2015年4月15日水曜日

The History Manifesto

Guldi & Armitage, The History Manifesto (Cambridge U.P., 2014)
ですが、Creative Commons ということで、遅まきながらPDFをダウンロードしました。
http://historymanifesto.cambridge.org/

このページからコロンビア大学でのシンポジウム(conversation!)の動画も視聴して、アメリカの歴史家たちの知的健全さを再認識した次第。American Historical Review でもさっそく議論しています。

Thinking about the past in order to see the future ということ、あるいは
we are all in the business of making sense of a changing world というのが、歴史家の、忘れてはならぬ、自明の仕事・ミッションだとくりかえし説いています。
せいぜい5年計画、あるいは次の学長選挙までの任期の範囲内でしかものを考えない、今日の公共言説における歴史的=長期的発想の欠如から説きおこし、歴史の復権、長期的な big questions の大切さをとなえ、歴史学教育の細分化に警鐘をならします。
最初、索引をみて Hobsbawm, Tawney, Thirsk などが当然ながら見えますが、E.P. Thompson がなく、おや?と思いましたが、本文ではしっかり 41ページあたりで触れています。
歴史学者およびインテリの世代論(68年~70年代論)でもあり、そこで『歴史として、記憶として』も想起しましたが、後者の場合はセンチメンタルな懐古で、前を向いていなかったような気がします。
本書についてはピケティ先生も推奨者に名を連ねていて、さもありなんと思いました。
ルカーチ『歴史学の将来』(みすず書房、2013)とも大前提は共通しますが、ルカーチよりもはるかにディジタル時代にたいして前向きで積極的です。
全体にむしろ、日本の歴史学界、人文学の現状への警鐘・警告ととらえるべきかもしれない。

2 件のコメント:

SW さんのコメント...

近藤先生
ご無沙汰しております。The History Manifestoのパロディについては著者の一人も非常に意識的で、出版前の学部生向けのセミナーではThe Communist Manifestoの原典と英訳の比較などを行いながらグローバル/トランスナショナルな思想史方法論を議論していたようです。
また、本書についてはアメリカで出版された著作ながら、著者たちのイギリス史学の伝統への強いシンパシーから出てきた議論だという印象も持ちます。多文化主義のポリティクスに知的パラダイムを置くアメリカ史家など、彼らの議論に批判的な態度を取る研究者も少なくありません。どちらの立場も理解できるゆえ、どういったナショナルな(あるいはインターナショナルな)公共圏を想定しているか、という前提が問われているのかもしれません。
彼らとピケティの親近性については、「長期持続」の復権ということをアーミテイジが盛んに論じていることからも伺えると思います。実際、『アナール』誌上でもピケティの著作が取り上げられたようですね。

近藤 さんのコメント...

 コメントありがとうございます。SWさんといっても、すぐには判明しませんが、もしや Harvard でアーミテッジ先生の研究指導を受けている/た人かな? だとしたら、初秋のケインブリッジ(Mass)で美味しい思いをしたことのお礼をきちんと申しあげてなくて、失礼いたしました。
 若い Guldi の世代論(60年代~70年代論)については、留保します。
 Cambridge (UK) history of ideas に近いアーミテッジの議論が「観念的」になることについて、昨年の西洋史学会大会@立教のシンポジウムで中澤さんにたいしてだれかが「観念的な報告だ」と褒め殺した場面を連想します。
ぼくの立場は、というと、この5月に出る共著『ヨーロッパ史講義』(山川出版社)で「序」の最後のセンテンスを、
「言葉がわからずに、どうして歴史がわかろうか」と、賢人たちは異口同音に助言してくれている。
と締めました(p.8)。また第5章「ぜめし帝王・あんじ・源家康」(p.93)では、
 ‥‥emperor, imperator, king, monarch といった近世の英語(欧語)がもっていた意味の世界を見逃し、また同様に近世の日本語、王、帝、将軍などを、近現代の意味と用法で読み込んでしまいがちだ‥‥。二重の時代錯誤を自覚したい。近代の歴史学は、他のほとんどの学問と同様に19世紀後半から20世紀に確立したが、それは同時代の、すなわち国民国家・国民経済・国民文化といった問題意識が、そしてヴェルサイユ体制(およびコミンテルン)の発想が組み込まれた学問なのだ、ということは常に意識していたい。‥‥
としたためています。
 ことば、概念の歴史性を無視する人には、歴史も現実も理解できないのではないでしょうか。