2026年9月21日月曜日

谷川さんのことから連想して

 先の(9月6日)書込みのあと、何人もの方々と、谷川稔さんのこと、それにちなむあれこれについてメールや電話で、また対面で話しこみました。懐かしい写真も共有しました。彼も出席した2012年6月の「二宮宏之と歴史学」@東京外語大、「『社会運動史』の時代」@東洋大、といった催しについて、ぼくの記憶には混乱が残っていましたが、お蔭で訂正され、補強されました。
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2012/06/blog-post.html 
【1976年4月初めに京都・大原で社会運動史研究会メンバーと京阪在住の方々との合宿がありました。その時の一斉写真(20名+)はかつて大事に所持していたはずなのですが、いつのまにかどこかに紛れてしまいました。どなたかまだ持っていらしたら、ぜひコピーさせていただきたいものです!】
 谷川さんの個性について、いかにも京都人という本質と、団塊世代の左翼という側面が結合して独特の魅力が醸し出されていました。それゆえにこそ、彼と距離を保つ人もいました。時代とミリューの所産でしたね。
 ぼくにとって、京都西洋史のほぼ同世代の大切な友人として、川島昭夫(2020年)、谷川稔と亡くなってしまい、寂しいことこの上ありません。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2020/02/19502020.html
それよりずっと前には『社会運動史』にも関係し、京都大学学術出版会が胚胎するにあたって枢要な役割を果たした八木俊樹さん(1943-1996)も早々と亡くなりました。彼とは友人と言えるほどの付き合いはなかったけれど、「吉田寮」出身で、容赦のない方。
→ https://kondohistorian.blogspot.com/2022/11/blog-post_5.html
→ https://www.facebook.com/groups/2006664346237293/posts/4483119388591764/
→ https://urag.exblog.jp/239321481/#google_vignette
闘病後、1996年夏に八木さんが亡くなると、『朝日新聞』(東京版)が2度にわたって大きなコラムを組んで出しました。その存在感もわかるでしょう。

2026年9月6日日曜日

谷川稔さん(1946-2026)

 9月に入って、東京地方は、さすがに暑さよりは涼しさが増し、冷房なしの日が続きます。今日はしめやかな秋雨。そこに京都の mistoire6819 から久方ぶりのメール、と勇んで開けてみると、ご子息からの悲しいお知らせでした。12月の誕生日前ですから、享年79歳。
 これまで何度も苦しい闘病を粘り強く凌いで、優しさと批判精神にみちた笑顔をふたたび見せてくださるのが谷川稔さんの常でしたから、今年2月2日夕刻付けのメールをいただいた後も、再起を疑っておりませんでした。そのメールの最後には、こうありました。
「‥‥放射線治療の効果は遅れてやってくるという「通説」頼みです。万が一、4度目の奇跡が起きたら、どこかで語り合う時が来ますように。私が言うのも変ですが、どうぞお元気で。」

 谷川さんとは大学は違い、生年も違いますが、学年は同じで、「社会運動史研究会」以来のおつきあいです。いろいろな局面でご批判や励ましをいただきました。とはいえ、社会運動史研究会とは、彼にとって喜安さんや相良さんとのヤリトリが初めの主目的で、ぼくなぞは周辺的存在、あるいは東京の事務連絡係でしかなかったかな。お互いに年齢を重ねるにつれて接近し、少し離れた、別の、しかし同じ戦線でたたかっている同志のような気持が増しました。『近代日本の歴史学とフランス』(山川出版社、2026)については、原稿段階で、励ましをいただきました。さらにその後の『史潮』新99号(26年6月)における「労働分析研究会と1970年代 -『社会運動史』再考に寄せて」は谷川さんの絶筆ということになりますか。
 今回の訃報を受けて、そうした同志が先に逝ってしまったような、本当に悲しい気持です。 人生のクリティカルな時どきに決定的な示唆や支援をいただいた方がたが、ゆっくりと後を追うように亡くなり、想いかえすに感極まります。