2012年10月19日金曜日

Offshore !?


 ぼくが不在中の自宅に「ロンドンの銀行、 HSBC とかいう所から電話がかかってきて早口でまくしたてるので困った。話し手の電話番号だけはなんとか聞き出したから、なんとかして」、との家族からの電話。

 うーん、たしかにぼくの銀行口座は(むかし British Council に指定された Midland Bank)いまは合併後の HSBC にある。でも必要な通知はいつも郵便でくるのに、なぜ電話なんだ?緊急のことといえば AJC ? でも、ちょっと怪しい。

 で、念のために、言われた電話番号を Google で検索。

 すると、いくつかのblogでの言及とともに、HSBC Africa のページが上位にある。慎重にそのページにアクセスすると、

OFFSHORE: Welcome to offshore banking with HSBC Bank International . . . .

これはうそのページではなさそうだ。トップにロンドンの電話番号が記されていて、Get in touch . . . とある。あらゆる可能性がまだ否定できないが、結局、こっちがあまり英語のできない日本人だということをよく分かってない若手職員による、ごく普通の「営業トーク」だったのかもしれない。お疲れさま。

 ちなみに offshore とは、大陸から海を隔てた「ブリテン諸島」とか「日本列島」とかいう意味じゃなくて、海外居住者向けの金融ビジネスで、税制・法制上の有利をはかるもの;日本でタックス・ヘイヴンと呼ばれるものと関係する場合も関係しない場合もふくむ概念のようだ。

 英国の銀行口座を持ってるといっても、それは32年前の留学生として開いた口座を維持しておいたほうが細々としたことで便利だ、というだけで、残額も微々たるもの。有利な運用もなにも無縁なのだが。円とポンドで桁を間違えたんじゃないでしょうね。--とはいえ、ガラパゴス日本の平和で安全な日夜にぼんやりしているうちに、「上客」と見まがわれたか。気をつけましょう。

2012年10月1日月曜日

Hobsbawm, 95 years old

こんなメールが飛びこんできた。
ケインブリッジのAJCでは、ホブズボームは元気、ロシア革命と同い年、と話題にしていたのだが。
Dear Kazu

Sad to say, Eric Hobsbawm died today - we were talking about him at the AJC.
See http://www.bbc.co.uk/news/uk-19786929

〈以下は一晩あけて、10月2日に加筆〉
 1974年に初来日、東大社研の研究会で労働者文化とコミュニティについて質問。社会学にたいして厳しい見方をしていることに、意外な印象をえました。70年代の日本では歴史学と社会学が近づいていたので。【今から振り返ると、ただ柴田三千雄と高橋徹、二宮宏之と宮島喬が仲良かっただけのことかな?ぼくじしんも学部時代は社会学か西洋史かと悩んだんですよ。】
 1980年に留学して、ただちにロンドンのホブズボーム・ゼミに出ましたよ。いつも椅子の数よりたくさんの出席者であふれる盛況。床や窓や机に腰かける者もいて、活気がありました。その年のクリスマス前にゼミのあと、ジョン・レノンが殺された、と耳にして、ケインブリッジに帰る列車が激しく揺れるのを、恐ろしく感じました。
 ホブズボームの仕事について、ぼくは何度か書きました。たとえば樺山紘一(編)『現代歴史学の名著』(中公新書、1989);「同時代史としての20世紀論」『週刊読書人』(1997年5月16日), etc. それから、こんな小文をウェブに載せていたのを忘れかけていました。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~kondo/HobsIoT.htm
ホブズボームの仕事は立派だけれど、その質と広がりに見合う日本語訳書はきわめて少ない、というのが残念ながら事実です。
彼のインタヴューは『歴史家たち Visions of History』(名古屋大学出版会、1990)のトップに収められています。

2012年9月28日金曜日

『民のモラル』 並製版


〈歴史のフロンティア〉の初版は1993年11月でした。それからじつは2刷、3刷と 微細ながらも数々の訂正改良を重ねてきていますが、近年は版元品切れ。欲しい人は古書市場でどうぞ、という情況でした。

 しかし、今回立正大学で後期の教科書として指定するにあたり、せいぜい数部(10冊以内)しか間に合わないのでは授業にならないので、山川出版社と相談して、オンデマンドの「並製版」を作っていただきました。9月20日付。

初版第3刷と同じ形態・版面。ただしカバーに表示する定価について、消費税制の変遷にともない、内税でなく外税で
「本体2600円+税」
という表示に変わりました。

しっかりした厚紙の表紙から並製=ペーパーバックに変わったのですが、表紙の図柄(ホーガースの油絵と銅版画)は元のまま。内部も元のまま(ただし、ほんの少し色濃く=しっかり印字されている?)。 230-231ページ、ブリューゲルの版下のみ、ひそかに取り替えました。白黒でも見やすいようにという配慮です。本全体の厚みが減って、また表紙が bendable なので使いやすいという声も。

2012年9月25日火曜日

蔵書 処分

 暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、ほんとに涼しくなりました。


 本郷に文生書院という取次店があって、今ではメールマガジン『文生だより』を月に2回発行しておられます。Parliamentary Papers など大型コレクション/データベースの売り込みでも活躍されています。
今週の号(No.21)には、下記のような記事あり。身につまされる点もあり、事前承諾なしに一部を引用します。 ← http://www.bunsei.co.jp/
 ─────────────────────────────────────

『本を売って下さい。』と言ううたい文句を目にされたり、耳にされる方も多いか
と思います。もちろん弊社でも、古書の買い取りを致しています。

ご処分の方法がお判りになられない方は先ずはご連絡下さい。 <中略>
弊社では常時ご連絡をお待ちしています。 <中略>

~~~~~~担当の声~~~~~~

お陰さまで買い取りのご相談をいただき、現地へ出向くことが多くなりました。最
近では、茨城県水戸市、埼玉県本庄市、秩父市、千葉県市川市、南房総市、東京都
町田市、足立区、新宿区、横浜市旭区、神奈川県平塚市、小田原市、静岡県静岡市
、浜松市へ。また、機関様・法人企業様の図書室、大学様の御研究室、法律事務所
様のご蔵書を引き取りにお伺いさせていただきました。
その中でも想い出深い買い取りを二件ご紹介します。一軒目は、広い間取りの戸建
て。寝室、応接間、書斎、居間、廊下、階段、ベッド、ソファー、机上と至るとこ
ろにご蔵書がございました。あまりの多さに、数日をかけて引き取りに出向きまし
た。蔵書を結わいても結わいても終わりが見えず精神的にしんどかったことを思い
出します。

二軒目は郊外の団地です。2トン車2台分の量、分野は郷土史でした。重い郷土史
をジメジメした梅雨空の下、エレベーターがない団地、最上階の5階から搬出しま
した。一度は経験してみたかった団地の5階、非常に肉体的にきつかった買い取り
でした。

精神的に肉体的にきつくても、楽しみがあります。それは食事です。普通の食事で
はつまらないので、その地域にある流行のお店、地方の名物・ご当地グルメをググ
り、買い取り先へ伺っています。
棚に収まりきらず、読み終わった書物はございませんか?ご整理にお困りでしたら
ぜひ本を売ってください。地方の方、大歓迎です。もちろんエレベーターがない団
地の5階にお住まいの方も大歓迎です。 <以下略>

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今ではわが自宅もオフィスもエレベータがあるので、その点はよいとして、しかし
「寝室、応接間、書斎、居間、廊下、階段、ベッド、ソファー、机上と至るところにご蔵書がございました。あまりの多さに、数日をかけて引き取りに出向きました。蔵書を結わいても結わいても終わりが見えず‥‥」
というのは、学者ご本人が亡くなって遺族の希望で処理したケースでしょうか。他人事ではない、という実感。仕事とはいえ、なにか美味しい物を食べないとやっていらんない、というのも共感します。

2012年9月17日月曜日

オクスブリッジの学寮

日本に戻りました。

11時間の飛行のあと、今回は羽田着陸で、夜明け前の 4:40。手続き、荷物を受け取り、日の出たばかりの湾岸をモノレールから眺めながら帰宅しましたが、6:35着。公共交通機関で2時間かからず。これは快適ですね。おまけにすべてが空いている。
ただし、雨の後の早朝なのに暑くて、閉口。晴れても風の寒いイギリスのまま、ジャケットを着ているぼくが愚鈍にみえた。

とにかく、困難はなかったわけではないけれど、第7回日英歴史家会議(AJC)は、とりわけ将来のことを考えると、明るい希望のもてる国際研究集会となりました(写真の左下、矢印のあたりを拡大してみてね)。

それから副産物ですが、ケインブリッジの学寮(の学生の部屋)に合宿して Porter's Lodge や Master's Lodge、そして「ホール」でのディナーを皆さんで経験してもらったのは、なによりのことでした。Master Daunton の計らいあればこそ、でした。とにかく 『イギリス史研究入門』 pp.10, 12 などには控えめに記しましたが、オクスブリッジは他とははっきり違うのです。
「‥‥ともに素晴らしい人員と環境、‥‥」p.12 と書いた原稿を、共著者にはあらかじめ読んでもらいました。その一人が「どういうことですか?」と、あきらかに不審・不満を表されたのですが【私の留学した大学だって素晴らしい人員と環境がある‥‥】、これを口や文章で説明するには1年かかると考えて、やめました。観光旅行で行ってみてもよく分からないが、生活してみれば、ただちに分かる。
今回のディナーの「末席をけがした」院生が、いみじくも言いましたが(protocol を知っている人たちの所作を参加観察する)「鳥肌の立つような経験」。
じつに 『イギリスはおいしい』とは、『オクスブリッジはおいしい』という謂いでした。

2012年9月13日木曜日

日英歴史家会議(AJC) at Trinity Hall

ただいま、上の写真の空間、little gem of Cambridge にて日英歴史家会議(AJC)が進行中です。
連日30度をこえていた東京から来ると、17度± といった気温にほっとします。
インターネットのトラブルもないではなかったけれど、いまは解決。3年毎の有意義な研究集会 & 旧交を温める好機です。Toshio はどうした? Shigeru はどうした? と尋ねられます。(学生たちにとっては絶好の、観光兼学習の場ですね。)
Trinity Hall の創立は1350年だけれど、建物の実質的な部分は16~17世紀由来のものがほとんど。近世という時代の意味を考えます。

2012年9月1日土曜日

AJC at Trinity Hall, Cambridge



 1994年から始まった日英歴史家会議(AJC)ですが、3年ごとに英日交替で開催され、今年は7回目を数えます。9月11日~14日に、美しいケインブリッジのなかでも gem とあだ名のついている Trinity Hall 学寮で催されます。

くれぐれも、「トリニティ・コレッジ」ではありませんので、ご注意を。
トリニティ・コレッジはヘンリ八世、すなわち近世の産物。
トリニティ・ホールは1350年、中世(黒死病直後)の創立です。

プログラムはこちらに更新版がのっています。
→ http://www.history.ac.uk/events/event/4290

 青色の行をクリックしてください。
 プログラムに名のない方々も、学寮内に宿泊し参加してディナーもともにすることができます(有料)。学寮の予約受付も、上記のページからおこなってください。予約〆切は9月4日と記されています。 また
http://www.trinhall.cam.ac.uk/conferences にも関連ページがあります。

 なお、学寮外に宿泊して「通勤」することも OK です。

 こんな具合のディナーとなるでしょうか。
→ http://kondo.board.coocan.jp/?m=image&image=583_0.jpg

 それでは美しいケインブリッジでお会いしましょう。日本に比べると寒いかもしれませんね。

2012年8月28日火曜日

出典は『資本論』だけ?


 『イギリス史10講』の企画会議の最初は1997年夏でしたから、この銘品はすでに15年物。陰の伏線として古代から20世紀までのワイン(クラレット)の筋が要所要所で顔を出しますが、それにしても、この本はすごい銘酒か、開けてみたら(いじくり返しているうちに)酸化して酸っぱいだけの古酒か。

 通史・概説ではない。しかし通史的に大事なことはきちんと記し、しかもストーリと構造を印象的に、具体的なイメージが浮かぶような読み物としたい。どうしても長くなる。だが分量は限られている‥‥ということで、なかなかの力業<ちからわざ>となります。
 そうしたなかで、今日は、3行も(!)減らせる結果になった1論点のてんまつを。

 イギリス産業革命の結果、インドの綿業が壊滅する、そのことの世界資本主義システム的な意味みたいなことは、当然述べるつもりで、すでに『文明の表象 英国』p.154 や『近現代ヨーロッパ史』p.47 にも書いたことを数行くりかえしていました。

「‥‥こうして一八三四~五年、イギリス議会でインド総督は「[インドの織布工の]窮状は歴史的に比類のないものであり、木綿織布工の骸骨がインドの平原を真っ白にしております」と証言するほどの情況となった。」*(漢数字なのはタテ書きなので)
 これがしかし、読み返していてどうも落ち着かないのです。

 マルクス『資本論』ディーツ版、第一巻 S.454 からの引用(つまり孫引き)のままじゃおもしろくないし、せっかくアヘン戦争では『ハンサード』のグラッドストン演説を引用したんだから、インドでも同じ程度の敬意を表したい、というので『ハンサード』を検索してすでに長いのですが、なぜかヒットしないのですよ。

 そもそもマルクスは比較的多く固有名詞を出す人なのに、なぜここで「インド総督」といって時のベンティンク卿という氏名を出さなかったのだろう。それから、『資本論』における議会文書からの引用は英語のままがかなり多いのに(必ずというわけではない)、なぜかこの部分の原文はドイツ語です。. . . bleichen die Ebenen von Indien.

 なにかありそう。

 もしや1834-5年というのは書き違いかもしれない(したがってベンティンクに限定せずに検索した方が賢明)。で、驚くべきことを知りました!(聡明なる読者には、すでに周知のことだったでしょうか?)
 インタネットに載っている日本語の引用文は、*の異版で、すべて『資本論』か(そうと知らずに)受験界で出回っているそのコピー。恥ずかしくなるほど、例外無し。

 英語の場合は、引用例が減るけれども、でも結局は『資本論』の英訳から。

 The misery hardly finds a parallel in the history of commerce.
 The bones of the cotton-weavers are bleaching the plains of India.

しかし、Clingingsmith & Williamson の共著論文 (2005)に遭遇。このPDFにいくつかの異版があるというのも、おかしいが、そのp.13, n.12 には、なんとマルクスの典拠は疑わしい/存在しない、とある。これから芋づる式にいくつかウェブ上の文献をたどるうちに、ぼく自身が35年も前に購入して所有していた Sandberg, Lancashire in decline (1974), p.166 もあった。すべての本の背表紙が見えるようになったわが仕事場にて、瞬時に探し出してみると、そこにすでに Morris の先行研究に言及しつつ、a perplexing feature of this [Marx's] quotation を指摘しているではないか!

 ぼくの目は節穴だったのか。

 今のところ、どの文献もハンサードや Parliamentary Papers を悉皆調査したとは述べてない(まだディジタル検索の時代ではなかったから)。それにしても、原著者のパトスと思い込みの名文を、そのパトスに参っちゃった後続の人びとが、何世代にもわたって無批判に再生産しつづけて、その回数だけで「古典的」になっちゃった例、と判断してよさそうです。

 E・P・トムスンの moral oeconomy についても、同類の現象ですよ。
 結局、疑わしきは用いず。かくして、かなりの日時を費やして、岩波新書では上の文は削除し、3行ほど減らすことができました‥‥というご報告です、大山さん。

 以上はしかし、学術性のある論点なので、いずれ秋に時間ができたら、一つ一つ確定しつつ、研究ノートにでもしましょう。

2012年8月16日木曜日

連合渡御


このところ多忙ということもありますが、なぜかこのblogger が写真投稿を受け付けなくなって、困った、というより気をそがれて、書きこみが減りました。

前回8月11日は深川・富岡八幡の例大祭(3年に一度)について言及しました。
11日に日本一の鳳凰神輿が深川から日本橋、お台場までプロセッションで巡回。
12日は55の町内の神輿が連合渡御、という大イヴェントです。
なんと今年は初めて天皇皇后両陛下が八幡宮に行幸される、とは聞かされていなかったので、妻だけが「美智子さんに会ってきた」などと自慢しています。

ぼくはそこから数百メートル離れた路上で、このような写真を撮っていました。
なにしろ各町内の神輿の列は前後にパフォーマンスの男女を控えていますから、かりに各100メートルとすると、100×55=5500m、すなわち5.5キロの長さになります。これが左右計7車線の永代通りを埋めて、はるか見渡すかぎり続くのだから、すごい迫力。

遠くに白い水煙が上がっていますが、これは神輿をかつぐ人びとのための水掛け所。近くで見ると、こんな迫力です。

2012年8月11日土曜日

富岡八幡の例大祭


http://www.tomiokahachimangu.or.jp/reisai/h24/html/reisai.html
関連して渡御経路・時刻などの一覧ページもあります。↑

11日(土)は日本一の神輿=鳳車渡御。午前には富岡からなんとお台場まで行って帰ってきて、午後には深川一帯と清洲橋・永代橋方面への渡御。朝は8:00出発、車列からなる神社のプロセッション。
3年に一遍だし、夏に居ないことも少なくなかったから、ケヤキ並木の越中島通りを直進とは、これまで知らなんだ‥‥

12日(日)は55の町内の神輿の連合渡御。朝は7:30出発。

 こちらこそ町人のパフォーマンス文化。よい写真もあります。
http://kondohistorian.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html 【写真登載トラブルが解決しました!】
 これに朝イチから付き合ったのは、なんと Contini さん、亀長さんとご一緒した10年前(2002)のたった一回切りでした。ちょうど一昔前。

2012年7月14日土曜日

けやき並木




 暑い日射しのもと、気持を爽やかにしてくれるのは、緑陰です。

 本郷のケヤキの大木群は、文京区の台地が武蔵野の東端だったことをあらためて認識させてくれますし、ゴシック大聖堂のネイヴを見上げるごとき感があります。その森林を思わせる大樹に敵うところは他になかなかない。

 わが家の近くのケヤキ並木は、はるかに若くて背も低いけれど、それにしてもご覧のとおり、暑さも爽やかだと感じさせます。あと20年、30年もすると、貫禄が出てくるかな。

2012年6月23日土曜日

9月11日~14日

AJC(日英歴史家会議)について進展がありましたのでお知らせします。

 予定どおり、9月11日から14日までケインブリッジ大学のトリニティホール学寮にて開催されます。共通論題は〈History in British History〉.
 まもなく(来週から?)Trinity Hall にて宿泊予約サイトが開きますが、委員はもちろん、プログラムに名のある方々は特別の事情がないかぎり、こうした手続きをとる必要はありません。

 ロンドン大学の IHR のサイトにも、下のとおりプログラムが登載されていますので、ご覧ください。ジュニアのセッションも含めて、請うご期待。
http://www.history.ac.uk/events/event/4290
美しいケインブリッジのなかでも gem と呼ばれる Trinity Hall でお会いしましょう。



2012年6月19日火曜日

吉田秀和さん



 なんと98歳! この人のハスキーな声は土曜のラジオ NHK FM「名曲のたのしみ」でごく最近まで聴いていました。ラフマニノフのアメリカ経験でした。5月末に亡くなっても、録音済のものをまだ放送するとのこと。

 しかし、吉田秀和といえば、なんといってもその文章です。1975年から刊行された『吉田秀和全集』(白水社)、そして『朝日新聞』の音楽時評は愛読しました。「British Museum ではどこの馬の骨かわからぬ訪問者にもベートーヴェンの自筆楽譜を触って調べることを許す、その大国の器量」といった文明論。そして、あまりにも平明な楽譜の解釈、あまりにも平明な演奏の批評(コンサート会場で演奏時間を計測している!)には、感銘するというより、こんなに分かって「いいのかしら」と思ったりした。【いま『吉田秀和全集』は段ボール箱に入ったまま出てこないので、記憶だけで認めています。ご容赦。】

 学生時代に初めて読んでから、忘れがたい文がいっぱいあるけれど、一つは戦後の日比谷公会堂で、当時の吉田青年がだれかに投げつけるつもりで礫を握りしめてコンサートに行き、演奏を聴いて、もうそんなことはどうでもよくなったという箇所。【このだれか、というのは小林秀雄だろうか? 】

 もう一つは1983年、ぼくは帰国して名古屋にいましたが、すでに『全集』を出して圧倒的な影響力をもつこの人が、来日したホロヴィッツの演奏について、「なるほどこの芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は ─ 最も控えめにいっても ─ ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」という名言を吐いた。‥‥

 そうです。ただの骨董品かフェイクを世間が有り難がり続けているなら、(根拠を明らかにしつつ)よく分かるように明言したい。

 率直で事にそくした批判を、なぜ人は避けてきたのだろう。そして曖昧な「権威」にたいしても「風評」にたいしても、こんなに脆弱な「国民」。右であれ左であれ、変わらない。

 結局、吉田さんはただの音楽評論家やエッセイストだったのではなく、20世紀日本の産んだブルジョワ文明論者の代表の一人、そしてコスモポリタンだった。たとえばショパンの**を好きで堪まらない人が、彼のコンサート批評に不満で「吉田秀和ってそんなに偉いのか」と反発したりすることは一杯あっただろう。それは、文明論者と蓼喰う虫(オタク)の文化衝突だったにすぎない。

2012年6月16日土曜日

雨にけぶる超高層

大雨の災害に見舞われている地域の皆さんには、悠長な話で申し訳ありません。
 この近隣では、雨天は景観を変えて、好天なら見える超高層の建物を覆い隠してしまいます。今日のような天気だと、スカイツリーは何キロも先なので当然のように白い雲に覆われて、全く見えません。しかしかなり遠方の橋や構築物は、低い位置にあるかぎり見える。

 雨雲の高さが問題で、このオフィスから約500メートル離れている超高層マンションは上層部が見えません。10階で高さ約30メートルと概算すると、約33階以上≒約100メートル以上の部屋では、きっと窓外が真っ白で、なにも見えないのでしょう。じつはオフィスビルも含めると、100メートル以上の建物は全部で6棟見えるはずで、見えかた、すなわち雨雲の模様にムラがあることもこの写真から分かります。
 そもそもカラー写真なのに色彩が乏しくて、産業革命期の煤煙を示す歴史写真のごとき雰囲気です。

2012年6月5日火曜日

「‥‥歴史学」と「‥‥時代」

2日(外語大)、3日(東洋大)と続けて、研究会というべきかコローキアムというべきか、意義深い催しがありました。すなわち、「二宮宏之と歴史学」と「『社会運動史』の時代」。発言者の半分以上が重なっていた。
 2日のぼくの発言については、事後に賛成の意を表してくれた方もありましたが、二人から「話が長い」とか「ポイントは何だったんだ」とか難じられました。そもそも司会を困らせてしまいました。たしかに口頭でレジメ無しで語るときには、聞き手のことも考えて simple & clear でなくちゃいけません。反省します。
 で、要点は2つ。第1は、二宮宏之は一人だったのではない、同時代の交友のなかで考え発言していたということ。
 第2は、当日も引用しましたが、ジョルジュ・ルフェーヴルの言。
「‥‥[みずから探求することなく]他の研究者の成果を借用して仮説をたてる。それじたいが悪いわけではない。だが、歴史家はそれだけで終わるわけにはゆかない。‥‥歴史家は質問表をつくり、史料調査から始めて、史料の指し示すところを組み立てる。ドッブとスウィージは問題を定式化した。さあ、いまや歴史家の領域で仕事をしよう。」
 この文を朗読して着席すれば、必要十分だったのかな。もちろん史料なるものの問題性も論じないとしたら阿呆です。

 反省して翌3日の会合は、5分未満の発言で済ませましたよ。

2012年5月30日水曜日

AJC 2012: provisional programme


右肩の FEATURES の一番上をクリックしてご覧ください。
今朝きまった仮プログラムを登載しました(会場は、上の写真の Trinity Hall です)。

予約などなどについては、また後日。

2012年5月21日月曜日

クールビズ

今日という日に、日食の話題ではなく、済みません。
 今朝は公務のため、いつもより早く出て有楽町線で都心部へ(永田町乗り換え 9:14)。東西線と大違いで、立っている人は少ない。車中で気付いたのですが、こちらと対面の客の男女比は1:1。男性小計7名のうちぼくも含めて計6名がダークスーツ。しかしネクタイをしているのはぼく一人! なんとこちらとあちらの計14名中、スーツ姿は多数派なのだが、タイを締めているのはたった一人。それほどに世の中にクールビズなるものは普及していたんですね。朝の都心にむかう通勤電車に乗車して初めて自覚したことでした。
 とはいえ、目的地の会議に出席してみたら、真ん中の机を囲んだ計9名のうち男性は7名、うち6名がタイを装着していました。ノータイの方は霞ヶ関の方でした!
 電車の中での観察とあわせ考察すると、つまり定刻出勤の行政や企業の上級職の皆さんはノータイで、大学関係者の場合は「公務」でふだんと違う所に出るときはスーツにタイと「気合いを入れて」臨む、ということかな。会議の設営者は、大学教授たちがそうするだろうと想定して、やはりタイ着用と決めたんだろうか。
 じつはぼくもふだんの授業や大学の会議にはノータイです。結局、ダブルスタンダードです。
 今朝のようなスーツにタイ、というのは非日常の催しに参与し、粗相のないように、慎重にしっかり討論して方針を決めよう、しかも定刻に終わるように議長に協力します、という決意表明でもある。定刻の10分以上前に着席して前回の議事録を読みながら待機する、なんて、教授会でもありえないことです!

2012年5月15日火曜日

教室変更

2012-05-17 木曜日 立正大学の2時限 西洋史料講読 ですが、 433 から → 9B15 へ変更します。
433では黒板消しが安定せず落下するということもありますが、 なんといっても、この部屋ではスライドを見てもらうのに手間がかかりすぎるという問題です。
山手線の胴体広告(英国政府観光庁)から始まった史料講読ですが、 スライド写真なしには授業が進みませんので、 やや広すぎる部屋ですが、今週から以後、通年でこちらに移動します。

https://portal.ris.ac.jp/ActiveCampus/index_after.html にも掲示されているとおり相違ありません。

2012年5月7日月曜日

窓外の陽光

雨天もつづきましたが、それにしても4月の大学精勤は5月の連休で一息つき、オフィスもこんな感じに整頓の途上です。カメラの後方には、まだ段ボール箱がたくさん積み上がっていますが。
 目的は美しく贅沢な部屋を造ることではなく、効率的に仕事をするためのオフィスです。装飾なし、機能性、そしてほんの少し空間的な余裕を、という趣旨で構築しつつ、とにかく仕事の再開を優先していますよ、大山さん。(写真はやや鮮明さに欠けますが、窓外の陽光を強調したくて‥‥)

2012年4月28日土曜日

『フランス革命はなぜおこったか』(山川出版社)

柴田三千雄先生の遺著、〈フランス革命史再考〉の三巻本のうち第一巻だけですが公刊されました。 cf. 『史学雑誌』120-7(2011年7月).
予告されていた『革命はなぜおこったか - フランス革命史再考』というタイトルは、最終的に上のように変更されました。
 練りに練ったクールな文章で、著者がなにを考え、なにを伝えたかったかがよく分かる。 弟子の福井さんとぼくの協力による共編ですが、若いアンシァン・レジーム研究者の支援により、細部にも気の配られた本となりました。ご覧ください。