2018年8月22日水曜日
教養主義とデモクラシー
教養主義といえば、講談社現代新書(今年2月刊)の『京都学派』pp.224-226 には、教養主義について(も)恐るべく、ええかげんなことが記されています。著者、菅原某とはぼくの知らない人。
そもそもこの新書には、近代日本の重要な思想家の氏名と生没年、経歴は列挙されているが、著者自身の表現によれば「言うなれば「師」を外側から観察して「師」の教えをつまみ食いして満足する手合いのもの」p.225、と。そこまで自分のことを認識して書いていたんですか!?
この菅原某さんは哲学はかじっていても、そもそも歴史的に考えるということができない人のようで、せっかく『世界史的立場と日本』および『近代の超克』における高山岩男と鈴木成高と河上徹太郎の間の「二つの近代」あるいは「近世」と「近代」をめぐるズレ・対立に言及しながらも、なにか意味ある論理が構築されてゆくわけではない(pp.124-137)。長い引用が続くだけです。
教養主義/教養を語るより前に、自分で観察して調べ、自分の頭で考える、といった習性が、まったく身についてない人、あるいは、そんなことに意味があるの? といった時代・世の中に、ぼくたちはいま包囲されているのだろうか。トランプ現象/フェイクニュース現象は、合衆国だけの問題ではありません。というより(教養市民の核なき)デモクラシーの危うさは、トクヴィル以来、早くから予言されていました。
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