2018年12月9日日曜日

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続 2


H先生「[長い文の最後に]‥‥私は18世紀末までを「近世」とし、以後を「近代」とするのはフランス革命の過大評価ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。」

¶‥‥フランス史のH先生にしてこのコメント! そうでした。時代区分という点では、迷ったあげく『近世ヨーロッパ』では完全に割愛しましたが、宗教改革でもなくフランス革命でもなく、歴史をきわめて長期でとらえて18世紀半ばくらいを「鞍のような時代」(Sattelzeit)と考え、その前後を分けるドイツ史の議論を、もうすこし討論すべきでした。
想い起こせば、旧『岩波講座 世界歴史』(1968年刊行開始)でも、おそらくは柴田先生の提唱で、18世紀末のフランス革命・産業革命ではなく、18世紀初めの啓蒙/カルロヴィッツ後の東西関係でもって「近代世界の形成」(第16巻まで)と「近代世界の展開」(第17巻以降)とを分けようとしていたのでした。アジア史との連結部でちょっとズレが残っていますが。

Kさん「‥‥本書の語り口は、『民のモラル』ではなく、『イギリス史10講』のそれであると思いました。‥‥『イギリス史10講』において非常に顕著だった用語・訳語の原理的な解説と言い換えは、本書でも随所にちりばめられていて(近世、近代=今様/当世風、新旧論争、人文主義、カトリック、公共善、イギリス革命、諸国家システム、啓蒙=文明開化)、また、世界史教科書の諸項目を相当に意識した構成とあいまって、想定読者の多くを占めるであろう高校世界史・日本史教員にとって親しみやすくかつ非常に有益な副読本として、この上ない仕上がりだと感じました。
世界史の「常識」を硬軟取り混ぜて、さらりと転倒させる筆致も『10講』以来のものだと思われます(ヘンリ8世は「セクハラ君主」ではない、『君主論』は「なんでもあり」の推奨本ではない、など)。
歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つものであるとの確信から書いておられるであろうことがひしひしと伝わってきました。そして、(『10講』でも感じたことですが)お書きになるものから、一種の歴史哲学的志向が透けて見えてくるようになってきているとの印象を抱いています(グローバル状況を背景/ネガにして可視化される、モラルと秩序を軸にしたヨーロッパ近世的なるもの)。
 今ちょうど、時代区分に関して考えている最中で、なおのこと本書の歴史哲学的な面を深読みしすぎたのかもしれません。」

¶「歴史の用語(訳語)の深い反省そのものが問題発見的な意義を持つ」ということは、内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書)あたりから学んだ大事なことだと今も思います。それが歴史哲学といえるほどの質を備えているかどうか分かりませんが、歴史的に考えるよすがであり、調べるに値することです。(およそ言葉に鈍感な人の文章は、読むにたえませんね。)
 なおマキャヴェッリの思想史的重要性とともに、その議論にジェンダー的含意が隠されているというヒント【運命という女神の髪は前にしか付いていない;(virtu)とは本来、男らしさ、男気、力強さ‥‥】をくれたのも、内田の『社会認識の歩み』でした。

 皆さんのおかげで少し自分を相対視できます。ありがとうございました。

『近世ヨーロッパ』(世界史リブレット)続


 この本が出来上がったことにより、ぺージをめくって速やかに前後を参照しながら読みやすくなって初めて気付かされる欠点・難点も、じつはあります。校正中に気付かなかったのは恥ずかしいですが、にもかかわらず、良き読者の良き評に恵まれて、幸せです。以下の方々ばかりでなく、皆さんに感謝しています。

Yさん「‥‥「高校世界史」の近世の前半と後半の2つの章にあたるヨーロッパ世界を、もっと大きな視野をもって、また、高校教科書では許されないと思われるような大胆な筆致と、個別事例の印象的な使い方で描いておられます。」

Hさん「‥‥私はリブレットのようなものをまだ書いたことがありませんが、なるほどこのような筆致で書くものなのか、と惹き付けられながら読んでいるところです。ときに先生の肉声が聞こえてくるような一節もあり、楽しみながら読んでいます。」

K先生「‥‥いろいろな出来事が重なりあいながら15・6世紀からフランス革命期まで発展してゆくヨーロッパ史をこれだけのわずかな紙幅にうまく収めるのは大変ご苦労があったことと思います。そこで、目次はきわめて簡潔に抽象的な語彙を並べて構成されることになったのだと思いますが、これを見て全体構想を掴み取るには、ある程度の歴史の素養が必要だろうという気がします。これだけ見ると難しい本だという印象を与えると思います。
中身を見れば、多くの固有名詞や礫岩国家というような新しい概念が出て来はしますが、かなり具体性があります。が、これを読みこなすのにはやはりある程度の素養が必要だろうという気がします。全体的にはかなり高度な書物だと思います。
でもよく書けているのではないでしょうか。これは紹介程度ではなく、真っ向からの書評に値する書物でしょう。」

Iさん「‥‥まずは表紙の絵に強い衝撃を受けました。じっくり拝読いたしますが、政治社会をめぐるこれまでの考察にくわえ、ヨーロッパ規模のみならず、世界規模の時代像についての議論も打ち出され、全体として組み合わされているようで、実に密度の濃い本であるとの印象を受けています。表紙の図版、さらには『百科全書』の日本語アルファベットの写真など、これまで私たちが見てきたナショナルな文化空間に閉じこもった日本像自体、近代以降のナショナルヒストリーの語りでつくられてきたものだということなのだと思います。それを解体して新しい像を提示するという使命は、日本史研究者だけではなく、むしろ西洋史研究者こそが担わねばならない、という気概のようなものを感じました。」

2018年12月1日土曜日

レパントの戦い

Mさん、
『近世ヨーロッパ』(山川出版社)について、早速にご関心をもっていただいてありがとうございます。
ご指摘のとおり、表紙には「レパントの戦い」の屏風絵を用いました。10年ほど前に Biombo (屏風)という展覧会がサントリー美術館であり、見てビックリしたものです。同時に展示されていたカール5世やフランソワ1世(かもしれない)武将の群像も含め、それ以来、いつかどこかで利用したいと考えていた材料です。

ヨーロッパ(ろうまの王)軍とオスマン帝国(とるこ)軍の戦闘を、1600年前後の日本で屏風絵として製作していたという事実がまず興味を惹きます。また戦国から徳川最初期の日本において、屏風絵という美術品がもっとも価値ある贈り物、輸出品だった、ということも、あまり広くは知られていない。家康のブレーン以心崇伝の『異国日記』を読んで気付かされることです。1613年、イギリス東インド会社のセーリスにたいして「日本国 源家康」が「イカラタイラ国主」への御朱印状とともに(おみやげとして)もたせたのは「押金屏風 五双」でした【『ヨーロッパ史講義』p.103】。

世界史リブレットですから(本文はたったの88ぺージです)、あまり立ち入って詳しく書き込めないのですが、
1) 近世という時代それじたいを問題として呈示し、
2) 各国史の叙述、とりわけフランス史中心史観を相対化し、
(副次的に、帝国礼賛史観にももの申し、)
3) またヨーロッパ史とアジア史・日本史との関係性(の大転換)を明示する、
(そうしてはじめてポンパドゥールのインド更紗画、そして産業革命が理解可能となる!)

というのが、本書に自ら課したミッションでした。

本体価格たったの729円で、近年の研究動向をふまえた政治社会史・(躍動する)国制史・文明史の成果を簡便に示す。しかも、引用されている歴史家は、ランケ『ロマンス系諸国民とゲルマン系諸国民の歴史』に始まり、ホブズボーム『革命の時代』で締める、というのも、ちょっとだけ、おもしろいでしょ!

2018年11月24日土曜日

大久保の街路樹は まだ青々


 23日(金)午後、大久保(北新宿3丁目)の柏木教会、大庭健さんの告別式に参りました。
 キリスト教(プロテスタント)の式と、告別の辞のアカデミックな弁論が、微妙な関係だなと思うのは、ぼくが無信仰(「祭天の古俗」派)だから? おぼろげな記憶ですが、まだ駒場時代のある夕刻のこと、ウェーバー『古代ユダヤ教』を読み合わせていた会で、霊や信仰をめぐって「不条理なるがゆえにわれ信ず」という立場をもちだした(年長の)あるキリスト者にたいして、大庭さんは慎重に言葉を選びながら「ぼくたちは啓蒙より後の合理主義的信仰だから‥‥」と語ったのが想い起こされます。 最期の日には、聖書の一節を読み、賛美歌を歌って、夜静かに死を迎えられたということです。
 おそらくは60代半ばの遺影がすばらしくて(ぼくの知っている大庭さんです)、悲しさより嬉しさが募りました。
 ご本を26冊も出版なさったと今日うかがいましたが、最後の書は執筆8割ほどで筆を折るしかなかったとのこと。無念だったでしょう。
 階下の懇親会では『私はどうして私なのか』『善と悪』を担当したという岩波書店の編集者とお話ししました。遅筆のぼくとしてはなおさらに、お約束の『映画と現代イギリス』も含めて、せめてあと4冊を書き終わらないまま時間切れ、アウト、というのは、耐えがたい。きっと見苦しい臨終となってしまうでしょう。

 若者とエスニシティの溢れる大久保駅界隈ですが、柏木教会の中は静か、脇の街路樹は11月下旬というのに青々していて、生命力をうかがわせます。初冬のおだやかな午後、そのまま帰路に就く気持になれず、百人町の住宅地からグローブ座、高層マンション群、西戸山公園から高田馬場まで、ゆったりと歩いてみました。

2018年11月23日金曜日

コングロマリット(国際複合企業)のゆくえ


ゴーン・ショックと言ったらオヤジ・ギャグめいた響きもありますが、なんと NHK World では
Nissan's Ghosn is gone
といった見出しで報じています!
歴史における礫岩のような政体をテーマとしてきたぼくとして、今回の conglomerate「日産・ルノー・三菱自」の事案、そしてこれからの展開には大いに想像力を刺激されます。
オクスフォード大学の博物館に展示されている礫岩の標本を『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)のカバー表紙に用いましたが、これはポルトガルで採取された岩の断面でした。それで、「ポルトガルから独立したブラジルに生まれ、レバノンで育ったフランス人、カルロス・ゴーンが社長を務める国際複合企業「ルノー=日産」をみる場合にも、示唆的」なんて文をしたためています(p.16)。当時はまだ三菱自は加わっていませんでした。しかも、彼の学歴をみると、パリで Ecole Polytechnique (1974) についで Ecole des Mines de Paris (1978) を修了しているというのが、なんとも礫岩的でおもしろい。

報じられているところでは、
a.個人的な報酬や利権といった法律的な問題とならんで、b.ルノー・日産・三菱自の間の「アライアンス」(連携・関係)のありかたについて(こちらは法的には問題なし)、ルノーおよびフランス政府から現在よりも一体化した経営への転換が示唆されていたとのこと。概念図は、22日深夜の www.nikkei.com によります。 

だとすると、今回の事案は、
a.ただ経営者(会長)としての私利私欲や背任の問題にとどまらず、むしろ b.現在の同君連合的なコングロマリット(礫岩アライアンス)を、ルノーないしフランス政府主導の中央集権(一君万民の単一国家)へと転変させる動きにたいして、日産側から造反した、ということなのではないでしょうか。
b.のほうが日産にとっては、いったい良い日産車をつくって売る、利益を上げるのはフランス国庫およびフランス国民の為なのか、という気持的に重要な問題なのだが、しかしこの論法はグローバルな取締役会でも日本の司法においても、見解の相違(好き嫌いの問題)として片付けられてしまう。より法律的に責任追及しやすい a.を前面にたてて司法にタレコミ、(ゴーン、ケリ以外の2人のフランス人を含む)取締役会に解任を提議して通した、ということでしょう。

あたかも豊かで勤勉なカタルーニャ人が、なんで高慢ちきで口ばっかりのカスティーリャ人と同じ国で一緒にやってゆかねばならんのだ、と異議を申し立てているのと同じ問題ですね。礫岩のようなアライアンスで微妙なバランスをとってきた礫岩君主ゴーンが monarch (ただひとりの君主)として会長職を務めていること自体は、ことがうまく機能しているかぎりだれも問題にしません。しかし、a.ゴーン会長は、日産という企業が製品や品質管理上の瑕疵でマスコミの矢面に立たされているときに我関せずで家族レジャーにいそしんでいた;さらには b.フランス政府ないしルノー側の意向を体現してアライアンス(連邦主義)ならぬ一体化(中央集権)に向かっているようだとすると、これにはクーデタでも司法取引でも可能な手段で抵抗するしかないのですね。

日産はスペインにおけるカタルーニャ、連合王国におけるスコットランド(をいま少し強くした存在)、
ルノーはカスティーリャ、あるいはイングランドのような存在とたとえれば良いでしょうか(三菱自は北アイルランド?)。今秋から、そのルノーがあたかも imperial な意思(支配欲)を内々に表明した or そうした動きを日産の幹部が感知したことで、一挙に事態が動き出した‥‥。不十分な情報ながら、そう推測しました。

2018年11月18日日曜日

絶対王政? アンシァン・レジーム? 近世という時代の主権国家

 『史学雑誌』10号で山﨑耕一さんの仲松優子『アンシァン・レジーム期フランスの権力秩序』(有志舎、2017)にたいする書評を読みましたが、最後の近くに(p.98)「いわゆる「コップの水が半分なくなったか、半分残っているか」の論争に近いように思われる」という名言がありました。これでちょっと重たい書評文が明るく締まりました。
その直前直後に入江幸二『スウェーデン絶対王政研究』(知泉書館、2005)を読んでいて、こちらはカール12世の即位儀礼(1697年)の特異性を明らかにしていておもしろい。しかし13年前のお仕事ということもあって(?)「主権」の主張が即「絶対主義」に結びついてしまう趣き。p.14における「絶対王政(絶対主義)」の定義も、いわば「君主政をとる近世主権国家」の特徴を述べているに過ぎないような気がします。
 かくも山田盛太郎の『日本資本主義分析』における absolutism/absolutisme/Absolutismus/天皇制絶対主義[という語が使えないので、様々の形容を用いる]の範式=のろいが、そうと自覚しない若い世代にも、戦後民主教育によって血肉化しているのです! コミンテルン・日本共産党とともに(隠れ)二段階革命戦略をとる方々ならともかく、そうでない立場から自由に、歴史的に考えようとする人なら、「絶対主義」「絶対王政」のいずれの語も、自己欺瞞か目潰しの効果があると意識したほうが良い。
 とか思いながら『史学雑誌』の巻末・出版広告を眺めていたら、なんと、一番最後の左下に、近世ヨーロッパの広告があるではないですか。96頁、本体729円とのこと。ただし、ぺージはどこからどこまで数えるのか、ぼくの見たところ92ぺージというのが正しいような気がします。宣伝文句も3行ばかり見えますが、これはぼくがしたためた文のほぼ半分の短縮形。元来は(縦書きで)こうでした。
 ≪表紙の絵は一五七一年、レパントにおけるスペインなど連合軍(左)とオスマン帝国海軍(右)との戦いを、想像により描いた日本の屏風絵である。裏表紙の肖像画は一七六四年、インド更紗を着たフランス貴婦人を描く。十六世紀から十八世紀の間に、ヨーロッパの政治・経済・文化は、そしてアジアに対する関係はどう変わったのか。ルネサンスと大航海の時代から、戦争と交流と学習を重ね、啓蒙と産業革命にいたる近世の三〇〇年を、ヨーロッパだけでなく世界史の変貌として見てゆこう。
 というわけで『近世ヨーロッパ』は写真のような装丁です。まもなくお目にかかります。

2018年11月8日木曜日

東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男

和田英二『東大闘争 50年目のメモランダム:安田講堂、裁判、そして丸山眞男』(ウェイツ ISBN 978-4-904979-27-3)という本が到来。

和田といえば、中学・高校・大学と一緒だった男だ。かっこいいヤツで、裕次郎どころじゃない、言ってしまえば、日本のアラン・ドロン。高校の世界史で「人権宣言」を習った直後には、兄貴に教わったに違いないが、フランス語で
Déclaration des droits de l'homme et du citoyen
と手書きしたシャツを着て校舎内を闊歩して注目されたりした。そもそも白や薄青じゃないデザインしたシャツを着用すること自体が問題だった! だが、60年代の高校は不思議なところで、彼がそのような格好をしたり、ぼくが体育の授業をずっとさぼって図書館にいたり、Kという男が、学校の授業は意味がないというだけの理由で年間100日以上出校しなくても、一言注意されるくらいで、学業成績さえ問題なければ、黙認されていたのだ。学業主義のもたらす自由!(Kのほうは、B. ラッセルのような数学者になるつもりで東大理Ⅰに入学。しかしまもなく佐世保、羽田、三里塚と駆け回る活動家になった。東大闘争では党派の指導部にいたから、あまり本郷に顔は出さなかったと思われる。)

和田は東大文Ⅰに入学してからも、やはりノンポリのアラン・ドロン風の生活を送っていたが、1968年(法学部3年)のある日から法闘委(全共闘)に加わり、翌69年1月19日に安田講堂内で逮捕され、起訴され、裁判で有罪判決をうけた。刑務所を出るとき、高倉健の出所のようにかっこよくはいかないな、と考えていたら、なんと「門の向こうに、黄色いハンカチを手にして、K子が立っていた」p.161 とまるで映画みたいな場面がいくつもあります。

本は2部に分かれ、第一部「安田講堂戦記」はぼくも知っていること、体験したことが少し、知らないことが沢山。「文スト実」と「法闘委」のちがいはあまりに大きい。
具体的には、またいつか分析的に述べますが、たとえば19日午後の安田講堂の中で、闘いも止み、いよいよ逮捕される直前に、法闘委のメンバー20名(と周辺の学生)には
「すぐに機動隊がきます。若い隊員は興奮しているでしょう。殴られたり蹴られたりするかもしれません。しかし、そのうち上級の隊員が来て収めます。それまで抵抗してはいけません。彼らは殺気だち、諸君はますますやられます。」
「逮捕されてから48時間以内に送検されますが、そこで釈放されることはないでしょう。検察官は必ず24時間以内に裁判官に勾留の請求をします。それから勾留裁判がありますが、そこでも釈放されないでしょう、裁判官は必ず10日間の勾留を決定します。そしてまた10日間延長するでしょう。身柄の拘束は全部で23日、それでも終わらないかもしれません‥‥」(pp.93-94)
といった正確なインストラクションが司法試験勉強中の学生からあったという。自分がどうなるか、予測がついて長期勾留されるのと、いったいどうなるのか霧の中、というのとは全然ちがいます。
その後の「司法制裁」の具体相と、警官や司法役人との出会いについても印象的な記述があります。和田本人については、司法側のかなりイージーな予断と誤認によって地裁で実刑判決をうけ、控訴審=高裁でも認定はそのまま本質的に継承され(地裁判決を否定することなく)、執行猶予を付けてケリとしたという。

第二部は、「丸山教授の遭難」と題して、例の1968年12月23日、法学部研究室封鎖のときの丸山眞男の言説をめぐる伝説の真偽、そしてこれが虚偽でなくとも不正確なことは明らかなのに、なぜ誤報が友人や弟子たちによって異議申したてられないままなのか、この不思議を分析します。
「‥‥「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」と言う丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。」(毎日新聞、翌日朝刊) ⇔ 他の新聞にはない記事! しかも、『毎日』は他のニュースソースから文章を流用したうえ、「ファシスト」を「ナチ」に変えてしまった(pp.203-209)。
吉本隆明によれば、「新聞の報道では‥‥丸山真男は‥‥〈君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎しみはしない、ただ軽蔑するだけだ〉といったことを口走った。」(『文芸』3月号) ⇔ 『毎日』と伝聞にのみ依拠した記述。

じつは当時から(ぼくの場合、毎日新聞か吉本か、どっちを読んだのか判然としないけれど)「ナチもしなかった」という表現に強い違和感がありました。ナチスは大学研究室の封鎖や狼藉にとどまらず、ユダヤ人や自由主義者を肉体的に殺害し、その出版物を焚書したのだから、そしてそのことは歴史をちょっと学んだ人なら誰でも周知の事実なのに、本当に丸山教授はそんなナイーヴな発言をしたのだろうか、そこまで激情にかられて(?)基本的な知識まで吹っ飛んでしまったのか、と。むしろ報道側が扇情的にフライイングをした、と考えるのが合理的、ということに、ぼくたちの間では落ちついたように記憶しています。

そうだとしたら、何故、丸山本人およびその友人や愛弟子たちが、『毎日』と吉本の可笑しな記事に異議を申し立てなかったのか、という疑問が残ります。そのあとの推論は、和田くんが分析しているとおり(pp.212-258)だったろうと思われます。

なおちなみに、丸山眞男は父が『毎日新聞』記者で、戦後もいろいろな機会に『朝日新聞』でなく『毎日』を優先して対応していた。学生内藤國夫を推薦した先も『毎日』だった。それが70年代からは変わって、(他に褒章のない[固辞していた?]丸山が)1985年に朝日賞は受賞した、というのも、この『毎日新聞』12月24日記事への憤りが影響しているのだろうか。知りたいところです。

この本は第一部も第二部も、法廷弁論を聞いているようで、明快な「力」があります。体験と文献史料の分析とがあいまって、読むに足る「メモランダム」ができました。元来 memorandum とは、記憶や覚書より以上に、(フォーマルではないが)記憶しておくべきこと、忘れてはいけないこと、という意味ですね。

ちなみに、先にも触れた 小杉亮子『東大闘争の語り』(新曜社)には、この和田くんは登場しません。

2018年11月5日月曜日

真剣度

こんなメールや電話が、年に一度くらいの割で到来します。

「突然ご連絡、大変申し訳ございません。
テレビ**の○○という番組を担当しております△△と申します。
私どもが放送する○○という番組の中に、□□を紹介させていただくコーナーがあります。本日は、‥‥ の雑学についていくつか取り上げるにあたり、いろいろ調べておりましたところ、イギリスを中心に、‥‥という記事を見かけました。
つきましては、この記事内容について詳しいことを近世イギリス史を専攻されている先生に直接お話を伺えればと思っております。
まだ、企画の段階で、‥‥大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。」

どこでどう間違えたか、インターネット検索でぼくの名が引っかかったので、慇懃無礼な挨拶文をしたためて、立正大学のアドレスあてに出してみたわけですね。
「いろいろ調べて、‥‥という記事を見かけました」
といっても、その記事がどこのどういう記事か特定することのないままでは、この人がどの程度の「リサーチ」をしたうえで問い合わせてきたのか、「検索サーチ」で一発ヒットしただけか、要するに「真剣度」が伝わってきません。そのうえ、こちらは「トリビア」に関心がありません。「お相手できません」とご返事する以前的な、そのまま無視、という対応しかできません。ついでにテレビ局って、こんなにも無意味なことを取材、放映して利益を上げてるの! とビックリします。

こういったことがあると想い出すのは、世間もバブリーで、出版界も学生たちも、いささか浮いていた1990年前後のことです。東大のある女子学生が進学したばかりで「‥‥本で読んだんですけど」と問いかけてきたので、「なんていう本? 著者は?」と聞くと、彼女は答えられなかったのです。かわいくて知的な家庭の出身で幸せそうな様子、大学院を志望していたようですが、読んだ「本」を特定できないのでは話になりません。ぼくとの会話はそれで途切れました。
2年後、その子は語学ができたので大学院に合格したけれど、数ヶ月もしないうちに授業に出てこなくなっちゃった。指導教授が(ぼくではありません!)張り切って関連文献の実物を見せながら指導していた場面に、たまたま居合わせたことがありました。
複数の情報を特定しながら、そのズレにこだわり、相互の違いから、事実の割れ目にテコを差し込んで、新しい発見に迫る。その出発点は「疑問」「違和感」です。そこに問うに足る問題がある、と直観するからこそ、力業(ちからわざ)を続けることができる。

むかしこのことを、黒田寛一は「否定的直観」と呼びました。ノーベル賞の本庶佑さんは「教科書を疑うことから始まる」とおっしゃっています。そうした直観、疑問を特定し(分析し)、考察を継続する(リサーチする)ためには、それだけの情熱が必要です。テレビのディレクターに、そしてただかっこいい職業として大学教員を志望していた女の子に(男の子も同様に)、それだけの「真剣度」はなかったな。張り切っていた指導教授はひどくガッカリして、端で見ていても気の毒でした。

2018年10月24日水曜日

両論併記? 文章の明晰さ

(承前)
 大庭さんおよび折原ゼミということで、トレルチの名が出ました。また、かつて戦後史学で大いに議論された「ルネサンスか宗教改革か」といった問題についても一言。

 ちなみに『岩波講座 世界歴史』16巻(1999)p.16 でぼくは、
‥‥「ハイデルベルク大学の神学教授トレルチはこういう。「‥‥ルネサンスは結局、生成しつつある絶対主義と抱き合うにいたり、この絶対主義国家の理論の建設をたすけ、その王権と宮廷の後光となる。ルネサンスはまた再建されたカトリック教会と抱き合い、総じて反宗教改革の文化としてはじめて、その世界史的影響はあらゆるものに浸透するにいたる。」 
要するに[トレルチによれば]「ルネサンスは社会学的には完全に非生産的なのである。」ルネサンスの目標とした人間は、‥‥、プロテスタンティズムが育成した職業人と専門人の正反対であった、と力強い。」
としたためました。同時にその20行ほどあとでは、
「‥‥[じつは]「反宗教改革」も「絶対主義」も近世的現象そのものだととらえなおすなら、トレルチの見解は党派的にさえみえる。非ヨーロッパとの関係を含めて時代の構造を考えるなら、なおさらである。」(p.17)と記しています。

 刊行後まもなく、これを読んだある人が、近藤は両論併記しているだけでどっちつかずだ、自分の見解はどこにあるのかと批評してくれたのには驚きました。自分のレトリックは通じない、とようやく自覚したのです。このとき1999年のぼくにとって、トレルチはプロイセン的・ハイデルベルク的な反カトリックのイデオロークであることは[折原ゼミでも東大西洋史でも知られていたとおり]読者にも共有されているはずで、その(福音主義的)偏見をこれだけ自己満足的に語っているのがおもしろくて、引用したのですが‥‥。こんなにもはっきり呈示された≒力強い偏見、と。
 しかし、99%の学生がウェーバーもトレルチも(もしかしたら岩波文庫も)読んでいない時代に、気取ってレトリックを弄してもナンセンス。むしろ素直な学生たちにもストレートにわかる文章を、という心構えは、ただの読者サーヴィスというのではない。より積極的に自分自身の思考を simple & clear に表現する、結局なにを言いたいのか、自他ともに誤解なく明らかにするために必要な心構えなのだ、と自覚したのは、まだしばらく後のことでした。
 そもそも近代の契機は「ルネサンスか宗教改革か」といった問題設定じたいに、無理があったのです。

 センテンスをできるだけ短く、論を明晰に、といったことは、欧文をいわゆる「逐語訳」≒後ろから「正確に」訳して満足するのでなく、むしろ可能なかぎり構文の順に -著者の頭に語・フレーズが浮かんだ順に- 訳すという心がけに通じます。欧語 → 日本語という翻訳だけでなく、日本語 → 欧語という翻訳、そして(ぼくの場合は)英語での発言、討論の経験を重ねるにつれて、これは実際的な知恵でもあり、枢要な姿勢にもなります。
 こうした、ことば(と文法)への繊細な感覚は、大庭さんからも、また後に続く尊敬に値するあらゆる学者からも学んだことでした。

2018年10月23日火曜日

大庭 健さん、1946-2018

 厳しい夏のあとには悲報、と覚悟はしていましたが、このたびは大庭健さんの死を専修大学の関係者から知らされ、落胆しています。
そもそもの始めは、1967年、駒場2年生の春から折原先生のウェーバーゼミでした。1年生の「社会学」(数百人の大教室が一杯になる講義)でマルクス、ウェーバー、デュルケームの手ほどきを受けたあと、2年の4月には秀才たちの多い折原ゼミに編入してもらって(授業科目としてはなんという題だったのか)、とにかくウェーバー『経済と社会』のなかの「宗教社会学」を英訳で読みつつ、あらゆることを討論する集いでした。68年、3年生の夏まで、ぼくの毎週の生活の頂点でした。大庭さんは1学年上ですが留年中で、ウェーバーの読み方から、詳細な報告レジュメの切り方(ガリ版です!)、討論の仕方にいたるまで、手本として教えられました。関連して、当然ながら『宗教社会学論集』も読む必要がありましたし、なにを隠そう、「大塚久雄という Weber学者は、昔は西洋経済史なんてことを研究していたらしい」といった知識もここで得たのです。

 今のぼくは西洋史の研究者ということになっていますが、英語やドイツ語の読みかた、学問の基礎・本質のようなものは、この駒場における折原ゼミと大庭さんによって学び鍛えられたのです。1968年夏にはウェーバーの『古代ユダヤ教』を野尻湖や駒場の杉山好先生の部屋で一緒に読んだりしました。内田芳明というドイツ語に問題のある方のみすず書房訳が出ましたが、これの不適訳、理解不足などを指摘して喜ぶ、といった倒錯した喜びも覚えました。トレルチの内田訳『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫)はすでに出ていたかな。こちらのプロテスタント史観は60年代の日本の進歩主義的学問には適合していたかもしれません。ウェーバーがそれよりはスケールの大きな問題意識をもった人だということくらい、すぐに分かりました。

 大庭さんはいろいろ考えたうえで本郷の倫理学に進学なさいましたが、西洋史の大学院で成瀬先生がハーバマスを読むと聞くと、これに出席して、しかし「西洋史のゼミって静かだね」という言葉とともに出てこなくなった! その後も広く人倫・社会哲学にかかわる積極的な発言を続けておられました。最後に直接にお話したのは、2007年、図書館長としてのご多忙中、専修大学で「人文学の現在」といった企画を考えておられ、お手伝いをしました。その折には連絡メールのやりとりのなかで、「相変わらずのスモーカーなので、たいした風邪でもないのですが、長引きます」といった発言があり、気になりました。その後も毎年、写真入りのお年賀状を頂いていましたが、今年はその写真がなく「リタイア生活は病院ではじまりました」という一句に心配しておりました。
 たくさんの本を出版して、倫理学会会長もつとめ、ぼくが存じ上げているだけでも「大庭兄」に私淑しているという方はいろいろな方面で何人もいらっしゃいます。やり残したお仕事、心残りもあったでしょう。しかし、知的な影響力という点では実り豊かな人生だったのではないでしょうか。別の分野に進みましたが、ぼくもそうした「弟分」の一人なのです。
11月23日に葬儀告別式とのことで、これに馳せ参じます。

2018年10月14日日曜日

『近世ヨーロッパ』

土曜日に山川出版社の山岸さんに『近世ヨーロッパ』の再校ゲラ戻し、図版初校戻しを渡して、この世界史リブレットについて基本的にぼくの仕事はほとんど片付きました。今の時点の奥付には11月20日刊行*とあります。【*念校にてこれは、11月30日刊行、となりました。 → 実際の製品、カバー写真については こちら。】

専門書ではないので、想定読者は高卒~大学に入学したばかりの一般学生から専門外の先生方です。ですから、序の「近世ヨーロッパという問題」は、高校世界史の筋書、またテレビ番組の語りから説きおこし、「中世と近代の合間に埋没していた16~18世紀という時代が問題なのだ」と提起します。「1500年前後の貧しく貪欲なヨーロッパ人は荒波を越えて大航海に乗り出したのだ」がその理由は、何だったのか。「アジアとヨーロッパの関係は1800年までに(本書が対象とする期間に)大変貌をとげた」、どのように? なぜ?

想い起こすに、2000年前後の二宮さんは個人的な場で、当時勢いのあったアジア中心史観に不満を洩らし、「いろいろ言っても結局、ヨーロッパ人がアジアに出かけたので、アジア人がヨーロッパに来たのではない」と呟かれました。社会史・文化史・「‥‥的転回」の旗手も、やはり戦後史学(あるいはフランス人のヨーロッパ史)の軛(くびき)というか轍(わだち)というか、大きな枠組のなかで考えておられた。ぼくの二宮さんにたいする違和感の始まりは、1) フランス人的なドイツ的・イギリス的なものへの(軽い)偏見でしたが、続いて、2) 日本もアジアも遅れているという「感覚」でした。

『近世ヨーロッパ』は、こうした二宮史学(が前提にしていたもの)を十分に評価した上での批判、そしてフランス史(およびフランス中心主義)の再評価と相対化の試みです。
もう二つ加えるとすれば、α.ピュアな人々(ピューリタン、原理主義者、革命家)の相対化、中道(via media)と jus politicum を説いた「ポリティーク派」、徳と国家理性を論じた人文主義者たちの再評価ですし、またβ.じつは近世史の戦争と迷走の結果的な知恵としてとなえられる、議会政治の再評価、です。

だからこそ、ヨーロッパ近世史の転換期(含みのある変化のあった)17世紀を危機=岐路として描きました。よく言われる「30年戦争」「ウェストファリア条約」もそうですが、さらに決定的なのは、1685年のナント王令廃止 → ユグノー・ディアスポラ → 九年戦争 → 名誉革命(戦争)という経過ではないでしょうか? これはオランダ・フランス・イングランドの間の競合と同盟にもかかわり、p.56~p.68まで使って、本文は全88ぺージですので、かなり力を入れて書いています。
「イギリスは‥‥世紀転換期の産業革命に一人勝ちすることになる」(p.86)とか、「近代の西欧人は、もはや遠慮がちにアジア経済の隙間でうごめくのでなく、政治・経済・軍事・文明における世界の覇者としてふるまう。その先頭にはイギリス人が立っていた」(p.88)といった締めのセンテンスに説得力をもたせるには、17世紀の経済危機ばかりでなく政治危機をもどのように対策し、教訓化し、合理化したのか。「絶対主義」的な特権システムなのか、議会主権的な公論・合意システムなのか。この点を明らかにしておく必要がありました。

たしかに20代のぼくが読んだら、これは驚くべき中道主義、議会主義史観で、唾棄すべし、とでも呟いたかもしれない。それはしかし、青く、なにも歴史を知らない、観念論(イデオロギー)で世界をとらえていた、ナイーヴな正義観の表明でしかなかったでしょう。We live and learn.

2018年10月10日水曜日

靖国問題 と 両陛下

 靖国神社の小堀宮司が「問題発言」の責任をとって辞職、との読売オンラインのニュース、さらには週刊ポスト』の記事もウェブで読みました。
 小堀宮司はもしや確信犯で、今上天皇と皇后への批判、文明的に教育された皇太子への不満を公言して、警世・憂国の士として辞するというおつもりかもしれない。だが、そもそも靖国神社の存在理由は危うい。あの西郷どんは逆賊だから祀られていないし、とくに1978年にはひそかにA級戦犯が合祀され、それが知られてからは、昭和天皇も参拝しなくなりました。常識ある人なら当然です。
 日本国を絶望的な戦争に引きづりこんだだけでなく、とくに東京・大阪などほとんどの都市の空襲、沖縄戦があっても止めようとしなかった - 広島・長崎でようやく目が覚めた - 愚鈍な責任者たち(の英霊?)に向かって、静かに頭を垂れて参拝せよというのは、ありえない。

 今回の問題発言は、靖国神社の将来をめぐっての「教学研究委員会」において、他の議題のあと、合祀やそれについての昭和天皇の不快の表明(富田メモ)に関連した出席者の発言があって、これにたいして洩らされたむしろ攻撃的で、戦略的な発言らしい。要するに、神社側としては、
 「平成の御代のうちに天皇陛下にご参拝をいただくことは、私たち靖国神社からすると悲願なのです。小堀宮司は、“平成の御代に一度も御親拝がなかったらこの神社はどうするんだ”と口にしていました。そうして宮内庁に対し、宮司自らが伺って御親拝の御請願を行なうための交渉を内々にしているのですが、まだ実現の目処は立っていない」(『週刊ポスト』)

 そうしたことを真面目に考えているのなら、なにより靖国神社が、自己正当化と欺瞞でなく、内外に向かって静謐で敬虔な気持にさせる場となりえているかどうか、ゆっくり反省する必要があるのではないだろうか。
 むしろ天皇皇后両陛下は「公務」として、そうしたことを実現されてきた。まことに尊敬すべき方々、国民統合の象徴だと思います。

2018年10月1日月曜日

退院の一報、励みになります


10月1日、台風一過で32度を超える暑さはかなわないけれど、それにしても洗濯日和です。2回も洗濯機を回しましたよ。ついでに風呂掃除も。

昨夜は大阪からの大移動と、台風対策で気疲れして、強風の音を聞きつつ早く寝てしまいました。
今朝起きてみたら、気にかけていた友人からメールが来ていて、彼の入院手術について、無事、昨日退院したとのこと。養生やリハビリでこれからも大変でしょうが、まずは安堵しました。
こういうニュースは、嬉しいだけでなく、ぼく自身にとっても励みになるのだと自覚しました。

2018年9月30日日曜日

新幹線「ひかり」最終

(承前)
旅行者で、ぼく以外にもそう考えていた人は少なくないと思われます。
ゆったり朝食を摂り、電車を乗り継いで10時過ぎに新大阪駅についてみると - 構内の土産品など売店がキヨスク以外はすべて閉まっていること、改札口からすでに大勢の人が滞留していることを目撃して、これはもしやヤバイかも、と考えが変わりました。

いつもの25番・26番の二つだけでなく27番も合わせて上りホームを三つ使っていること、職員を多数ホーム上に配置していること、電光掲示にあきらかに急造りの最新情報を伝える英語表記も出ていることなどからは JR東海の本腰が伝わりました。
で、災害時なので予約した夜ののぞみ指定席(全便不通)でなく、来た便の自由席のどれにも乗れることを確認してから、戦略的に考えました。
10:20発のぞみ、10:40発のぞみ、いずれの場合も待ち行列は各乗車口ごとに40m、50m以上。広く長いホームは一杯です。要するにだれでものぞみの自由席に乗りたいと考えるでしょうが、のぞみの自由席は1・2・3号車のみ。しかも指定席を臨時に自由席に開放するといった策はとらない。であれば、指定席車両に乗り込んで、立って2時間半揺られるという選択肢も含めて、これ以上、のぞみのために行列するのは愚か。
ひかりを狙おう。ひかりは3時間あまりかかるが、自由席は1・2・3・4・5号車で、すこし余裕があるし、東京まで行かない客も多いはず。
というわけで、10:20発のぞみ4号車のための行列の最後尾に付いて、その次に来る10:43発ひかりを狙いました。10:20発のぞみ、10:40発のぞみのいずれについても積み残しがあり、JR職員は指定席車両に乗車するよう勧誘する、という方針のようでした。こういう時に、機敏に動ける人とそうでない人との差は大きく、見ていても気の毒なほどです。
ぼくの場合は、狙い通り、10:20発のぞみの出たあと、43発ひかりのために残った短い行列の前のほう(10人目くらい?)に位置することができましたが、向かい側では、10:40発のぞみのための行列がさらに蛇行していました。しかも、なんとひかりは、ぼくの乗る10:43発が最終なので、その後はぼくのような戦略を採ることができなくなったわけです! 
実際に来たひかり10:43発はそれなりに(一両100人中40人分くらい?)空席はあって、ドタバタせずに座れたのですが、京都から先は、デッキに立つ人たちが溢れることとあいなりました。東京までのあいだに、浜松や静岡で後発ののぞみに抜かれながら、東京駅にはすこし遅れて13:50に到着しました。途中は校正刷りのコピーを見直したり、居眠りしたりできて、個人的には賢明な選択だったかな、と思いますが、それにしても、新幹線はもうすこし後の時間まで、たとえば2時間ほど、運行できなかったのでしょうか。

もちろんJR経営体として、万が一にも新幹線車両が暴風雨で立ち往生したうえ、最悪のケースとしては(むかし山陰線の鉄橋であった事故のように)暴風にあおられて新幹線車両が脱線転覆するといった大事故があったりしてはいけないわけだから、そこは慎重に判断した、ということでしょうか。
東京駅も混雑していましたが、雨風はなく、嵐の前の静けさ? 今晩20時に山手線など首都圏の在来線も運行停止と予告されています。(大阪行きの前に、すでに自宅ベランダに置いていた植木や、洗濯物干しフレームや、ガラクタの類いは室内にしまって置きました。)
これまで読まれたように、ぼくはいろいろと楽観的で、良いほうにしか物事を考えない傾向があります。皆さま、どうぞ楽天家の近藤をよろしくご善導くださいませ!

台風24号 最接近

週末に台風24号最接近! 21号に続き、全国的に警戒状態。
というのは存じていましたが、まぁ、大丈夫、と構えていました。

ですから、土日の大阪・中之島センターでの研究会は土曜のみ、日曜は中止/延期、という主催者の方針を聞いて、慎重なのはよいが、大事のとりすぎかな、という受け止め方でした。なにしろJR東海で予約した出張パックが「宿も列車の座席も指定で、変更不能」という設定なので、面倒だな、というのが正直なところ。
で、金曜午後のぼくの返信は【 28 Sep 2018 15:41 】
「拝復、心配してくださって、ありがとう。日曜なので、美術館、図書館巡りも良いかな、と考えています。いま、出版社にて再校の交渉に向かう車中です。秋晴れの素晴らしい午後です。」
といった呑気なものでした。

これには主催者も慌てたようで【 28 Sep 2018 15:49 】
「‥‥日曜日の昼間は暴風雨が懸念されます(美術館・図書館の閉館も含めて)。もし外出が厳しいということになれば、‥‥[これこれという代案も考えてくれて‥‥]明日はお気をつけていらしてください。」
さらには続伸で【 28 Sep 2018 18:31 】
「‥‥夕方の関西圏のニュース&天気予報を注視しています。JR西日本などは山陽新幹線を含め30日昼から1日にかけて運休の可能性を発表しました。(東海道新幹線はわかりませんが。)こちらのニュースによれば30日夕〜夜が大阪で最も暴風雨の強まる時間帯となり、鉄道・自動車を含め移動が困難になることが見込まれます。一案として「パックで予約されている分は30日朝の宿泊までとし、帰りの新幹線のチケットは事実上”捨てて”もらう」→「あらためて30日朝の新幹線の「新大阪→東京」の片道チケットを予約してもらう(片道分の旅費は主催校でなんとかできないか聞きます)」ことを提言します。」
とまで提案してくれました。
この段階では、西日本ではそうでしょうが、東海道新幹線は大丈夫。なにしろ九州に上陸して四国・中国と経由するうちに台風の威力は弱まるのだから、と公言さえしていました。この間の自然災害について、東京ないし南関東の被害は比較的少なく、徳川家康の立地センスのすばらしさ、なんてことさえ東京の親しい仲では口にしていました!

実際、土曜に大阪について、雨ではあったけれど、とくに風がどうとかいうわけでもなく、午後の研究会は時間とともに討論も充実しました。「礫岩のような国家」をどう見るか、から「近世ヨーロッパ」をどう見るか、さらに今一度、「ウェストファリア体制を再考する」とかいう問題設定から一歩先へ進んで、
・主権概念の生成プロセスにおける類似用語の併存・重なり;
・主権者の家産領や、特権的な社団の編成を越えて「国家/主権国家っていったい何なんだ」という問題への回帰 -
という所まで確認できました。神聖ローマ帝国(Reich)および皇帝(Kaiser)、ドイツ王、ローマ王のなんとも絶妙な用語法も!
5月27日の早稲田における歴史学研究会大会、合同部会「主権国家 再考」およびその特別号での刊行(晩秋)が、おそらく西洋史研究および世界史研究にとってひとつの画期になりそうな予感も共有して、とても良かったのですが、それだけに2日目が先に延期というのが残念至極。
遠方から来て夜の会食後に大阪に泊まるのはぼく一人(他はみな今晩中に帰途へ)、と分かり、さんざ脅かされ、帰宿して、日曜午前は、新大阪発11:40 → 東京着14:13(のぞみ16号)が最終、という報道とJR新幹線サイトも確認しました。そのあと、書いたのは【 29 Sep 2018 23:14 】
「いろいろとありがとう。‥‥テレビおよびインターネット情報で、午前中の新大阪発上りは大丈夫ということで、早めに帰宅します。今日の研究会は、佳境に入って時間切れというのがもったいなかったね。」
という具合に呑気でした。朝食もゆったり摂って、宿は交通至便なところなので、JRを乗り継いで新大阪に11時前に着けば楽々‥‥と。

2018年9月27日木曜日

木谷勤さん、1928-2018

木谷先生が亡くなったと、昨日、知らされました。
1928年4月生まれですから、90歳。

名古屋大学文学部で、北村忠夫教授の後任としていらっしゃり、1988年3月まで同僚でした。そのときの名大西洋史は4人体制(教授二人、助教授二人)で、年齢順に、長谷川博隆、木谷勤、佐藤彰一、近藤、そして助手は土岐正策 → 砂田徹と替わりました。志摩半島や、犬山ちかくの勉強合宿にもご一緒していただきました。
それよりも、名大宿舎が(鏡池のほとり、桜並木の下の)同じ建物の同じ階段、3階と1階の関係とあいなりましたので、その点でもお世話になりました。お宅でモーゼルのすばらしく美味しいワインを頂いたこともあります。福井大学時代の Werner Conze 先生のこととか、いろいろ伺いました。

何度も聞いた、忘れられない逸話は、戦争末期のやんちゃな木谷少年のことで、高等学校に入ったばかりだったのでしょうか。高松の名望家のぼっちゃんで、成績もよく、理系でした。空襲警報が鳴ると、いつもお屋敷の屋根に上って、阪神方面に向かう高空の米軍機を遠望し、「グラマン何機飛来」とか、今日は「B29何機」と大声で下の人に向けて告げるのを常としていた、といいます。
ところがある日、ふだんと違って飛行編隊の高度があまり高くなく、こっちに向かってくるではありませんか。爆撃機が機銃射撃しながら近づいてきたと認識した途端、身体に痛みを感じ、屋根から転落した木谷少年は、その後、数日間意識不明だったといいます。気付いてみるとみんなが心配してのぞき込んでいた、そして左腕は切断されていた。
木谷少年も、こうして高松空襲の犠牲者で、さいわい命はとりとめましたが、両手を使っての実験はできないので理系の道はあきらめ、戦後、文系、しかも西洋史・ドイツ近代史を専攻することになったわけです。(「花へんろ」の早坂暁と1歳違いですね。松山と高松という違いもありますが。)

山川出版社の旧『新世界史』の改訂版、および『世界の歴史』を出すための編集会議(2000年ころ)でご一緒して、そうです、ぼくの原稿が従来の謬見のまま、プロイセンおよびドイツ帝国について権威主義・軍国主義の中央集権国家*、と書いてるのを、そうではなく連邦主義の複合国家だと言ってくださり、誤りの再生産を防いでいただきました。
なおロンドンのベルサイズ(ハムステッドの手前)にはお嬢さん一家が滞在中のところ、ご夫妻で寄寓ということでしたが、ニアミスで残念でした。
ご夫妻と直接お話ししたのは、2008年の松江が最後だったでしょうか。いただいたお年賀状は去年のものが最後となりました。

* 近代ドイツを中央集権国家というイメージで語りたがるのは、いつの誰からでしょう? 伊藤博文・大久保利通以来、明治~昭和のオブセッション? 関連して「30年戦争」以来、ドイツはバラバラで荒廃した、といった定型句もありました。坂井榮八郎さんの『ドイツ史10講』(2003)が徹頭徹尾、こうした中央集権(を目標とする)史観に反対しています。

2018年8月28日火曜日

ことばの歴史性


 話はあちこち逸れましたが、16・17世紀にもどって、もし大航海時代の冒険商人たちが(日本列島でなく)現代のアメリカ合衆国に遭遇したなら、軍の最高司令官=大統領のことは emperorと呼び、合衆国の国のかたちについては邦 state を50個も束ねる empire だと形容したでしょう。だからといって、今日の政治学者も歴史学者も、大統領は「皇帝」だ、合衆国は「帝国」だと呼ぶわけにはゆきません(そう言いたくなる折々はあっても!)。
 むしろ現代のアメリカ合衆国は連邦制の imperium「主権国家」で、大統領は imposterならぬ imperator「国家元首」で、議会や司法の掣肘をうける存在でしょう。上記の平川『戦国日本と大航海時代』の引用部分について確認するなら、大航海時代のポルトガル人やイエズス会士は、日本列島を統一途上の imperium「主権国家」、秀吉や家康を(フェリーペ2世やジェイムズ1世のような)imperator「強大な君主」「主権者」と認めた、というのに他なりません。

 16世紀末と19世紀末は異なる時代です。300年の歴史をはさんで、近世・近代のヨーロッパの政治用語は 1648年のウェストファリア体制、1815年のウィーン体制の〈諸国家システム〉を前提にしたものに転じ、用法が異なります。同時に単語としての継続性も残る。歴史研究者なら、言葉の継承と、その意味の転変とのデリケートなバランスを捉えないとなりませんね。
 ユーラシア史の大きな展開。これを十分に把握するためには、アジアだけでなくヨーロッパ史の新しい展開も看過できない、ということです。西洋史も、2・30年前に高校世界史で習ったのとは違うのですよ!

2018年8月27日月曜日

<帝国>と世界史


(ちょっと日にちが空きましたが)『日経』郷原記者の「アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」の続きです。第1の論点について異論はありません。特別に新規の説ではなく、多くの読者に読まれる新聞の文化欄8段組記事ということに意味があります。

 第2の論点、帝国となると、そう簡単ではありません。郷原記者は平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)を引用しつつ、16~17世紀に「日本は西欧から帝国とみなされるようになった」「太閤秀吉や大御所家康は西欧人の書簡で「皇帝」、諸大名は「王」とされた」と紹介します。
 それぞれ empire, emperor, king にあたる西洋語が使われていたのは事実ですが、そもそも中近世の empire を帝国、emperor を皇帝と訳して済むのか、という問題があります。近藤(編)の『ヨーロッパ史講義』(山川出版社、2015)pp.93-105 でも言っていることですが、emperor はローマの imperator 以来の軍の最高司令官のことで、近世日本では征夷大将軍や大君(ないし政治・軍事の最高支配者)を指します。京のミカドというのはありえない。
 また empire はラテン語 imperium に由来する、最高司令官の指令のおよぶ範囲(版図)、あるいはその威光(主権)を指していました。だから吉村忠典も早くから指摘していたとおり、帝政以前の共和政ローマにも imperium (Roman empire の広大な版図)は存在したのです。『古代ローマ帝国の研究』(岩波書店、2003)および『古代ローマ帝国』(岩波新書、1997)。
 たしかに近現代史では emperor は皇帝、 empire は帝国と訳すことになっていますが、その場合でも emperor は武威で権力を手にした人、というニュアンスは消えないので、神か教会のような超越的な存在による正当化が必要です。中国の皇帝が天命により「徳」の政治をおこなったように。
 1868年以後の日本では将軍から大政を奉還されたミカド、戊辰の内戦に勝利した薩長の官軍にかつがれた天皇に Emperor という欧語をあてましたが、これはフランスの帝政をみて、また71年以降はドイツのカイザーをみて「かっこいい」と受けとめたからでしょう。ただし、武威で権力(統帥権)を手にしただけでは御一新のレジームを正当化するには不十分なので、神国の天子様という「祭天の古俗」に拠り所をもとめ、89年の憲法でも神聖不可侵としました。そうした神道の本質をザハリッヒに指摘した久米邦武を許さないほど、明治のレジームは危うく、合理的・分析的な学問をハリネズミのように恐れたのですね。

2018年8月22日水曜日

世界史と帝国


 このところ『日経』の記事にあらわれた現代史および今日的な情況について発言を繰り返していますが、じつはその動機/促進要因は、8月11日(土)の文化欄、
アジアから見た新しい世界史 -「帝国」支配の変遷に着目」にありました。
 これは郷原信之さんの久しぶりの署名記事で、2つほど大事な論点(の混乱)があって、そのことを明らかにするのは簡単ではない、一つの論文が必要なくらい、と思ったのです。しばらく対応できないでいるうちに、次々に周辺的な、簡単にコメントできる問題が続いたので、そちらに対応してうち過ごしていた、というわけです。

 帝国や世界史といったテーマで、長い研究史をふまえた話題の出版物が続いていますが、これはじつは郷原さんの東大大学院における研究関心でもあった。彼が修士を終える2001年春までに『岩波講座 世界歴史』は完結し、イスラーム圏をはじめとする「東洋史」の勢いもあたりを払うほどのものとなり、加えてイギリス史における「帝国史」研究グループもミネルヴァ書房の5巻本の企画を進めていたころでしょう。
【それまで関西の人たちの愛用していた「大英帝国」という語が - 木畑さんの語「英帝国」を経て - 中立的な「ブリテン帝国」ないし「イギリス帝国」に替わるのも、これ以後です。まだまだ大英帝国が大日本帝国と同様に右翼の用語だということを知らないナイーヴな人たちばかりでした。スポーツ大会の開会式で、右腕をまっすぐ伸ばして宣誓するスタイルがヒトラー・ユーゲントの作法だと知らないまま、指摘されて「別にそんな邪悪な意図があったわけじゃありません」と釈明するのと同じ。歴史的に無知な公共の言動は罪です。】

 郷原さんの論点の第1は、西欧中心史観ではない世界史、ということで、岡本隆司羽田正といった方々の著作によりながら、いまや学界のコンセンサスと思われることが確認されます。西ヨーロッパがグローバルな勢いをもつのは、15・16世紀の貧弱なヨーロッパの冒険商人が、豊かなアジア(インド)の通商に交ぜてもらうことを求めて大航海に乗り出してから、かつ(偶然が重なって)アステカおよびインカの文明(帝国?)を簡単に滅ぼしてしまってからです。アジアに対して傍若無人・蛮行は通用せず、その豊かな経済と文化に遅参者として交ぜてもらうしかなかった。その結果は、対アジア貿易の赤字の累積です。なんとかせねばならない。
 18世紀からいろんなことが重なって、ユーラシアの東西関係は激変し、なぜかオスマンもムガルも清も、ヨーロッパ人に対する関係が弱腰になる。イギリス・フランスの植民地戦争がグローバルに展開するのも同じ18世紀です。戦争と啓蒙と産業革命の18世紀の結果として、近代西欧はわたしたちの知る近代ヨーロッパとなった。1800年の前と後とで世界史の姿はまるで違います。そして、これは今日の歴史学のコモンセンスで、『日経』の記事がその点を、別の筋から確認したことには意味があります。
【念のため、古代ギリシアをオリエント文明の辺境として捉えるのは今に始まったことではなく、『西洋世界の歴史』(山川出版社、1999)pp.4, 8 などにもすでに明記されています。大航海の動機や産業革命の始まりを合理的に説明するには、西欧中心史観では不可能、ということは、拙著『イギリス史10講』(岩波新書、2013)でも、今秋に出る『近世ヨーロッパ史』(山川リブレット、2018)でも繰り返しています。】

ただし、第2の論点、帝国となると、そう簡単ではない。そもそも empire を帝国と訳してよいのか、という問題から始まります。

教養主義とデモクラシー


 教養主義といえば、講談社現代新書(今年2月刊)の『京都学派』pp.224-226 には、教養主義について(も)恐るべく、ええかげんなことが記されています。著者、菅原某とはぼくの知らない人。
 そもそもこの新書には、近代日本の重要な思想家の氏名と生没年、経歴は列挙されているが、著者自身の表現によれば「言うなれば「師」を外側から観察して「師」の教えをつまみ食いして満足する手合いのもの」p.225、と。そこまで自分のことを認識して書いていたんですか!?
 この菅原某さんは哲学はかじっていても、そもそも歴史的に考えるということができない人のようで、せっかく『世界史的立場と日本』および『近代の超克』における高山岩男と鈴木成高と河上徹太郎の間の「二つの近代」あるいは「近世」と「近代」をめぐるズレ・対立に言及しながらも、なにか意味ある論理が構築されてゆくわけではない(pp.124-137)。長い引用が続くだけです。

 教養主義/教養を語るより前に、自分で観察して調べ、自分の頭で考える、といった習性が、まったく身についてない人、あるいは、そんなことに意味があるの? といった時代・世の中に、ぼくたちはいま包囲されているのだろうか。トランプ現象/フェイクニュース現象は、合衆国だけの問題ではありません。というより(教養市民の核なき)デモクラシーの危うさは、トクヴィル以来、早くから予言されていました。