2012年8月28日火曜日
出典は『資本論』だけ?
『イギリス史10講』の企画会議の最初は1997年夏でしたから、この銘品はすでに15年物。陰の伏線として古代から20世紀までのワイン(クラレット)の筋が要所要所で顔を出しますが、それにしても、この本はすごい銘酒か、開けてみたら(いじくり返しているうちに)酸化して酸っぱいだけの古酒か。
通史・概説ではない。しかし通史的に大事なことはきちんと記し、しかもストーリと構造を印象的に、具体的なイメージが浮かぶような読み物としたい。どうしても長くなる。だが分量は限られている‥‥ということで、なかなかの力業<ちからわざ>となります。
そうしたなかで、今日は、3行も(!)減らせる結果になった1論点のてんまつを。
イギリス産業革命の結果、インドの綿業が壊滅する、そのことの世界資本主義システム的な意味みたいなことは、当然述べるつもりで、すでに『文明の表象 英国』p.154 や『近現代ヨーロッパ史』p.47 にも書いたことを数行くりかえしていました。
「‥‥こうして一八三四~五年、イギリス議会でインド総督は「[インドの織布工の]窮状は歴史的に比類のないものであり、木綿織布工の骸骨がインドの平原を真っ白にしております」と証言するほどの情況となった。」*(漢数字なのはタテ書きなので)
これがしかし、読み返していてどうも落ち着かないのです。
マルクス『資本論』ディーツ版、第一巻 S.454 からの引用(つまり孫引き)のままじゃおもしろくないし、せっかくアヘン戦争では『ハンサード』のグラッドストン演説を引用したんだから、インドでも同じ程度の敬意を表したい、というので『ハンサード』を検索してすでに長いのですが、なぜかヒットしないのですよ。
そもそもマルクスは比較的多く固有名詞を出す人なのに、なぜここで「インド総督」といって時のベンティンク卿という氏名を出さなかったのだろう。それから、『資本論』における議会文書からの引用は英語のままがかなり多いのに(必ずというわけではない)、なぜかこの部分の原文はドイツ語です。. . . bleichen die Ebenen von Indien.
なにかありそう。
もしや1834-5年というのは書き違いかもしれない(したがってベンティンクに限定せずに検索した方が賢明)。で、驚くべきことを知りました!(聡明なる読者には、すでに周知のことだったでしょうか?)
インタネットに載っている日本語の引用文は、*の異版で、すべて『資本論』か(そうと知らずに)受験界で出回っているそのコピー。恥ずかしくなるほど、例外無し。
英語の場合は、引用例が減るけれども、でも結局は『資本論』の英訳から。
The misery hardly finds a parallel in the history of commerce.
The bones of the cotton-weavers are bleaching the plains of India.
しかし、Clingingsmith & Williamson の共著論文 (2005)に遭遇。このPDFにいくつかの異版があるというのも、おかしいが、そのp.13, n.12 には、なんとマルクスの典拠は疑わしい/存在しない、とある。これから芋づる式にいくつかウェブ上の文献をたどるうちに、ぼく自身が35年も前に購入して所有していた Sandberg, Lancashire in decline (1974), p.166 もあった。すべての本の背表紙が見えるようになったわが仕事場にて、瞬時に探し出してみると、そこにすでに Morris の先行研究に言及しつつ、a perplexing feature of this [Marx's] quotation を指摘しているではないか!
ぼくの目は節穴だったのか。
今のところ、どの文献もハンサードや Parliamentary Papers を悉皆調査したとは述べてない(まだディジタル検索の時代ではなかったから)。それにしても、原著者のパトスと思い込みの名文を、そのパトスに参っちゃった後続の人びとが、何世代にもわたって無批判に再生産しつづけて、その回数だけで「古典的」になっちゃった例、と判断してよさそうです。
E・P・トムスンの moral oeconomy についても、同類の現象ですよ。
結局、疑わしきは用いず。かくして、かなりの日時を費やして、岩波新書では上の文は削除し、3行ほど減らすことができました‥‥というご報告です、大山さん。
以上はしかし、学術性のある論点なので、いずれ秋に時間ができたら、一つ一つ確定しつつ、研究ノートにでもしましょう。
2012年8月16日木曜日
連合渡御
このところ多忙ということもありますが、なぜかこのblogger が写真投稿を受け付けなくなって、困った、というより気をそがれて、書きこみが減りました。
前回8月11日は深川・富岡八幡の例大祭(3年に一度)について言及しました。
11日に日本一の鳳凰神輿が深川から日本橋、お台場までプロセッションで巡回。
12日は55の町内の神輿が連合渡御、という大イヴェントです。
なんと今年は初めて天皇皇后両陛下が八幡宮に行幸される、とは聞かされていなかったので、妻だけが「美智子さんに会ってきた」などと自慢しています。
ぼくはそこから数百メートル離れた路上で、このような写真を撮っていました。
なにしろ各町内の神輿の列は前後にパフォーマンスの男女を控えていますから、かりに各100メートルとすると、100×55=5500m、すなわち5.5キロの長さになります。これが左右計7車線の永代通りを埋めて、はるか見渡すかぎり続くのだから、すごい迫力。
遠くに白い水煙が上がっていますが、これは神輿をかつぐ人びとのための水掛け所。近くで見ると、こんな迫力です。
2012年8月11日土曜日
富岡八幡の例大祭
http://www.tomiokahachimangu.or.jp/reisai/h24/html/reisai.html
関連して渡御経路・時刻などの一覧ページもあります。↑
11日(土)は日本一の神輿=鳳車渡御。午前には富岡からなんとお台場まで行って帰ってきて、午後には深川一帯と清洲橋・永代橋方面への渡御。朝は8:00出発、車列からなる神社のプロセッション。
3年に一遍だし、夏に居ないことも少なくなかったから、ケヤキ並木の越中島通りを直進とは、これまで知らなんだ‥‥
12日(日)は55の町内の神輿の連合渡御。朝は7:30出発。
こちらこそ町人のパフォーマンス文化。よい写真もあります。
→ http://kondohistorian.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html 【写真登載トラブルが解決しました!】
これに朝イチから付き合ったのは、なんと Contini さん、亀長さんとご一緒した10年前(2002)のたった一回切りでした。ちょうど一昔前。
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