2015年10月20日火曜日

クレオパトラの鼻

 パスカル『パンセ』の3巻本。塩川徹也さんの新訳により、岩波文庫から刊行中

 上巻には「人間は一本の葦にすぎない。‥‥しかし、それは考える葦(roseau pensant)だ」【断章200番:p.257】がありましたが、今月刊の中巻には、いよいよ例のクレオパトラの鼻の想定があります。「もしクレオパトラの鼻がいま少し低かったら‥‥」という有名な断章ですが、前々から2つほど疑問でした。
1) 原文は Le nez de Cléopâtre, s'il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changé.
なのになぜ、普通の日本語訳では「もし」から説きおこすんだろう。そういえばルイ14世の科白とされる L'état, c'est moi.
についても「朕は国家なり」と語順を前後して訳す習慣ですが、なぜ? ささやかながらぼく自身が言及するときは「国家とは、朕のことなり」と訳してきました。
2) もう一つの疑問は、フランス語の plus court とは英語の shorter に当たりますが、これを「いま少し低い」と訳すのか。ちょっと(日本人のコンプレックスの反映した?)意訳だな、という感想でした。

 で、期待をこめて塩川訳『パンセ』断章413番を捜すと(そもそも恋愛論ですね):
 人間のむなしさを十分に知りたければ、恋愛の原因と結果を考察するだけでよい。その原因は「私には分からない何か」なのに、その結果は恐るべきものだ。この「私には分からない何か」‥‥が、あまねく大地を、王公を、軍隊を、全世界を揺り動かす。
クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し小ぶりだったら、地球の表情は一変していたことだろう
。【中巻、pp.43-44】

 上の 1) について言えば、語順をフランス語の出てくるまま順当に「クレオパトラの鼻」マルと、まず言い切ってしまう。じつは似た断章がすでに出ていました【上巻、p.238】。
 人間のむなしさを示すには、恋愛の原因と結果がどんなものであるかを考察するのにまさるものはない。なぜなら恋愛によって全世界が変化するからだ。クレオパトラの鼻。

この断章を丁寧に補って、クレオパトラの鼻を例に想定しての推論だとしっかり確認したうえで、もしそれがもう少し‥‥だったら、という非現実の仮定による counterfactual な議論に進むのですね。 ということは、同様に「国家と言えば、それは朕のことなり」という訳でよろしい、という免許をいただいたような気分!

 そこで 2) について見ると、「もう少し小ぶりだったら」ですか! ギリシア鼻か、ラテン鼻か、高いか低いか、長いか短いか、といったよく分からない論議をするよりは、court というフランス語には英語の short と同じく、「なにかが足りない」「不十分だ」という意味もあるので、そちらに寄せて「小ぶり」と言ってみたわけですね。
 そもそもパスカル先生は、「私には分からない何か」が、あまねく大地を、‥‥全世界を揺り動かすと言ったうえで、パラフレーズして「私には分からないエジプト女王の顔の真ん中の魅力」が大地を、カエサルを、ローマを、世界史を揺り動かした[ここまでは過去の事実]。もし、その女王の顔の真ん中の魅力になにか足りないものがあったなら[counterfactual]、カエサルもローマも揺るがず、プトレマイオス朝の運命も違っていただろうし、地球の全表情(toute la face de la terre)は一変していたでしょう、と言い切るわけです。
 すごいですね。【地中海の覇権のゆくえくらいで、「地球の全表情」なんて言わないでよ、とアジア人なら言いたくなります!】

2015年10月18日日曜日

文学部がひらく新しい知

 東京大学文学部にて、ホームカミングデイの催し
「文学部がひらく新しい知」という集会があるというので、行って参りました。
と言うより、むしろ、他ならぬ熊野純彦学部長・研究科長が
時空の近代、人文知の時空--あるいは国家と資本と文化について
という60分の基調報告をなさり、これに橋場弦、齋藤希史、唐沢かおり、といった論客が応じるプログラム。そうと知ってしまうと、行かずんばならず。勤務先には多少の無理を承知していただき、土曜の午後の本郷に参りました。
http://www.todai-alumni.jp/hcd2015/2015/08/post-d583.html
 「入場無料、定員200名(先着順)」
というので、まさか「満員御礼」、ご免なさい、となってはいかんと早めに一番大教室に着席しました。年齢層からいうと、ぼくくらい(ないしずっと年長)+20代くらいの学生たち、が聴衆のほとんどでした。

 仏文の野崎歓さんの当意即妙な司会により進行。直接的には、文部科学省が国立大学の「‥‥教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については‥‥組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」とした「見直し」にたいする否定的直観から出発した、熊野研究科長の哲学・倫理学の講話でした。和辻哲郎とハイデガー、そしてマルクス、ヨアヒム・リッター、バターフィールドが引用されました。
 熊野さんによれば、現在の文科省と国立大学法人で進行中の事態は、近代に確立した人文知の生産・再生産の「外部化」という位置づけです。ただし、これが≒民営化なのか、どなたかが言い換えられた「アウトソーシング」なのか、ちょっと分からないところが残りました。
 ぼくのような世代ですと、1970年代・80年代の国立大学の貧困と自由な時間(そこに民青的平等主義+物取り主義が貼り付いていました)は、94年以降の活性化と忙しさに比べて、ぬるま湯的であったが、けっして良くはなかった。90年代の変化は、大学院生への学振特別研究員制度、科研費による海外渡航の自由、といった明らかな改善が伴っていました。ただし、94年前後の大学院重点化にともなう制度いじりについては、何が良かったのか、ぼくには分かりません。

 3人のコメントは、それぞれの背景がちがうので、発言のトーンも違いましたが、ぼく個人としては、人文学および東京大学の特権性、あるいは野党性に居直るよりは、唐沢さんの「うちらこそメインストリーム」という矜持、齋藤さんのどこまでも交通と通信(マルクスなら Verkehr)を続けるという姿勢が望ましいと思います。
 そもそも国家の営みから「外部化」されたからといって、即、資本の市場に放り出されることを意味するのでしょうか。そこには「市民社会」「公共圏」「民間公共社会」などと呼ばれる領域、人文社会系の学問がさんざ論議してきた問題があります。ぼくたちの世代が平田清明を夢中に読んでいた、その直後にハーバマスが登場して、のたまうことには、公共圏と(広義の)営利活動は無縁ではない。金もうけやスキャンダルのニュースと、権力批判や繊細な文芸は表裏一体で新聞雑誌を発展させた、と。今日ではアソシエーション/チャリティ/NPO/メセナなどの語で言われる活動もあります*。
 論文の仕上げと競争的資金をゲットするための作文が重なって徹夜したり、寝不足のままアウトリーチ活動に出かけたり、といったことも若い時期にはあっても悪くはない。それにしても今日のディスカッションの教訓は、時には落ち着いて、自分の学問なるものが世のため人のためになっているか再考しよう;国民の血税から給料をもらっていることにどう申し開きをするのか(accountableなのか)沈思黙考してみよう;ということではないでしょうか。
 高踏的であるのは、どこか狂っている、健全ではない、と思います。

* J. ブルーア『スキャンダルと公共圏』(山川出版社、2006);近藤「チャリティとは慈善か」『年報 都市史研究』15(山川出版社、2007)

2015年10月5日月曜日

大学ランキングの意味


 Times Higher Education による大学の国際ランキングで東大、京大がそれぞれ順位を大きく下げ(23 → 43)(59 → 88)、ほかに去年まで200位以内に入っていた大阪大、東北大、東工大をはじめとする日本の大学が沈没した、と記事になっています。代わってシンガポール大(26)、北京大(43)などが日本の両大学より上位か同位に付けている、と。
https://www.timeshighereducation.com/news/world-university-rankings-2015-2016-results-announced
 べつにナショナリストとして言うわけではないけれど、第1に、どういった指標・計算根拠で算出された結果の一覧表なのか、ということを理解しないまま、煽るようなことを言ってみてもしかたないでしょう。米英をはじめとして、英語で教育している大学の順位を計算しているわけで、フランスの École Normale Supérieure が54位(東大より下)にあることにも現れているように、そもそもグローバル化=英語化という大前提で算出しています。
算出方法はこちら↓
https://www.timeshighereducation.com/news/ranking-methodology-2016
 詰まらんランキングなのですが、しかし第2に、この偏位性のあるリストのなかでも去年まで東大は23位、京大は59位、そして両大学以外にもコンスタントに3大学が200番以内に入っていた。それが今年はそれぞれ大きく順位を下げた。何故か、という問題は残ります。THEの解釈は↓
“Research depends on the free movement of both ideas and people, and countries that adopt a more closed stance pay the price in the end. This is a prime cause of the substantial long-term declines in the global position of research in both Japan and Russia.”
これにフランスを加えて『ふさがれた道』(Stuart Hughes)と言いたいのかな。
スイス・ドイツ・オランダから北欧圏は健闘しています(アメリカの人的資源の出所です)。ちなみに行ったことのある大学で、レイデン大は67位、コペンハーゲン大は82位、ルンド大は90位。

 ただし、日本の大学が一斉に順位を下げているのは、円安(ドル換算で相対的に低い評価になる)により、研究資金・予算・収入が下がったと見なされたことにもよるのではないでしょうか。逆に、中国の大学が一斉に順位を上げているのは、国策の「成果」はもちろん、半年くらい前までの強い元の反映でしょう。来年度はまた入れ替わる、ということが予想されます。 

 最後に THE の編集者は、日本の大学の「実力」について、次のような気休め(?)にもならないコメントをしています。グローバルにみたら数的に第3位の中位の実力、ちょっと製造業における実力と似ている!
But despite its diminishing performance, Japan still has strength in depth: it is third place in the world in terms of the number of institutions represented, with 41 appearing in the top 800.

 それにしても、旧帝大と、旧制の大学(東工大や東京医歯大など医・工学系の大学)のほとんどが、慶応、順天堂、東京理科大まで顔を出していますが、早稲田が601~800のランクのビリから3番目に名を出し、一橋大は顔を見せないといったリストに、いったいどういう意味があるのか、ということですね。
 見方をかえると、41/800 という数字には別の寓意があって、日本の「大学」と称するものの合計が約800ですから、そのうち医・理工系で通用する機関が約41という風にも読めるのかな?

2015年10月3日土曜日

遅塚先生

『日本経済新聞』には有名な「私の履歴書」とともに、そのマイナー版のような交友録のコラムがいくつもあり、それぞれ良いのですが、
9月29日(火)の「交遊抄」には立石博高さんが「青銅の気持ちで」と題して遅塚忠躬先生のことを書いておられます。東京都立大学時代(1969-87)に大学院生にどう接しておられたのか、ぼくの知らない世界ですが、でも立石さんが書いておられることは十分に想像できる。ぼくの知っている遅塚さんです!

ぼくが遅塚さんに初めて出会ったのは何年何月何日かいまとなっては言えないけれど、しかし、たしかに東大の授業再開後、ぼくは院生で、おそらく1971・2年のある日の本郷の西洋史研究室、今では談話室と呼んでいる、あの大きな机を囲む部屋でした(名誉教授たちの肖像写真はまだなかった)。遅塚さんのほうから、「あなたが近藤くんですか。遅塚です」とにこやかに明朗に、声をかけてこられたのです。
→ 写真
以後、本郷に非常勤講師でいらしたころ(1975-76年)にぼくは助手で授業を聴講する権利はなかったけれど、3・4学年ほど下の青木康や深沢克己などと一緒に講義を欠かさず聴いてしっかりノートに取ったものです。一言一句逃すまいと、可能なかぎり速く筆記する術を身につけました。そのころの深沢くんは目黒区のアパートと遅塚家とが案外に近隣だというのを発見して、ぼくたちにその喜びを語ったものでした。1976年10月、土地制度史学会の高知大会にまで一緒に出かけたのは、そうしたことの延長でしょう。みんな遅塚ファンだったのです(藤田さん、高澤さん、岩本さんをはじめとする女子学生だけではありません)。
その後もあらゆることでお世話をかけっぱなしで、パリのモンパルナスでの会食、サンドゥニへの珍道中とか、名古屋の研究会とか、たくさん楽しいこともありましたが、『過ぎ去ろうとしない近代』(1993年3月)以降、晩年は、むしろ先生とぼくとの距離感がはっきりしてしまいました。最後は、本郷構内でお一人でおられるところに遭遇したのですが、2010年の春、『史学概論』公刊の直前だったでしょうか、弱っておられました。
告別式で棺のなかの御遺体と、その脇に添えられていたものを見て、感極まり嗚咽したぼくにたいして、ある男が「近藤さん、泣いちゃだめだよ」と言いました。

先生の大きくて優しい声は、いつも心のなかに響いている。

「交遊抄」を読み、立石さんとぼくは近いところにいるのだと思いました。

2015年9月15日火曜日

おもろい大阪

 ぼくの父母は結婚してすぐに大阪・住吉区に住み、1945年3月の大阪大空襲に遭難してたいへんな思いをしました。松山に戻ったあと、1954年からは父が大阪梅田に通勤するにあたって、阪急・桂駅の近くに新居を構えた、といったことがありますから、ぼくは東京・関東しか知らない人びととは違う感覚をもっています。
それにしても、このところ大阪に行く機会がふえて、阪大・中之島センターに行くには環状線・福島駅から歩ける;中之島・川の手がおもしろいし、東洋陶磁美術館はすばらしい;そこから鉾流橋を渡って裁判所の裏手にまわると、古美術店やフランス料理店などの連なる一瞬、ここはどこだったかと迷うような街路が出現して、楽しいですね。
でも駅のエスカレータで、うっかり左手に立つ自分が目立つのを認識すると、こうした写真をおもろいと考えるのと相通じるものがありそう。
中之島の市役所で、こんなコーナーを見つけました。カワいいね。ぼくが東京で住んでいる深川から日本橋にかけても川の手です。近世までの大都市は、水運の便がなければ成り立たないとは、このブログでも先に書き付けましたかね。

堂島に米市場ができ、商売人の市民社会が形成される1730年は、なぜか時代的にロンドンで a polite and commercial people が語られるのと同時代です。
でも、こういう「面白い」大阪土産の命名はよそではしないと思うんですが。

2015年9月7日月曜日

Windows 10 へのアプグレード

土曜の夜のことでしたが、「案ずるより産むは易し」。
(予約だけは以前に済ませていましたが)何もトラブルなしで、開始して1時間(?)。じつは他のことをしながらの作業でしたので、画面をつねに見ていたわけではなく、それ以前に終了していたのかもしれません。
「数回 再起動します」
というメッセージが途中にあり、実際、何度も再起動していたようですが、Windows XP におけるように再起動のたびにpwを入力する手間はなく、機械的=自動的に「最後の処理をしています」まで進行しました。

心配していたのは、これまですでに蓄積していたソフトおよびデータ(ファイル)の保存と再構築‥‥というOS変更に付随する手間でした。そのために『日経 PC21』10月号〈Windows 10 アップグレード完全ガイド〉も買い込み、外部メディアも用意して臨んだのに、そうした支障や作業はありませんでした。拍子抜け。一番最後に「簡単起動」でのみ、pw入力が求められましたが。そして、心配していた「一太郎2011創」や「秀丸エディタ」といった旧ソフトウェア【今ではアプリと言うんですか?】も生きていて正常に使えました!
OS の変更(移行=引越)というより、あたかも同じOSのなかの「大事な更新サーヴィス」のような感じです。

遡って、先週までの現状を申しますと、わが3台のPC(自宅、Office、SSDノート)は、2014年春の XPの更新サーヴィス停止いらい、Microsoft Security Essentials 更新プログラムで生き延びていた、勤続6年ないし7年のヴェテランです。
大学の部屋にあるお仕着せの Windows 7、そして個人保有の機動的に持ち歩くべきウルトラブック(Windows 8.1)とぼくは相性悪く、必要に迫られないと使わないという不便きわまりない現状でした。
じつは12年前から居住する自宅の有線LAN 環境が良いので、無線のルータさえ去年まで入れずに過ごしていました! 去年秋のスウェーデン・デンマーク・ロンドンで借用した iPad 初体験、そして暮れのスマホ(Xperia)導入がなかったら、まだ wireless に転向していないかもしれない。
もっぱら思考し執筆し推敲するときは、インタネットに接続していなくても stand-alone で仕事できる(そのほうがメールも見ずに集中できる)という考え方だったのです。

今回アプグレードした Windows10 の画面は、ほとんど XPのそれに近く、物書き/考える人には懐かしいものです。ようやく、これにて XP はお役ご免。とはいえ、そのハードディスクは危機対応記憶装置として、そして時折は気分を変えての文章作成機(ワープロ専用機?)としてまだまだ働いてもらいます。
今週からの現有デヴァイスは、XPのままの物が3台、アプグレードしたWindows 10 が2台、スマホ(Xperia)が1台、となります。

2015年9月4日金曜日

鶴島博和 『バイユーの綴織を読む』


待望の『バイユーの綴織を読む - 中世のイングランドと環海峡世界』(山川出版社)
を手にしました。
綴織(つづれおり)の写真はすべてカラーで、関係史料をていねいに訳出しつつ対照するという編集。
ぼくの『イギリス史10講』pp.35-40あたりで書いたことに比べれば、当然ながら、はるかに叙述の細部にも、研究史的にいろいろな配慮が行きとどいていて、すばらしい。モチーフは、ただ「ギヨーム公がハロルド簒奪王を追討することの正当性」だけでなく、むしろ「ハロルド王の悲劇」をうたいあげた物語なのかもしれない。鶴島さんは、ハロルドの死についても、制作過程についても、よくわかる説明を加えています。

詳細な索引もついて、332+ページで 4600円という信じられない定価! 山川出版社としても「売れる」という確信を得たわけですね。
著者が「出版企画をもちこんだのは、30年近く前のこと」という豪傑ぶりですが、「日本語で書こう」(p.331)と方向転換するまでが大変なんだな。ぼくも肩をたたかれたような気がします。

謝辞には「神経的多動性症候群」と書き付けておられますが、
こういった作品を産んだのなら、それも悪くはないじゃないですか! 
若手のうちでも、成川くん、内川くんが少しはお手伝いできたとしたら嬉しいかぎりです。

2015年8月30日日曜日

安倍首相談話 と 賢人たち

ご無沙汰しています。暑い夏でした。
8月14日の「首相談話」について、旧聞に属するかもしれませんが、一言申しますと、有識者会議の強い意見の成果でしょうか、ミニマムの合格点になったと思います。満点ではありません。
とりわけ政府の責任で発表された英語版にも注意したいと思います。ぼくはこれを北海道・礼文で読みました。
「‥‥痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明してきました」という日本語が過去形だと問題にする筋もありましたが、英語では明白に、過去形でなく現在完了形です。
Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war.
念のため、現在完了形とは、過去のこと、終わったことでなく、present perfect (完璧なる現在)という時制です。高校英語では「現在完了の3つの用法」といったアホな教え方をしていますが、(経験・継続・完了のいずれであれ)あくまで現在を歴史的にみた表現。単純過去や単純現在とちがって、今を成り立たせているものの来し方を見通す時制でしょう。割り切っていえば、過去形でなく現在形であり、条件反射の時制でなく、今を歴史的に見渡す時制です。
The past is not dead; it's not even passed.
というフォークナとも共通する「歴史をみる眼」=「現在をみる眼」=「将来をみる眼」。これを、安倍首相の個人的な好悪をこえて公に発信せよと説得し、迫り、「うーん、しかたないか」と従わせた賢人たちに、敬意を表したいと思います。

2015年8月29日土曜日

永栄 潔

朝刊にて、永栄 潔 の名に遭遇。
『朝日新聞』を定年退職して大学非常勤講師や、高校同期会でも活躍している永栄。その著書『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』で第14回新潮ドキュメント賞を受章と。おめでとう!
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/documentsho/

千葉高校時代には陸上部でも生徒会でも活躍していた。女の子の心をときめかしてもいた。結局、結婚したのも同期の女子だ。ぼくたちが2年生の秋、翌年度から3年生を文系理系に分けて編成するという学校の告知にたいして、千葉高校の教養主義の終焉というので、ぼくたちはブツブツ言っていたのだが、全学集会で一人挙手して、教頭に質問があります、といった永栄は格好よかった。そのあと一人召喚されて、「はい」と言わされたらしい! ちょうどヴェトナム戦争、北爆の1964年だった。
今も体形を維持して格好いい68歳。どうぞお元気で!

2015年8月7日金曜日

首相の有識者会議

 毎日 暑いですね。
 例年、その暑い8月には20世紀史の史料や史実が公開されて目を覚まされますが、この夏は、8月14日録音の「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)の原盤発表にかかわり「御文庫付属室」の写真、そしてなにより安倍首相諮問の有識者会議「21世紀構想懇談会」の報告書が各新聞に載りました。この16名の「有識者」の選定にどういう力が働いたか存じませんが、北岡伸一さんのイニシアティヴは明らかで、9割方は現実的で穏当な委嘱だったと思われます。林健太郎も中曽根康弘も「侵略戦争」と認めているアジア・太平洋戦争ですが、なかには冴えない先生も交じっていて「国際法上定義が定まっていないなどの理由で「侵略」という語を用いることに異議が表された」とのことです。これがだれなのか、簡単に同定できますね。
 じつは靖国神社について論及していないのも不満ですが、とはいえ、まずは現首相に「読む気」になってもらわなくてはならず、そこは一種のレトリックとして、必要不可欠、絶対に踏まえるべきことを明記し訴えた、という位置づけでしょうか。

 ぼくの側では、もっと卑小なレヴェルでの発言ですが、『週刊読書人』7月24日号に〈上半期の収穫〉をしたためています。今年の3点は、
T.ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)、
J.ウァーモルド【どうしてワーモルドじゃないの?】『ブリテン諸島の歴史 17世紀 1603-1688』(慶応義塾大学出版会:Langford 監修の SOHBIの翻訳)、
そして
服部春彦『文化財の併合』(知泉書館)です。

2015年8月4日火曜日

Paul Langford 1945-2015

 ラングフォド先生の授業(講義)を、ぼくは1981年にケインブリッジの Faculty of History 棟で聴講しました。オクスフォードから一種の非常勤講師として1学期間だけいらしたのです。ぼくの2歳年上とはいえ、24歳から特別研究員(junior research fellow)として研究に専念し、 The Excise Crisis (OUP, 1975)をはじめとして、18世紀の諸イシューを焦点に、政治社会史をダイナミックにとらえようとする仕事を次々に発表する新しい星として、日本でも松浦高嶺さん、青木康さんをはじめ、知る人ぞ知る研究者でしたから、毎週欠かさず聞きました。あのとき36歳だったのですね。

 ぼくの先生 Boyd Hilton, そして John Morrill と同期で、同じオクスフォード歴史学の秀才3人組。Langford (18世紀)が、生涯、オクスフォードで教え、(HRB、一種、日本学術振興会の会長さんみたいな激務でロンドンにいた期間は別として)勤務したのにたいし、Morrill (17世紀)、Hilton (19世紀)の2人は、ともに以後ケインブリッジで生涯を過ごすことになった。オクスブリッジのどちらが上か、強いか、というのは(ほとんどセリーグとパリーグを比べるのに等しい)愚問に属するけれど、それぞれの歴史学部の顔となったわけです。
 その主著 Langford, Public Life & the Propertied Englishman (OUP, 1991) は Ford Lectures の大冊ですが、2つの意味で印象的でした。1) J. ハーバマスにただの一度も言及することなく18世紀イギリスの言論、公共性、ブルジョワ、商業生活を論じていること。2) 18世紀前半の宗派がもろに表面化する係争的政治文化から、後半への転換を論じるところで Kondo, The workhouse issue at Manchester (Nagoya University, 1987)が数度にわたり論及・引用されていること。

 1995年、ロンドン在住中でしたが、Joanna Innes の仲介でラングフォド先生の18世紀史セミナーで研究報告することができました。リンカン学寮の中庭に面した、明るい=ネオバロック風の部屋。事後に恒例の The Mitre で一杯飲んだあと、 Covered Market 近くのピザ屋で、上の2点について改めて尋ねてみました。2) については外交辞令的な(?)お褒めの言葉でしたが、1) についてはハーバマスなんて読んでないし、影響も受けていない、自分は経験主義史家だ、と繰りかえされました。

 まだ若いぼくとしては、こうした答えにはいささか不満が残る夜でした。しかし、この English elite のイメージとは異なる風貌の、オクスフォードを代表する知性と議論できて、なおぼくの側の地平の広まりと深まりが必要だと再認識したことでした。やはり南ウェールズの出身で、どこか John Habakkuk に似た雰囲気でしたね。
 しばらくご病気だったと聞いていましたが、訃報を聞き、いろいろなことが甦ってきました。ご冥福を祈ります。

2015年7月25日土曜日

日英歴史家会議(AJC)プロシーディングズ


 旧聞に属す、とお考えかもしれません。2012年9月にケインブリッジ大学トリニティホール学寮にて開催された第7回日英歴史家会議(AJC)ですが、その編集プロシーディングズは未刊行でした。諸般の事情が複合して、会議の後すみやかに刊行することかなわぬまま経過しておりましたが、この間の友人たちの奮闘努力により、ようやく公刊にいたりましたので、お知らせします。xii + 322 pp.の美麗な本です。
 表紙写真は開催時のトリニティホールで、会議場は手前にみえる看板の矢印のとおり直行して歩いたなお先にありました。The hidden gem という渾名をもつこの学寮において、History in British History を共通テーマにかかげた有意義で楽しい会議が3泊4日にわたり実現したのは、なにより11名のAJC委員(x ページにお名前が列挙されています)とロンドン大学歴史学研究所(IHR)、そしてトリニティホール学寮長ドーントン教授の協力の賜物です。

 じつは各セッションのコメント、また若手のペーパーについて収録できなかったものが少なくないことは残念至極です。もし時宜を逸したとのそしりがあれば、甘んじて受けます。巻末には Appendix として AJC の第1回(1994)~第7回(2012)のプログラムを収めました。これは後の刊行物ではなく実施時のプログラムによるもので、史料的な価値がないではないと思われます。
 たしかに完璧とは言いがたい刊行物ですが、Preface の最後にお名前を刻印した方々の助力があってこそ日の目を見ることになりました。叱咤激励をいただいた皆さまに感謝いたします。

 なお 今年8月10~11日には大阪大学中之島センターにて第8回日英歴史家会議(AJC)が開催されます。
http://ajchistorians.wix.com/ajc2015
 この本は、会場でも頒布される予定です。 近藤和彦

2015年7月11日土曜日

『文化財の併合 : フランス革命とナポレオン』

むしろ新刊書で驚嘆し、おもわず姿勢を正したのは、『物語 』よりなにより、
服部春彦 『文化財の併合:フランス革命とナポレオン』 (知泉書館、2015年6月)
です。
1934年生まれ(81歳!)の服部さんの、これまでとうって変わって、文化政治史のお仕事。「普遍主義ミュージアム」の立場からする略奪・押収・併合と、その後の祖国への返還を分析したモノグラフです。「研究史の概観と課題の設定」から始まって、書き下ろし、xii+481ページ。第Ⅱ部は「フランスにおける収奪美術品の利用」、その第4章は「フランス革命とルーヴル美術館の創設」です。18世紀の絵画カタログを多用なさっているようですが、これらの「ほとんどは現在インターネットで閲覧可能」と。服部先生は IT を活用なさっていたのですね。興奮します。

天上の河野健二、柴田三千雄、二宮宏之、遅塚忠躬としては、これを見て脱帽するしかないのではないでしょうか。地上の現役研究者諸兄も、ね。

2015年7月10日金曜日

『物語 イギリスの歴史』

このところ AJC 2012 の会議録 History in British History の出版のために、何人かの助力をえて、火事場の踏ん張りのような日夜を過ごしました。この本は、8月の日英歴史家会議@大阪より前にご覧に入れることができます。

というわけで、近刊のみなさんの本については注意の行き届かないこともあり、君塚直隆『物語 イギリスの歴史』上・下(中公新書、2015年5月)は今ごろようやく拝見しました。上下2巻ともに巻頭の地図は、「近藤和彦編『イギリス史研究入門』(山川出版社、2010年)を基に著者作成」とあります。むしろ『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)を基に作成、とか記された方が正直か、と思いました。その他、日本語の出版も多用されているのは率直なのか、先行業績への敬意なのか。どちらにしても悪いことではありません。
でも、著者にはあまり研究史の展開/転回をアピールしようという気はなさそうです。ブリテン諸島の政治社会の複合性とアイデンティティについてなにか論じるとか、ヨーロッパ人や大西洋人やアジア人と混交した社会と歴史を呈示するとかいうことなしに、王様・女王様と政治家(politicians)の逸話をたくさん連ねただけの old-fashioned story なのでしょうか? 「帝国」という語もかなり安直に使用されていませんか? こういうことを続けていると、「だからイギリス史はつまらない」と、とりわけヨーロッパ史や中国史の先生方に揶揄されてしまうのです。昔からのパターンでした。逸話をたくさん連ねるのは良い。それによって読者の文明を見る目が修正され、歴史認識が広がり深まるなら。でも、ただトリビアが蓄積されるだけなら、退屈ですね。
「主要参考映画一覧」というのがあって、『冬のライオン』『ブレイブハート』から『英国王のスピーチ』『日の名残り』まで挙がっているのには、吹き出してしまった。『10講』の副読本だったのかと。ご免。でも『日の名残り』の英語原題名は間違っていますよ(下、p.241)、中公の校正さん! I remind you! ついでに「執事たち」という複数形も butler(使用人頭)は一人なのだから、可笑しい。

この『物語』上下は、著者の歴史観も出版社の志もよくわからない出版です。「きみの志はなんですか」と天上から尋ねる声が聞こえてきそう。

そういう事情もあって、おわりに(p.237)に「この辺で少しだけ単著は休ませていただき、‥‥と念じている」と記されているのでしょうか? そうだとしたらここは静かに、刮目して、君塚さんの次を見守りたいと思います。

2015年6月14日日曜日

立正大学 史学科の Facebook

紙媒体ではなく IT 空間で発信しようという方針です。

史学科の若手教員たちの奮闘により、このようなフォーラムが生まれました。
よろしく!
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2015年5月31日日曜日

オクスフォードの新総長

News and events

Professor Louise Richardson, currently the Principal and Vice-Chancellor of the University of St Andrews, has been nominated as the next Vice-Chancellor of the University of Oxford.

Prior to joining St Andrews in 2009, Professor Richardson lived and worked in the United States where she was Executive Dean of the Radcliffe Institute for Advanced Study at Harvard University.

Professor Richardson said of her nomination: 'Oxford is one of the world's great universities. I feel enormously privileged to be given the opportunity to lead this remarkable institution during an exciting time for higher education. I am very much looking forward to working with talented, experienced, and dedicated colleagues to advance Oxford’s pre-eminent global position in research, scholarship, and teaching.'

The Nominating Committee was chaired by the Chancellor of Oxford University, Lord Patten of Barnes, who said: 'The panel was deeply impressed by Professor Richardson’s strong commitment to the educational and scholarly values which Oxford holds dear. Her distinguished record both as an educational leader and as an outstanding scholar provides an excellent basis for her to lead Oxford in the coming years.'

Subject to the approval of Congregation, the University’s parliament, Professor Richardson will succeed the current Vice-Chancellor, Professor Andrew Hamilton, on 1 January 2016.

2015年5月29日金曜日

Christopher Bayly (1945-2015)

By Paul Lay < History Today, posted 13th May 2015

Paul Lay offers a few words on the eminent historian, who died in April.

The sudden, unexpected death last month of the distinguished historian Christopher Bayly, one of the pioneers of global history and a remarkable scholar of India in particular, came as a tremendous shock to those many who knew him, indeed anyone who had admired and absorbed his innovative, brilliant works.

2015年5月19日火曜日

日本西洋史学会大会 @ 富山

 富山で開催された日本西洋史学会大会、たいへん有意義に過ごすことができました。準備委員会の万端の用意と設営のおかげで、発表・討論も充実し、また懇親会の料理とお酒についても友人たちとともに感嘆いたしました。(じつは実際的にはたいへん大事なことですが、日曜日の昼食も生協食堂で明るく機能的、快適でした。)
日曜午後の小シンポジウムについても、複数の教室の間を移動しながら、いろいろと学びました。とはいえ、学術的に出席者すべてに強い印象を刻みこんだのは、記念講演の演者だったのではないでしょうか。

お二人の講演はそれぞれのお人柄がたくまずも伝わるものでしたが、個人的にはとくに立石博高さんのお話
近世スペインとカタルーニア:複合国家論の再検討
に感銘を受けました。なによりこれは第1に、近世ヨーロッパ国制史の先端的な「礫岩のような国家」論と「諸国家システム」論に棹さすもので、かつすばらしく具体的に立ち入った17世紀論でした*。スペイン・イベリア半島にかぎらず、同時代的な問題と受けとめました。かつての「17世紀の危機」論を今の研究水準で再考するならさらに得るところがあるでしょう(ぼくが学生のとき初めて Elliott という(詩人 T. S. Eliot ではない)名を意識したのは Past & Present 誌における general crisis of the 17th century 論争をめぐるエリオット先生の寄稿でした)。
第2には、学長という激務のなかで、よくまぁこれだけのものを準備なさった!と感嘆すべき密度の、明快な講演でした。中年以上の大学教師、研究時間の劣化を嘆く者すべてにたいする叱咤激励という効果があったのではないでしょうか。【*ただし『ヨーロッパ史講義』(山川出版社)をまだご覧に入れていなかった分、「時差」が生じてしまいました!】


学会のあと、日曜の夕刻には市庁舎の展望塔に登り ↑ 立山連峰を遠望して、さすが日本一の山塊という思いを新たにしました。望遠鏡も自由に見られて、この360度の眺望を無料で毎日・夜まで提供なさっている富山市の英断にも感銘しました。

委員会の皆さま、そして学生諸君にもお礼を申しあげます。 近藤和彦

2015年5月14日木曜日

酒都を歩く(英国編)

読売新聞 Online からこのような通知がきました。

>‥‥本村凌二先生の記事を今朝ほどアップしました。
>以下のURLです。
>http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/20150507-OYT8T50159.html
>2回にわけて掲載予定です。‥‥

関連ページがふえて、やや錯綜してきましたが、2月のぼくのインタヴューも含む、全体の「もくじ」はこうなっています。
→ http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakaba/

あとの祭り

承前
従来のイギリスの世論調査、投票所出口調査(の方法)をめぐるマスコミ側の当惑は
→ http://www.bbc.com/news/uk-politics-32606713

労働党(と保守党)の将来については
→ http://www.theguardian.com/politics/2015/may/13/beware-of-instant-explanations-for-what-went-wrong-with-labour-campaign