、1101年に教会領となり、修道院文化の繁栄の中心でした。1647年にクロムウェル軍の包囲攻撃で廃虚となり、1749年には屋根が除去されて、荒廃が進んだようです。大聖堂わきの十字架を撮りましたが、ここでも身の危険を感じるほどの強風。
誰かさんのようにこの廃虚で「運命の人とのめぐりあい」はなかったけれど、しかし、アイルランド史、ブリテン諸島史、ヨーロッパ史のことを再考しました。

 Gone with the Wind も、The Wind that shakes the barley も、the wind をキーワードとしていたのでした。これが分かってなければ、アイルランド史は(アメリカ史も!)理解できないということか。

2017年6月1日木曜日

長谷川博隆先生 1927-2017


長谷川博隆先生はご闘病中のところ、31日、肺炎で亡くなったとのことです。89歳。第一報の電話をいただいて、混乱しました。
1977年~88年に名古屋大学で公私ともにお世話になりました。ぼくは生意気な最年少教授会メンバーでしたが、自由にさせてくださり、見守っていただきました。
じつは東大西洋史の成瀬助手時代(1950年代なかば)に、長谷川博隆・遅塚忠躬・今井宏といった院生たちがたいへん仲が良かった、遅塚さんが名古屋の長谷川家まで泊まりに来た、といったことをお二人ご一緒の折に聞いたことがあります。
さらに印象的なのは、1991年の日本西洋史学会大会@名古屋で、例の「古代史におけるパトロネジ」のシンポジウムが開かれた翌朝です。宿の朝食をぼくは二宮さんとご一緒することになっていて、そこへ降りてゆくと、村川堅太郎・長谷川博隆両先生がご一緒にいらしたのですが、二宮さんの姿を認めて、村川さんは「やぁ二宮さん」と満面の笑みで、4人は同じテーブルに着席することになりました。とはいえ、話題は南フランスを一緒に旅行なさった60年代のある日々のことに尽き、車を運転した○○さんのことも含めて、昨日のことのように懐かしんでおられた。ぼくと長谷川さんは部外者として、楽しい回想をただ拝聴しているだけでした。村川主任教授時代の西洋史助手は、成瀬 → 長谷川 → 二宮 → 直居淳 → 西川正雄 → 伊藤貞夫、とつづき、黄金時代だったのですね(ぼくの知らないアンシァン=レジームです。まだ定員は一人。伊藤さんの任期中に定員二人となり、城戸さんが後任助手に就きました。1968年4月、村川先生の定年とともにお二人が同時に辞めて、北原敦・木村靖二助手の時代となり、ぼくにとっての「同時代」史が始まります)。
【 → この91年の12月に村川先生は亡くなるので、その半年前の、幸運で愉快な時間だったのでしょう。なお、先生と愛弟子はちょうど20歳違いというのが良いのだとは、長谷川先生の説です。村川・長谷川のご両人は20歳違い。柴田先生とぼくは21歳違うなぁ、とそのとき感じ入ったものです。】

なお、今春には國原吉之助先生も亡くなっていたとのことです。ぼくは名古屋大学文学部3階で、研究室が隣り同士でした。國原先生と長谷川先生は尊敬しあう関係だったようで、ある時点まで両先生の学恩を浴びるように享受していたのが、土岐正策さんです。週末夕刻から始まるラテン語の学習会は、國原先生よりも、むしろ土岐さんが仕切っておられた。
長谷川(編)『ヨーロッパ: 国家・中間権力・民衆』(名古屋大学出版会、1985)が出版された折には、ぼくが英語 mob の語源は mobile vulgus で、17世紀末にはただの mobile という形で使われていた時期もあるとしたためたのに目を留めた國原先生は、誉めてくださいました。お人柄は、『古典ラテン語辞典』(大学書林、2005)のまえがきにも現れているとおりです。

名古屋の古代ローマ関係のお三方は、ともに今は亡く、さびしい。
【2日(金)の晩は浦和でお通夜でした。しみじみと語りあいました。なおまた、このブログ記事につき、欠けるところを指摘してくださった方、ありがとうございます。】

2015年4月19日日曜日

『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)


こういうタイトルで「あたかも12名のオムニバス授業の渾身の一コマの記録」のような本を作りましょう、と呼びかけたのが 2012年5月でした。共著者の皆さん、公私ともに多事多端の折から、力作の原稿が出そろうまで難儀をしましたが(校正もなかなかたいへんでした)、最初の企てどおり12名の力作ぞろいの共著としてちょうど3年目に刊行されます。いま見ている巻末・奥付のゲラ刷りに 5月20日発行と記されています。
最初の「序」では「‥‥全体をとおして、時代によって変化する人と人の結びつきやアイデンティティ、政治や世界観をめぐって、ヨーロッパにかかわる世界の歴史のポイントを考える連続講義として」企画、執筆された、としたためられ、12の章は次のとおりです(すべてに副題が添えられていますが、ここでは省きます)。
 1.佐藤 昇 「建国神話と歴史」
 2.千葉敏之 「寓意の思考」
 3.加藤 玄 「国王と諸侯」
 4.小山 哲 「近世ヨーロッパの複合国家」
 5.近藤和彦 「ぜめし帝王・あんじ・源家康」
 6.後藤はる美「考えられぬことが起きたとき」
 7.天野知恵子「女性からみるフランス革命」
 8.伊東剛史 「帝国・科学・アソシエーション」
 9.勝田俊輔 「大西洋を渡ったヨーロッパ人」
 10.西山暁義 「アルザス・ロレーヌ人とは誰か」
 11.平野千果子「もうひとつのグローバル化を考える」
 12.池田嘉郎 「20世紀のヨーロッパ」

計247ページ、「入門書の顔をした小論文集」のような大学テキストです。図版や参考文献表もしっかり備わっています。 山川出版社から本体価格は2300円と聞いています。カバーのデザインは決まっていますが、その校正刷りはまだ見ていないので、色の具合などどぎつくないか、ドキドキして待っています。 → 追記:出来上がりは、シャープで端整な装丁となりました。物理的にあまり重くないというのも良かった!
ぜひ大学(および大学院)の授業でもご活用ください。請うご期待。