2014年1月22日水曜日

『民のモラル』 から 『10講』 への変身?


 いただく私信のうち、次のW先生のようなものも、じつはめずらしくありません【後半のセンテンスのことです】。
「‥‥洗練された叙述に、細部へのこだわりと大きな展望が結びつき、短い表現にも多くの省察がふまえられていて、ご苦心の跡をしのぶことができ‥‥」とかいうお誉めの言葉【有難うございます】に続いて、
「‥‥[近藤]御自身としては 『民のモラル』 あたりまでに比べて大変身のようにも思われ、そのことの意味はぼくたちへの大きな問いかけでしょう。9.11、3.11などのあと、歴史研究の方向を模索しようとするとき、御著の意義を反芻することができるかと思いました。」

 全体に暖かく厳しい励ましとして受けとめますが、ただし、『10講』(2013) は 『民のモラル』(1993)からみると「大変身」なのか?
本人としては歴史研究および執筆にあたっての姿勢は変わっていない/一貫しているつもりなのです。出版のテーマが民衆文化か通史か、ということ以外には、 <歴史のフロンティア> も岩波新書も基本は共通しています。岩波新書のほうが読者層が多様で、また「元学生」の方も少なくない、という傾向性は承知していますが、それが執筆スタイルを変化させたわけではありません。
α もちろんアカデミズムの面々が構える桟敷席も向こうに見えてはいますが、それより本を読む学生、勤め人や街のインテリが一杯の平戸間に顔をむけています【『民のモラル』も、リサーチと史料分析による本でしたが、註はありませんでした】。
β みなさんに「こんな事実があった」「こんな時代があった」「研究により、こんなことまで分かっている」「で、君はどう思う?」と 『民のモラル』でも対話をしかけたつもりだし、今回の『10講』 でもそうです。
 むしろ新しい問題としては、民衆文化の自律性まではよいとして、歴史のagency としての推進力/構想力を考えると、どうか? といった問いかけが、『民のモラル』では弱かった。ましてや歴史の contingency、「諸力の平行四辺形」(エンゲルス)といったアジェンダは表面に出ていなかった。だからこそ、次に『文明の表象 英国』(1998)といった異質な出版が必要でした。
執筆スタイルといえば、この20年間にすこし経験を重ねて、ほんのすこし表現力は増したかもしれません。「簡にして要」だけを追求するのでなく 「溜め」を取るとか、逆に、くどくど経過説明せずに(映画や演劇のように)舞台を回してしまい、後から事情が分かるようにするとか‥‥。

 別のある読者は、おわりまで通読してから、今度は所どころ拾い読みをして、意味を確かめたり、余韻に耽ったりして下さっているとか。有難いことです。 『歴史学の将来』 のルカーチ先生にも読んでいただけると嬉しいな。

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