2018年12月9日日曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 2


H先生「[長い文の最後に]‥‥私は18世紀末までを「近世」とし、以後を「近代」とするのはフランス革命の過大評価ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。」

¶‥‥フランス史のH先生にしてこのコメント! そうでした。時代区分という点では、迷ったあげく『近世ヨーロッパ』では完全に割愛しましたが、宗教改革でもなくフランス革命でもなく、歴史をきわめて長期でとらえて18世紀半ばくらいを「鞍のような時代」(Sattelzeit)と考え、その前後を分けるドイツ史の議論を、もうすこし討論すべきでした。
想い起こせば、旧『岩波講座 世界歴史』(1968年刊行開始)でも、おそらくは柴田先生の提唱で、18世紀末のフランス革命・産業革命ではなく、18世紀初めの啓蒙/カルロヴィッツ後の東西関係でもって「近代世界の形成」(第16巻まで)と「近代世界の展開」(第17巻以降)とを分けようとしていたのでした。アジア史との連結部でちょっとズレが残っていますが。

Kさん「‥‥本書の語り口は、『民のモラル』ではなく、『イギリス史10講』のそれであると思いました。‥‥『イギリス史10講』において非常に顕著だった用語・訳語の原理的な解説と言い換えは、本書でも随所にちりばめられていて(近世、近代=今様/当世風、新旧論争、人文主義、カトリック、公共善、イギリス革命、諸国家システム、啓蒙=文明開化)、また、世界史教科書の諸項目を相当に意識した構成とあいまって、想定読者の多くを占めるであろう高校世界史・日本史教員にとって親しみやすくかつ非常に有益な副読本として、この上ない仕上がりだと感じました。
世界史の「常識」を硬軟取り混ぜて、さらりと転倒させる筆致も『10講』以来のものだと思われます(ヘンリ8世は「セクハラ君主」ではない、『君主論』は「なんでもあり」の推奨本ではない、など)。
歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つものであるとの確信から書いておられるであろうことがひしひしと伝わってきました。そして、(『10講』でも感じたことですが)お書きになるものから、一種の歴史哲学的志向が透けて見えてくるようになってきているとの印象を抱いています(グローバル状況を背景/ネガにして可視化される、モラルと秩序を軸にしたヨーロッパ近世的なるもの)。
 今ちょうど、時代区分に関して考えている最中で、なおのこと本書の歴史哲学的な面を深読みしすぎたのかもしれません。」

¶「歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つ」ということは、内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書)あたりから学んだ大事なことだと今も思います。それが歴史哲学といえるほどの質を備えているかどうか分かりませんが、歴史的に考えるよすがであり、調べるに値することです。(およそ言葉に鈍感な人の文章は、読むにたえませんね。)
 なおマキャヴェッリの思想史的重要性とともに、その議論にジェンダー的含意が隠されているというヒント【運命という女神の髪は前にしか付いていない;(virtu)とは本来、男らしさ、男気、力強さ‥‥】をくれたのも、内田の『社会認識の歩み』でした。

 皆さんのおかげで少し自分を相対視できます。ありがとうございました。

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