2024年9月15日日曜日

グレンコウの宿恨

はるばるスコットランドのハイランドも西海岸、コウの大渓谷(Glencoe)に参りました。
すごく険しく、ものすごく広大で、これは写真でなく実際に来てみないとその迫力はわからない。と言いながらここは写真でご覧に入れるしかありません。
訪ねあてたのは、マクドナルド氏族の末裔が19世紀末に建てた1692年の虐殺の顕彰碑。
これより前に Campbell, Duke of Argyll家の居城 Inveraray にも参りました。別の大渓谷(glen)を抜けて、潮の満ち干のいちじるしい深い入り江(loch)に面した立派な居城です。
対立したジャコバイトとホウィグと両方に挨拶したわけです。
そもそもこんなにも大渓谷で隔てられた各氏族、交際・連絡は険しい陸路よりも、リアス式に奥まで切り込んだ Loch の水路によるところが大きかったろうと、十分に想像できました。それだけ陸路をたどるのは大変でした・・・ その夕刻、太陽を背にして走るうちに、虹の根本に遭遇したのでした。 
ついでにスコットランドの loch とは湖だけでなく、海の入江についてもいうのだと認識しました。ドイツ語の See も海と湖と両方を指しますね。日本の古語でも「うみ」は琵琶湖だったり、瀬戸内海や日本海だったり・・・

2024年9月11日水曜日

虹の根本

ただ今、ハイランドを探訪旅行中。幸運にも虹の根本(ねもと、こんぽん)に遭遇。
車を降りて、撮影しました。

2024年9月2日月曜日

Re-imagining Democracy

7月に書き込んでから、猛暑にやられたというわけではありませんが、このブログに書き込む余裕のないまま、8月はあっという間に過ぎてしまいました。台風と長雨もなかなかでしたね。みなさんの近辺では、豪雨等々の大きな被害のないことを祈ります。
ドタバタとしていますが、このあとぼくは、スコットランド・イングランドに参ります。

いろいろと書くべきことは多いのですが、3月にオクスフォードでお世話になったイニス、フィルプのお二人がオクスフォード大学のウェブサイトに 
Re-imagining Democracy というぺージを作成し、ニュース・近況を告知しています。すでにご存知かもしれませんが、念のためお知らせします。
https://re-imaginingdemocracy.com/
共著『民主政のイメージ更新』プロジェクトの第4巻:中欧・北欧は、2027年完成を目標としています。中澤科研としては黙って看過できませんね。cf. 『王のいる共和政 ジャコバン再考』(岩波書店、2022)pp.20-21.
なおこの8月に彼らが始めた
Centre for Intellectual History という試論ぺージもありますが、こちらはほとんど共著のエッセンス/論文素案のお披露目の舞台といった感じです。
Joanna Innes ↓
https://intellectualhistory.web.ox.ac.uk/article/what-did-it-mean-to-be-a-democrat-in-the-age-of-revolutions
Mark Philp ↓
https://intellectualhistory.web.ox.ac.uk/article/between-democracy-and-liberalism-ludwig-bambergers-path

中澤編『王のいる共和政 ジャコバン再考』(2022)、歴研編『「主権国家」再考』(2025)とも問題意識の重なる共著企画ですね。

2024年7月27日土曜日

暑い7月:中学生から知りたい パレスチナのこと

〈承前〉  暑い7月:『中学生から知りたい パレスチナのこと』の続きです。昨日書いたことだけですと、パレスチナのことを正しく知りましょう、というので終わってしまいそうですが、むしろこの本の強みは、アラブ・パレスチナ問題の専門家=岡さんと対話しつつ、ポーランド・ウクライナの小山さん、ドイツそして食の藤原さんが積極的に議論している点にあると思います。
 中東欧のことに少しでも触れるとユダヤ人問題に正面から向きあわないわけにゆかない、と承知していますが、2つの地図、①旧ロシア帝国と旧オーストリア・ハンガリー帝国の境 - バルト海と黒海にはさまれた幅広い帯の地域 - に広がるユダヤ人強制集住地域(Pale of Settlement, p.113)と、②東欧の流血地帯(Bloodland, p.116)との重なりを見せつけられると、厳しい。 ここには地図②のみコピーして載せます。
 著者3人の座談会で話されているとおり(pp.191-198)、ただの「民族の悲哀」ではなく、なぜかこのあたりには「突出した暴力を行使するシステム」が存在し、それを許容してしまう情況があった。【ちなみに the Pale とは原義の「柵の中」→「アイルランドにおけるイングランド人の支配地域」という用法はよく知られていますが、「ロシア帝国におけるユダヤ人強制集住地域」として固有名詞的に使用されていたとは!】
 シオニズムについても、イスラエルに違和感をもつユダヤ人たちについても、中途半端な認識しかないぼくにとって、この本のあらゆるぺージが目の覚める発言に溢れています。
 本体1800円。「中学生から」後期高齢者までに向けた本です。3著者とミシマ社の速やかな協力による、すばらしい本です。ぼくもL・B・ネイミア(ルートヴィク・ベルンシュタイン)をはじめとする中東欧人の生涯と20世紀シオニズムとの、単純でない関わりを知るにつれ、しっかり理解したいと思っていたテーマでした。
 なお書名の前半『中学生から知りたい』については、前回ちょっと違和感を洩らしました。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2022/06/blog-post_11.html  今回、あとがき(p.209)に小山さんが「中学生から」とは「‥‥日本語の本を読むための基礎的な教育を受けたことのあるすべての人」という意味だろうと「定義」しておられ、そういうことなら、違和感なし、とここに訂正します。

§ ところで、こうした問題は、『歴史学の縁取り方』(東大出版会、2020)でも - とくに小野塚さんあたりが - 明示的に問うておられました。また2022年、京大の西洋史読書会シンポジウム(Zoom)でも、重要なテーマになりました。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2022/11/ 共通して、学者研究者にとって(その卵にとっても)根本的な問題が、より緊急性を帯びたイシューについて議論され、実行された出版の好例と受けとめました。
 なお本のカバーデザインについても一言。明るい緑色のバックに、地球儀とともにパレスチナのオレンジが示されて、本文中の藤原さんの言(p.173の前後)に対応しています。むかし学校で習った「肥沃な三日月地帯」がイスラエルによる水資源の独占により、パレスチナでは柑橘栽培が抑制され、外国からの輸入・援助によらねば日常の食糧が確保できない現状 → 強制された飢餓状態、に思いを馳せることを読者に促しているのでしょうか。
 近年はスーパーでも普通に目にするようになったイスラエル産の柑橘、果物、ワイン‥‥。手を伸ばすのにいささか躊躇します。

2024年7月26日金曜日

暑い7月

 今月に入ってから、いろんなことがありました。
 イギリス総選挙と労働党の組閣;フランス国民議会選挙と政権の「オランピク休戦」!;合衆国ではトランプ狙撃に続き、これではトランプ圧勝に向かうかと見られた情況が、22日、バイデンの大統領選辞退、ハリス支持にともない、事態は急転直下 → 民主党の団結へと転じて「最悪」は防げるかもという希望が生じました。‥‥
 そうしたなか、2冊の本が到来して、背筋をのばされる思いです。
 順番に、まずは『中学生から知りたい パレスチナのこと』(ミシマ社、2024年7月)です。
 2022年6月に『中学生から知りたい ウクライナのこと』で、時宜をえた出版を実現した、小山哲・藤原辰史のお二人とミシマ社のトリオについては、このブログでも触れました。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2022/06/blog-post_11.html
これはすばらしい内容と迅速な公刊で、大歓迎でしたが、じつは特別に驚いたわけではなかった。100%の好感とともに、このお二人なら、こういうこともなさるかな、と自然に受けとめました。
 今回の『パレスチナのこと』については、まずは驚き、さらにこれこそ歴史的な学問をやっている人びとの責任のとり方だ、と姿勢を正しました。
 イスラエルの蛮行、ガザの惨状につき、日夜、憤りとともに心を痛める(さらに歴史的背景を自分なりに探る‥‥)までは - このブログを見る人なら - だれもがやっているかもしれませんが、「事態は複雑だ、解決はむずかしい」より先に一歩進めて、歴史と地理を考える/調べる、さらに二歩目の、自分がやってること/自分の世界史観の見直し・再展開につなげる、というまでは(手がかりがないと)なかなか難儀です。
 イスラエル国を批判することが「反ユダヤ主義」に直結するのではないかと懸念し、そもそもホロコーストと「英仏の帝国主義」に翻弄された被害者としてイスラエル人を免罪する/サポートするという傾向が、わたしたち生半可の知識をもつ者には少なくなかった。 → https://kondohistorian.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
https://kondohistorian.blogspot.com/2024/01/blog-post_29.html
https://kondohistorian.blogspot.com/2024/01/blog-post_30.html
 そうした生半可の常識(学校教育で教えられ/カバーされてきた事実認識)をひっくり返す本です。現代アラブ・パレスチナの専門家=岡真理さんによって、「2000年前にユダヤ人(ユダヤ教徒)が追放されて世界に離散した」というのはフィクション(p.24);かつての南アフリカ共和国のようなアパルトヘイト国家=イスラエル国は -「ホロコースト」の犠牲者であるがゆえに - 何があっても - 免責される;「敬虔なユダヤ教徒はシオニズムを批判し、これに反対してきました」(p.49)といったぐあいに指摘され、目の覚める思いです。  〈つづく〉

2024年7月6日土曜日

美浜区 打瀬(うたせ)

 今日も - 太平洋側では - 暑かったですね。お変わりありませんか?
 そうしたなか、前々から予定されていた用件で京葉線「海浜幕張」まで参りました。昔「放送大学」の番組制作で何度か訪れた駅ですが、そちらとは反対の、南口(海の側)に出て、幕張メッセや千葉ロッテのスタジアムの方角、しかし直近の超高層ビルへ。その25階でのお話と手続はトントン拍子で運び、11時半にはすべて終了して、解散とあいなりました。
 支障なくことが運んだのは良いのですが、ちょっと拍子抜けで、商業地区、そして広い帯状の海浜公園を抜けて、美浜区打瀬の、これぞ「幕張ベイタウン」という街区を歩いてみることにしました。
 ぼくが京成電車で中学、高校に通っていたころは、このあたりは遠浅の海岸で、アサリ取りと海水浴(と海苔養殖)しかなかった! 60年代、70年代に埋め立てが進んで、成田空港ができてからは(途中にあたるこの辺には)高速道路と京葉線が計画され、80年代には幕張はその要、「副都心」とする構想が唱えられるようになりました。京葉線の沿線の北半分(市川、船橋)はおもに工業・倉庫・物流の拠点となり、南半分(千葉市内)は住宅地が広がり、「海浜幕張」は両者の要というか狭間というか、商業・情報・教育の拠点となってゆくプロセスはぼくの知らぬまに過ぎ、いつのまにか、バブル期が終わってみたら、そうなっていたんだ、という認識です。
 1996年正月に日本に帰ってきてから - そのころは両親と一緒に住むことも展望して - しばらく広い範囲で(多摩や国立まで含めて)住宅/住宅地を捜したのですが、新聞広告にくりかえし出ていた幕張ベイタウンの集合住宅は魅力的で、その写真や図面は今でも記憶に残っています。
 多摩ニュータウンは傾斜地が前提の街造りでしたが、幕張は平坦な埋立地で、商業地や放送大学、アジア経済研究所と近接しながらの地割りも計画的に行なわれて、街の真ん中および海側の緑地も十分に設けられています。 
 最高気温35度にもなる真昼だったので、ベイタウンの目抜き通り(美浜プロムナード)も歩行者が少ない。しかし街路樹もたっぷり、目抜きの1階は(雪国の雁木通りみたいに)回廊のようになっているので、雨ばかりか日射しも避けられる構造です。小さな商いやブティクも並んで、悪くない街並みだなと思いました。駅の近くの超高層は別にして、たいていの集合住宅は6階ないしは5階までとして統一感があり、間隔を十分にとった(上から見ると)ロの字型、コの字型の住宅。なんだか西ドイツかオランダの都市住宅みたい、と連想しました(高度成長期の日本の団地住宅とは大違いです)。
 そういえば、わが高校の同窓生たちの現住所で、美浜区打瀬とか磯辺といったのが少なくない‥‥。京葉線快速を利用して、東京駅近辺まで通勤するには便利ですね。ここはまた定期借地権での分譲という手法も活用された、革新的な住宅地でした。

2024年6月15日土曜日

長谷川宏さんのおかげ

「朝日新聞デジタル」に今、長谷川宏さんのインタヴューが連載中です。
https://digital.asahi.com/articles/ASS644HNGS64UCVL049M.html
1940年4月1日のお生まれということで、もう80歳を越えておられますが、面影は昔と変わりません。島根県の少年のころの写真もあって、人の基本的な面立ちは変わらない、いやむしろその変わらない要素こそが人格を形成している、というべきなのでしょう。
(c)朝日新聞デジタル 
 長谷川さんは哲学の院生、ぼくは西洋史の学部3年。8歳も年長ですので、ほとんど接触はなかった。とはいえ、1969年初めの事件の夜、ぼく(と20名未満の学生・院生)は長谷川さんと摂子夫人に命を助けられたのです。おそらくぼくの名を認識しておられないでしょうが、命の恩人です。
 東大闘争のころ長谷川さんは哲学の大学院を満期修了(人文闘争委員会)、ぼくは西洋史共闘。1968年6月からの(学部生の)無期限ストライキとは別に、院生たちの「人文会」は動いていましたので、遠くからお顔を見ることはあっても、討論や挨拶を交える機会はなかった。ただし、他の人びととはちょっと違う、実存的なビラを出したりしていましたね、彼も、ぼくも。
 朝日新聞デジタルのインタヴュー記事では、おそらく担当記者の理解が行き届かず、時間的に前後が混乱しているところがありますが、68年11月に「文学部8日間の団交」、その後の総決起集会‥‥と続くうちに、12月にはぼくたちの知らないところで、(助手共闘が仲介して)東大の新執行部=加藤総長代行と全共闘幹部の交渉があり、これが決裂して、佐藤内閣の強圧に抗するべく、1月10日の秩父宮ラグビー場における当局と民青との手打ち式(七学部集会)、そして共闘系セクトの積極的な介入‥‥と急転直下の展開となります。その局面転換は明瞭で、ぼくたちサンキュロットにも「何かが大きく変わった」と感じさせるものがありました。東大全共闘の普通の学生は、1月16日からは、気楽に講堂=時計台に入れなくなったのです。
 教育学部に駐屯した全国の民青「ゲバ部隊」は、68年9月7日未明の御殿下グランドにおけるデモンストレーション演習以後、機会をみて威圧的に動員されていましたが、1月10日の秩父宮ラグビー場の夜には、大胆な「トロツキスト掃討作戦」に出ます。その夜、文スト実のメンバーの多くは講堂=時計台に寝起きしていたのですが、「民青の襲撃に備えて」ということで、二手に別れ、一部(10人以上、20人未満でした)は法文2号館(すなわち文学部)事務棟の2階(学部長室や会議室がある)に移動し、バリケードを補強する、といった任務に就きました。ぼくはこちらでした。
 70年代に歴史家ルージュリ(や木下賢一)がパリコミューンについて、また相良匡俊が世紀末のパリの労働者について形容したような bonhomie* に支配された呑気な夜でした。ところが、寝静まった未明に事態は急変。時計台前の広場から銀杏並木、そして三四郎池側まで黄色いヘルメットの民青「ゲバ部隊」が埋め尽くしているのを見て、ぼくたちシロートのトロツキスト(その実、ナロードニキ!?)は恐慌状態。小便の漏れたやつもいたのではないか。わがバリケードもどきが簡単に突破されることは、火を見るより明らかです。
【 * 木下論文は『社会運動史』No.1 (1972)、相良論文は『社会運動史』No.4 (1974) に載っていて、70年代を代表具現するような作品です。】
 取るものも取りあえず、1月なので上着は着て、屋上に上がりました。今、法文1号館2号館は4階に銅屋根のプレハブ部屋が並んでいます。この空間は、70年代末まで図書の事務室以外は、細かい砂利を敷いた屋上だったのです。その屋上を伝って、文学部の研究棟に入り、長谷川さんの案内で2階の哲学研究室の鍵を開けてもらい、中で10人以上が息をひそめる、ということになりました(もちろん点灯しません)。
 事務棟と研究棟は屋上でつながり、2・3階にあたるレヴェルに(いわゆるアーケードの上)「1番大教室」「2番大教室」がある、という構造です。
 半時もしないうちに、法文2号館事務棟の(今は生協やトイレの入口にあたる)バリケードは破られて黄色いヘルメットが建物内を縦横に歩き回って、われわれを捜索しているらしい、このまま哲学研究室にいるのは危ない、という判断で、再び移動し、地下に下りました。心理学や考古学が使っている or 不使用の部屋に身を潜める方が安全だろうとなりました。地下のたいていの部屋は鍵がかかっていなかった。ぼくが身を潜めた部屋はかび臭く、寒く、頼りないことこの上なかったけれど、とにかく2・3人づつ別々に、外が明るくなるまで静かにしていました。
 翌11日朝、本郷キャンパスはむやみに静かで、何もなかったかのごとく。しかし、学部長室/会議室に私物を置いていた人は、それらは無くなっていたと言います。左右を見ながら、走って時計台へ逃れました。
 時計台にいたのは文学部だけでなく全学のスト実や院生、助手たちで、宵闇のなか、法文2号館を黄色いヘルメットの波が包囲し、やがて突入するのを遠望して、「近藤くん、死んだかとおもったわ」と西洋史の女子学生が(笑って)言ってくれました! 警視庁の機動隊より民青のゲバ部隊のほうが怖い/乱暴だ、という評判でした。その前夜、法文2号館で行動を一緒にしたのは、哲学の長谷川さん夫妻や国文の*くんや仏文の*くん等々でしたが、西洋史はなぜかぼくだけで、他は時計台の建物にとどまっていたのです(あまり組織的に職務分担したわけではなかった)。
 というわけで、小杉享子『東大闘争の語り』をみても、折原浩『東大闘争総括』をみても、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』や富田武『歴史としての東大闘争』をみても、この深更・未明の事件については、具体的な叙述は乏しい。しかし、民青部隊がこのときみごとなほど機動的に動き、東大全共闘のサンキュロットを蹴散らして本郷キャンパスを制圧したので(→ 講堂=時計台は孤島のようになりました)、これに対抗して翌日より全国の大学から共闘系の党派動員が本格化する、そのきっかけになった事件でした。このとき長谷川夫妻の機転がなかったら、ぼくたちは69年1月に一巻の終わりとなってしまったかもしれないのでした。

2024年6月1日土曜日

アメリカのデモクラシに まだ希望が‥‥

(私ごとで時間をとられている間に、日も月も替わってしまいました。)トランプの恥ずかしい違法行為の数々について、ニューヨークの12名の陪審員が「34件すべて Guilty」と評決したというニュース。わずかながら希望がつなげたような気がします。
「口止め料裁判」と日本で言っているのは、英語で hush-money trial/case なのですね。
とはいえ、「これぞニューヨークの司法が腐敗して魔女裁判をやっていることの証」といった暴言が通り、マスコミもそのまま報道する、といった現実。「底が深い」としか言いようがありません。合衆国の有権者のみなさん、賢明であってください!
混合政体(mixed constitution)の要素を排して実現した大衆民主主義の危うさを見ているような気がします。そもそも共和党の「保守派」≒「良識派」の声はなかなか聞こえてきません!
  Washington Post紙のロゴのすぐ下には Democracy dies in darkness. と謳っています。

2024年5月27日月曜日

amazonを名乗るフェイク

複数の新聞のメーリングリストに入っているので、毎日何十と到来するメールのうち、たいてい1つはフェイクのフィッシュ・メールです。PCで受信しているかぎり、ヘッダー(の詳細)を見れば、即、可笑しいとわかるので、安らかな気持で(sine ira et studio)削除し、無視しています。ただし、今夕amazonを名乗ってきたメールは、(本当のamazonとヤリトリがあった1日後だったので)慎重に対処しました。

<以下、引用>
 From : amazon   ← これが怪しすぎる!
 To :<amazon宛に使用していないわがアドレス> わが氏名は知らず!
 Date : Sun, 26 May 2024 13:02 +0800
 Subject:[SPAM] Amazon.co.jpでのご注文503-0497156・・・・・
誰かがあなたのAmazonアカウントを使用して別のモバイルデバイスからこの注文を購入しようとしました。 Amazonのアカウントセキュリティポリシーに従い、Amazonアカウントを凍結しました。
◆アカウントが盗まれる危険性があります。 この注文を一度も購入したことがない場合は、24時間以内に以下のリンクをクリックして、この注文をキャンセルし、Amazonアカウントを復元してください。
[ ボタン ] ← 危険水域にて、さわらず!
 お届け先:横浜市青葉区美しが丘の、実在かもしれない方の住所氏名
 注文合計:¥37,000
 支払い方法 クレジットカード:¥37,000 
<以上、引用>

→ 最後の3行は微妙ですが、本当ならすくなくともカードがJCBか、MCか、VISAか etc.は表示し、末尾の4桁くらいの数字も示すべきでしょう。それを知らないまま、当てずっぽうで拡散したFAKE のフィッシング・メールと結論して、無視し削除しました。
みなさまも、どうぞ慎重に、安らかに!

2024年5月1日水曜日

衆院補選 東京15区

4月28日(日)の衆院補選について、話題の「東京15区」です。
マスコミは「立民3勝、自民3敗」とか言っていますが、「敵失」で勝っただけですので、驕らないでほしい。個人的には、むしろ選挙運動中に目撃した現象につき、たいへん憂慮していました。最終的な投票結果をみて、ほんのすこし安堵というか、まだ最悪の情況ではないかな、という暫定的な気持です。
ぼくが目撃したのは商業施設前での立ち会い演説における「根本りょうすけ」の妨害行為です。何百メートルも先から聞こえる大音響で、特定候補にからみ、執拗に妨害するのです。
たまたま地下鉄駅前で支持者を前に演説していた日本保守党(百田尚樹が代表、全員が富岡八幡宮のたすきを掛ける)の選挙カーにほとんどぶつかる勢いで、「保守党は戦争国家アメリカとイスラエルを支持している」と、この点に限れば的確に衝いて(!)、「論破した、どうだ、なにか言えるか」といった調子で、支持者たちには「そのじじい、ばばあ、言ってみろ」と罵倒する。
立憲民主党の宣伝カーは、近づく前に回避して他の方向へ向かったので、「おい立民、逃げるのか」と追って挑発する。ちょっとラップのリズムをまねたような調子で悪罵と威嚇(の大音響)を連ねて、聴衆・観衆を挑発する。ぼくは目撃していませんが、「都民ファースト」の乙武洋匡や「維新」への個人攻撃もすごいものがあったようです。
→ NHK  → 読売新聞  → 毎日新聞 
ようするに、ひとが選挙宣伝活動を続けられないように妨害し、かつ聴衆を威嚇しているだけなのですが、しかし、右を攻撃し、左にまとわりつき、小池都政を罵倒し、どういう政治的メッセージなのか、よくわかりません。無為無力の老人党をたたき、共民の連立を攻撃するというのは、よくある年金世代に反発する若者へのアピールなのでしょうか? 反米反中の国粋主義というトーンは他の候補にもうかがえるのですが、「論破」して対話の余地をあたえない、その攻撃性、威嚇性という点では他に類のないほどきわだちます。
公職選挙法における妨害行為 ⇔ 言論の自由、という争点で、裁判所の判決が言論の自由を優先してきたことが、警察の取締を抑制させている、との報道もありました。この点は、もっと分析的に正確に伝えてほしい。
トランプの政治姿勢にも似た、一種の民衆的・反知性的ファッショの要素がどれだけ許され、大衆的に受け入れられるのか? 開票結果がどうなるか、注目してフォローしました。東京15区では  → NHK
 酒井なつみ(立民)=49,476票が一位当選。
 その下に2万票前後で4人が団子にならび、最下位に
 根本りょうすけ(つばさ)=1,110票。
総計141,076票のうち、「つばさ」を名乗る泡沫威嚇グループは1%に満たなかった。とはいえ、千票以上も支持する者がいた。これは不健全な、見逃せない現象です。ナチスも合法的に、マッチョで威嚇的な運動によって勢力を伸ばしたのでした。

2024年4月20日土曜日

燕の巣

 ソメイヨシノの時期が過ぎて、八重桜が満開。ツツジも始まり、花々が美しさを競う季節だなと思いつつ、運河に添って歩くうちに、すばやく身をひるがえす鳥。これは、逃げる虫を追う燕(swallow)です。
であれば、あの巣に戻ってきたのだろうか? 近くの集合住宅の駐車場の天井脇に営巣された古巣を見に行ってみました。これは(よそのマンションなので委細は知りませんが)管理組合で大切にされて、床が糞尿で汚れるけれど、それは黙って掃除する、上の巣のあたりは汚れてもそのままに放置する、という方針のようです。
 夜に、つがいの燕が狭い巣に身を寄せあっている様子を(失礼!)パチリと撮影しました。こんなに狭くて、このままでは卵を産んでもあふれ落ちたりしないだろうか、それまでに「増築」するのだろうか、と心配になるくらいです。
 ところで、他の巣には燕はまだ戻ってきていないようです。慣用句で
  One swallow does not make a summer.
  Eine Schwalbe macht noch keinen Sommer.
とはよく言ったもので、英独ともに4月はまだまだ夏とは言えません。ところがフランス語・イタリア語の場合は
  Une hirondelle ne fait pas le printemps.
  Una rondine non fa primavera.
と言って、夏ではなく、春まだき、という感覚なんですね。
地中海に近接しているかどうかで、春か、夏か、といった季節感も違うということでしょうか。

2024年4月18日木曜日

マウリツィオ・ポッリーニ、その2

 じつはポッリーニ(ぼくの5歳上)の演奏については、感動していただけではありません。とりわけ近年は、おやっ、と思うことがなきにしもあらずでした。
 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、なんといってもS・リヒテルの録音(ザルツブルク、1972年~73年)があって、これがそれ以前の演奏すべてを上書きし(無にした!)、以後の演奏者はリヒテルとどう差別化するかで苦闘してきました。なにしろザルツブルク郊外のSchloss Klessheimでは、録音演奏中のリヒテルのピアノに感動した雀たちがリヒテルに唱和していっしょに歌ってしまった(!)、そのような歴史的な演奏です。
【ぼくにこの演奏の魅力=迫力を教えてくれたのは、名古屋の土岐正策さんでした。1990年代以降の再版CDでは鳥の唱和を雑音として消去してしまったので、聞こえません! ぼくはもとのLPレコードから、白黒デザインのEurodisk、瀟洒な日本ヴィクター、美しくない肖像写真のalto、RCA Victor Gold Seal とCDだけでも4つの版を持っていますが(同一の演奏なのに!)、それもこれも雀の唱和を求めてのことでした。ディジタル処理が容易になってしまった時代に、きれいに処理される以前のヴァージョンを求めての、むなしい探索でした。ちなみにグレン・グールドの我が道を行く演奏も、リヒテルという偉大な「敵」あればこその試行だったのでしょう。こんなことをいうと、天国の木村和男くんが嗤うかもしれない。】
 ですから、2009年にポッリーニの演奏で「平均律クラヴィーア曲集」の第1巻だけ、ドイツグラモフォンからCD2枚組が出たときには、ただちに買って期待して聴きました。しかし、なぜか先を急ぐような演奏で(リヒテルの正反対)、あまりくりかえし聴きたいという録音ではなかった。
 そして2019年6月、ミュンヘンにおけるベートーヴェン最後の3つのソナタ(2020年ドイツグラモフォン発売)です。先の日曜夜にNHK-E tvでポッリーニの死を悼んで再放送したのは2019年9月のミュンヘンにおける公演ですから、同年6月の演奏録音と基本的に同じ解釈・表現と受けとめてよいでしょう。 
これはしかし、77歳、ポッリーニ円熟の演奏というよりは、なにかに憤っているのか、時代を諫めるというか、厳しい表現行為です。テレビ画面で見ていても、表情はずっと硬くて、最後にも笑顔はない。あたかもリヒテルの(ロシア的?)ロマン主義に対抗し、グレン・グールドの(アングロサクスン的?)ego-historyを諫め、これこそベートーヴェンの理性と構成主義なのだ、と息せき切って説いているかのようです。彼の遺言でもあったのでしょうか。

2024年4月17日水曜日

マウリツィオ・ポッリーニ(1942-2024)、その1

 3月、イギリスから帰国した直前直後、衝撃の報はポッリーニ死去というニュースでした。
NHKの日曜夜の番組では、先週には初来日時のブラームス・ピアノ協奏曲1番(N響)、今週は30代の録画の断片いくつかに吉田秀和のコメントを加えて、最後に、なんと2019年ミュンヘンの演奏会における最後のピアノソナタを放送しました!
先に「ボクの音楽武者修行(1・2)にも書いたとおり、わが音楽人生は何も自慢できることのない、恥じらいで一杯のものです。演奏会にもさほど熱心に通っているわけではない。
 それがしかし、1994年の10月には幸運が重なり、テムズ南岸の Queen Elizabeth Hall におけるポッリーニ演奏会に行きました。曲目は、ベートーヴェンの最後のソナタ3つ。
10代には「悲愴」とか「熱情」とか「ワルトシュタイン」といった渾名のついた曲に惹きつけられていたけれど、年齢とともにそうした「若い」曲よりは、もっと成熟して、かつ知的に構成された曲を好んで聴くようになっていました。最後のピアノソナタ3曲は、晩年の弦楽四重奏曲の場合と似てなくもなく、ベートーヴェンの知的構成力と幻想的な心情(ロマン派の前衛!)が十分に表現されて、聴く人の心を揺さぶり、慰める。
(人生を70年+やっていると、こうした経験に恵まれているわが人生は、幸運に満たされている、と静かに想いいたります。)
 この夜の演奏会より前にぼくはポッリーニの「後期ピアノソナタ集」(1975年~77年に録音)のCDを持っていて、ロンドンにも携行していたのでした。
録音から17年を経て、52歳のポッリーニがどういった演奏をするのか。その夜の演奏会は、満場の期待を静かに十分な感動に変えたと思います。すでに30番(op.109)、31番(op.110)の後の休憩時間に洩れ聞こえてきた他の聴衆の反応もそうだったし、最後の32番(op.111)は、着席するやただちに力強いMaestosoが始まり、それまで穏やかに感傷的になっていた気持を揺さぶって、ハ短調(運命!)の最後のソナタ(といっても形式的にかなり自由な大曲)の宇宙にわたしたち聴衆を浸したのでした。
満場の拍手に促されるように、憑かれたように、ぼくは舞台脇から楽屋へと向かい、マウリツィオ・ポッリーニにつたない英語で感動を伝え、握手しました。
公演のあと楽屋まで押しかける、あるいはせいぜい廊下でご本人に挨拶する、といったことはあまりできないぼくですが、このときは何故か自然に突き動かされるようにそうしたのでした。
 じつはその半年後、1995年の初夏、今度はアルフレート・ブレンデルがやはりテムズ南岸の Queen Elizabeth Hall で、同一のプログラムで演奏しました。やはり知的なピアニストで 1970年~75年の録音CDを持っているぼくとしては、大きな期待をもって出かけたのですが、なぜでしょう。長い日照に邪魔されて(?)、会場もぼくも集中できず、やや散漫な印象に終わってしまった夜でした。むしろメンデルスゾーン的な「夏至の夜の夢」でした。
 先の吉田秀和さんの評によると、ポッリーニは知的な構成力が勝ちすぎて、たとえばシューベルトの幻想的なソナタを弾くときには(吉田さんの求める)即興性・幻想性に不満が残る、ということらしい。そこには知性と感性の二律背反が前提されているかに見えますが、どうでしょう。少なくともベートーヴェンにあっては、両者は背反しない、理知と感情が矛盾なく合わさって表現されるのではないか。ポッリーニこそ、その点で最適の演奏者=表現者なのではないか、と思います。

2024年4月10日水曜日

現代のシャリヴァリ

3月の土曜にウェスミンスタの国会議事堂・貴族院脇を歩いていたら、にぎやかな音声が響く‥‥と思ううちに、Millbank通りの南から数百人のデモ行進がやってきました。
先頭の横断幕には
 LGBT+ against Racism
続いて
 No to Islamphobia
 Refugees Welcome Here
 Smash the Far Right
 Freedom for Palestine   などとあり、
 Socialist Workers Party や UNISON などの組織名も見える。
土曜の午後に議会の周辺で「極右」に反対するデモンストレーションということでしょう。
メガフォンにあわせてシュプレヒコールもあるけれど、圧倒的なのはなにかの金属用品とドラム(鉦太鼓)をたたいての大音響。これになんらかの笑劇パフォーマンスが加われば、シャリヴァリそのものだなと思いました。
各グループのゆるい連携による行動かと思われます。警官隊も同行していますが、交通整理とトラブル防止のためでしょう、威圧的な風はなし。

2024年4月6日土曜日

マーチモント街

3月、ロンドンの宿の近くには Marchmont Street というのがあって、学生、インテリ、外国人向きの空気があります。初めてここに馴染んだのは1981年でした。ロンドン大学歴史学研究所(IHR)で4泊5日の院生セミナー「ロンドン史料指南」があり、この通りの北、Cartwright Gardensにある学生寮 Hughes Parry Hallに泊まり、南西の Russell Square を経由してIHR、つまりセネットハウスまで通ったのが始まり。
その後も、交通の便がよく、安宿、古本屋、ある時期はコピー屋、貸しPCといった便宜のためによく来たものです。バングラデシュをやってた人文地理の人に連れられてベンガル料理の店に来たこともあるし、そもそもロンドン大学の先生方御用達の North Sea もこの北にあります。フィッシュ&チップスといっても、労働者用の持ち帰り[take away]と中産階級用のテーブルで食べる尾頭付きとは、入口も違うのだとは、ここで初めて教えられました!
Cartwright Gardens にはその名の由来の John Cartwright(1740-1824)の立像と、さらにこの地域の来歴を示すボードができています。

今回、ぼくがこのマーチモント街を急ぎ足で通過して、北のBL(国立図書館)に向かうところをNさんが目撃したとのことです。また別の日曜には周辺を早足で散歩した折に、「日本人だろうか、いや見覚えがあるような‥‥」と悩みつつ通り過ぎてから振りかえると、先方も振りかえって、「なんだM先生ではないか!」といったこともありました。
地下鉄ラッセル・スクウェア駅と旧国鉄 St Pancras/Kings Cross駅にはさまれた地区なので、日本人の利用者も少なくないのでしょう。近代史をやっている者には限りなくおもしろい地区です。
その一つの例として(先のカートライト兄弟のこともありますが)マーチモント街から一つ筋違いの Judd Streetの61-63番には、1848年後に亡命してきたゲルツェン/ヘルツェンの居所として青い銘板=ブループラークがあります。【このプラークという語は日本語では「歯垢」という意味しかない!というので、『図書』では使用を牽制 → 抑制されてしまいました!】
今は Marchmont Stにあって営業しているJudd Booksという古書店も、20世紀には元来のJudd Stにあって広く、行くたびに収穫があったものです。今、その跡は全然別のカフェ - Half Cup Cafe, Kings Cross - になっていました。
【ちなみに、以前はマーチモント街/あるいはUCLまでUSBを持っていって紙にプリントしたものですが、今やそうしたPCやプリントの店は見あたらない。じゃあどうするんだ、と心配していたら、今では宿の受付にメールでPDFを添付して頼めば(10数枚までなら、カラーでも)無料でやってくれるのでした。時代も変わりました。】

2024年3月31日日曜日

男女比

男女のことを言えば、同じオクスフォードでも、あのベイリオル学寮のホール(食堂)に行って、これまた一驚/一興。
先回にお邪魔したのは、たしかオブライエン先生、オゴーマン先生と一緒の2004年でしたか?

今回のホール壁の肖像画ないし写真ですが、過半を占めるのは、女性のフェロー、事務職員です。人数だけで比べたら、まったく女性が圧倒しています。まるで女子大みたい。いえ、日本の女子大は、学生は女子だけかもしれないが、教職員の半分前後は男性ではないでしょうか。2024年のベイリオル学寮ホールの壁面をかざる21世紀のフェローたちは、女性ばかりなのです!
中世のウィクリフ、19世紀末のジャウィト、20世紀の A L スミス、そして C ヒル、C ルーカスといった名にし負う学寮長たちは、一隅に押しやられています!

2024年3月30日土曜日

大学のダイヴァーシティ

オクスフォード大学の歴史学部は、むかし(2000年前後)は Broad Street の一番奥に位置し、Clarendon BuildingやNew Bodleian(今回、Weston Libraryと改称されていて、びっくり)を左右に控えて、いかにもオクスフォードの学問の中心(蘊奥)といった気配でした。いつのまにか、駅に向かうにぎやかな George Street に位置する(昔の Boys Schoolの)建物に移転しました。狭くなった分、図書もほとんどは Radcliffe Camera の開架に置いているのでしょうか。
じつは3月14日の共和政ワークショップで初めて移転後の歴史学部の建物に入ったのですが、こぢんまりして悪くはないが、トイレを拝借して、一驚/一興!
男女別がなく、すべて共用なのです。
すでに新館が建築中で、Humanitiesとして、もっと落ち着いて余裕のある環境に2年後には移り開館するとのことです。トイレも今の原則でゆくのかな?

2024年3月24日日曜日

またもやカメラ問題

3月のイギリスは案の定、天気は悪いがあまり寒くはなく、水仙も桜も咲きそろい、朝夕にブラックバードは歌い、リサーチおよびワークショップには悪くない環境でした。
帰国したばかりで、まだ時差呆けです。これからいろいろと書こうと思いますが、まずは昨9月に続いて、またもやカメラで冷や汗をかいた話を。話は長くなります。

帰国の直前の3日間はケインブリッジ。大学図書館の文書室、稀覯本室でじつに効率的に仕事ができました。文書室ではアクトン文書と、Peter Laslett文書。とにかく写真を何百枚と撮ると、半日で充電は切れてしまうので、小型軽量のキャノンを2器、それにスマホ、と計3台のカメラを携行していました。
最終日は、夜にはLHR出立なので、時間を有効に使うため、文書はすでに前日に注文し、閲覧できるものを特定。稀覯本は夜に(CULでは iDiscover というあだ名!)インタネットシステムで注文。
どちらも朝イチに行っても、これから作業開始ですとか言われかねないので、まずは開架(North Front)にある3冊ほどのアクトン書簡集の所へ急ぎ、特定ぺージを撮影。 次いで、西1階の稀覯本室でメアリ・グラッドストン関連の稀覯本とご対面。ここで予期を越えて貴重な写真を発見し、撮影しました。
最後に西3階の文書室に移動して、待っていてくれたラスレット文書のファイルを速読。この人は(日本の学界ではいささか低い評価ですが)、ロック研究・17世紀研究で失意の経験をしたあと、1964年からケインブリッジ・人口家族史グループの創建にあたるより前の時点では、BBC放送と学内政治にかなり関与していたようです。70年代の日本来訪のことも記録されています。そのとき松浦先生たちと一緒にぼくも会いました。
ただ今のぼくとしては、そういったラスレットの学問遍歴よりも、1961-62年のケインブリッジ歴史学Tripos(学位修得コース)改革にかかわる論議こそ見たかったのです。9月に旧友JWが、何かあるかもしれないよと示唆してくれたので、今回、見てみたのですが、大収穫。
『歴史とは何か 新版』ではあたかもカーの講演と出版がカリキュラム改革の先鞭をつけたかのような傍註を付けましたが(pp.139, 252-255)、むしろ1960年から歴史学部を賑わしていた改革論議が前提にあって、カーは経済史や非イギリス史系の人びととともに改革派の旗色を鮮明にした、これに対してエルトンを先頭にイングランド史の先生方の国史根性が顕著になる、ということのようです。カーも62年に長い意見書を提出していますが、エルトンはやはり長い意見書を2度も出して、イングランド史以外を必須にすることは有害で、なんの益もない、と力説します。
ちなみにハスラムのカー伝(Vices of Integrity, 1999)にもこのカリキュラム論議は出てきますが、まだ Laslett Papersは寄託されてなかったので(ラスレットの死は2001年)、史料典拠は明示されぬまま伝聞知識として述べられています。まだ未整理で not available な部分が大半のラスレット文書ですが、これから大いに利用価値のある集塊だといん印象です。

昼食にはJWから呼ばれているので、後ろ髪を引かれる思いながら、今回の調査探究=historiaは12時過ぎに中断。荷を置いていた Clare Hall に急ぎ戻り、タクシーでJW宅へ。
庭に面する明るい部屋に、おいしい北欧風ランチとウォトカ(!)が待っていました。
彼は学部はケインブリッジ、大学院はクリストファ・ヒルのもとで学びたく、ヒル先生には面談して受け入れてくれたのだが、オクスフォードの大学院委員会を仕切っていたのは欽定講座教授 Trevor Roperで、ラディカル学生として知られたJWを容認せず、「ラディカル活動家の鼻面をぶんなぐり」『新版』p.263、不合格としたのでした。【学部生の入学は学寮、大学院生の入学は全学委員会で決めるので、こういうことになるのですね。】
その後は、JWが駅まで送ってくれて、夫人はプールへ泳ぎに。
14:14発の快速で Kings Cross、パディントンから Elizabeth Line 15:54発でヒースロウ3へ、と順調に移動できました。チェックインも問題なし。面倒な securityも通過して、ふーっ、2時間も余裕があるぞ、と免税店に向けて歩き始めて、気がついたのです。腰のカメラがないではないか!

セキュリティに入るとき、身ぐるみ、電子機器、時計、財布、金属的な携行品など、トレイは3つに分けられてしまって、こういうのは混乱のもとで、嫌だなと思ったのが、そのとおりになったわけです。急ぎ戻って係員に交渉しても、どこのレーンだったか、と尋ねられ、似たようなレーンばかりで、何番なんて記憶していません。係員は、そもそもぼくが勘違いしているんじゃないかと疑う態度で、ぼくの背の鞄をスキャンさせろ、という。
ほら鞄の中にカメラがあるじゃないか、と彼はいうのだが、あなたね、ぼくはリサーチのために小型カメラを2台、スマホを1台、携行しているのですよ。そのうちの1台、腰の黒い小ポーチに入れたキャノンが、ポーチごと、見えなくなっているから声をあげているのです。この2週間のリサーチの収穫の大部分がこのカメラの中に収まっているわけで、-- たしかに「万が一」に備えて、じつは数日前にカメラのSDカードをコンピュータの記憶装置にコピーしたけれど、しかし、この3日ほどの撮影部分はまだコピーしていない。すなわちケインブリッジでの収穫は無に帰してしまう!
20分ほど押し問答して、こんなことありえない!と絶望しかけて喉はからから。そこに、 Hey. Is this yours? とおばちゃんが黒い小ポーチを掲げてきた。どこかに紛れていたようです。
皆さんも空港の security では、どうか最大限に集中して、ご注意を!

2024年3月10日日曜日

バーミンガムの誇るもの

(そもそも最初に家族で訪問したのは82年でしたが)去年9月に来たときも再認識せざるをえなかったのは、バーミンガムって起伏の多い/多すぎる街だ、ということです。それが運河網とあいまって、丘の上の非国教徒の街(「丘の上のデモクラシ」!)、を形成する地理的根拠になったのでしょう。
そのバーミンガム市の誇るのが、市長にして19世紀自由党の大物チェインバレン(日本で誤ってチェンバレインなどと表記されていますが)、グラッドストンの盟友、ビアトリスの恋人でした。
バーミンガム市の Victoria Squareに次ぐ広場には彼の記念碑が雄々しく建っています。
大学の初代名誉総長(Chancellor)でもあったので、大学駅に大きな写真と碑文があっても当然ですね。ビアトリスは結婚前だけでなく結婚してベアトリス・ウェブとなってからも、彼のことを想うと、胸を焦がしてしまった。そのことを正直に日記に告白しています。今でも知的女性にとって、魅力的な中年男性でしょうか? 彼の息子オースティンがロカルノ条約でノーベル平和賞、もう一人の息子ネヴィルが宥和政策の首相となりました。
さらにバーミンガムは現代都市としての diversityを表明したいのでしょう。黒人やインド人、ムスリムばかりでなく中国人も定着していることの一つの証に、China town(唐人街)があります。

→ 帰国しました。写真をアプロードできる環境になり、遅まきながら、バーミンガム関連で2葉、ご覧に入れます。

2024年2月26日月曜日

門司駅遺構 緊急シンポジウム

世の中で心配なことは少なくありませんが、とりわけ合衆国の大統領選挙の行方は、予断を許しません。このままでゆくと、トンデモナイこと、だれも予想していなかった民主主義の自己破壊、反知性主義の跳梁(ナチスより凄い)に至りそう。とはいえ、米国民でないぼくとして、何一つできないのがもどかしい。
 それとは対照的に、昨24日(土)に北九州市の会場とZoomで結んで行われた「九州鉄道 初代門司駅関連遺構の遺産価値を考える」という緊急シンポジウムは、これまでの各方面のご尽力があってこそですが、微力ながら関与できそう、という感覚がえられて嬉しかった。
都市史学会としても積極的に関与して、現会長・元会長たちの具体的な話がありました。現地の発掘調査の成果については、じつに知的でおもしろかったし、歴史的遺構の保全にかかわってきた経験豊富な方々の発言には、たくさん教えられました。
Youtubeをご覧ください。 → https://www.youtube.com/watch?v=6C8xyehZcTM
全部で3時間18分です。最初の30分近くは開会前の準備過程が録画されたものですが、定時開場したあとの部分はきわめて有益です。
ぼくも、2時間23分経過したあたりから発言し(最初は画面共有云々でもたつきましたが‥‥)マンチェスタ市の「リヴァプールロード駅」(1830)、その倉庫(1830)、科学産業博物館(MoSI)、近隣の「ブリッジウォータ運河」埠頭、ローマ遺跡の一帯の一体保全(integrity)についてお話ししました。
今後は、北九州市、福岡県、国へのはたらきかけと交渉が本格化しますね。